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 木刀を構えなおした京一が、短く龍麻に囁く。
「龍麻」
「ああ……八剣あいつは任せた」
「悪いな」
 振り向かずにそう言った京一は、雑魚には目もくれず八剣に向かって突進していった。
その背中を狙おうとする拳武の生徒を、龍麻が倒す。
無防備な背中に氣を当てられたその生徒は、無様な悲鳴を上げて吹き飛び、
運の悪いことにベンチに頭から突っ込んでそのまま動かなくなってしまう。
氣を当てられた時点で気を失っていたその生徒は、
ベンチに激突しても新たな悲鳴を上げることはなかったが、
よほど悪い運気の下に生まれているのか、別の方向から吹き飛ばされてきた、
壬生が倒した生徒の下敷きになってしまった。
 もっとも、それでもその生徒はましだったのかもしれない。
醍醐の相手をする羽目になった生徒などは、彼の全体重の乗った蹴りをまともに食らい、
哀れにも線路へと落下してしまったのだ。
高さ的には大したことはないといっても、レールに頭をぶつければ只ではすまない。
鳴くのが下手な豚のような悲鳴を発したきり、その学生は動かなくなってしまった。
あっという間に倒されてしまった三人の仲間に、拳武館の生徒はあからさまに怯む。
 拳武館の生徒、その中でも暗殺に従事する者達は、皆普通の高校生を超越する体術を会得しているが、
なまじ技量が優れている為に、龍麻と壬生の闘いを見て怖気づいてしまっていた。
それでも八剣に命じられ、また掟に背く者には死という彼らの掟がそうさせたのか、
少なくとも彼らは必死だったが、異能の『力』を持つ龍麻達が相手では初めから勝ち目などなかった。
 壬生とは一時休戦したとは言っても、その他の相手に手加減してやる道理はない。
壬生と較べれば亀のようにのろい攻撃を、軽く弾きながら掌底を当て、
身体を衝き動かす喜びの氣を、龍麻は敵の胴や顎に撃ちこんだ。
減殺されることもなくとおった氣は、ただの一撃で拳武館の猛者から戦闘能力を奪っていた。
 龍麻の強さも拳武館の生徒に充分な畏怖を与えるものだったが、
同じ高校ということで強さは思い知らされているのだろう、
壬生に対して彼らは完全に尻込みしてしまっていた。
何しろ、蹴りしか使ってこないと判っているのに、その初手が躱せないのだ。
それどころかどこに攻撃を受けたのかさえおぼろなまま、次々と倒されていく。
瞬く間に三人が倒され、完全に怖気づいた彼らは標的を他に移そうとする。
しかしそれを壬生が許すはずもなく、敵のただなかに平然と踏みこんでいった壬生は、
雑草でも刈るように同じ制服を着た男達をなぎ倒していった。
 龍麻と壬生とに闘わされなかった学生達も、必ずしも幸運とは言えなかった。
残る一角を受け持つのは新宿真神にその男ありと言われた醍醐なのだ。
こういった場数は龍麻や壬生よりも踏んでいる醍醐は、
むしろ二人よりも危険な存在であったかもしれない。
 彼の正面に立たされ、その巨躯が放つ威圧感をもろに浴び、
挙句全治一ヶ月以上の重傷を負わされた学生などは特にそう感じただろう。
 醍醐の豪腕が学生を狙う。
決して避けられなくはなかったその攻撃を、
愚かにも受けようとした学生のガードごと打ち抜いた醍醐は、
胃液を吐いて悶絶する学生の腰を掴み、一気に持ち上げた。
「ひ……ッ!!」
 逆さに担ぎ上げられ、醍醐の頭の位置まで持ち上げられた学生は、次の瞬間、一気に落下する。
鈍い音と共に床に叩きつけられ、薄く鼻血を出して気絶した。
自分達とて空手や柔道やその他の格闘術、あるいはその複数を日々猛特訓させられている身だ。
それが赤子の手を捻るように、パワーボムなどというプロレス技で粉砕され、
拳武館の学生のプライドはぼろぼろに崩れ去っていた。
手にナックルをめ、複数で醍醐一人にかかる。
武道の精神から遠くかけ離れた彼らの所業は、正しく報われた。
彼らを見た醍醐は吼える。
それは己の裡に存する獣を呼び覚ます咆哮であり、
龍麻と壬生よりも良心的であった彼の鎖を解き放つ怒号だった。
 殺傷能力を高めるナックルを装着した学生の、鋭いパンチが醍醐の鳩尾みぞおちに命中する。
会心の攻撃に勝利を確信した学生が見たものは、野獣そのものの輝きをした醍醐の目と、
唸りを上げて顔面めがけて迫ってくる巨大な拳だった。
「……!!」
 鼻を砕かれた学生は、悲鳴すら上げられず倒される。
すかさずその横にいた、呆然としている学生を醍醐は担ぎ上げた。
充分に筋肉のついた身体をたやすく持ち上げられた学生の最後の意識は、背中に炸裂する激痛だった。
一メートル以上の高さから背骨折りバックブリーカーをかけられ、胃液を吐き散らして学生は気絶した。
あまりに凄惨な光景に、一人残された学生は自分達が虎の尾を踏んでしまったことを悟ったが、
もはや手遅れだった。
 憤怒の形相で腰のベルトを掴む醍醐を、彼は意識を失う瞬間まで他人事のように見ていた。
 男達の何人かが、崩れた龍麻達の円陣の内側にいる女性達に目をつける。
彼女達を龍麻、醍醐、壬生よりはくみしやすいと踏んだのは当然だったが、
彼らはすぐにその判断に対して手痛いしっぺ返しを受けることとなった。
 三人の女性を人質に取れば優位に立てる。
そう考えて襲いかかった男は、突然腿に灼けるような激痛を感じて、意に染まぬ横転を強いられた。
次いでその隣にいた男も同じように倒れる。
小蒔が至近距離から矢を射掛けたのだ。
普段木刀やその他の凶器を用いて暗殺を生業とする者達も、
自分が武器で狙われる側になってはたまらない。
襲いかかった勢いも空しく逃げようとする男達に、小蒔は容赦しなかった。
「悪いけどさ、手加減する気にはなれないんだ」
 心臓や顔にこそ当たっていないが、腕や大腿に深々と刺さった矢は耐え難い苦痛を与える。
加えて、彼女の持つ『力』が、刺さった傷口から紅蓮の焔を生み出し、
心身両面から男達の戦闘意欲を奪っていった。
 この場所に来た時から小蒔の怒りは龍麻にも劣らないほどだったのだが、
ぼろぼろの制服を着た亜里沙を見た時、それが頂点に達したのだ。
弓を引き絞る手に、ためらいは微塵もなかった。

 木刀と、日本刀──
子供に聞いたとしても勝負にならないと答えるであろう二つの武器。
木刀ではいくら斬ったとて切ることは出来ず、対して日本刀は人の肉など飴のように切り裂くであろう。
その二つの武器が、澄んだ音を立てて何合も打ち交わされていた。
それぞれの刀身は、二色の光に彩られている。
白と、赤。
縁起を担ぐような二色の輝きは、位置を変えるたびに激しくぶつかりあった。
どちらの輝きも引けをとらず、複雑な残像を見せながら消え、そして生まれる。
 鬼剄は極めて強力な技であるが、ひねりを加える必要がある為、放つまでにわずかな時を必要とする。
初手としては有効であっても、打ち合いの最中に用いることは出来ない技だった。
加えて京一の剣撃は素早く、そして充分に重い。
無節操に見えて的確に急所を狙ってくる攻撃を縫って鬼剄を放つことなど到底無理だった。
 薄い陶器を弾いたような音は、八剣の鼓膜を苛立たせていた。
音自体も不快であるし、それが少しずつ近づいてくるのだ。
目の前のいまいましい男を両断しようと真剣を振るう八剣だったが、
刃は蓬莱寺に触れるどころか、次第に押されている。
まるで自分が描こうとする軌跡を先読みされ、
その線上に木刀が置かれているようにすら感じられるのだ。
そして十字に交差する木刀は、決してその刀身を折ることなく、鮮やかに弾き返す。
それはひとえに、自分の鬼剄が蓬莱寺に劣るということに他ならなかった。
「ク……ッ」
 焦りが、要らぬ力の入った握り手が切っ先をぶれさせる。
八剣は血を欲するという狂気に憑かれた剣士であっても、
その実力は本物であり、ために京一も一度は屈したのだが、
精神のぶれは熟練の腕を素人以下にもおとしめる。
もはや八剣に、勝てる道理はなかった。
 氣をみ、挙動を読む。
感覚を研ぎ澄ませた京一は、八剣の剣の動きのみならず、内心の焦りさえも視えていた。
それどころか、この場にいる全員の氣の流れさえ朧気おぼろげながら感じ取れる。
心を澄ませ、己を律する──
京一は敗れたが、ただ敗れたわけではなかった。
 攻撃を読まれ、動揺している八剣が焦って突いてくる。
それを紙一重で躱した京一は、己の氣を刀身に込めて、八剣の刀に叩きつけた。
音を立てて中ほどから日本刀が折れる。
折れた刀身が床に落ちるよりも疾く、京一はそのまま返す刀でがらあきになった胴を切り裂いた。
「──ッ!!」
 八剣の制服には傷一つついておらず、外傷はどこにもない。
だが、京一は確かに八剣の身体を両断し、氣を八剣に撃ち込んだ手応えを得ていた。
 八剣の手から、刀がこぼれ落ちる。
京一が感じた通り、氣の斬撃は八剣の身体を貫通し、内側から彼を撃っていたのだ。
八剣は慌てて落とした剣を拾おうとしたが、束を握ったところで眼前に木刀が突きつけられた。
屈辱にわななく八剣の額を、汗が伝う。
「この俺様が……負けた、だと」
「八剣、仮にも拳武を名乗る者なら往生際くらい見極めたらどうだ」
 忌々しいほどに静かな声が、頭を抑えつけた。
八剣が復活を遂げた京一に敗れたと時を同じくして、彼の配下達もことごとく敗れ去っていたのだ。
しかも龍麻と死闘を繰り広げた壬生は、今は息すら切らせていない。
もはや進退極まったかに見えた。
「八剣さん……どうするつもりでごわすかッ!!
このままじゃ殺されるでごわすよ、いやだ……おでは死にたくないッ!!」
 見苦しく脂肪の多い巨体を震わせる武蔵山になど、
ほとんど誰も関心を抱いていなかったが、彼は聞いてもいないのに醜い言い訳を始めた。
「そ、そうだ、おでは騙されていただけでごわす。悪いのは全部副館長と八剣さんで、おでは何も……」
「うるせェッ!!」
 狂気の叫びと共に、八剣は電光石火で折れた刀を拾い、斬撃を振るう。
哀れにも仲間に見捨てられた武蔵山は、信じられない、といった表情のままゆっくりと倒れていった。
止める間もない刹那の出来事に、龍麻達は言葉を失う。
仲間を裏切り、あまつさえ殺してしまうなど、
既に八剣は人として最低の一線をも超えてしまったようだった。
「ある訳がねェ……この俺様が負けるなんて、ある訳がねェんだ……」
 虚ろに呟く八剣を、龍麻達は油断なく囲む。
刀は折れたとは言え鬼剄は健在であり、狂気に憑かれたこの男を野放しにする訳にはいかなかった。
「己の負けを認められねェ奴には、もありゃしねェ。哀れだな、八剣」
 一度は倒した男に諭され、八剣の顔が赤黒く歪んだ。
この場はなんとしても逃げなければならない。
ここで取り押さえられれば、局中法度により死は免れない。
生きてこそ女を食らい、鮮血を浴びることが出来るのだ。
異様に眼光をぎらつかせて、八剣は突破口を捜し求めた。
「てめェらは一体何の為に剣を──拳を振るう?
護る為か? たおす為か? そうじゃねェだろう?
己自身の強さを確かめる為じゃねェのか?
なァ、壬生よ……てめェはもともと俺と同じの人間のはずだ。
それに蓬莱寺、醍醐……緋勇、てめェもな。所詮俺達は同じ穴のむじななのさ」
 挑発するように語りかけてみたが、耳を傾けるものは誰もおらず、
憐れみすら込めた表情で油断なく監視している。
このままでは──焦る八剣の目に、女の顔が映った。
突破口を見つけた八剣は、弁舌で龍麻達の気を逸らしながら、静かに鬼剄を練った。
「もうすぐこのくだらねェ世界は終わる。
この世は修羅オレたちが生きるに相応しい常世の煉獄に変わる……そうあいつ・・・は言ったのさ」
 あいつとは誰だ。
恐らく自分の暗殺を依頼した人物であろうと考えた龍麻は、詳しく訊こうと一歩踏み出す。
そこに生まれた極小の隙に、八剣が動いた。
振り上げられた刀が、一気に振り下ろされる。
そこまでは予測していた龍麻だったが、自分を狙うと思っていた八剣の剣は、
自分の後ろをめがけて振り下ろされた。
「美里さんッ!!」
 八剣は一瞬の隙を突いて、鬼剄を無防備の葵めがけて放ったのだ。
それに龍麻が反応出来たのは、八剣の微妙な氣の乱れを事前に察知していたからだが、
それでも身を呈して鬼剄を背中に受けるのが精一杯だった。
 激痛が背中に広がる。
目の前が赤に染まるような、それは苦痛だったが、龍麻は抱いて跳んだ葵の身体を離さなかった。
床に肩から落ち、鈍い痛みが広がる。
「龍麻くんっ!」
「大丈夫……氣で受けたから、大した怪我じゃない」
 答える龍麻の声は、自分で想像したよりも弱々しいものだった。
情けない、と己を叱咤したが、鬼剄というのは想像以上の威力らしく、みるみるうちに力が抜けていく。
真っ青な顔をした葵が、すかさず『力』を用いてくれた。
「う……ッ」
 背中に走る痛みが引いていく。
「ありがとう、楽になったよ」
 立ち上がり、安心させるように微笑んだ龍麻は、次の瞬間固まってしまった。
目に涙を溜めた葵が、叱るように胸に飛びこんできたからだ。
「お願い……無茶しないで」
「……ごめん」
いくらか鼓動を早めながら、龍麻は彼女に応える。
制服を通じて、彼女の温かな波動が伝わってきた。

 小蒔の咳払いで、龍麻は我に返った。
照れもせず向き直ると、京一だけが何か言いたげに口を曲げていたが、
それには構わずに壬生に目で訊ねる。
八剣の姿は既になく、葵を攻撃した隙に逃げ出したようだった。
「追う必要はないよ。一度拳武を名乗った人間は、生涯その掟から逃れることは出来ない。
局中法度を犯した者には、死という制裁が待っている。
──君達が気に病むことは、もうない」
 壬生の言葉には、いかなる感情も含まれていなかった。
ただ事実を告げるのみ……それが、かえって彼らを縛る掟の重さを感じさせた。
龍麻は頷き、帰ってきた仲間と共に、地上へ戻ることにした。
 地上に戻っても、薄暗さは変わらなかった。
時間は丑三つ時と呼ばれる頃で、人の気配も全くないが、これは龍麻達には都合が良かった。
白髭公園までついてきた壬生は、龍麻達の無事を確認すると淡々と別れを告げた。
「僕は拳武館へ戻るよ。この事を一刻も早く館長に報告しないといけないからね」
「お前はこれからも、拳武館に……身を置くつもりなのか」
 早くも歩き始めている壬生の背に、醍醐の問いは吸いこまれていった。
「僕は人殺ししか生きる術を知らない男だ。
僕にも護りたいものはある……けど、それには金が要るのもまた事実なのさ」
 それじゃ、また──短い挨拶を残して、壬生の姿は闇へと溶けていく。
彼は余人がうかつに踏み入ってはならない領域を持っているのだと、痛感させられた龍麻達だった。
 壬生が去った後、龍麻達は改めて戻ってきた京一を迎えた。
京一も迷惑をかけたという自覚はあるのか、照れくさそうにしながらも神妙にしている。
「京一……良かった、あたし、本当に心配したんだよ。あの時は、もうダメかと思って」
「おいおい、勝手に殺すんじゃねェよ。蓬莱寺京一様が簡単に死ぬワケねェだろ? なぁ龍麻」
 涙さえ浮かべる亜里沙に苦笑いしながら、京一は友人に陽気に語りかけた。
そこにあった龍麻の奇妙な表情ときたら、京一でさえ二の句が継げなくなる、
こいつはもしかしたら怒っているのか、と、不安をよぎらせるものだった。
「あと二日」
「は?」
「一週間待って帰ってこなかったら、葬式出そうって話になってたんだよ」
「……マジかよ」
 冗談にしては性質たちが悪い……が、龍麻にそんな冗談を言わせた原因が自分にあるのも確かだ。
頭を掻いた京一が、さて何と言って謝ったものかと思案していると、拳が軽くわき腹に当てられた。
それが、京一が仲間達の許へ戻ってきた、合図だった。
「ッたく連絡もしねェで、どこほっつき歩いてたんだよ」
「ん? それはまァ……いいじゃねェか」
 都合の悪いことはとぼけようとする京一の、身体がいきなり落ちる。
「京一ッ!!」
 慌てて支えた龍麻の耳に聞こえてきたのは、苦悶に満ちた魂の叫びだった。
「腹……減った……」
「……」
 龍麻達のじっとりとした眼差しは、この暗闇にあってなお京一に刺さる。
「いや昨日今日ってロクなモン食ってなくてよ。……なんだよ、その目は。
いいじゃねェか、こんな時間だって屋台くらいどっかにあんだろ、食って行こうぜ」
 あれほど心配して損をしたと小蒔は声に出し、醍醐は友人の適当さに髪を掻き回した。
龍麻もいつまでくっついてやがる、と無情に離れようとしたが、
京一は何故か身体を寄せ、耳打ちしてくる。
「ところでよ」
「まだ何かあんのかよ」
「金貸してくんねェか。財布落としちまったみてェでよ」
 壬生と闘った時と劣らぬ、苛烈な眼光で京一を睨みつける龍麻だった。

 龍麻達が家に戻り、朝までの短い時間眠りについた頃。
葛飾の街を、影のように移動する数人の男がいた。
「いたか」
「いや、こっちには来ていないようだ」
「そうか……よし、向こうへ回る。いいな、絶対に逃がすなよ。
必ず見つけ出して口を封じろ。拳武を冒涜する者には、死を」
 男達は、彼らの掟を破った者に制裁を加えるべく散る。
彼らが散って数分が過ぎた後、裏路地から一人の男が姿を現した。
男は八剣右近だった。
壬生の連絡によって素早く拳武の人間が手配され、八剣は葛飾を出ることも叶わず身を潜めていたのだ。
「こんな所でやられてたまるかよ。もうすぐ……もうすぐだ、俺様の時代が来る。
それまで、必ず生き残って──!!」
 独語する八剣の前に、突然一人の男が立っていた。
追っ手か、と胆を冷やした八剣だが、男の服装は拳武の人間のものではなかった。
「なんだ、アンタか……脅かすなよ」
 八剣がふっと気を緩めた瞬間、熱い痛みが彼の腹部を貫いていた。
意識が急速に薄れていく。
「てめェ……まさか俺様を騙して……俺様の時代……俺様……の……本当の……居場所……」
「貴様のような小物が真の修羅になり得るとでも思ったか。
幾ら『力』を得ようとも所詮貴様はただのヒトよ、修羅になどなれようはずもないわ」
 男が言い終えた時、八剣は既に息をしていなかった。
無念を顔に貼りつけ、空虚な目で男を見ている。
殺害した八剣を見下ろした男は、彼の視線を更に延ばし、その先に浮かんでいるものを見上げた。
月は赤く、巨大だった。
「貴様が護り通そうとしたものが修羅の狂気に彩られていく様を、
黄泉路の果てで見ているがいい、弦麻──」
 男の呟きは、月に届くことなく消えていった。
雲が月を覆い、男の姿を隠す。
いくばくかの時が過ぎ、雲が晴れた後、男の姿はもうそこにはなかった。
血の匂いだけが、漂っていた。



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