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気配を感じて、龍麻は振り向いた。
首だけを後ろに回してみたが、自分に用がありそうな人物は誰も見当たらない。
しかしある種の確信を持っていた龍麻は、今度は身体ごと後ろに向けてみた。
やはり誰も……いや、いた。
龍麻の立っているC組から教室四つを隔てた向こう、真神学園の名物部室から、
小さく手招きをするものがあった。
十メートル以上離れているにしても、人のものにしてはやけに小さな手。
自分でなければまず気付けないであろう呼びかけに、
小さな笑みを浮かべながら、龍麻はゆっくりと歩いて行った。
何十秒かの間を置いて、扉の前に立つ。
小窓の内側から布を垂らして中が見えないようになっている扉は固く閉ざされ、
先ほど龍麻が見た物が錯覚か白昼夢かと思わせるくらいだった。
扉をノックしようとした龍麻は、頬が緩んでいることに気付き、
表情を整えてから中の人間に来客を告げる。
返事は無かったが、三つ数えてから扉を静かに開いた。
「こんにちは」
部屋の奥で水晶玉を使って何やら占っている人物に向かって、穏やかに呼びかける。
両脇に所狭しと積み上げられた魔術の道具のせいで、ほとんど風景に埋没しているその少女は、
龍麻を見てさも驚いた、という顔をした。
もっとも、人が他人の表情を知る時の指針にする目は、分厚い眼鏡に覆われていたから、
本当に驚いているのかどうかは判らないが。
「あれ〜、ひーちゃん、どうしたの〜?」
「あれ? 呼ばなかった?」
「呼んでないよ〜。でも用事はあるけど」
これが彼女流の人付き合いなのだ、と龍麻が気付くまでには、三ヶ月以上の時を要した。
何しろ彼女の徴は非常に小さく、しかもそれと気付いてもはぐらかされてしまう。
東京を護る戦いとは違った意味で常に五感を研ぎ澄ませていないとならず、
それは日々強まる龍氣を身に宿す龍麻でも容易なことではなかった。
「そっか。んじゃちょうど良かったんだ」
「うふふふふ〜」
口元だけを三日月に形作っているから、どうしても不気味に見えるミサの笑顔。
その底の厚い眼鏡の向こうではどんな目をして笑っているのだろうかと、
龍麻はここ最近ずっと疑問に思っている。
いくらレンズが厚くても、目まで見えないということはあり得ないはずなのだが、
正面から見ている限り、どれだけ目を凝らしても彼女の瞳を見ることは出来なかった。
ならば、と隙を見て横や上から覗き込もうとしてみても、
異常な感の良さでいつも気付かれてしまい、未だささやかな、
けれど切実な願いを果たせずにいるのだ。
「その用事って?」
「今日の夜〜、学校に来てくれる〜?」
「なんで夜?」
「土星が三分一対座に入る〜、数多(の星辰が揃うのが今夜なのよ〜」
「ふ……ん、なんだか良く解らないけどいいよ」
もともとミサの言っていること、やっていることの半分も解らなかったから、
今更意味を尋ねることはしなかった。
頷いた龍麻は、何やらまだ準備があると言うミサを残して霊研を後にする。
星の巡り、という言葉を龍麻が意識するのは、今日より後のことだった。
夜中、学校に忍び込んだ龍麻が屋上に向かうと、そこにはもうミサがいて何やら準備を始めていた。
ミサは一度家に戻ったはずなのにまだ制服を着ていて、その上から黒いローブを羽織っている。
本当の漆黒の為に、かえって闇夜に浮かび上がっているローブは、
いかにも謂(れがありそうなものだったが、
龍麻が以前聞いたところ通販で買ったごく普通のローブということだった。
そのごく普通のローブが、不自然な風を受けて舞う。
彼女の周りにだけ吹いたとしか思えない微風は、龍麻の頬にひとゆらぎも感じさせることなく、
ローブの裾だけをはためかせた。
静脈から零れ出た血の色のような深紅。
神秘的な色は、ミサに良く似合っていた。
龍麻は以前、それを褒めてミサが喜ぶのかどうか、散々悩んだ末に言うのを止めたことがある。
今もまた同じ悩みが脳裏をよぎったが、やはりファッションについて語る時では無い、
と弱気に自分を納得させた。
動きを止めたローブに合わせ、視線を移す。
自分とミサが立っている位置から五メートルほど向こうの地面には、
恐らくミサが描いたのだろう、何かの模様が記されていた。
興味に駆られて模様を覗き込もうとすると、
全くこちらを見ていないはずのミサがそれを制した。
「それ踏むと〜異世界へ行っちゃうから〜気をつけてね〜」
異世界、という、普通に生活していては決して聞けない単語も、
すっかり敏感になっている龍麻は耳聡く反応して動きを急停止させる。
白い線は何の変哲も無いただの線に見えたが、触らぬ神に祟り無し、
あるいは、好奇心は猫を殺す、と言う諺(を最近になって覚えた龍麻は大人しく一歩下がった。
「それじゃ〜、始めるよ〜」
「今日は何するの?」
「ヨグちゃんを呼ぶの〜」
聞くだけ無駄だと悟った龍麻は、従者の如くミサの前に立つ。
幾度かの経験から、自分が呼ばれる時は相当な危険がある時だと心得ていた。
背中越しに、ミサの低い韻律が聞こえてくる。
ほんの少しの誘惑に負けて、集中を始めたミサに、ちらりと目を走らせた。
「ザイウェソ、うぇかと・けおそ、クスネウェ=ルロム・クセウェラトル。メンハトイ……」
ミサは歩き回りながら聞いた事も無い言葉を矢継ぎ早に唱え、大仰に手を動かしている。
未だ何も無い空間に向かって軽く構えていた龍麻も、
ミサの詠唱が進むにつれ何やらとても良からぬものを感じ、
決して足を踏み入れてはならないと警告された空間を緊張の面持ちで見つめた。
空気が淀み、禍々しく耳に届かない(音色が辺りに谺(する。
いつ終わるともしれない詠唱が続く中、屋上の床から、いきなり何かが出てきた。
丘のような盛りあがりを見せたそれは、半円状になり、すぐに完全な球になる。
バスケットボール程度の大きさのそれは、一瞬ごとに色彩を変えながら二つ三つと出現してきた。
空中に浮いている球体を見て、龍麻は言葉も出ない。
ミサの言うオカルト的なものとやらは幾つも見てきたが、どうやら今回はきわめつきのようだった。
「なッ……何これ?」
現実離れした光景に呆然と呟く龍麻に答える声は無い。
ミサの詠唱はまだ終わっていなかったからだ。
目の高さほどにある球は、輝いているのかどうかさえも判然としない。
網膜で映像を捉えはするのだが、それが脳に記憶として残らないのだ。
この説明の出来ない現象をなんとか理解しようとした龍麻は、
三回ほど試みた末にそれを諦めた。
それどころでは無い事態が発生したのだ。
次々と現れる光球は出現した場所から動かなかったが、
この世ならぬ言葉をミサが言い終えた直後、示し合わせたように一斉に動き始めた。
「あらら〜、たいへん〜」
それぞれに大きさが異なっている、十を超える数の球体が模様を越えてきた時、
少しだけ焦りを感じさせるミサの声が鼓膜を撃った。
「ヨグちゃん、ちょっとご機嫌斜めみたい〜。還ってもらうから〜、少しだけ時間を稼いで〜」
「どッ、どうやって!?」
ミサは簡単に言ってのけたが、相手が人間か、それに準ずるものなら決して怖れない龍麻も、
この未知の物体には戸惑いを隠せない。
構え、構えつつもミサを仰ぎ見る龍麻にミサが渡したのは、掌に収まってしまうほどの石だった。
「これで〜、ほんのちょっとだけ押し戻せるから頑張って〜。
ちなみに、直接触るとひどい炎症を起こしちゃうから〜」
「そんな……」
こんな小さな石を、どうやって直接触らずに押し当てろというのだろうか。
龍麻は逃げ出したい気分だったが、ミサがこの場を動く気配は無く、
地球上には無い虹彩を放つ球体はその表面に濁った泡を弾けさせてじりじりと近寄ってきている。
ミサの身も心配だったが、こんなものを放置してしまったら人類が滅びてしまうかもしれない。
直感によってそれを悟った龍麻は覚悟を決めた。
なまじ怖がるとかえって失敗する。
細心の注意と大胆さを同居させて、一呼吸で腕を突き出した。
石に触れた球体は、風船のような軽やかな動きで一メートルほど水平に移動して、
何かの意志を持っているかのように再び近づいてくる。
しかし、龍麻がその球体に狙いを定める前に、他の球体が近寄ってきた。
息つく暇もなく、再び腕を突き出す。
二つ目の光球を押し返した直後、それまではただ前方へと進んでいた光球が、
明確に龍麻をめがけて迫ってくるようになった。
もはや炎症の危険もあまり構う余裕はなく、
龍麻は神秘の護石を頼りに自分とミサと世界の平和を護る為に戦う。
とは言っても、最も近寄ってくる球に石を押しつけて押し戻す様はどこか滑稽で、
なんとなくもぐら叩きを彷彿とさせるものだったが、
もちろん、それはゲームセンターにあるものなどとは比較にならない危険なもぐら叩きだった。
もう十回程も球体を押し戻すのに成功していた龍麻は、妙なことに気付いた。
球体が少しずつ大きくなっているような気がするのだ。
自らの発見にぎょっとした龍麻は、自分の身長と球体とを比較してみる。
するまでも無かった。
直接触れないよう集中していて全体を見ていなかったからなのだが、
今や球体は龍麻の上半身程度の直径を有していた。
しかもそれは先頭の球体だけでない、それに連なる球体全てが大きくなっており、
龍麻の前方の空間は、ほとんど球体に占められてしまっている。
このまま際限無く大きくなっていったら。
未知の存在に対する慄然たる恐怖を覚えた龍麻は、大きさを増す球体に半歩退く。
まだミサまでは二メートルほどあるが、それもどれくらいの余裕なのか判らない。
いざとなったらミサを抱えて逃げ出せるように準備を整えつつ、
再び、これまでよりもずっと慎重に石を球体に押し付けた。
球体は押し戻されたが、その量はずっと少なくなっていた。
焦りが恐慌へと変わりはじめ、全身に走る。
もう一度か二度、押し返すのが限界だ。
重心を後ろに移し、ミサの位置を気配で探る龍麻の横を、旋風が通りぬけた。
龍麻を全くよろめかせることのない、それでいて肌を冷たく撫でる異界の風。
それはたちまちのうちに模様の向こう側へと球体を押し戻し、
全ての時空に身を接する彼方のものは現れた時と同様、忽然と姿を消した。
「……」
あまりにも痕跡を残さずに消えた異次元の存在に、龍麻はまだ半信半疑だったが、
そっとミサの方を振り返り、してやったりと笑顔を浮かべるミサを見て、ようやく肩の力が抜けた。
本当はその場にへたりこんでしまいたいのを抑え、
危険過ぎる儀式の後片付けをするために最後の気力を振り絞ることにした。
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