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織部雛乃は家への帰路を急いでいた。
とはいっても神社の娘であり、見るからに品の良さそうな彼女が
走ったりするはずもなく、あくまでも歩く速さが多少普段よりも速いというだけだ。
それでも彼女を知る者にとっては重大な変化であり、
いったい何が彼女をそうさせているのだろうかと関心を呼ばずにはおかないだろう。
雛乃が急いでいる理由は大きく二つあった。
ひとつは帰る間際に教師に雑用を頼まれて予定よりも遅くなったこと。
もうひとつは、今日は緋勇龍麻が遊びに来る日だったからだ。
東京を護る戦いの過程で知り合った龍麻は、
女子校に通っている雛乃にとってほとんど初めてである同年代の異性の友人であり、
免疫がないゆえに抱いていた男性への怯えめいたものを取り去ってくれた、
信頼に値する人物だった。
龍麻は『黄龍の器』という彼が持つ宿命のなせる業か、
誰に対しても親しみやすく、それは雛乃の両親や祖父のみならず、
雛乃以上に男性を嫌っていた、双子の姉である雪乃でさえ龍麻に対しては
さほどの反感を抱かなかったようで、
気がつけば週に二、三回は織部神社に訪れるようになっていた。
ある時は祖父の将棋の相手を務め、ある時は雪乃の稽古の相手をし、
一人暮らしをしていると聞けば食事をしていくよう勧められ、
ほとんど家族同然に溶けこんでいる龍麻を、むろん雛乃も好ましく思っていた。
それは異性に対する好意とは異なっていると、
雛乃自身は思っていたが、早く帰らないと家族の誰かに龍麻を取られてしまう、
という懸念から早く帰りたいという気持ちに偽りはなかった。
帰宅した雛乃は、玄関をまず確かめる。
そこに家族以外の男物の靴があるのを見てとると、
行儀良く自分の靴を揃えてから、まず着替えに向かった。
実家が神社である雛乃の普段着は巫女装束であるというのは、
必ずしも当然というわけでもない。
雪乃はジーンズやラフな格好が多いし、制服を着たままでいて
家族に苦言を呈されることもたまにある。
一方で雛乃が必ず着替えるのは、神社の娘という以上に、やはり幼い頃からずっと着ていて、
こちらの方が落ちつくという理由の方が大きかった。
着替えを終えた雛乃は、龍麻と姉がいるはずの部屋に向かった。
家の中でも最も奥まったところにある、雪乃と雛乃の共用の部屋だ。
廊下を進んでふすまの前まで来ると、部屋から漏れた光が廊下を照らしていた。
何度言われても全部は閉めない姉の癖に、雛乃は口元をほころばせる。
早く二人と話をしたくて、部屋に入ろうとしたとき、
奇妙な、音とも声ともつかぬものが中から聞こえてきた。
男の、つまり龍麻のものではない、くぐもった音色。
であれば当然雪乃が発していることになるが、雛乃は十八年姉と一緒に過ごしてきて、
このような声を聞いたことがなかった。
その疑念がふすまにかけかけた手を止めさせ、隙間からそっと様子をうかがわせる。
姉がうずくまっている。
それだけでも姉がとる姿勢としては不自然であり、
雛乃の不審を招かずにはおかない。
そして姉がうずくまっている場所は、滅多なことでは動じない呼吸を
止めてしまうほどの衝撃を雛乃に与えた。
雪乃は龍麻の身体の中心に頭を向けていた。
それは子供が親に対してするのなら甘えているのだと思うだろう。
だが成人はしていなくても子供ともいえない姉と龍麻の年齢では、
そういったことに疎い雛乃にさえ、いかがわしさを想起させた。
目の前で行われている行為に、雛乃は知らず胸元を押さえる。
息苦しさは覚えていても、ひとつの呼吸で二人に感づかれてしまいそうな気がして、
容易に息を吐きだせなかった。
姉よりもいくらか色の濃い唇をいくらか開き、
羽毛さえそよがせない程度に呼気を押しだす。
穏やかな耳目におよそ似つかわしくない険しい表情で、雛乃は室内を観察する。
改めて部屋の中を覗き見て、雛乃は違和感の正体に気づいた。
雪乃は確かに甘えるように龍麻の腹の辺りに頭を乗せているが、
その顔は彼を見つめていない。
これが膝枕の要領で龍麻を見上げているのなら、
雛乃はいくつかの感情を経てではあるが状況を受けいれ、
わざと足音を立てるなりしてから二人のいる部屋に入っていくだろう。
だが、姉のポニーテールは逆しまになることなく、上を向いていた。
それはすなわち彼女が龍麻の、足の間に顔を埋めていることを意味した。
男性のそこに何があるのかは、いくら雛乃でも知っている。
実際に目にしたことはなく、どんな形をしているのかさえはっきりとは知らなくても、
自分たちにはないものが、そこにはあるはずだった。
そんな場所に顔を埋めて、何をしているのか。
当然の疑問に、雛乃は答えを持たなかった。
同じ歳の女性なら知識だけは持っているだろうその行為を、雛乃はまったく知らない。
ただ、男女がこれほど近い距離にいるという、それだけで特別な意味合いがあるのだと、
ぼんやりと認識するだけだった。
それにしても。
姉と龍麻が交際していたという事実だけでも、雛乃を充分に驚かせるに足りる。
だが、そのうえこんな人目につきそうな場所でああいった行為をするというのは、
幼い頃からごく自然に躾けられてきた雛乃にはまったく信じられなかった。
それも、同じ躾を受けてきた姉が、だ。
悪徳――行為自体の善悪はともかく、仮にも神社の中でするのは悪に決まっている――
をもたらした緋勇龍麻という男に、雛乃はこれまで悪い印象を持っていなかったが、
今日を境にその評価は改めなければならないかもしれない。
姉に対する全幅の信頼があっただけに、龍麻に対する悪印象がいや増す雛乃だった。
しかし、龍麻に対する嫌悪をつのらせながらも、雛乃は部屋の覗き見をやめられない。
それは当事者の一方が半身ともいえる双子の姉ということもあったけれども、
やはり、初めて目にする男女の営みはあまりに鮮烈で、まばたきも忘れて見入っていた。
「んんっ、んふぅ、う、ん……」
姉のくぐもった声が漂ってくる。
何事にも明快を旨とする姉が、こんな声を発するとは。
それほど大きくはない姉の、喉の奥から聞こえてくるような声を、
雛乃は自分でも気づかぬうちに、耳を澄ませて拾っていた。
龍麻の手が姉の頭を撫でる。
それは男女の愛情ではなく、猫や犬に対するような慈しみであると、
なぜか雛乃には見えた。
しかし雪乃は嬉しそうに束ねた髪を揺らし、また龍麻の股間に深く顔を埋める。
ちらりとだけ見えた、醜怪な色をした何かを、口に咥えて。
ほどなく雪乃は頭を前後させはじめる。
その動作が何を意味するのか、やはり雛乃には解らなかったが、
姉がときおり動きを止めて龍麻を見上げ、
そして頭を撫でられてまた嬉しそうに動きを再開させるのは、
見ていて辛いものがあった。
それは姉がもっとも嫌う、他者に媚びへつらう姿以外の何者でもなかったからだ。
「上手になったな、雪乃」
それに対して姉は小さく頭髪を揺らしている。
褒められて悦んでいるのは咥えたものを離そうとしていないところから明らかで、
それもまた、雛乃が見たことのない姉の姿だった。
「……」
それにしても、姉はいったい何をそんなに嬉しそうに頬張っているのだろう。
勃起した男性器など想像したこともない雛乃だったから、
雪乃が口内を埋め尽くすペニスに倒錯した快感を抱いているなど知るよしもない。
ただ、姉を見ていて無意識に舐めた唇は驚くほど敏感になっていて、
雛乃は思わず自らの両肩をかき抱いた。
その途端、小さな衣擦れの音と、それに倍するなにがしかの感覚が全身を走りぬけた。
「っ……!」
ごく小さいとはいえ声を発してしまい、雛乃は慌てて口元を押さえる。
幸いにも部屋の二人には聞こえなかったようで、行為が止むようすはなかった。
束の間生じたためらいを振りはらうように、雛乃は再び室内に意識を向ける。
ポニーテールをだらりと下げて、雪乃はいよいよ深く男性器を咥えていた。
喉の奥に求めて亀頭を押しこみ、うめき声をあげながら竿を舐める。
熟練の技巧ではなかったが、奉仕しようという気持ちが伝わってくるのと、
何より普段男勝りと仲間には周知されている雪乃が一心に乱れている姿は、
龍麻の快感を呼び起こさずにはおかなかった。
うなじから後頭部にかけてを撫でながら、龍麻はささやく。
「そろそろ出そうだ……飲めよ」
言うなり、龍麻の身体が大きく震える。
いったい何が起こったのか初心な雛乃には知る由もなく、
ただ、目の前で起こった卑猥な何かを見守るしかない。
「んッ……! ぐ……」
龍麻の震えが収まったあとも、しばらく姉は股間から顔を上げなかった。
ただ、結わえた髪が小刻みに揺れているのが雛乃には見える。
それが、何かを飲んでいるから揺れたのだとは理解できた。
雛乃が息を吐き、吸い、もう一度吐きだしたところで雪乃が身体を起こした。
龍麻を見つめる彼女の、小さく喉が鳴る。
「うまかったか?」
「……馬鹿」
聞いたことのない声色で喋った姉が、見たことのない仕草で龍麻に抱きつく。
雛乃はその光景から逃れるように立ちあがり、二人の許を離れた。
少し時間を置いて、わざと音を立てて廊下を歩いた雛乃は、
ふすまの前で息を整えてから声をかけた。
「失礼いたします」
声をかけ、さらに一呼吸置いてふすまを開ける。
もし、二人がまだ睦みあっていたならどうしようかと懸念していた雛乃だが、
二人は何事もなかったかのように向かいあって座っていた。
「おう、遅かったじゃねえか」
「お邪魔してるよ」
姉と龍麻、どちらにもあいまいな笑顔を向け、雛乃は部屋に入った。
二人に変わったところはない。
ひそやかな視線を交わすことも、意味ありげな言葉を交わすこともなく、
姉と友人として雛乃に接した。
それが一層雛乃を苦しめた――少女はすでに、無垢ではなかったから。
「おうそうだ、今度カラオケ行こうぜ」
「この間行ったばっかりだろ」
「いいじゃねぇか、新曲はどんどん追加になるし、
ようやくちょっと違う曲を歌う奴が見つかったんだからよ」
これまで同級生、つまり女性としかカラオケに行ったことがない雪乃は、
初めて異性の同好の士を得てはしゃいでいる。
「な、雛も行こうぜ。金はこいつが出してくれるって言うし」
「言ってねえだろ」
「んじゃ、当日点数勝負で負けた方のオゴリな」
「巫女が賭け事するなんていいのかよ」
「あん? おみくじだって賭けみてぇなモンだろ」
二人のやり取りは平和そのもので、雛乃は願わずにいられない。
さっき見たあれは悪い夢で、二人は清い交際をしているのだと。
もしもそうなら雛乃は、一抹の寂しさは感じながらも二人を祝福できるだろう。
でなければ――その後に続く答えを、雛乃は持っていなかった。
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