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 文京区は大聖山だいせいざん南谷寺なんこくじ
江戸五色不動のひとつ、目赤不動が奉られている名刹を龍麻達は訪れていた。
目的はもちろん、鬼道衆が奪った、本来不動が守護すべき摩尼まにを再び奉納する為だ。
「これが祠なんだ」
 初めて摩尼を安置する祠を目の当たりにした小蒔は、物珍しげに横から覗きこんだりしていた。
それを押しのけ、もう三度にわたって封印を行い、
作業自体には何の興味も持っていない京一が扉を開ける。
「ね、ボクにやらせてよ」
 龍麻が摩尼を取り出すと、顔を好奇心で一杯にした小蒔が頼んできた。
珠を置くだけなのだから、何が楽しいのか判らないのだが、
別に誰が置いても封印は出来るはずなので、龍麻は素直に摩尼を渡した。
「エヘヘ、ありがと」
 大事に受け取った小蒔は、そのまま丁寧に赤色の布団の上に宝珠を置いた。
龍麻達にとっては拍子抜けすることしきりだった封印も、
小蒔はそうでもなかったらしく、輝きが失せた摩尼に向かって拝んだりなどしている。
 やがて満足した小蒔が扉を閉め、龍麻達の方に向き直ると、
京一が肩に担いだ木刀の先端を揺らしながら言った。
「これで残りはあと一つだな」
「ああ」
 友人の重い返事に、京一は別の友人に向けて肩をすくめてみせた。
「なんだよシケたつらしやがって。
あとは雷角の野郎から手に入れた黄色の珠ヤツを目黄不動に納めりゃ全て解決……そうだろ?」
「だといいんだがな」
 醍醐の返事は変わらず、重く短い。
彼のみならず、龍麻や葵までもが似たような表情をしていて、京一は殊更に声を張り上げた。
「相変わらず心配性だな。龍山ジジイが言ってたじゃねェか。
鬼道衆をたおして珠を封印すりゃいいってよ」
「ほんっとお気楽だね。まだ鬼道衆は全滅したワケじゃないし、
九角ってヤツがまだいるだろッ」
 小蒔に痛いところを突かれて黙ってしまった京一に、醍醐は気を取りなおすように首を振った。
「まぁ、今はとにかく俺達に出来ることをやっていこう。
差し当たっては京一の言う通り、最後の珠を目黄不動に納めないとな」
 出来れば今日中に目黄不動にも行ってしまいところではあるが、
もう秋も本格的な時期に入りつつあるこの季節は、つるべ落としとは良く言ったもので、
夕方があっという間に夜になってしまう。
今から江戸川区まで行くのは、諦めた方が良さそうだった。
「面倒くせぇな、江戸川まで行くのかよ。俺の青春が……」
 このところすっかり青春おねーちゃんから縁遠くなっている京一がぼやく。
遠くなったとは言ってももともとが遠く、
それがもっと遠くなっただけの話だから同情する人間は誰もいなかった。
「んじゃ、今日は帰ろうか」
 軽くのびをして言った小蒔に、龍麻達は頷いて駅へと歩き始めた。

 新宿駅に着いたのは、ちょうど会社帰りのサラリーマンが増え始める時間であり、
龍麻達はどうにか話が出来る場所に辿りつくまでに散々人の波に揉まれなければならなかった。
 頭髪を乱れさせた京一が、自分より酷い頭の龍麻に話しかける。
「明日は江戸川か……そういや江戸川つったらあの外人、なんだっけ、ほれ、HAHAHAって笑う奴」
「アランか」
「そう、そいつだ。あいつどうしてんだろうな。龍麻、なんか知ってるか」
「いや」
 龍麻の返事がそっけないのは、何も今でも彼が嫌いなのではなく、
あの日──アラン蔵人クロードと初めて会い、そして蚊に刺された日──以後彼からの連絡はなく、
実際に何も知らなかったからだ。
答えてから龍麻はもしや、と思って葵を見たが、もちろん彼女も何も知らないようで、
龍麻は小さく胸を撫でおろした。
 京一も訊ねたはいいものの、悶絶するほど苦しんだ痒みを思い出したのか、
眉をしかめただけでそれ以上話題を広げようとはしなかった。
「アランクンか……うるさかったけど、結構面白かったよね」
「けッ、言ってやがれ。俺達ゃアイツのせいでひでェ目に遭ったんだ」
「そういえば、なんか喧嘩してたよね最後。誰が勝ったの?」
 うっかり好奇心が服を着て歩いているだけの少女である、
小蒔の関心を惹いてしまった京一はつまらなそうにそっぽを向いた。
答えない京一に、頬をぷっくりと膨らませた小蒔は、他の当事者にあたる。
「ね、ね、教えてよ。京一じゃないと思うんだけど」
 もし京一が勝ってたら、絶対自慢するはずだから。
本人が黙っているのをいいことに、小蒔はひどいことを言う。
しかし龍麻のこの時の心境は京一に近く、
鏡を見る気をなくすほど蚊に食われた記憶など思い出したくもないので、
隣の巨漢に答えるのを任せた。
 龍麻に軽く腕をはたかれた醍醐は返答に窮する。
小蒔の質問には出来る限り答えてやりたいと考えている彼だったが、
この問いに答えるのはかなりの難題だった。
「う、うむ……まあ、誰が勝ったか負けたかなんてどうでもいいことじゃないか。
大体喧嘩など、決して褒められるものじゃないからな」
 元から嘘をついたり適当にごまかせるようには出来ていない醍醐は、
散々もったいぶった挙句そんな風にしか言えなかった。
「それより、そんな話は止めにして飯でも食ってくか」
「うーん……なんかごまかされてる気がするけど、まぁいいや」
 ほとんどの場合に天秤が傾く、食という名の重りを持っている小蒔は、
龍麻が思わず額を抑えるほど下手な醍醐の韜晦とうかいにも簡単に引っかかり、
期待に満ちた眼差しで龍麻を見る。
一人暮らしで断る理由もない龍麻がそれに続こうとすると、その前に葵が申し訳なさそうに言った。
「あの、ごめんなさい、私……今日は家族と一緒に外でご飯食べる約束なの」
「そっか……」
 約束があるなら仕方ない。
残念さを声に出さないように気をつけて言った小蒔は、葵の顔色がすぐれないのに気付いた。
「ね、葵。なんかあったの? なんだか元気ないよ」
「え? ……ううん、大丈夫。それじゃ、私もう行くわね」
 葵はなんでもないと示すように小さく笑ったが、その横顔は夜の街灯りのせいか、
ひどく弱々しく見えた。
中途半端に肩の高さまで手を挙げ、振ろうとした小蒔は、名案を思いついて龍麻に眼差しを向けた。
「あ、うん、バイバイ……そうだひーちゃん、葵送ってってあげなよ」
「あ、う、うん、そうだね、送ってくよ美里さん」
「ありがとう」
 何故か手をズボンで拭く龍麻は見なかったことにして、小蒔は邪魔者である自分達を退場させる。
「じゃ、ボク達はご飯食べに行こ」
「そうだな。それじゃな、緋勇」
「んじゃな、龍麻。送り狼になるんじゃねェぞ」
 余計な一言を言う京一の尻を蹴飛ばして、小蒔は頭の中で何を食べるか、と、
明日ひーちゃんを何て言ってからかおうかという、全く別の二つのことを器用に考えながら歩き始めた。
 賑やかに去っていく三人を見送ってから、龍麻は葵を促して彼らとは反対方向に歩きだす。
龍麻の期待に反して葵はずっと黙したままだったが、人通りの少ない道に入るとぽつりと口を開いた。
「私って、駄目ね……皆に迷惑かけてばかりで。いつも皆に護られて……」
「俺は美里さんと一緒にいて、迷惑なんて感じたこと一度もないよ。
桜井さんだってそう思ってるはずだし、京一や醍醐だって同じだと思う」
 やはり体調が良くないのだろうか、随分と弱気なことを言う葵を、龍麻は励まさねばならない。
 しかし、龍麻が語ったのは紛れもなく本心だったが、本心の全てを語った訳ではなかった。
彼女と共に在り、彼女が傍にいてくれるだけでどれほど心が湧き立つか。
彼女の笑顔が、どれほど疲弊した身体を癒してくれるか。
それらの、ありのままの気持ちを話せたなら良かったのだろうが、今はまだ、勇気が足りなかった。
 それでも一応は伝わったらしく、葵は小さく頷いてくれた。
「緋勇くんは……いつもそうやって私を励ましてくれるのね」
 当たり前じゃないか、と言おうとした龍麻は、
こちらを見る葵の瞳に浮かぶ大きな想いのうねりに、思わず視線を背けていた。
彼女を、自分が抱いている、極めて個人的な情などで染めてしまって良いのか、
というおそれがそうさせてしまったのだ。
 目を逸らす龍麻に、悲しげにまつげを伏せる。
叶わぬ願いだと解っていても、このとき葵は龍麻に抱擁されたいと望んでいた。
そうすれば、彼の温もりはきっと心に巣くうかげを払ってくれただろうから。
しかし龍麻は恥ずかしそうに目を逸らし、葵は彼のひかりに照らされる、
自分の陰と一人で向き合わねばならない。
「緋勇くんには誰かを救う『力』がある。
それはきっと多くの人を……この東京まちを救うだけの『力』。私、そんな気がするの」
 何と答えて良いか解らず、龍麻は口を開けない。
こんな時にこそ想いが伝えられなければ、誰かやこの街など救う『力』があった所で意味がないのに。
彼女に見えないよう拳を握り締め、爪を食い込ませて己を叱咤したが、
どうしても今かけるべき適切な言葉は生まれてこなかった。
「私……もっとつよくなりたい」
 勁くなんかなくても、俺が護る──想いが伝えられないならせめてそう言ってやりたかったが、
臆病な口は所有者の意思に従ってくれなかった。
 そして足までが、意思を裏切る。
臆病な自分を身体が叱咤したのかと思った龍麻だったが、そうではなかった。
幾つかの、抑えている気配が前方にあったのだ。
「どうしたの?」
 疑問を投げかける葵に答える前に、鬼の面を被り、時代錯誤な装束を着た集団が現れた。
「緋勇龍麻と美里葵。相違ないな」
 人数は五人。
何者であるかは、訊ねるまでもなかった。
五人は全く同じ動きで腰を落とし、武器を構える。
龍麻が葵の前に出ながら制服のボタンを外すと、先頭の人物が静かに告げた。
「その命……我ら鬼道衆が貰い受ける」
 宣告が夜風に消える寸前、龍麻は素早く踏み込んで最初の一打を鬼道衆の一員に撃ちこんでいた。
 卑怯だとは思わない。
生死を問う闘いに卑怯などという言葉は必要ないものであるし、
そもそも葵を護る為なら、どんな手段でも卑怯だとは思わなかった。
 さっき言えなかった言葉を態度で示すように、龍麻は闘う。
もう両手の指では足りないくらい闘いをこなしてきた龍麻には、
葵を庇いながら闘う程度のことは負担にもならなかった。
遠くから氣を当て、その隙に間合いを詰めて必殺の一撃を叩きこむ。
長いとも言えない時間で、龍麻は襲いかかってきた五人の鬼道衆をたおしていた。
「緋勇くん……大丈夫?」
 実際よりも数割ほど余裕を上乗せして龍麻は笑ってみせる。
それを見た葵も口許を綻ばせ、龍麻が極上の褒美を受け取ろうとした時、
甲高い悲鳴がそれを邪魔した。
「けッ、喧嘩よッ!」
「誰か警察を呼べッ!」
 正しくはあるが全く余計なことをしてくれる彼らに龍麻が舌打ちを堪えていると、
手が柔らかな感触に包み込まれた。
「行きましょう、緋勇くん」
 頷いた龍麻は彼女の手を握り返し、声と逆の方向に走り出す。
掌に感じる温もりは、笑顔に勝るとも劣らない褒美だった。
 幾つかの角を曲がり、誰も追ってこないことを確かめると、二人は走るのを止めた。
当然繋いでいた手も離れてしまうが、これは仕方ない。
息を整えながらゆっくりと歩きだすと、葵が怯えたように言った。
「こんな街中で襲ってくるなんて……」
 確かに鬼道衆がこれほど直接自分達を狙ってきたのは初めてのことだ。
頷いた龍麻は、その理由を考える。
さほどの時間も要さず、結論は導かれた。
 鬼道衆やつらは焦っている。
鬼道五人衆を名乗る、恐らく今闘った奴らのリーダー格に当たる五人は全て斃した。
恐らく残りは昼間京一達と話したように鬼道衆の首魁である九角という人物と、
格が落ちる手下達だけで、となれば、これまでのように策を弄する余裕もなく、
こうして自分達を狙うしかなくなった、という訳だろう。
そしてその認識は、龍麻の背筋に冷たい汗を滴らせることになった。
 自分がいない時に葵が襲われたら。
今でさえ、もし小蒔が勧めてくれなかったら、葵を送っていったかどうかも怪しいのだ。
龍麻は最悪の想像をしかけて、慌ててそれを追い出した。
闘いで火照った身体も一気に冷め、身震いさえしそうになる。
「その角を曲がれば、もう待ち合わせの場所だから」
 そう言って手を振り、去っていった葵に半ば無意識に手を振った龍麻は、
その肌寒さを秋風のせいだと思いこもうとしたのだった。

 学校に着いた時には、龍麻はもうそれを押し殺していた。
教室に入って小蒔が挨拶をしてきた時には、完全に普段と変わらぬ態度になっている。
「おはよッ」
「おはよう、桜井さん」
 まだ教室に生徒は十人も来ていなかったが、
龍麻の前の席に座った小蒔は声を潜めて話しかけてきた。
「昨日葵から電話かかってきたんだけど、ひーちゃん達も襲われたんだって?」
って……桜井さん達も?」
 それは昨日、自分達が襲われた時にある程度は予想できていたことだったから、
龍麻は大声で驚いたりはしなかった。
教科書を机にしまう動作を、一瞬止めただけで会話を続ける。
「うん。ボク達の方はほら、京一と醍醐クンだからなんともなかったんだけど、
そっちはひーちゃん一人だったから……怪我とかなかった?」
「大丈夫。……でも」
「うん、あんな風にいきなり襲ってくるなんて今までなかったよね」
 龍麻は頷き、昨日あった出来事を思い出して朝から憂鬱な気分になった。
それを小蒔に伝える気にはなれず、表情を消して頷くに留めると、
いつのまに来ていたのか、京一が小蒔の背後から呆れ顔で言った。
「呑気なヤツだな」
「あ、京一……何が呑気なのさ」
 頬を膨らませる小蒔に、京一は肩をすくめて答える。
「あの後よ、家に帰るまでに二回、襲ってきやがった」
「え……?」
「家に着いてからもしばらく辺りを彷徨うろついてやがった。
下手に気を抜くと、寝首を掻かれちまいそうだ」
 龍麻は襲われてはおらず、京一の方がより事態は悪いようだった。
ただ、明らかな人の気配は葵と別れてからもずっとつきまとい、
家に帰ってもそれは消えなかった。
早くに電気を消し、闇の中でしばらく様子をうかがってみたが、
どうやらこれ以上の人的損耗は避けるつもりらしく、何もしてこなかったので肚を決めて寝たのだ。
「うそ……全然気がつかなかったよ」
 気味悪そうに両肩を抱く小蒔を、登校してきた醍醐が慰めた。
「無理もないさ。奴ら、相当巧妙に気配を消している。
姿は見えんが、俺も昨日からけられているようだ」
「ちっとばかし厄介だな……なりふり構わずに来られると、こっちも防ぎようがなくなる」
 特に自分達は良いが、小蒔と美里に関しては。
言外にそう言った京一に、龍麻と醍醐は大きく頷いていた。
 葵が教室に入ってきたのは、もう級友達が七割ほどは来てからだった。
普段は一番最初に来ることも珍しくない彼女が遅れたのは、一目見ればその訳は明らかだった。
「葵……顔色悪いよ」
「ええ……ちょっと調子が悪くて。でも薬は飲んできたし、
今日は目黄不動に行くんですもの、休んでいられないわ」
 気遣う小蒔に葵は微笑む。
しかし、平気だということを伝えようとしているその笑みは、
かえって具合の悪さを浮き上がらせてしまっていた。
 不動は俺達だけで行くから、無理せずに今日は──
そう言おうとして、龍麻は言えなくなった。
一人だけ別行動を取らせるよりは、一緒にいた方が危険が少ないことに気付いたのだ。
小蒔もそれに思い至ったのか、彼女を止めようとはしない。
「ま、学校このなかにいりゃひとまず安心だろ。後は休み時間にでも話そうぜ」
 今のところは京一の言う通りにするしかないようだった。
丁度始業のチャイムも鳴ったので、皆自分の席に戻っていく。
龍麻も戻ろうとすると、葵に呼びとめられた。
「緋勇くん……後でちょっと聞いて欲しいことがあるんだけど、いいかしら」
「え? もちろん」
 龍麻が当然とばかりに首を振ると、葵は安心したように微笑んだ。
いつもと同じ、動悸を早めるその笑顔に、龍麻はどこか違和感を感じたが、
それを確かめようとする前にマリアが入ってきてしまい、慌てて席に戻らねばならなかった。



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