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 今考える必要の全くないことを必死に、色や柄まで考え始める龍麻の視界に、動くものが映った。
「壬生……」
 声に出ていたらしく、葵が驚いて振りかえる。
彼女の前に出た龍麻は、新たな氣を練るために深呼吸を一度した。
だが壬生は、さすがにもう一度闘うことなど出来ないらしく、
腹を押さえて立っているのがやっとのようだ。
いつ彼が襲いかかってきても対処出来るように葵を下がらせるが、
もう壬生に闘う意思はないようだった。
近づいてくる壬生に殺気はなく、近づいてきたのも声が届かないからのようだ。
足を引き摺りながらやって来た壬生は、片方の唇だけを持ち上げて自嘲めいた笑みをそこから落とした。
「君達を……試すつもりがここまで完敗とはね」
「試す……? どういうことだ、それは」
 死闘ですらも、壬生にとっては本気ではなかったということなのか。
一度は彼に対して闘い終えた後の友誼めいたものを感じていた龍麻は再び怒りを募らせかけるが、
髪を乱し、自分とさほど変わらぬ姿の彼に、
少なくとも打ち交わした拳に偽りはなかったと自分を納得させた。
「拳武館が依頼を受けるのは、法では裁かれることのない、真の悪を裁くため。
確かに君達は普通の高校生ではないようだけれど、到底裁かれるべき存在じゃない。
この仕事はやはり、館長の請け負われたものではないな」
 壬生の言葉はそれを裏付けるもので、龍麻は詳しく問い質そうとしたが、
その前に壬生がちらりと後方に視線を放った。
「君達──早くここから立ち去ったほうがいい」
 咳こみながらの壬生の声に、足音が重なった。
現れた新たな気配。
壬生の放っていたものとは較べるべくもないが、いずれも殺気だ。
「どうやら罠にまったのは、僕の方だったらしい──」
 疲労した壬生の声を叩き潰すような嘲笑が残響する。
不快な氣と共に現れたのは、髪を赤く染めたオールバックの男と、
相撲取りを思わせる体格の男、それに十数人の学生だった。
いずれも壬生と同じ制服を着ている。
オールバックの男は担いだ日本刀で肩を叩き、仲間であるはずの壬生を愚弄した。
「これが拳武館最強の格闘家か。ザマぁねェな、壬生」
「八剣……」
 壬生の声に感情は相変わらず乏しいが、微かな怒りを龍麻は感じ取っていた。
罠に嵌まったと言ったが、一体壬生と彼らとの関係はどのようなものなのだろうか。
龍麻が考えていると、亜里沙が絶叫した。
「ア……アイツだッ!! 京一をやったのは、アイツだよッ!!」
 オールバックの男に向かって指を突きつける亜里沙に、龍麻達は色めきたつ。
「貴様が……京一を……」
 制服の上からでもわかるほど腕に筋肉のこぶを作り、醍醐が一歩進み出た。
彼のかもす獰猛な虎の気配に、拳武館の学生達は距離を置いてさえ怯みの色を見せるが、
オールバックの男と上背だけなら醍醐以上にある巨漢は更に嘲弄の度合いを強めた。
「ククク、確かに俺様が蓬莱寺京一を仕留めた、八剣やつるぎ 右近うこん様よ」
「同じくおでは拳武館の武蔵山むさしやま 太一でごわす。
ぐへへ、情けないでごわすよ、壬生。
たかが高校生如きに拳武館が敗れるなどと、恥さらしもいいとこでごわすな」
 武蔵山と名乗る巨漢にしまりのない身体を醜く奮わせて嘲られても、
壬生は目を細めるだけで反論しようとはしなかった。
「それにてめェ、一体どういうつもりだ? 標的に早く逃げろ、だと?
てめェ、任務を放棄する気かよ」
 八剣に問われ、初めて壬生が答えた。
「お前達こそどういうつもりだ。この仕事は明らかに館長の──拳武館の意思に反するものだ。
何を企んでいるかは知らないが、今回のことは全て館長に報告させてもらう」
 低く抑えた声には激情が滲んでおり、今は隣に立っている龍麻は、
その怒りの原因は解らないものの、彼の内面の一端を垣間見た思いがした。
そして少なくとも、京一を倒したという八剣と敵対しているらしい壬生に対しては、
これ以上憎む必要はないのではないかと思い始めていた。
それは、続く八剣の言葉で決定的となる。
「クックック、そいつは無理ってもんだぜ、壬生。
てめェは今、ここで死ぬんだからな。なァ、裏切り者の壬生ちゃんよォ」
「あんたはおでと八剣さんの部下を倒し、作戦のための人質を勝手に解放。
その上仕事を放棄し、標的を逃がそうとした」
「拳武館の鉄の掟、局中法度を犯した者にはこれ、最優先をもって制裁を与えん」
「制裁──すなわち、死でごわす」
 小馬鹿にした口調で彼らの掟とやらを語る八剣と武蔵山だったが、
死という単語を耳にしても壬生は欠片かけらほども動揺を示さなかった。
まだ痛むのだろうか、腕を押さえながら、龍麻達に呼びかける。
「どんな理由があろうとも、僕の信念に反する形で一人の命を失ってしまった。
その償いはしなくちゃならない。君達──ここは僕に任せて行くんだ」
 失ってなどいない、と龍麻が反論しようとすると、八剣のかんに触る声がそれに先んじた。
「待てよ、逃げられるとでも思ってんのか?
俺達の任務は標的の残り四名と裏切り者一名の抹殺だ」
「ここで壬生をれば、副館長のおでらに対する株も上がるでごわす」
「……館長の義にそむく気か」
 どうやら壬生は、館長とやらに心酔しているらしい。
大儀をかざしているとは言え、暗殺という、他人からは決して認められることのない道を歩むには、
精神的な指導者カリスマが必須なのだろう。
だが八剣や武蔵山は、もう厳しい戒律に従うつもりは毛頭ないようだった。
「ケッ、仁義だ忠義だってくだらねェんだよッ!! 俺様はなァ、血が見れりゃそれでいいのさ。
泣き叫び、助けを請う奴らを嬲り殺すのがたまんねェのよ」
「それに、副館長の方が待遇も金払いもいいでごわすからな」
「御託はそれだけか」
 これまで黙って拳武館の内輪揉めを聞いていた龍麻は、ここで初めて割って入った。
もう聞くに耐えない豚の声を聞くのも、京一の仇を目の前でのさばらせておくのも限界だった。
「何……?」
「辞世の言葉は済んだかって言ってるんだ」
「てめェ」
「お前ら拳武館とやらの内部抗争なんて知ったことじゃない。
けど、京一の仇だけは──お前だけは、必ず倒す」
 龍麻の静かな宣告にも、八剣は動じる風もなかったが、何かが琴線に触れたのか、不意に語り始めた。
「今回の件は始めから仕組まれてたんだよ。全ては目障りな壬生てめえを潰す為の口実さ。
何をやったかは知らねェが、法外な金額でてめェらの始末を依頼しに来た奴が現れたのは、
いつかてめェをブッ殺してやろうと思ってた俺様にはまたとないチャンスだったのさ」
 得々と語る八剣に、武蔵山も脂肪を醜く震わせて同意した。
「依頼の最優先事項は緋勇龍麻の抹殺でごわす。驚いたでごわすよ。
妙な色の学生服を着た男が──」
「武蔵山ッ!! 依頼主の秘密厳守は基本だろうがッ!!」
「う……し、しまったでごわす」
 武蔵山という男は、どうやら胃と同様に口も節制が効かないらしい。
八剣に叱責され慌てて口を閉ざした彼の失態は、敵である龍麻達でさえ失笑を禁じえないものであった。
そしてその失笑は彼と同じ制服を着た人間において最も強く、
壬生ははさみで布を裁ち切るような冷笑を二人に対して浴びせた。
「フ……こんな無能な奴を重要な任務につけるとは、
余程副館長派には人材がいないのか──」
 ただ、名指しで自分の暗殺を依頼する人間がいたことに、龍麻は衝撃を受けてもいた。
自分が誰からの恨みも買わない人徳者だ、と胸を張って言える訳ではないが、
暗殺されるほどの恨みを買った覚えもない。
しかも、依頼主はどうやら同じ学生らしいのだ。
龍麻は是非ともその依頼主とやらに会ってみたく思ったが、
その為にはまず目の前にいる拳武館の生徒達を倒さねば道は開けなかった。
「こっちは任務を果たさなけりゃ金が入らねェからな。緋勇龍麻……死んでもらうぜ」
 八剣が刀を構え、振りかぶる。
その位置からでは全く届かないはずだが、八剣は血に飢えた笑みを浮かべた。
「蓬莱寺を殺った技……鬼剄で仲良くあの世へ送ってやるぜッ!!」
 八剣の身体から、陰氣が放たれる。
質量を伴っているかのような重く、黒に近い赤の氣は、龍麻達がこれまでに見たことのないものだった。
「なんだ……この氣は」
 かつて闘った、鬼がこれと近い氣を宿していたことを龍麻は思い出していた。
しかし鬼の陰氣よりも更に剣呑なものを八剣からは感じる。
恐らく、練っている──八剣も氣を練り、操る術を身につけている。
 そうた龍麻に向かって、切っ先が動いた。
この距離なら、受けても大したダメージにはならない。
そう考え、防御の姿勢を取ろうとした龍麻の前に、壬生が進み出た。
龍麻との闘いで受けたダメージがまだ回復しきっていないのか、
彼の放った蹴りに神速の切れはなかったが、目的は別のところにあったらしく、
壬生と八剣のちょうど中央の空間で、微かに空気が揺れた。
氣を操る『力』を持たない者には、二人が意味もなく剣を振り、
蹴りを空振りしたようにしか見えないが、
龍麻の目には双方から放たれた氣の塊がぶつかり、弾けて消える様がしっかりと映っていた。
「壬生……てめェ……」
「あまり図に乗らないことだ、八剣。鬼剄と言えど、発剄は発剄──
同じ剄を持って相克するくらい、造作もない」
「さァて、それはどうかな」
 一度は歯軋はぎしりした八剣は、すぐにまた剣を構える。
壬生も構え、蹴りを放ち、同じ光景を龍麻達は見たが、結果は再現されなかった。
 平然と立つ八剣と、膝を落とす壬生。
愕然としている壬生に、八剣の嘲笑が浴びせられた。
「てめェこそ調子に乗るんじゃねェぞ。俺様の鬼剄はただの発剄じゃねェんだぜェ?」
 八剣の傲慢な態度は、決して過剰ではなかった。
八剣は刀の切っ先から氣を放つ──そこまでは解っても、
それがどのような軌跡を描いて相手に放たれるのか、龍麻にも見えなかったのだ。
見えなければ、防ぐ術はない。
京一がやられた理由を納得させられた龍麻に向かって、八剣が剣を振りかぶる。
龍麻にかわす手段がないことを知り、
死への恐怖を存分に与えるべく、その動作は緩慢だ。
歯軋はぎしりしながらも後ろにいる仲間のことを考え、龍麻が動くことが出来ない。
するとあろうことか、壬生が再び前に立った。
「フン……どうせてめェもるんだ、死にやがれ」
 かつての仲間に対しても、八剣は顔色一つ変えずに刀を振り下ろす。
前に立ちはだかられた龍麻には見えなかったが、確かに鬼剄は壬生に命中していた。
動くこともままならない様子の壬生の上半身が、横から殴られたように揺れたのだ。
「僕は……例えこの命に代えても君達を護る。それが僕の、あの方への忠義だ」
 そうは言ったものの、創痍の身体で二度の鬼剄には耐えられなかったのか、くずれ落ちてしまう。
壬生を支えてやった龍麻は、葵をかえりみた。
頷いた葵が、『力』を用いる。
龍麻の判断に誰よりも驚いたのは、他ならぬ壬生だった。
「君達は……敵である僕に……」
「黙ってろ」
 ぴしゃりと壬生を黙らせ、龍麻は八剣の前に立つ。
壬生の意気は見せてもらった。
彼にこれ以上力を借りるわけにはいかない。
八剣こいつこそが京一のかたきであるなら、その復讐は自分の手で行わねばならなかった。
しかし、相手は氣を使うことに長けており、しかも真剣を持っている。
春に妖刀に憑かれた男と闘ったこともある龍麻だが、八剣に対抗するのは容易ではなかった。
現に自分と死闘を繰り広げた壬生でさえもが、攻撃を防ぐことすら出来ない有様だ。
自分の身を挺して八剣と相討ちに持ちこみ、後は醍醐に委ねるしかない──
もろとも線路に落ちてしまえば、こいつだけは倒せるだろう。
 再び悲愴な覚悟を決めた龍麻は、気取られないよう慎重に重心を移す。
それに気付いたか否か、八剣はゆっくりと上段に刀を構え、龍麻に狙いを定めた。
根元まで潜りこんで肩で受ければ、刀はなんとかなる、鬼剄は気合で一発耐える──
無謀過ぎる計算の許に龍麻は仕掛けようとする。
 だが、八剣の切っ先が動き、龍麻が床に体重を移したその瞬間、斜め後方から一つの殺氣が疾った。
八剣のものでも、むろん龍麻のものでもない。
八剣もこれには驚いたらしく、とっさに剣を立て、溜めた鬼剄で殺氣を受け止めていた。
「この氣は……鬼剄……なのか!? 俺様の他に誰が」
「鬼剄とは殺意より成る陰の発剄」
 その声を──暗闇から現れたその声を聞いた瞬間、龍麻は己の氣が爆発的に膨れるのを感じていた。
喜びの、氣。
全身が熱い衝動に震えるのを抑えつけ、
龍麻はやたらと格好をつけて戻ってきた友の口上を聞いてやることにした。
「誰でごわすッ!?」
「うるせェ、黙って聞いてろデブッ!!」
 武蔵山を一喝した声は、わずか五日聞いていないだけだというのに、ひどく懐かしさを感じさせた。
どうやら葵達も声の正体に気づいたようで、驚きと喜びが混じった氣が後方から伝わってくる。
そして、その向こうから近づいてくる気配がひとつ。
「八剣、てめェの鬼剄は腰の捻りに蓄剄した殺意を、順停止法から円転合速法えんてんごうそくほうへと繋ぎ、
一度に数発以上、それも回転によるカーブをかけて相手の死角へと放つ技だ。
だから知らねェとどっから攻撃されるのかすら判らねェ……が、見切っちまえばそれまでよ」
 気配が、隣に立った。
龍麻の感情は今や喜びを通り越して、殴り飛ばしてやりたいほどだった。
それを抑えつけ、膨大な想いを一言に込める。
涙ぐむのは格好悪いと思っていても、声にわずかに滲んでしまった。
「京一──!」
「遅くなって悪ぃな」
 京一は、殺されてなどいなかった。
初めからそう信じてはいたが、やはり横に並ばれると感無量になる。
強敵と対峙していることも一時的に忘れ、龍麻は帰ってきた友を迎え入れた。
 喜びを爆発させる龍麻達と対照的に、八剣はさっきまでの余裕も失せている。
「てめェ……俺様の鬼剄で死んだはずじゃ」
「じゃあ今ここにいる俺は幽霊か? バカが、暗殺者のくせしてとどめも刺さずに行きやがって。
まぁ、てめェが大バカ野郎のおかげで命拾いしたんだけどよ」
 連絡もよこさなかったということは、八剣に手酷い怪我を負わされたのは事実なのだろう。
それについてはいずれたっぷりと問い詰めることにして、
今はいわれもなく自分達を狙う拳武館の人間に、きっちり礼をしておくべきだった。
 葵の『力』によって回復した壬生が、龍麻の、京一とは反対側に立つ。
京一が彼の制服を見て何か言いたそうにしたが、口には出さなかった。
「……もしそれが本当なら、お前の方こそ任務遂行の掟に反したことになるな、八剣」
 壬生の口調には辛辣さが戻っており、心身共に回復したことをうかがわせた。
「てめェら……てめェらァッッ!! ブッ殺す……皆殺しにしてやるッッ!!」
 任務に失敗しつつあり、今や自分が局中法度に反する立場となった八剣は、
すっかり逆上して手下達に攻撃を命じた。
 闇の中から、十数人ほどの拳武館の制服を着た男達が、一斉に襲いかかってくる。
葵と小蒔、それに亜里沙を庇うように半円陣を作った龍麻達四人は、それぞれ氣を練り始めた。



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