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それから寝るまでの間のことを、雛乃は良く覚えていない。
姉は普段と同じだったような気がする――あんな行為をしたにも関わらず。
だが、昨日まで半身とまで思っていた姉が、雛乃にはまるで違うものに見えて、
夕食の時にどんな受け答えをしたのかわからず、ついには家族や姉に心配されてしまった。
皆には少し具合が悪いとだけ答え、なるべく顔を合わせないようにして、早めに床についた。
布団を半ばかぶり、雛乃は中で丸まっている。
夕方の光景が目に焼きついてはなれなかった。
緋勇龍麻と織部雪乃との、男女の交わり。
屋外、それも神社の境内という聖域での穢れた行為。
にもかかわらず姉が見せた、だらしのない表情と声。
目を閉じてもそれらの光景は絶えず再生された。
そのため眠ることもできず、いつしか雛乃は記憶に支配されていく。
あのとき感じ、トイレでも同様に感じた快美感。
穏やかな性格であり、激しく感情が起伏するような経験もこれまでなかった雛乃にとって、
あの、全身が痺れるような感覚はあまりに鮮烈だった。
夕方の記憶と相まって、時間が経過しても忘れるどころかよりはっきりとした輪郭を帯びていく。
姉が触られていた場所。
龍麻が触っていた場所。
一秒ごとに高まる欲求に、雛乃は懸命に抗った。
触ってはいけない。
せめて、あの液体が何なのか、調べるまでは。
けれども、否定は疑惑を生み、欲望を育む。
今も濡れてしまっているかもしれない。
このまま眠ったら、朝には布団まで濡らしてしまっているかもしれない。
何かの病気だったなら。
ひとつ否定するたびにわき上がる新たな疑念に、雛乃は涙さえにじませる。
姉に相談したい。
こんな時、姉ならきっと答えを知っているか、でなくとも雛乃を安心させてくれる。
でも、今回はその姉が原因かもしれないのだ。
葛藤し、困惑した雛乃は、とうとう股間に手を伸ばした。
ほんの少し触ってみるだけだ。
どうにもなっていないことを確かめるだけ。
そう自分に言い聞かせ、それでも直接触るのはやはり怖く、下着の上から秘裂をなぞってみた。
湿り気はない、けれど。
安堵と同時に感じた、あの甘い律動。
縮こめていたせいか、足の先にまでしっかり伝わった、心地良い痺れ。
それは生まれてからこれまで、自慰すらしたことのない雛乃にとって、
初めての肉の悦びだった。
穢らわしい、と自分を叱咤しつつも、もう一度触れようとする指を止められない。
あと少しだけ、もう一度だけ、と離れる指に語りかけ、再び足の間へと導く。
次第に指は意志を離れ、女の部分から離れなくなっていた。
そうして何度か割れ目をなぞっているうち、指の腹が熱くなってくる。
指が熱くなっているのではない、と気づいたとき、雛乃の口がひとりでに開いた。
「……っ、ふ……」
布団の中にこもった呼気は、夕方耳にした姉のそれと驚くほど似ていて、雛乃は愕然とした。
姉のあの声は、あくまでも龍麻が発させていたと思っていた箱入りの少女にとって、
一人で出してしまった声は、自分が姉、ひいては他人と違うのではないかと怯えるに
充分なものだった。
慌てて指を抜いた雛乃は、いっそう身体を丸める。
恐怖に疲れて眠ってしまうまで、掴んだ布団を決して離そうとはしなかった。
翌日、雛乃は龍麻の家に赴いていた。
学校が終わると姉に見つからないように急いで下校し、帰宅せずに直接新宿区へ向かったのだ。
授業中ずっと悩み続け、行くことを決めたのは最後の授業が終わってからだから、
龍麻がいるかどうか確認もしていない。
雛乃自身も、新宿に着いてからも行くべきかどうか、数歩ごとに迷うありさまで、
今時珍しい腰に届く黒髪の少女が不思議な足取りで歩く姿は、
通行人の視線を集めずにおかなかった。
雛乃はそれらの視線に気づきもせず、葛藤と逡巡を両足に引きずらせているうちに、
いつのまにか龍麻の家に着いていた。
一度だけ呼び鈴を押して、居なければすぐに帰ろう――
しかし、弱気をあざ笑うように龍麻は帰ってきていて、すぐに玄関に現れた。
「あれ、雛乃じゃないか。どうした?」
龍麻の声も表情も、仲間を率いて戦うにふさわしい静かな自信と快活に満ちていて、
自分が来た理由との落差に雛乃は内心で怯む。
だが、ここまで来たら帰れないと、勇気を出して顔を上げた。
「お、お話があります……お時間を、いただけないでしょうか」
「……ああ、それじゃ、中に」
怪訝そうな顔をしながらも、龍麻は家へと招く。
雛乃は異界への門をくぐるような面持ちで、後に続いた。
「どうしたんだ?」
突然の訪問に何かを察したのか、龍麻は飲み物を用意すると前置きなしで訊いてきた。
雛乃も飲み物に手をつけず、姿勢をただすと一気に核心を突いた。
「昨日のことなのですが」
「……ああ」
それだけで諒解したらしく、龍麻は苦笑いを浮かべた。
動転しない龍麻に、雛乃は怒りがこみあげてくる。
「姉様をたぶらかさないでください」
「一応、合意の上なんだけどな」
「姉様は、そのようなふしだらな女性ではありません」
語勢を強めた雛乃だったが、龍麻は愉快そうに雛乃を見るだけで
一切謝罪をしようとはしなかった。
幾重もの怒りに衝き動かされ、雛乃はむしろ声を低めた。
「姉様は緋勇様に……騙されているのです」
他人を貶めるようなことを雛乃が言うのは、これが初めてだった。
恥ずかしいとは思わなかった。
龍麻はそれだけのことをしたのだから。
罵倒にようやく多少は感じ入ったのか、龍麻が表情を改める。
だが、それは楽観に過ぎなかったと、すぐに雛乃は思い知らされた。
「雪乃が騙されたかどうか、試してみるか?」
「どういう……ことですか?」
「俺が雪乃にしていることを、雛乃にもする。
それで雛乃の気持ちが変わったら、雪乃は騙されてないってことさ」
「……それは……!!」
緋勇龍麻という男が雛乃には鬼に見えた。
これまでおよそ俗世間の穢れというものに触れたことのない雛乃にとって、
龍麻の提案はあまりにも下劣に聞こえた。
「別に嫌なら無理にとは言わない。ただ、騙したとまで言うなら、
それが本当かどうか確かめる義務はあるんじゃないか」
「それは……」
そんな義務などありはしない。
そう突っぱねて、ひたすら姉と龍麻の交流を断ち切ることに
尽力するべきなのかもしれない。
けれども、頑なに断れないだけの心の隙が雛乃には生じていた。
ひとつには、姉の様変わり。
ひとつには、昨夜の不思議な感覚。
興味、とまでもいかないささいな関心ではあっても、
天の岩戸は確かに指がかかるだけ動いてしまっていた。
「で、でもわたくしは、神社の娘として純潔は守らなければなりません」
「雪乃だって純潔は守ってるさ」
「……?」
男女の行為というのはそういうものだと思っていたから、
姉が純潔を保っているというのは意外だった。
ただ、その手の話を小耳にも挟んだことがない雛乃は、
それがどういう意味なのかは疑問に思わなかった。
「それじゃ……そうだな、二週間。その間平日は学校が終わってからと、
休日は朝から俺の家に来て過ごす。それで雛乃が最後までこういう行為を受けいれられなかったら、俺は雪乃から手を引く。それでどうかな」
「は……はい、承知しました」
もっと良い条件や、他にやりようはあったのかもしれない。
けれども雛乃は龍麻の提案を受けいれた。
姉を一刻も早く解放したかったから。
姉は間違った道を進もうとしており、それに気づき、
正しい道へと導くことができるのは自分を置いて他にはいないのだから。
淫らな悦びになど絶対に屈さない。
そして愛は肉欲に勝るのだと、この不誠実な男に教えてやるのだ。
白皙の頬を決意に染めて頷いた雛乃に、龍麻は小さく手を打った。
「よし。今日来たことは、雪乃には?」
「いえ……話しておりません」
「それじゃ、話さない方がいい?」
「……はい、できれば」
龍麻は腕を組み、左手を顎に当てて少し考えこんだ。
その仕種はさまになっていて、彼が誠実であれば姉様を託すに何の不満もなかったのに、
と雛乃は内心で思う。
だがとにかく、矢はつがえられた。
雛乃が修めている弓道は、命中や勝利を最終の目標とするわけではないが、
今回はなんとしても勝たなければならないのだ。
緊張を湛える雛乃の、背筋が自ずと伸びる。
「ま、二週間くらいならごまかせるだろ。……ああ、先に言っておくけど」
「なんでしょうか」
「俺は無理強いはしたくない。だから本当に嫌になったらそう言ってくれればすぐ止める。
でも、そうなった時点で勝負は俺の勝ち、雪乃とはこれからも会う。二度目の勝負もない」
「……はい、承知いたしました」
覚悟はしていたといえ、先手を打たれた形となって、雛乃はわずかに動揺した。
「ですが、本当にその……じゅ、純潔は守って」
「それは大丈夫」
龍麻は断言したが、直後に一瞬だけ意味ありげな形に唇が歪んだのを、雛乃は見てしまった。
自分はもしかしたら、好んで虎穴に入ってしまったのではないか――
だが、もう引き返すことはできない。
鬼が出ようと蛇が出ようと、進むしかないのだ
――たとえ、灯りすら持っていなかったとしても。
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