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眼前に広がっているのは、荒涼たる砂漠だった。
黄土色と、それよりは幾分色調を薄めた白に近い水色が地平線で二つに分かたれるのみで、
彼の写真が飾ってある勉強机も、かしましい義妹が勢いよく開ける扉も、一切が見当たらない。
だからまだ意識は完全に目覚めてはいなくても、これが夢であることはすぐにわかった。
しかし葵は、夢は必ず覚めるものではないと知っている。
心地よい夢も、寝汗をかくような嫌な夢でも、覚めてしまえばどれほどのこともない。
目覚めることのできない夢こそが恐ろしいのだと熟知している葵は、
意識を保ったまま目覚める夢の世界が再び自分を迎えようとしているのだと思うと、
恐怖を覚えずにいられなかった。
おそるおそる身体を動かそうとすると、腕に何かが食いこむ。
腕だけでない、腹にも、足にも、動かそうとした場所のことごとくに何かがまとわりつき、自由を奪っていた。
同じ――以前と同じだ。
「誰か、誰か助けてッ──」
急激に水位を上げていく恐怖にたまらず叫ぶと、喉にも何かが当たった。
恐慌寸前の心を必死に自制して、葵はかろうじて自由の利く頭を動かす。
「──ッ!!」
自分の置かれている状況を把握した瞬間、声にならない悲鳴が葵の唇を引き裂いた。
肩の高さに持ち上げられた両腕は、水平の位置で動かぬよう固定されていた。
揃えて束ねられた足にも、動かせぬよう鎖が絡みついている。
五感はまだ十全に機能していないのに、金属の冷たさだけはいやにはっきりと伝わってきて、
この現実でないはずの世界で無機質の冷たさだけが脳裏に刻まれた。
周りには誰もおらず、鎖はひとりでには動かない。
なのに葵は、肌の上を鎖が這っているように感じられてならなかった。
耐えがたい蟻走感に足を動かしてみるが、やはり足は微動だにしない。
それなのに輝く銀色の蛇は、葵の身体の大切な部分を求めて這いずりまわっていた。
砂漠と、身体を戒める十字架と鎖は同じものの、以前と違い、
葵を永遠に閉じこめようという歪んだ欲望を持った者はいない。
それなのに葵は夢の世界に囚われ、何の罪をか背負わされて磔(にされているのだ。
背中を冷たい汗が伝う。
新たな敵、それも強大な力を持った敵の出現に、葵は恐怖した。
仲間を、愛しい人を危地に立たせる存在。
争いなどない、平穏な世界に生きたいだけなのに、なぜ人は必要以上のものを欲するのだろう。
問いに答えるものは、誰もいなかった。
不思議なことに、今まで意識ははっきりしていたのに、それが夢の中でのできごとなのだと葵は確かに認識していた。
以前に嵯峨野に襲われた時とはその点が異なる。
あの時は龍麻たちが同じ、嵯峨野の『力』が作り出した夢の世界にやってきて初めて、
葵は夢に囚われたのだと知った。
夢の王国の支配者であった嵯峨野は巧みで、葵を徐々に疲弊させていき、
誰も気づかぬままに虜囚、彼に言わせれば賓客(だったらしい──にしようと企て、それは半ば成功していたのだ。
仲間が──龍麻が助けてくれなければ、きっと嵯峨野の、夢の王国に閉じこめられていただろう。
今と同じ砂漠の十字架に磔にされていた葵を呼ぶ龍麻の声を、葵ははっきりと覚えている。
多くの人に何度となく呼ばれてきた名前が、ジグソーパズルの一片のようにぴたりと自分の心にはまった瞬間の快さを。
後日、葵が初めて恋人を下の名前で呼んだとき、龍麻はいかにも照れくさそうに顔の下半分を手で隠して言ったものだった。
名前を呼ばれてこんなに嬉しかったのは生まれて初めてだと。
彼も同じ感覚を持っていると知って、葵はますます龍麻を好きになった。
つい数ヶ月前まで世界にこんな男性がいることさえ知らなかったのに、
もう彼以外の男性を好きになる可能性など考えられなかった。
既視感めいた親しみはほどなく恋に変わり、日々育っていく芽吹いたそれを、葵は心から楽しんでいた。
龍麻の持つ不思議な『力』と、彼が真神學園に現れてから始まった激動の日々は、
穏やかな生活を望んでいた葵にとって驚嘆の連続だったが、それさえも彼との絆が強くなるのだから、と厭(いはしなかった。
闘いはまだ終わっていない――それでも、彼と歩く未来に葵は不安を抱いてはいなかった。
しかし今、龍麻はいない。
葵の身に何かあれば、己の身をなげうってでも助けてくれるに違いない、
葵にとってもっとも大切な男(は、おそらく彼自身の夢――もしかしたら、葵がそこにはいるかもしれない――
にまどろんでいることだろう。
葵はこの窮地を、一人で脱しなければならなかった。
砂の世界は自失している間も、何も変わっていなかった。
風のそよぎも、砂の一粒さえ動いておらず、ただ葵自身の呼吸と汗だけがこの世界における部外者だった。
助けを呼ぼうとして、葵は開きかけた口をつぐんだ。
誰に聞こえるとも思えないし、その後に訪れるであろう静寂が恐かったのだ。
龍麻が気づいてくれる可能性は低い。
このまま目覚めなければ、翌朝──今の葵には時間を知る術はないが、
現実世界で夜が明ければマリィか両親が気づいてくれるかもしれない。
そうすれば多少時間がかかったとしても、龍麻はきっと来てくれるだろう。
しかし、それ以前に、今この瞬間に仲間のためになら危険に身を投げ出すことも厭わない、
葵にとって一番大切な男性を期待するのは、いくら彼が人を超えた『力』を持っていても無理というものだ。
心の底では望みながら、理性でそれを否定しなければならないのは、途方もなく辛いことだった。
うつむいた葵は形の良い、今は少し乾きかけている唇を小さく舐めて、不意に愕然とした。
変化が訪れていた。
誰も、何も、荒涼たる砂の世界に変化はない。
訪れたのは内側、葵自身にだった。
食いこんでいた鎖の質感が、いつしか苦にならなくなっていた。
痛みはあるが、どういうわけか嫌悪や恐怖は薄れていた。
呼吸のたびに身体を締めあげる鎖に、馴染みつつある──
それに気づいた時、新たな恐怖が葵の裡に生まれていた。
暗闇の中で足を掴まれるような、根源が見あたらない恐怖の正体を必死になって見極めようとする。
何を探しているのか、探そうとしているのかさえわからず、葵は目を閉じ、かたくなに首を振る。
しかし、両手を固く握りしめ、掌に食いこむ爪の痛さを認識したとき、唐突に葵の意識は弾けた。
「はぁっ、はぁっ……」
部屋に響く激しい自分の呼吸も、葵には現実のものかどうかわからなかった。
血走った目で時計を探し、ひっ掴む。
いつもと同じ場所に無機物があったことで、葵はようやく少し落ちつくことができた。
水を飲みに行こうか迷った末に、先に時計を見ることにする。
時間は慈悲深くも正しく時を刻んでおり、眠ってから四時間ほどが過ぎていた。
しかしそれは、悪夢の長さを意味するものではない。
目が覚める直前の数分のことかもしれず、電気を消してすぐから鎖に囚われていたかもしれないのだ。
大きく頭を振った葵は、よろよろとベッドから下りた。
動悸はまだ収まっていなかった。
胸をおさえ、その内側に浮かぶ頼もしい姿に今すぐにでも抱きしめてほしかった。
せめて声だけでも、と受話器に手を伸ばしたが、
いくら龍麻が一人暮らしとはいえこんな時間に電話はできない。
それでも欲求は渇望に近いほど膨れあがり、葵はなかなか受話器を置くことができなかった。
長い葛藤の末にとうとう諦めた葵は、恨めしげに電話を戻す。
龍麻には明日、二人きりの時に話すとして、とりあえず、濡れて不快なパジャマと下着を着替えることにした。
本当は熱い湯を心ゆくまで浴びたいところだったが、こんな時間にシャワーを使っては両親やマリィに要らぬ心配をかける。
朝の陽(を見るまでは、この不快さと共に過ごさねばならないようだった。
暗がりの中クローゼットにたどりついて、下着を脱いだ葵は、そこでまた愕然とした。
外気に当たった肌に、夢と同じ鎖の感触がよみがえったのだ。
「……っ」
全身に、執拗ともいえるくらい厳重に絡みついていた鎖。
それらがまだ蛇のように身体の上をのたくっている感覚を、葵ははっきりと意識していた。
外は寒く、こんな時間に裸でいるのは一分と耐えられないだろうというのに、
不思議な火照りに支配され、むしろ熱いとさえ感じられた。
不可視の鎖がもたらす、身体のあちこちに灯る妖しい疼き。
皮膚を透かしてみたが、跡は一切なかった。
肌を嘗める多量の汗以外には、夢はただの夢だったのではないかと疑ってしまうほど痕跡はない。
なのに、確かに鎖はまだ身体を縛っていた。
手も、足も動く。
それなのに、四肢には蔦(のように何かが巻きついているという感覚がはっきりと感じられた。
肌に残る感触をかき消そうと、葵は急いで着替え、ベッドに潜りこんだ。
シーツを頭から被り、固く目を閉じる。
眠るのは怖い──が、眠らずにいるのも怖かった。
皮膚の下でさざめいているものが、目覚めてしまいそうで。
鼓動に合わせてひたひたと全身をさいなむ、禁断の感覚。
ともすれば押し流されそうになってしまう自分を必死に叱咤しながら、
いつしか葵は疲労の果ての眠りに落ちていった。
翌日。
葵は龍麻達と立ち入り禁止の措置が施されている、真神學園の旧校舎にいた。
昨日の夢のことは誰にも話していない。
龍麻と二人きりになったら相談しようと思っていたが、その機会を得られぬままに放課後になってしまい、
龍麻は友人たちと共に旧校舎に入っていった。
葵は断ることもできたけれども、たとえ他人が居合わせても龍麻と一緒にいたかったから、彼らに同行した。
旧校舎に入った龍麻たちは、早速魑魅魍魎と戦っている。
直接戦う『力』を持たない葵は、皆の戦いを少し離れたところで見守っていた。
誰かが怪我をすれば、その時は葵の『力』が必要となる。
けれどそれまでは手持ち無沙汰といってよく、親友の小蒔でさえ真剣に戦っていて声をかけられる雰囲気ではない。
龍麻の動きを見るともなく見ていた葵の意識は、自然と昨日の夢に向かった。
あれは本当に新たな敵なのだろうか。
それとも今は昏睡状態の嵯峨野が、再び目覚めて『力』を行使しているのだろうか。
今日の帰り、龍麻に頼んで桜ヶ丘中央病院に行ってもらおう。
そうすれば、いくらかは安心できるかもしれない――
考えごとに没頭していた葵は、突然の龍麻の声に意識を引き戻された。
「葵っ!」
頭上に何かがいる。
姿は見えないが、向こうの空間がわずかに濁っているのが証だった。
「危ないッ」
龍麻が叫ぶよりも先に身体を引き寄せてくれる。
覆いかぶさるように庇われ、葵は至近に迫っていた死から逃れた。
一拍遅れて動悸が忙(しくなる。
酸素を求める肉体をおさえつけ、葵は命の恩人を見上げた。
「大丈夫か?」
闘いの最中だというのに集中していなかったことを責めず、龍麻はただ気遣ってくれる。
彼の無限ともいえる優しさと愛情に感謝しながら、葵は無意識に掴まれた手首を見た。
力強い龍麻の手は、離れた後も熱い余韻を与え続ける。
かすかに赤く跡も残る己の手首は、異なる生き物のように脈打っていた。
「あ……悪い」
強く掴みすぎたと思ったのだろう、龍麻は頭を下げる。
危機を救ってもらったのだから、多少の痛みなど気にする必要も、ましてや咎める理由など全くない。
それなのに龍麻は、『宿星』などといういかがわしい結びつきなどなくても充分に魅力的であり、
実際、彼のもとに集う仲間の中には異性として彼への憧憬を露にしている女性もいるのに、
なお自分を選んでくれた愛おしい男は、許可もなしに肌に触れたことを心の底から詫びていた。
葵にはそれがたまらなく嬉しくもあり、疎ましくもあった。
もっと彼の想いのままに、手繰り寄せてくれればよいのに。
乱暴とも思えるくらい激しく抱きしめ、奪ってくれればよいのに。
表には決して出せない気持ちを、葵は笑顔に隠した。
「だいじょうぶよ……ありがとう」
龍麻はそばにいるだけで心穏やかにしてくれる、まさしく陽(の存在だ。
その陽光を一身に浴びることのできる幸福な立場にありながら、葵の心には深い陰が覆っていた。
いや、むしろ陽のそばに立つことで葵は、己の陰をはっきりと意識していた。
陰は、裡から生じている。
そう認めるのはとても怖ろしく、そして、とても甘美なことだった。
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