<<話選択へ
次のページへ>>
(1/4ページ)
「きゃあっ!」
「葵!」
最愛の女性の悲鳴に、龍麻は細胞のひとつひとつまでを彼女の元へと走らせた。
しかし、優美な肢体を持つ彼女の姿はそこには無く、
代わりにあったのは人懐っこい目でこちらを見上げている──ネコだった。
死してなお残る虐げられた獣の怨念が葵に取り憑き、彼女を同胞へと引き摺りこんでしまったのだ。
謂れの無い呪いを受ける羽目になった葵は、怨差の声を上げるでもなく、
龍麻のことがわかるのか、親しげに足にまとわりつく。
それどころか、彼女を抱き上げた龍麻が顎を撫でてやると、嬉しそうに喉を鳴らした。
その可愛らしい仕種に、龍麻は前足を持ち上げて遊ぶ。
龍麻は葵も好きだったが、ネコも好きだったのだ。
「にゃっ……にゃ?」
葵だったネコは、かわるがわる右足と左足を振ってやると、にゃーにゃー鳴いて喜ぶ。
普段の葵には見られない素直さにすっかり夢中の龍麻は、
岩窟に腹ばいになってネコとじゃれついていた。
すると後頭部がいきなり小気味の良い音を立てる。
「痛っ」
何事かと顔だけを後ろに向けると、小蒔が鬼の形相で立っていた。
ライムグリーンの可愛い下着が丸見えになっていたが、そんなことはおくびにも出さないで身体を起こす。
「もう……遊んでないで早く元に戻してあげてよ」
「わかったよ……っと、しまった、大麻がねぇや」
「なんで用意しとかないのさ」
「たまたま切らしちまったんだよ。小蒔でも京一でもいいけど持ってねぇのか」
「ボクは持ってないよ。そういうのはひーちゃんに全部任せてるもん」
「俺もだ。あんまり持ち歩きたくねェもんが多いからな」
勝手なことを言う二人に龍麻は腹を立てつつ、薬などを入れた袋を探る。
「えっと……あ、代わりに里見の笛があった」
「早く治してあげてよ」
「わかってるって」
しかし、思いきり吹いた笛の音は、なんとも形容しがたい音色を洞窟内に響かせた。
思わず脱力する三人だったが、ネコの……葵の居た場所には再び煙が立ちこめ、
効果はあったようだった。
「何いまの音」
「あれ、どっか割れちまってたのかな。まぁいいだろ、元には戻ったんだし」
やがて煙は晴れ、確かに葵は人の姿に戻ってはいた。
しかし。
「ありがとう、みんな」
微笑んで礼を言う葵を、珍しく小蒔が無視した。
龍麻も申し訳ないとは思いつつも、直視することが出来ない。
不自然にうつむいた龍麻の袖を、小蒔が引っ張る。
「ねぇひーちゃん」
「なんだよ」
「あれ……何さ」
葵に向けて顎をしゃくる小蒔にも、龍麻はうつむいたままだ。
そのわき腹を、京一が肘で突つく。
「おいおい、龍麻……どうすんだよ、アレ」
「知らねぇよ」
龍麻が聞きたいくらいだった。
「京一くん達……どうしたの? 何か、私におかしなところがあるの?」
友人達の会話に不穏なものを感じた葵は、そっと自分の頭に手を触れてみた。
本来髪の毛があるはずの場所よりも、少し上で何かが触れる。
「何……これ?」
ふさふさとした手触り。
それは頂点を持つ、どうやら三角錐のような形をしているようだった。
充分に知性と判断力を持つ葵でも、それが何かを知ることは不可能だった。
自分の頭に何があるのか確かめようとポケットから鏡を取り出そうとすると、腿の裏側に何かが触れた。
「きゃっ!」
手で触れたのと同じ、ふさふさとした感触。
ほとんどパニックに陥った葵は、お尻の辺りに手を回し、その正体を確かめようとした。
スカートの裾を滑り下り、布地の縁を超えた指先が、あり得ざるものに触れる。
自分の肌ではない、もこもこの毛。
それは真っ直ぐ下に向かって伸びていて、立ったままでは端を掴むことは出来なかった。
勇気を出してそれを掴み、身体の前に持ってくる。
スカートの端がまくれあがって、小蒔が慌てて抑えたが、
それにも気付かないほど自分が手にしているものに衝撃を受けていた。
尻尾。
どう見ても見間違いようのない、それは尻尾だった。
掌に感じる柔毛が、やけに遠いものに感じられた。
「葵ッ!」
小蒔の悲鳴で、初めて葵は自分が倒れるのだ、と知った。
ぐらり、と傾いた体を、立て直そうという命令が頭に浮かばない。
ごつごつした岩の塊に激突するのだけは、龍麻の手によってどうにか食い止められたが、
葵は好きな男の腕の中にいてさえ、この現実が無くなってしまえばいいのに、と思っていた。
「なんか……里見の笛が不完全に効いちまったみたいだな」
「そんな……困るわ」
責任を誰かに求める葵の台詞は、彼女の立場からしたら当然だったが、
龍麻は罪の意識を抉られる思いだ。
軽率な自分の行いが、こんな形で返ってくるとは、悔やんでも悔やみきれなかった。
「ごめん……本当にごめん」
「龍麻……」
大柄な身体を窮屈に縮めて謝る龍麻に、葵は多少気を取り直したものの、
だからと言って生えてしまったものが消えてなくなる訳でもない。
「どうしよう……こんな格好じゃ家に帰れないわ」
確かに、耳はもともとの髪の量が多いので目立たない、と言えば目立たないが、
良く見れば不審だし、なにより尻尾は隠しようが無い。
成績優秀、品行方正で通ってきた一人娘がある日耳と尻尾を生やして帰ってきたら、
普通の親なら卒倒するだろう。
葵の困り果てた表情を見ながら、
あの尻尾引っ張ったらどうなるのかな、やっぱり痛いのかな。
そんなことを考えていた小蒔は葵の嘆きにもっともらしく頷いた。
「そうだね、ボクんちだともっと大変なことになるし……」
「ここはやっぱり」
「ひーちゃんちしか無いかなぁ」
他に選択肢が無いのは解りきっていたが、龍麻は返事をしなかった。
どう返事をしても、この事態を楽しんでいるととられかねない、と思ったからだ。
既に楽しんでいる京一と小蒔の会話のあとでは。
しかしこの場合、無言はそのまま肯定となる。
そんな龍麻にちらりと目を向けた葵が、頼りない男に代わって拒絶してみせた。
「それは……でも……あの……」
「別に初めてじゃないんでしょ?」
「……」
「んじゃ決まりだね。よろしくひーちゃん」
とっさに嘘のつけない葵に、京一と小蒔は口実が出来て良かったじゃない、と顔に語らせて、
手はこれで問題は解決したとばかりにひらひらと振って去っていく。
逃げられた、と龍麻が気付いたのは、不安げに服の裾を掴む葵の手を感じてからだった。
<<話選択へ
次のページへ>>