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一時限目は英語であり、朝のHRからそのままマリアが教室にいた。
葵の容態が気になる龍麻だったが、今の席は彼女より前にあり、振り返らなければ見ることが出来ない。
授業中にそんな動作も出来ず、そうなると余計に気になってしまい、
ほとんど何も手につかないうちに授業は終わってしまっていた。
しかし、終わったからと言ってすぐに彼女を見る訳にもいかない。
そんな不自然なことをすれば級友達の好奇を買ってしまうのは明らかであり、
自分はともかく彼女をそんな視線に晒す訳にはいかなかった。
もう少し、教室の中がざわつき始めてから──自分勝手に苛立ちながら、
その時を待つ龍麻の耳に、マリアの声が入ってくる。
「──それでは、今日はここまでにしましょう。
委員長はノートを集めて職員室まで持ってきて──美里サン?」
「は、はい、すみません」
「顔色が悪いわね……副委員長、美里サンの代わりにノートを集めてきて」
「あの、先生、私大丈夫です」
「美里サン──アナタは保健室に行きなさい。いいですね」
マリアの口調は、優しいながらも有無を言わせないものだった。
ようやく葵の所に行っても気にされないくらいに騒がしくなった教室に、
龍麻が立ちあがりながら振りかえると、もう小蒔が彼女の傍にいた。
「やっぱり調子が悪いんじゃないか。ボクがついてってあげるから保健室行こ」
「ごめんなさい」
「ほらひーちゃん、ボケッとしてないで手伝ってよ」
手伝う、と言われても彼女を抱きかかえていける訳ではなし──
以前、春に葵が倒れた時は、無我夢中で一度そうしたことがあったが、
その後の冷やかしの嵐と、それに倍する敵意に晒された龍麻としては、
なるべくその手は使いたくなかった。
特に今回は、まだ葵も自力で歩けるようであるから。
しかし小蒔は、ぼけっと突っ立つ龍麻の背中を強引に押して保健室に連れていく。
誰が病人だか解らないありさまで、三人は保健室へと向かった。
「……っと、せんせーいないね。ま、いいや、とりあえず葵、ベッド使いなよ」
「ええ……本当にごめんなさい、二人とも」
「余計な気なんて使わなくていいって。んじゃボクは教室に戻るけど」
そこで言葉を切った小蒔は、龍麻に一緒に戻るかどうか訊きもせず扉を開けた。
廊下に一歩踏み出し、半分ほど扉を閉めてから顔だけを保健室に突っ込む。
「じゃね、また後で」
扉が閉まり、沈黙が訪れる。
龍麻が葵の方に向き直ると、彼女はベッドに身を横たえたところだった。
白い布団から顔だけを覗かせている彼女は、龍麻の心に様々な波紋を生み出す。
節操のない自分の心を叱りつけて葵を見ると、
彼女は睫(をわずかに伏せて眼差しを重ねてきた。
「私ね、最近不思議な夢を見るの。昔の……着物を着た女の人や、武士のような人が出てきて、
断片的にだけれど、とても懐かしい感じがする夢」
葵の話は唐突に過ぎ、龍麻もどう答えて良いか判らなかった。
しかし彼女は本気であるようで、半ば唄うように続ける。
「目が覚めて思い出そうとすると、胸が締め付けられて、涙が止まらないの。
どうしてかは解らないけれど、でも、確かに私はその光景を知っている。
ただ──それを思い出したら、私は皆とは一緒にはいられない気がするの」
夢は夢であり、現実とは結びつかない。
健康な男子高校生である龍麻はそもそもあまり夢を見た覚えがなく、
突然葵が言い出した夢の話も、いかにも女の子らしいとは思っても、
それ自体に意味などないと思っていた。
もし意味があるとするなら、彼女の具合の悪さを間接的に告げている──
むしろそちらの方が心配になり、龍麻はその不安を表情に出した。
それを見た葵の顔が曇る。
どうやら話を信じてもらえていないと思ったようで、
それは間違いではないのだが、龍麻はますます彼女の体調が気になった。
しかし、滑らかな額に浮かんだ皺もすぐに消え、葵は疲れたように目を閉じる。
「少し休めば良くなると思うから、緋勇くんも教室に戻って」
なんとなく後味の悪さを抱きつつも、龍麻は保健室を後にするしかなかった。
胸中に生じた小さなしこりを、龍麻がもう少し気に留めていれば、
あるいは後に続く悲劇は避けられたのかもしれない。
しかし、龍麻は異性とつき合ったことさえない十八歳の少年であり、女性の気持ちなど理解出来ない。
ましてや葵の持つ宿命の重さになど気付けるはずもなく、
自らが閉ざした保健室の扉を幾度か振り返りつつ、教室に戻るしかないのだった。
全ての授業が終わり、教室が賑やかになる。
目黄不動に行く為に手早く教科書を鞄に詰め込んだ龍麻の所に、京一と醍醐がやってきた。
「結局、美里は戻ってこなかったな」
「美里(は真面目過ぎるからな、たまには休みになっていいんじゃねェか」
「そうだな……ローゼンクロイツ学院での実験の後遺症でなければいいが」
シリンダーに囚われていた葵を思いだしたのか、龍麻の眉が曇る。
それを見た醍醐は、己の思慮の浅さを悔やみつつ謝った。
「すまん、不安にさせるつもりはなかった。
……だが、一度桜ヶ丘中央病院で診てもらった方がいいかもしれんな」
その意見には龍麻も同意だったが、結局は葵が決めることだ。
それに、葵はあの忌まわしい一日のことを忘れたがっているかもしれない。
自分が口を出して彼女の気分を損ねるのは嫌だと、この時の龍麻はややらしくなくそう考え、
賛意も否定もせずにただ首を振った。
そこに、友人に呼ばれて話をしていた小蒔がやってくる。
「今日はどうするの? 葵も戻ってこないし、不動に行くのは止めにする?」
どっちでもいいよ──彼女はそう結んだが、針はどちらかというと今日は止めにしようよ、
という方に振れているように感じられた。
それが葵を気遣ってのものだというのは明らかだったので、
醍醐も己の意見を通すのは心苦しかったが、予定は延ばせなかった。
「いや、俺達だけで行こう。鬼道衆の動きが気になる」
「あァ、いつまでも摩尼(を持ってると狙ってこねェとも限らねェしな」
しかし、葵を一人置いていけば昨日の危惧が現実のものとなりかねない。
そう考えた龍麻が、早くも鞄を持って歩き出す京一達に向かって、
自分は残る旨を告げようと手を挙げると、それに呼応するかのように教室の扉が開いた。
「待って、皆」
入ってきたのは誰あろう葵だった。
悪意があって置いていこうとしたのではないものの、
ばつの悪さを隠しきれない龍麻達は、取り繕うように彼女に話しかけた。
「もう起きても……平気なの?」
「ええ、大丈夫。だから、私も連れていって」
葵はそう言ったものの、まだ本調子ではないようだった。
顔にいつもの血色はなく、春日を思わせる穏やかな眉目に雨の気配が漂っている。
彼女の願いは、とても二つ返事で頷けるものではなかった。
「でも、まだ無理しない方が」
「お願い、私も見届けたいの。今まで私達がやってきたことの意味を」
いつになく強い調子でそう答えた葵を、龍麻はこれ以上説得出来なかった。
困って京一を見ると、取り越し苦労に同情するように肩を叩かれる。
「本人が行きてェって言ってんだ、俺は反対しねェぜ」
「そうだな……その方がいいかもしれん。だが、具合が悪くなったらいつでも言ってくれ。
俺達に変な気を使う必要はないからな」
「ええ、ありがとう」
あえて龍麻にではなく、京一と醍醐に向かって礼を述べた葵は、
龍麻の方を見ないようにして自分の鞄を取りに行った。
顔を見られれば、頭の中で奏でられている疼きに気づかれてしまうと思ったからだ。
それは大きさこそ小さいものの芯に響いており、他人の話し声でさえ不快に感じる。
しかし、何か──もしかしたら、その疼き──が、摩尼の封印を見届けよと命じていて、
葵は奥歯を噛み、表情を面に出さないようにして龍麻達の所に戻った。
「よし、それじゃ行くとすっか。最後の不動へよ──」
京一の声が、葵にはやけに苛立たしく感じられた。
最後の不動──目黄不動は、江戸川区にある牛宝山(最勝寺(に奉られている。
さすがに緊張しているのか、五人の中でも特に賑やかな京一と小蒔も駅を出てからずっと黙している。
もちろん龍麻達も同様で、五人は彼ららしくない重苦しい雰囲気の中最勝寺の門前に立った。
「いよいよ最後だね」
小蒔の声は緊張を帯びている。
それに答える京一の声も、いつになく真剣味を含んでいた。
「早いとこ祠を探そうぜ。美里と小蒔はここで待ってろよ、俺達で探してくるからよ。行こうぜ、醍醐」
京一は醍醐を伴い、寺の中へと入っていく。
無言で託された役割を理解した龍麻は、彼女達を護るように立った。
「鬼道衆……どっかでボク達のコト見てるのかな」
「どうかな」
龍麻は既に、幾つかの気配を感じ取っている。
最初からいると意識していなければ判らないほど巧妙に隠されていたが、
確かに鬼道衆はどこかから自分達を見ていた。
京一と醍醐もそれに気付いたからこそ、先に中に入ったのだ。
むやみに緊張させてもいけないと考え、龍麻はあいまいに答えたが、
小蒔もおぼろ気ながら感じているようで、その表情は硬い。
その隣に立つ葵に至っては、元より良くなかった顔色が蒼白になってしまっていて、
今にも倒れそうなほどだった。
あまり気遣うとかえって気分を害してしまうことがあると知りつつも、
龍麻はためらいを振りきって口を開きかける。
その直前、中から京一が呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーい、見つけたぜ」
「あ、うんッ、今行くッ」
小蒔が応えて手を挙げると、葵が一人で入っていく。
虚を突かれた二人は、慌てて後を追いかけた。
祠の前に五人が揃う。
これまで全く興味がなさそうだった京一も、
さすがに最後の一つとなると思うところがあるのか、緊張した面持ちで祠を見ていた。
それは龍麻も同じで、全てを封印し終えた時はこれまでとは違う何かが起こるのではないかと、
慎重に珠を置いた。
しかし、摩尼が発していた光が消えても、他の四箇所の封印と同じく、祠に変化は見られなかった。
祠には。
学校からこの場所に来るにつれて強くなっていた疼きは、祠の前に立つに至って頭全体を苛んでいた。
それが人の声であると知った葵は、摩尼のことも、龍麻のことも脳裏から消し去り、
明瞭さを増す疼きを聞き取ろうと意識を飛ばす。
ただのガラス玉と化した眼が、祠の中に置かれる摩尼の色が消えるのを映した瞬間、
その声はいきなり音の洪水となって頭の中に氾濫した。
目醒めよ──
目醒めよ、菩薩眼の娘──
そして戻れ、我が元へ──
龍麻の背後で、人が倒れる音がする。
「葵ッ!」
それに重なる小蒔の叫び。
龍麻は祠に集中していた為に、摩尼の光が消えた瞬間、
葵が糸が切れたように倒れるのを察知することが出来なかった。
「美里さんっ!!」
慌てて抱き起こし、軽く揺さぶってみるが反応はない。
気を失っている彼女に負けぬくらい顔を蒼ざめさせた龍麻は、摩尼のことなど瞬時に忘れ、
葵を抱き上げ、診てくれる場所へと走り出した。
声が弱くなっていく。
意識が戻ったから声が弱くなったのか、その逆なのかは葵には判らなかった。
瞼(を開けると、心配そうな小蒔の顔が飛びこんでくる。
「こま……き……?」
「良かった……」
目許を拭う彼女に助けられ、葵は身体を起こした。
「ここ……私……一体……」
「ここは桜ヶ丘中央病院。目黄不動で摩尼を封印したら、いきなり倒れちゃったんだよ」
小蒔の説明に小さく頷きながら、さりげなく龍麻を見る。
心配と安堵を同居させた彼の表情は葵を安心させたが、同時に、
また負担になってしまったという負い目ものしかかってきた。
小蒔に対しては彼ほどには感じないのは、小蒔が同性の親友だからだろうか。
それとも、龍麻が自分にとって──
混濁した意識の中で、そんなことを考え始める葵に、甲高い声が聞こえてくる。
「突然みんなで来るんだもん、ビックリしちゃったァ〜」
「高見沢さん……」
「えへへッ、お久しぶりィ〜。でも、意識が戻って良かったねェ〜」
春に知り合った、ここで働きながら看護学校に通っている高見沢舞子の笑顔は、
人を安心させる柔らかさに満ちている。
それが意識してではない、自然の笑顔なのが彼女の素質なのだろう。
彼女も、人を救う『力』を持っている。
それも、恐らく自分よりも有意義な。
彼女の笑顔に気分を落ち着けながら、龍麻に対して程ではない小さな劣等感をも抱いて葵は訊ねた。
「私……どれくらい眠っていたの」
「んっと……五時間くらいかな〜」
それまで、皆はずっと付き添っていてくれたということか。
葵は申し訳ない気持ちで一杯になってしまった。
「ごめんなさい、結局皆に迷惑をかけてしまって」
「水臭いことを言うな。仲間を思いやるのは当然だろう」
「そうそう。摩尼は封印できたんだしよ、龍麻なんてここまで背負」
京一を黙らせた龍麻が、はにかんでみせる。
彼はここまで自分を運んできたことを重荷に思っていないようだが、
その事実は葵の心に新たな染みを作った。
胸のうちは押し隠して、葵がとにかく龍麻に礼を言おうとすると、病室の扉が開く。
入ってきたのは、ここの院長である岩山たか子だった。
「どうやら気が付いたようだな」
眠たげな眼を葵に向け、たか子は患者の容態を確かめる。
診察ではただの疲労だったが、春先から次々と問題を持ちこんでくる彼らに関する限り油断は出来ない。
国内における霊的治療の第一人者という裏の肩書きを持つ彼女は、表向きは至って冷たく訊ねた。
「どうだ、具合は」
「はい、もう大丈夫です」
たか子は葵の優等生的な返事を鵜呑みにすることなく氣を見る。
多少は弱まっているものの、今は安定しているようだった。
「ふむ……確かに、大分良くはなったようだな。
こいつらに話を聞いたが、ローゼンクロイツ学院とやらに攫われた時の、
実験の後遺症が残っているのかもしれんな。
桜ヶ丘(で治療を続けているマリィ──お前の妹だったか、
あの娘(も薬物投与の後遺症から回復するのにはまだ時間がかかるからな」
先日葵に伴われて病院を訪れた外国人の少女を見た時、たか子は驚きを隠せなかった。
まだ十歳前後にしか見えない少女は、激しい薬物によって成長が抑制されており、
本当は十六歳だというのだ。
彼女が持つ火走り(という『力』は、
成長するとその能力が消えてしまうらしく、それを維持する為に飲まされていたのだという。
その手の薬品事情にも通じているたか子だったが、
マリィに薬を飲ませたジルという男は薬学の知識もあったらしく、
彼が独自に調合したと思われる薬の成分を割り出すにはかなりの時間が必要と思われた。
「家の者には連絡しておいてやるから、今日はここに泊まっていけ」
「でも」
「医者の言うことは素直に聞くもんだ」
ベッドから降りようとする葵を制止し、たか子は狭い病室に五人もいる人間を鈍い眼光で睨みつけた。
舞子は病院の関係者なのだが、ひとまとめにされてしまっている。
もっとも彼女はたか子の眼光に、
いつなんどきでも臆するところのない貴重な才能を持っているから気にした様子はなかった。
「お前らはさっさと帰れ。大人数でいつまでもいられたら他の患者の迷惑だし、
だいいち産婦人科に男がいたら客が来ん。ただし」
「ただし?」
思わず訊き返した龍麻達に、たか子はこの世のものとも思えない笑みを浮かべた。
「ただし、なんならお前達は泊まっていってもいいんだぞ。わしも夜の相手が欲しいところだからな」
「いッ、いえ、帰ります。すぐ帰りますッ。お邪魔しましたッ!」
この世のものとも思えない笑みに、地獄の釜が煮えたぎっているような笑い声が化合して、
龍麻達は一瞬で肝を凍らされ、我先にと飛び出した。
脱兎よりも素早く部屋から逃げ出した龍麻達に、呆れて首を振った小蒔は、自分も立ちあがる。
「それじゃ葵、ボク達は行くね」
「ええ……今日は本当にごめんなさい」
「また明日来るからさ」
たか子も去り、部屋に一人残された葵は、再び横になった。
どういう訳かひどく気だるく、五時間も眠っていたというのにすぐにまた眠くなってしまい、
欲求に屈して目を閉じた。
それを待っていたかのように、頭の中に声が響き、再び往古(の光景が蘇る。
思い出してしまったら、龍麻達と一緒にいられない──
そう拒む心は、脳裏の声に圧されて小さくなっていく。
目醒めよ──
目醒めよ、菩薩眼の娘──
そして戻れ、我が元へ──
葵は甘美な誘惑に慄(きつつ、豊かな映像となって流れ込んでくる夢に自己を委ねた。
おい、聞いたか。いよいよ戦(になるらしいぞ──
ああ、ああ、何でも幕府が人を集めているって話じゃないか──
京から陰陽師も招かれているという話も聞いたぞ──
そうなればここも危うい、御屋形様はどうなさるおつもりなんだろう──
あんな女など捨ておけばいいものを──
姫、どうかお考えなおし下さい──
九角めの申し出を呑む必要など御座いませぬ──
ただ今幕府が武士(を募っております故、今しばらくの御辛抱を──
必ずや、九角めの首を取って御覧にいれます──
目醒めよ──
目醒めよ、菩薩眼の娘──
そして戻れ、我が元へ──
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