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制服を着ているのだから帽子をかぶるわけにもいかず、
どうしたものかと悩んだ龍麻だったが、辺りが暗くなっていたから、
家まではそれほど人目につかずに帰ってくることが出来た。
道中さりげなく確かめてみても全く外からは見えなかった尻尾をどうやって隠したのかは、
どうしても聞けなかったが。
もともと葵は口数の多いほうでは無い。
どちらかというと瞳で訴えかけることが多く、それにつられて龍麻も口数は減っているのだが、
学校からここに来るまで、二人は一言も話していなかった。
この後どうすれば良いかで頭が一杯だったのだ。
この手のことに関して最も頼りになるのはミサだ──それは間違い無い。
彼女は口も硬く、運が良ければ適切に葵を治してくれるだろう。
しかしうっかり彼女の興味を惹いてしまうようなことになれば、
より酷い方向へと進んでしまうのも確かで、龍麻はこの考えを最初に捨てた。
では次に、たか子ならどうだろうか。
世界で五本の指に入る霊的治療者(である彼女なら、
多少分野が異なる今回の事件でも、助けになってくれるかもしれない。
しかし彼女はその代償として、龍麻に身の毛もよだつような仕打ちを要求するだろう。
葵への罪の意識とは異なる次元の恐怖が、彼女を頼るのはダメだと命令していた。
ひよこよりも軽やかに事件を仲間にさえずりそうな劉は論外、
鼻で笑って説教した挙句に結局診てはくれなさそうな御門も嫌、
紗夜のところに行くのは葵が嫌がるだろう。
八方塞がりになってしまった龍麻は、玄関の前に立っていることにしばらく気付かなかった。
葵も何か言ってくれても良さそうなのだが、制服の裾を掴む自分の手をじっと見ているだけだ。
綺麗な黒髪が、今は葵の心を表しているように思え、龍麻はとにかく中に入ろうと鍵を取り出す。
先に靴を脱いで家に上がったところで、葵が初めて口を開いた。
「ねぇ……龍麻」
「ん」
「もし……このまま戻らなかったら、私……どうしたらいいの?」
なんと答えれば良いか、龍麻には解らなかった。
治ろうが治るまいが葵は葵──そんな言葉が慰めになるとは思えない。
必死に一八年書き溜めてきた己の辞書から葵を励ます表現を探した龍麻だが、
この未曾有の状況に立ち向かえる言葉などどこにもなかった。
「治る……いや、治すよ、絶対に」
「ありがとう……ごめんなさい、気弱なことを言って」
結局、何の根拠も無い戯言しか言えなかったものの、その想いを感じとってくれたのか、
胸に飛び込んできた葵は、親愛の情も露にこちらを見る。
伏せた睫毛がわずかに震え、唇がわなないている顔(に、
吸い寄せられるように龍麻は心を寄せた。
腕の中の温もりは、いつもよりも温かいように思われた。
落ち着きを取り戻したらしい葵の手を引いて、居間へと上がる。
大人しくついていき、いつもの場所に腰掛けた葵は、見慣れているはずの風景を物珍しげに見渡した。
「どうかした?」
「ううん……なんでもないの」
そう答えた葵は、自分自身何故こんなに落ち着かないのか解らなかった。
部屋の全てのものが、まるで初めて見るかのように好奇心をそそるのだ。
普段の葵なら気付いたかも知れない。
好奇心そのものが、彼女にとってはほとんど初体験の情動なのだということに。
葵のために飲み物を用意していた龍麻は、小さな台所から居間に戻って来た時、
艶めかしい白い足の隣にある尻尾が動いているのに気付いた。
多分本人は気付いていないのだろう、黒い尻尾は忙しく左右に振られている。
いかにもネコっぽいその動きは、罪の意識に染まっていた龍麻の心に、ある変化をもたらした。
ただしそれは、とてもよろしくない感情であり、龍麻は形作り始めたそれを急いで圧殺した。
「はい」
「ありがとう」
コップを置き、向かいに座った龍麻は心をなだめ、改めて葵の顔を見る。
しっとりとした光沢を帯びた黒髪、それとは異なる種類の輝きを宿している瞳、
情の豊かさを示すように膨らんでいる唇。
顔の造作の全てが、女神が気まぐれで自らの分身たる栄誉を与えたような美しさを持っていた。
見る度に心が躍り、呼吸が困難になってしまったことも一度や二度ではない。
その葵の頭に、さりげなく乗っかっているネコの耳。
人の世では起こり得ないはずの組み合わせは、意外なことに不自然ではなかった。
それどころか、元からそうであったかのように違和感なく収まり、
葵の持つ本来の美しさに、可愛さという新たな魅力を添える副菜となっている。
思う存分その耳に触れたい欲求に駆られながら、龍麻はしげしげと半ネコ半人の顔を見ていた。
「……そんなに、変かしら」
どうやら自分の顔をじろじろと見られていた葵は、勘違いしてしまったようだ。
頭に生えた新しい耳をしきりに撫で、気にしている。
その仕種がまたネコっぽくて良く、龍麻は目許を思いきり緩めて観察していた。
ただならぬその様子をなんとなく葵も察したらしく、心持ち身体を引き、ついには立ちあがる。
それは龍麻にとっても大いなる救いとなった。
弱気になっているに違いない葵に追い討ちをかけるような真似をせずにすんだことに
安堵のため息をつこうとして、それもまずいことに気付いた龍麻は、慌てて息を止める。
不自然な位置で止まった視線の先にあったのは、黒い尻尾だった。
右の腰から顔を覗かせているそれは、龍麻を挑発するように微妙に揺れている。
理性を外側から削り取られ、つい今しがたの安堵もどこへやら、
テーブルを跳ねのけ、飛びかかって押し倒す──自分の運動神経の限界を測った龍麻は、
最善の位置から獲物に襲いかかるべく、尻だけを使って身体をずらした。
準備を整え、軽く息を吸う。
作戦開始は吐き出した時だ。
軽く開いた口から最初の呼気が漏れ、全身をばねにしようとした正にその瞬間、
絶妙のタイミングで獲物が話しかけてきた。
「シャワー……借りてもいい?」
「あ、ああ、いいよ」
葵はさすがに地球を支配する力さえ持つと言われる黄龍の器を御する人物だった。
ネコの耳と尻尾をその身体に生やしても、意識と無意識の両方で龍麻を軽くあしらう。
単にこの場を凌ぐだけでない、今日一晩の危険をも未然に取り除く、完璧な一言だった。
ただし惜しむらくは、今日は自分自身(が危険そのものとなっていることを、
葵は気付けなかったのだった。
「それで、あの……着替えが……」
「あ、そうか」
頭を振って邪念を追い出した龍麻は、興奮していた自分を恥じ、
まだ残っている邪念の残りかすを振り払うべく大げさに立ちあがった。
急に泊まることになった葵は、もちろん着替えなど何も持っていない。
と言って一人暮しの龍麻が女性が着られるような服を持っている訳も無く、
結局、仕方無しに龍麻が渡したのは制服の内側に着る、ごくありふれたシャツだった。
「ごめん、こんなのしかない」
「ありがとう」
恥ずかしそうに受け取った葵は、いきなりシャツを鼻に押し当てた。
形の良い小鼻がひくひくと動き、懸命に匂いを嗅いでいる。
「なっ、なんか変な匂いする?」
「え? やだ、私ったら……ごめんなさい、何にもしないわ、龍麻の匂いだけ」
「……」
「!! ち、違うの、龍麻の匂いって言っても……シャワー、浴びてくるわね」
そそくさと立ちあがった葵は、尻尾を翻して浴室へと消えた。
その後姿を見送る龍麻の顔は、見るもだらしないものだった。
スカートをわずかに持ち上げて左右に振れる尻尾。
そのおかげで普段よりも奥まで見えた腿。
裸とはまた違うエロチシズムに、すっかり心を奪われ、
一度追い出したはずの邪念が、またむくむくと湧き起こってくる。
今日はもう意地でも我慢しろ、と己に言い聞かせても、
そのそばから思い浮かべた葵の裸体に耳と尻尾をくっつけてしまう。
「きゃあぁっ!」
頭を振る度に色が付き、動き出し、
どんどん実像に近づいていく葵の肢体に悶々としていた龍麻は、
突如浴室で上がった悲鳴に、文字通り飛び上がった。
もつれる足を強引に前に進めて、体当たりで扉を開ける。
お世辞にも広いとは言えない浴室の中は、一糸纏わぬ姿の葵と、立ちこめる湯気、
そして勢い良く出ているシャワーのお湯で混沌としていた。
「どうした!?」
「お湯が……熱くて……」
息を弾ませてそれだけを言う葵に、温度調整を間違えてしまったのだろうかと、
龍麻は慌ててシャワーヘッドを掴んだ。
「……あれ?」
掌に感じる温度は、別に熱くなどなく、むしろ少しぬるいくらいだ。
「別に……熱くないけど」
「嘘」
葵は信じられないといった顔をして怯えながら指を差し出し、お湯に触れさせる。
「熱っ!」
物凄い勢いで指を引っ込めた葵に恨みがましい顔で見られて、龍麻はほとほと困り果ててしまった。
「良く判らないけど、とりあえず温度は下げておくよ」
「ええ」
ほとんど水に近いくらいまで温度を下げ、首を傾げつつも浴室を出ようとする。
「龍麻……お願いがあるの」
「ん?」
「こっちを……見ないで、ここから出てくれないかしら」
葵の懇願は全くの逆効果だった。
いつも呼ばれた時に葵の眼を見るように躾られていた龍麻は、
お願い、と聞いた時点で既に顔を葵に向けていたからだ。
柔らかい曲線を描く肢体を彩る、黒髪と唇。
そして龍麻だけが見ることを許されている、下腹部を覆う楚々とした陰り。
透き通るような白い肌に浮かび上がるこれらのアクセントに加えて、
今はもうひとつ、腰の少し上辺りから伸びている尻尾が華を添えていた。
「あ、った、ご……ごめんッ!」
ほとんど転がるようにして、浴室から飛び出す。
素肌から生えている尻尾はそら恐ろしいほどの衝撃で、
龍麻は自分がいつまで我慢できるか、全く自信を失ってしまっていた。
「龍麻……出るけど、いい?」
葵の声は小さかったにも関わらず、龍麻は驚いてちゃぶ台に思いきり膝をぶつけてしまった。
置いてあった茶筒が倒れ、ころころと移動を始める。
手を伸ばせば簡単に届くはずの茶筒は、動揺した指先によって弾き飛ばされて、
更に勢いをつけて葵の方へと転がっていった。
「にゃ?」
もうなんだかわからないまま、とにかく拾おうとした龍麻の頭上から、奇妙な声がする。
いつもの落ち着いた声ではない、軽い、好奇心に満ちた声。
見上げた龍麻と見下ろした葵、二人の視線が交じり合った。
「……にゃ?」
「い、言ってないわ。私そんな事言ってない」
膝を心持ち内側に向け、シャツの裾を押さえ、葵は激しく首を振る。
しかし、龍麻の鼻先で揺れる尻尾が、彼女の動揺を何よりも伝えていた。
「た、龍麻も……シャワー浴びたらどうかしら。汗、掻いたでしょう」
このまま太腿に抱きつこうか──
そんな事を考えていた龍麻とのコンマ単位の微妙な争いに勝ったのは、またしても葵だった。
龍麻が体重を移そうとしたまさにその瞬間に、出鼻をくじく。
この年齢にして既に男を操る術を完全に身に着けている真神の聖女は、
力無く頷いて浴室へと入っていく龍麻と場所を入れ替わった。
扉を閉め、衣擦れの音が聞こえてきたのを確かめてから、ほっとため息をつく。
その瞳に、龍麻が拾おうとしていたものが映った。
これを見たとき、何故あんな声を発してしまったのか。
困惑に駆られた葵は拾い上げる前に、何気なくそれを転がしてみた。
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