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玄関を開け、マリアの家の中に足を踏み入れた瞬間に、絵莉は小さな違和感を覚えていた。
正確には違和感、とも言えないくらいの引っかかり。
出迎えてくれたマリアにも、その隣にいる龍麻にもおかしな所は全くない。
にも関わらず、確かに何かが違っていた。
靴を脱ぎかけて止まった絵莉に、年来の友人であるマリアが不思議そうに訊ねる。
「どうしたの?」
「いえ……なんでもないわ」
絵莉は自らをたしなめるように五歳違いの友人に首を振って答え、家に上がった。
ジャーナリストと言う職業は、自分の五感、それに第六感を何よりも信じなければならない。
独立独歩で行くと決めた時から、それはもう骨の髄まで染み込ませたはずなのに、
この時の絵莉は遂に自分を信じきることが出来なかった。

食事が並べられたテーブルに座った絵莉は、龍麻と談笑を始める。
高校生にしては大人びた、人好きのする笑顔を持つこの少年が、絵莉は嫌いではなかった。
もちろん男女としての好悪ではないが、男に対するものとしてはその次に上位のものだ。
だからある事件を機に知り合った彼がマリアの教え子であり、
自分と龍麻が知己であることをも知ったマリアに招待された時、絵莉に断る理由はなかった。
「でも驚いたわ、あなたとマリアが知り合いだったなんて」
「こっちこそですよ。どこでお知り合いになられたんです?」
「ルーマニアよ」
まだ絵莉がルポライターの卵未満の状態だった頃。
見聞を広める為にヨーロッパ全土をあてもなく旅行していた彼女は、
かの国のトランシルバニア地方を訪れていた際、柄の悪い連中に絡まれたことがあったのだ。
お互いの言葉が通じないのを良いことに無法を働こうとする男たちに、
あわやという所まで追い詰められた彼女を救ってくれたのがマリアだった。
不思議な体術を使って男たちをあっという間に倒してしまった彼女に、
感謝と、好奇心を満足させる為に食事に誘い、一夜明けてみれば、
同じワインの壜から呑み交わす関係になっていたという訳だった。
「それがマリアったらね、私に付き合ってヨーロッパを回ってくれたのはいいんだけど、
どこ行ってもワインとチーズは手放さないのよ」
「あら、ヨーロッパの旅行スタイルはそうなのよ。知らないの?」
「それにしたって昼間っからアルコールを呑むなんて」
「アナタだって呑んでたじゃない」
マリアと龍麻は名ホストと呼ぶにふさわしく、軽やかな会話がいくつも泡となって弾ける。
自然と喉を潤す回数も増え、幾度目のことか、
深紫の聖水を喉に注ぎ入れた絵莉は、顎を上向けたままごくわずかに眉をひそめた。
もちろんマリアが認めた味に対しての不満ではない。
玄関に一歩入った時から感じていた気配が、脳を揺らした拍子に再びよぎったからだ。
二人に気取られないようグラスを戻し、食物に手を伸ばしつつその正体を探る。
しかし酒精を迎え入れてしまったからか、
インタビュー相手の小さな挙動をも見逃さない五感は、
膜のようなものがかかってどうにも役に立たなかった。
何かがおかしい、とグラスを戻す。
なんでもない動作のはずが、テーブルに置いたグラスはひどく大きな音を立てた。
「あ……ご、ごめんなさい」
揃って顔を向ける二人に笑顔で詫び、取り繕うように足を組む。
その拍子に、下腹が疼いた。
「……!」
信じられない思いで足を戻すと、下着は不快に湿っていた。
絵莉は混乱する頭で考える。
こんな状態になるまで何故気付かなかったのか。
いや、その前に、どうして酒を呑み、食事をしているだけで性的な興奮を抱いてしまっているのか。
絵莉はライターらしく己に訪れた変化を分析しようとしたが、
思考からは最低限の冷静ささえ失われようとしていた。
身じろぎしたことでたゆたっていた感覚が一気に目を覚まし、皮膚が火照り始める。
鼻ではなく、口で行う呼吸が心地良く、
腹に冷たい空気を流し入れると身震いするほど気持ち良くなってしまう。
そして脳に送りこまれる酸素はいっとき頭を冷やしてくれても、
すぐに新たな熱が身体の奥底から心を包み、理性を燃やすのだ。
控えめな色の口紅を塗った唇を開き、絵莉は呼吸を繰り返す。
その瞳からは少しずつではあるが確実に輝きが失せ、べっとりとした色彩に染まっていった。
不意に龍麻が立ちあがる。
それは不意になどではなく、音一つ立てない、優雅なほどの動作だったのだが、
身体を内から支配する熱に苛まれる絵莉にはそう映ったのだ。
穏やかな、好意的であるはずの彼の笑みに何故か恐怖を感じ、絵莉は逃げ出そうとする。
しかし、椅子という支えを失った身体はまるで意思が篭もらず、
頼りなく床にへたりこんでしまった。
「大丈夫ですか」
なおも後ずさりしようとする絵莉の許に膝をついた龍麻が、首筋を撫でる。
仕掛けられた罠に完全に陥った彼女は、それだけで哀れなほど反応した。
「んぅッ!」
雷を浴びたように絵莉の身体が跳ねる。
求めていない感覚を無理やりに呼び覚まされた絵莉は龍麻を見るが、
口は開くだけで言葉が出てこなかった。

寝室に連れてこられた絵莉は、ベッドに寝かされるのではなく、椅子に座らされた。
何故、と濁った頭で考える前に、驚くべきものが瞳に映る。
上半身を赤い縄で縛られた、長い髪の少女がベッドの上にいた。
下着こそ身に着けているものの、縄と対比を為すような黒絹の下着は極めて扇情的な、
大事な部分を隠すという本来の役目ではなく、そこを際立たせる為にあるようなデザインだ。
そして、それが覆う豊かな乳房は、麓から幾重にも縄を張り巡らされ、
元から大きな膨らみが更にくびり出されることで一層強調され、危ういまでの美を醸し出していた。
少女は部屋に入ってきた自分達に気付くと、下半身でバランスを取って必死に身体を起こす。
見るからに辛そうだったが、白く、丁寧に配置された眉目からは苦悶の趣は窺えなかった。
それどころかわずかに頬が緩み、この異常な状況を悦んでいるようにさえ見える。
彼女にとっても知り合いである少女の変貌した姿を見て、絵莉は掠れた声を出すのがやっとだった。
「葵……ちゃん……」
括られ、高校生離れした肢体を晒されているのは、龍麻の同級生である、美里葵という名の少女だった。
彼女も常識では理解出来ない『力』を持ち、龍麻と共に東京を護る闘いに身を投じている。
絵莉も何度も彼女と話したことがあるが、年齢以上の落ちついた物腰と、非の打ち所のない容姿に、
十歳近くも年の離れた彼女に対してわずかながら劣等感さえ抱いたのを覚えている。
その彼女が仮面の下にこのような本性を秘めていたとは、絵莉は衝撃を隠しきれなかった。
「今日は絵莉さんが来るから帰れって言ったんですけどね、どうしても帰りたくないって言うから」
まるで葵が縛られ、卑猥な姿をさせられた原因が彼女自身にあるかのように言う龍麻に眩暈がする。
この常軌を逸した場から逃げ出したいと願う絵莉だったが、身体は麻痺し、全く力が入らない。
「緋勇……くん……」
それが何故なのか、
と考える力も徐々に弱くなっていく絵莉の鼓膜に届く葵の声は既に蕩けきっており、
理性の欠片も感じられない。
凝った刺繍が随所に施された、妖艶な下着を身に着けたまま縛られている彼女は、
芋虫のように這いずりながら龍麻の許へと近寄っていく。
自立した女性、と肩肘を張っている訳ではないが、
フリーのルポライターという道を歩めばどうしても多少はそうならざるを得ない絵莉は、
ためらいなく全てを男に差し出している葵の姿に、吐き気がするほどの嫌悪を催していた。
胸のむかつきを堪える絵莉の鼻腔に、微かな臭いが漂う。
それは彼女達の臭いでも、龍麻の臭いでもなく、なにかもっと、
濃いもやのようにまとわりつく、危険な香りだった。



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