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夜、悪夢は約束を違えることなく葵の許を訪れた。
荒涼たる砂漠、そこに突き立てられた巨大な十字架、そして鈍い光沢を放つ鎖と共に十字架に磔にされた自分。
昨夜と寸分違わぬ情景は、ビデオを再生しているかのようだった。
腕と足を一度ずつ動かしてみて、やはり縛られているのを確かめた葵は、薄く開いた唇から淡い吐息を押しだした。
恐怖は少しも減じていなかったものの、昨夜と違い、冷静さがその片隅に居場所を確保していた。
誰が、どのような目的でこの夢を見せているのか──
しかし、判断力は恐怖を霧消させるどころか、新たな恐怖を呼びこむ手助けにしかならなかった。
この光景は、誰かに与えられたものではない。
それが葵の理性が導いた結論だった。
光景こそかつて、『力』によって葵を己が夢の住人としようとした嵯峨野が見せた砂漠と同じであるが、
ここには葵を脅かすどんな存在もいない。
ただ、縛められ、身動きを封じられた葵がいるだけなのだ。
誰が望んでいるのか。
この世界にいる人間以外に。
鎖で縛られることを。
拘束され、肌に苦痛を受けることを。
結論が正しければ、答えはひとつしかなかった。
現実は闇に包まれていた。
目覚めた葵は、何も見えないことに安堵し、乾いた唇から吐息を押しだした。
熱い呼気が布団に当たり、肌をなぶった。
少しずつ戻ってくる感覚に、身体が震える。
葵は布団を被りなおそうとしたが、もう手遅れだった。
忙しくせきたてる心臓に促されるまま、固く閉じ合わせた足を緩め、わずかにずらす。
衣擦れの音が最後の防波堤となって葵をせきとめたが、数秒の時間を稼ぐのが精一杯で、
ともった欲望を消し去ることはもはやできなかった。
横を向いた葵は、右手で布団を掴んだまま、もう片方の手をそっと、自分の身体の中心に触れさせた。
心得たようにパジャマをめくり、下着の上を滑っていく指を恨めしいと思い、
あきらかに矛盾していると知りつつ身体を強張らせ、いくらかでも辿りつくのを遅らせようとする。
それでも手は困難をくぐりぬけ、目覚めた時から触れたいと願ってやまなかった部分に、あっさりと触れた。
「……ふ、ぅっ……!!」
軽く触れただけなのに、意識がかすむような電流が全身をかけめぐった。
ひとりでに開いてしまった口を慌てて閉じ、唇を強く噛んだが、
股間にもぐりこませた指を止めようとは思わなかった。
罪悪感すら覚えず、一瞬で身体を支配したあさましい欲望に従う。
「ぅ、ん……」
敏感な肉芽を探し当て、指腹でこすりあげる。
望むままに、望む以上に、葵は自らの性器を弄り、快楽を享受した。
下着はすでに濡れており、上からこするたびに不快な冷たさと耳を塞ぎたくなるような音をもたらす。
聞きたくないけれど、指は止まらなかった。
秘裂をなぞった指はすぐに下着の内側へと潜り、じかに身体に触れる。
秘唇をこじあけ、小さな円を描く動きでそこに溜まる淫らな雫を集め、
最も敏感な芽の部分に塗りたくった。
「っ……うぅ……」
声が漏れたので、枕を噛む。
静かになったので、もっと強く刺激する。
愚かしい円環にはまりこんでしまったという自覚も、快感の前にはまるで無力だった。
触れるたびに微弱な電流が流れる肉芽を指腹全体でさする。
ごく小さな部位のはずなのに、触れる場所によって快感が違うことに気づき、
最も強く感じる場所を夢中で探した。
「んっ……ふ……ぅっ……」
全身がどくどくと鳴っている。
それ以上触るなと警告しているようであり、一瞬後には早く探し当てろと促しているようにも感じる。
葵は幼い頃に怒られた時にそうしたように、身体を丸め、首をすくめながら、快感の源泉を求めつづけた。
「ふ、あっ……!」
見つけた。
クリトリスの左側から、爪の端を立てるように掻くと、意識が飛ぶほど気持ちよくなる場所があった。
一度見つけてしまったら、もう止まらない。
葵は一層固く足を閉じ、手首を固定して繊細なコントロールができるようにする。
拒むために足を閉じていたのだというのも忘れ、より上手に気持ちよくなれるために全身を使って快感をむさぼった。
「んぅっ、んん……っ」
上りつめていく。
それでも指は止まらない。
足をくの字に曲げ、胎児のように丸まったまま、股間に忍ばせた指だけをひたすらに動かす。
「はっ、んっ、ん……」
ともすれば開きそうになる口を無理にこらえ、奇妙ともいえる嗚咽を漏らし、
葵は終着を迎えようと、何かにせきたてられるようにクリトリスを責めたてた。
一足飛びの快感が全身をなぶる。
急激に訪れようとする波が怖くなり、つかの間動きを止めるが、
まさしく一瞬のことで、次の瞬間、葵は肉芽をこそぎ取るように刺激した。
「……っあ……!!」
一気に絶頂がおとずれた。
予想以上の快楽に声を噛みころすこともできず、布団の中に甘い悲鳴が充満した。
腰が二度、自分のものでないようにひくつき、その後、
引いていった悲鳴の隙間を埋めるようにただれた熱がこもっていく。
一人で慰めたのは、いつ以来だったろうか。
こんなにも気持ちよいことを、どうして今まで我慢してきたのだろうか。
初めて自慰を覚えた時の、指先が汚れる途方もない罪悪感にしたがって自制してきたことを、
葵はすっかり忘れていた。
濡れた指をそっと動かしてみる。
敏感な部分を滑る、摩擦の少ない指腹は、ほとんど自動的に往復を繰りかえした。
導いた恍惚は、葵を満足させていなかった。
欲望は去り、気まずい倦怠が指先にまで領土を拡大したのに、葵はまだ下着の中に沈めた手を抜くことができなかった。
過敏になっている淫芽を撫でる。
これ以上の快楽は求めていない肉体を説き伏せるように、爪で掻いた。
苦痛とけだるさと快感がいちどきにやってきて、葵は同性の友人からもうらやましがられる美しい足を、
つま先までぴんと張りつめさせた。
「あっ、くぅぅっ……!」
あえなく二度目の絶頂を迎え、虚脱する。
溶けそうな恍惚。
罪悪感が失せた分、快楽に浸ることができ、葵は身体を弄る快楽の波をじっくりと味わった。
「はぁっ、はぁっ……」
腰を卑猥にひくつかせたまま、葵は悟った。
自分の見ていた夢の意味を。
自分が何を求めているかを。
伏せた瞼の合わせ目から、透明な滴が伝う。
その冷たさを、葵はいつまでも頬に感じていた。
あくる日、気もそぞろで授業を受けていた葵は、最後の授業が終わると一目散に龍麻の許に向かった。
「緋勇くん」
学校では、そう呼ぶことにしている。
決めたのは葵だが、今日は龍麻と呼びそうになるのをこらえなければならなかった。
「どうした?」
龍麻は普段と変わらぬ態度で迎えてくれる。
葵の胸に秘めた想いに気づく気配もなく、
半年ほど前に転校してきたばかりなのに学校のあちこちで話題に上っている、
裏表のまるでない好男子は、鞄に教科書を収めて立ちあがった。
「い、いえ、一緒に帰ろうと思って」
太陽を背負った長身がまぶしい。
彼の陽を浴びると感じる、自分は本当は彼にふさわしい女ではないのではないか、
という気持ちをねじ伏せ、葵は微笑んだ。
「……ああ、帰ろう」
龍麻の返事が遅れたのは、毎日一緒に帰っているのにことさら誘ったのを不思議に思ったのだろう。
彼の不審は正しい。
これから自分が言おうとしていることを知れば、きっと平静ではいられまい。
それがわかっていながら、葵は言う。
言わなければ、葵が平静ではいられないのだから。
帰る途中龍麻があれこれ話しかけていたが、葵は覚えていない。
適当に話をあわせてはいても、胸ははじめて龍麻に抱かれた日よりも高鳴り、何も考えられなかった。
龍麻もそれを察したのか、後半は会話をやめた。
そして家に着き、龍麻は鞄を投げだし、葵は慎ましく座った。
龍麻は切り出すのを待っているようで、制服を脱いだり、何気ない動作の中にもところどころ視線を向けてくる。
それでも葵は、龍麻が落ちつき、自分と向かいあって座るまで口を開かなかった。
これからの話は二人にとって極めて重大なことで、龍麻には集中して聞いて欲しかったのだ。
二度は言えないし、冗談と受けとって欲しくもない。
心の底からの懇願であると理解してもらわなければならなかった。
とうとう龍麻が座る。
不安と、恋人を気遣う様子が眉目の隅々に現れている。
こんなにも心配してくれる男を、これから嘆かせなければならないのだ。
それも、あさましい欲望を自制できないという理由で。
己の弱さを憎む葵だったが、抗えないことも充分に承知していた。
もう、毒は全身に回っていた。
「お願い、龍麻」
こんなことを頼めば、龍麻は去ってしまうかもしれない。
その恐怖があってなお、葵は龍麻に頼んだ。
嵯峨野に囚われたあの時以来、鎖の記憶が染みついてしまっていると。
皮膚に覚えた拘束の快感は、夢に見るほど愛おしく、もはや隠し通すことは不可能であると。
欲求は抑えがたく、このままでは自分が自分でなくなってしまうと。
顔を見られるのも、彼の顔を見て話すのにも耐えられず、
広い胸板にしがみついて葵は自分が見た夢と、それが持つ意味について告白した。
「鎖で……縛って欲しい、ってことか……?」
口に出して確認する男に疎ましさを覚えつつも、葵は小さくうなずいた。
冷たい金属の縛め。
肌のあらゆるところに鎖を巻き、拘束されたいと、葵は裡に眠っていた性癖を吐露した。
全てを話し終えた時、葵は慄(えていた。
それが恐怖なのか、それとも安堵なのかは、葵自身にもわからなかった。
葵は目を伏せている。
彼女がこちらを見ないのは当然だったが、、龍麻もまた葵を直視できなかった。
どんな小さな挙動も葵を不安にさせると思い、龍麻は呼吸すら最小限に抑えて冷静を努めていた。
学校からずっと思いつめた顔をしている葵の相談が単純なものではないと覚悟はしていたが、
これは想像を超える事柄だった。
龍麻は朴念仁ではなく、人並みに健康な高校生男子の欲求を持ってはいた。
だから葵の言わんとすることは解ったし、
性癖自体はどんな人格者にもあるものなのだと理解もしていた。
しかし、その原因が操られた悪夢に起因したとあっては、複雑な感情を抱かないわけにいかなかったのだ。
葵の心をいわば奪ったともいえる、今は意識不明で入院している嵯峨野に嫉妬めいた思いすら芽生えており、
葵の頼みを聞き届けるということはあの男に負けたということなのではないかと考えたのだ。
「……葵がそうして欲しいなら、するよ」
それでも、結局龍麻は葵の願いを聞き届けた。
葵は龍麻にとってもはや自分よりも貴重な存在(となっており、
彼女の頼みを受けいれないというのは己を否定するのと等しかった。
さらに優等生という衣を脱ぎ捨ててまで倒錯した行為を欲した葵に新たな愛情が湧いたのも確かであるし、
この生白い肢体に鎖を絡みつかせ、己が意のままに縛りあげることに男の根源的な欲望を刺激されもして、
龍麻は葵が求める道具を揃えることを承諾したのだった。
「それじゃ……また明日」
「……ああ」
これ以上一緒にいる気になれず、葵はそそくさと帰ることを告げる。
龍麻が止めなかったのが、ありがたかった。
いつもなら無慈悲なほど早く時を刻む時計を恨めしげに見たり、
そうすれば自分達だけは世界の法則から逃れられるのではないかと名残惜しげに玄関で抱きあったりしたが、
今日は顔を見るのさえ耐えられなかった。
それが自分に原因があることを、葵は百も承知していた。
龍麻に非はまったくなく、全ては淫らな欲望を自制できなかった自分のせいなのだ。
唇を噛みながら葵は帰路を急いだ。
なぜもう少しだけ抑えられなかったのだろう。
龍麻が頼みを聞いてくれてよかった。
龍麻は軽蔑しただろうか。
数日後には願いが叶う。
我慢できない。
我慢。
葵はその日の夜、また満たされない自慰をした。
夢は、三度葵の前に現れた。
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