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目を醒ました葵は、自分が泣いていることにさえ気づかなかった。
他の感情が入りこむ余地を許さないほどの哀しみが、身体を満たしていた。
菩薩眼の女達が辿ってきた宿命。
それらのいずれも辛く、険しい歩みを、葵は全て知った。
新たな菩薩眼の女として。
流れる数多の血と涙が大河を生み、戦乱を呼ぶ。
幾つもの時代、幾つもの刻に渡って同じような光景が繰り広げられ、繰り返されていた。
その中心に、菩薩眼の女がいる。
彼女達に仕える男、奪おうとする男。
苦悶の叫びを上げ、顔を歪ませながら、そのどちらもが死んでいく。
自分を巡って。
菩薩眼の女を手に入れる為に。
夢だとは思えなかった。
彼女達の哀しみは、目が醒めた今でも心に深く刻まれているから。
葵の手の甲に、新たな涙が落ちる。
それは仲間達を想って流れた、別離の涙だった。
窓の外に、何者かの気配が生じる。
誰もいなくなった病室で、カーテンが小さく揺れた。
真神学園新聞部部長である、遠野杏子の朝は早い。
書かねばならない記事はいくらでもあるし、学校内で起こる事件(は、
どんな些細なことでも掴んでおきたいからだ。
この日も他の生徒が登校するよりも、まだ二十分以上も前の時間に学校への道を歩いていた杏子は、
前方に固まって歩いている集団を見つけて駆け寄った。
「おっはよーッ、今日も元気そうじゃない、皆の衆」
「おはよ、アン子」
「どうしたの? こんな朝早くから全員揃ってるなんて」
「うるせェな、あっちいってろ、しっ、しっ」
露骨に嫌そうな顔をする京一を視界から消し去って、杏子は好奇心の赴くままに訊ねた。
「で、何があったの。もしかして美里ちゃんのこと?」
「ううん、今朝病院へ寄った時には元気そうだったから、大丈夫だとは思うけど」
「じゃ何よ」
三人(はあまり言いたがらないようであったが、 杏子の勢いに押され、
遂に醍醐が腕を組みつつ言った。
「鬼道衆の奴らについて、少し気がかりなことがあってな」
「宝珠は五つとも封印したんでしょ? で、後残ってるのは九角って奴だけ。問題無いじゃない」
「それはそうだが、美里があの調子だからな。今仕掛けてこられるとこっちも身動きが取れん」
「それもそうね」
そこまで話したところで、杏子に視界から消し去られた京一が頬を抑えつつ起きあがった。
「っ痛(て……てめェら、何事もなかったように話を進めんじゃねェッ!」
「あら、いたの」
この時の杏子ときたら、瞳に刃を仕込んだような酷薄無残な態度で、
龍麻は同情せずにいられなかった。
と言って自分がその刃で切り刻まれてもたまらないので、視線を二人の間の微妙な位置に置く。
「ところでその九角って奴は何者なのかしらね。素性も居場所も、何にも判ってないんでしょ?」
「ああ……天野サンも調査してくれてるみたいだけど」
「天野さん? 誰よそれ」
杏子は鋭く小蒔に訊ねた。
とにかく自分の知らない単語が出てくると、杏子は闘犬のように食らいつく。
それが自分達を幾度も助けてくれた彼女の情報収集能力に繋がると判っていても、
朝からこうではうんざりもするというものだ。
「お前のボスみてェな人だよ」
「何よそれ。詳しく教えなさいよ」
杏子が訊くと、先ほどの恨みか、京一は嘲(るように拒絶した。
「ヘッ、やなこった」
「なんですってェ」
再び手を振り上げる彼女の攻撃範囲から、京一は素早く脱出して更に挑発した。
本格的な追撃態勢に入ろうとする杏子を何も言わず見送っていた龍麻を、背中から呼ぶ声がする。
「タツマ──!」
少し癖のある発音で龍麻を呼んだのは、ついこの間葵の家族の一員になった、マリィ・クレアだった。
龍麻も彼女が美里家の養女になるきっかけとなった事件に関わっており、
マリィもどういうわけか葵の次に龍麻に懐いている。
マリィは今はまだ養女となるための正式な手続きやら学校の編入やら
ローゼンクロイツ学院で投与されていた薬物の影響を調べるやらで忙しいらしく、
学校には通っていない。
だからこんな時間にここにいることは考えられないのだが、龍麻は軽く腰を落として彼女を出迎えた。
「マリィじゃないか、どうしたの」
「タスケテ、タツマ。アオイオ姉チャンガ」
息を切らせてそれだけを言うマリィに、目ざましく反応したのは小蒔だった。
「葵がどうかしたのッ!?」
「サッキ、病院ヘ行ッタノ。ソシタラ、アオイオ姉チャンガイナイノ」
「──!!」
「舞子オ姉チャンモ、イナクナッタノ知ラナイッテ。コレガベッドノ上ニ置イテアッタダケ」
マリィが差し出した一枚の手紙を、龍麻はひったくるようにして読んだ。
今までありがとう、さようなら──
手紙にはそれだけしか記されていなかった。
字は何度か見せてもらったことがあるノートと同じ筆跡で、間違いなく彼女のものだ。
足元が喪失するような感覚が、龍麻を襲う。
マリィの前であることも忘れ、空しく口を開き、
自分達に意味のない救いを求める龍麻を痛ましげに見やった醍醐は、
マリィ以外に一番最後に彼女に会った人物に手掛かりを求めた。
「桜井、朝会った時、美里に変わった様子はなかったか」
「う、うん……これといって」
小蒔の声も沈んでいる。
彼女は親友を自負しながら葵の失踪の兆しに気付けなかった自分を激しく責めており、
その悔悟に駆られる想いは龍麻以上のものだ。
しかし、そこで絶望に沈んでしまったりせず、すぐに立ち直り、
葵を探し出すという決意を心に宿すことが出来るのが彼女の勁さだった。
「オ願イ……アオイオ姉チャンヲ探シテ……」
「大丈夫だよ、マリィ。葵は絶対探し出すから。ね、ひーちゃん」
半べそをかいているマリィの頭を撫でた小蒔は、彼女と、
まだ震えている龍麻に向けて力強くそう言った。
彼女の言葉に勇気づけられた龍麻は、葵を探すべく身体の向きを変える。
「ああ、とりあえず桜ヶ丘に行ってみよう」
しかし、走り出した龍麻達の前方に、程なく鮮やかな金髪の女性が現れた。
「アナタ達──どこへ行くの」
「げッ、まずい……マリアせんせー」
「そっちは学校とは反対方向よ」
もちろんマリアは教師として生徒の集団不登校など見過ごせる訳がなく、
彼女の態度には少しの容赦もない。
仲間達の視線を受けた龍麻は、無駄な時間を浪費するのを避ける為に、簡潔に理由を述べた。
「美里さんを探しに行くんです」
「探しに……って、どういうことなの」
「昨日、具合が悪くなって一晩病院に泊まったんですけど、朝になったらいなくなったらしくて」
手短に、かつ要点を抑えた龍麻の説明と、殺気さえ感じさせる真剣な態度に、
マリアは腕を組んで考え込んだが、長い間のことではなかった。
「……今日は欠席扱いにしておきます。
その代わり美里さんを探し出したら、何時になってもいいからワタシに電話すること。いいですね」
「ありがとうございます、先生」
頭を下げるのもそこそこに走り出した龍麻達を、マリアはじっと見送る。
その蒼い瞳は、様々な彩(を乱反射していた。
桜ヶ丘中央病院まであと少しというところまで来た時、
龍麻達は道路の反対側からの声に呼びとめられた。
「あら、皆」
「絵莉ちゃんッ」
龍麻は声の主が誰か判っても、今は葵を探す方が先だと考え、止まる気はなかったのだが、
京一が立ち止まってしまった為に仕方なく絵莉と挨拶を交わした。
「学校はどうしたの? もしかして集団脱走(?」
絵莉の口調にはそれと判る冗談が含まれていたので、龍麻は苛立ちを隠せない。
普段なら彼女の冗談に最も応じられるのが龍麻なのだが、
骨格が剥き出しになった精神状態ではそれも無理というものだった。
龍麻の焦りを感じ取り、絵莉は態度を改める。
確かに彼女の方にも伝えなければならないことがあり、朝から無駄な会話をしている場合でもなかった。
「そうね──それじゃ、伝えたいことがあるんだけど」
絵莉が鞄から手帳を取り出し、ページをめくっている間に、
龍麻の後ろで杏子が小蒔の袖を引っ張った。
「ちょっと桜井ちゃん、この人誰よ」
「そっか、アン子は初対面だったっけ。このヒトがさっき京一が言ってた天野さん」
自分の名前が出たのを耳ざとく聞きつけた絵莉は、
小蒔と同じ制服を着た初対面の少女に親しげに挨拶した。
「ルポライターの天野絵莉よ。よろしくね、記者の卵さん」
「え? どうしてあたしのことを知って──」
「あなたでしょ? 真神学園の新聞部部長って」
「そ、そうですけど」
格の違いと言うべきか、杏子が押されている。
こんな光景など滅多に見られるものではない京一達は面白そうに二人のやり取りを見守ったが、
杏子はそれにすら気づかないほど緊張していた。
「やっぱりね、なんとなく同じ匂いを感じたの。噂はこの子達から聞いてるわよ、遠野さん」
「ルポライターで……天野絵莉って……あの、まさか、犯罪心理のコラムを書かれている」
「あら、私の記事読んでくれてるの? 嬉しいわ、ありがとう」
物書きを志す者で、自分の記事を読んでいると言われて喜ばない人間はいない。
絵莉も例外ではなく、しかもまだ評判になりつつある、
といった所で確固たる地位を築いてはいない連載記事を読んでいると聞かされた彼女は、
杏子に嬉しそうに名刺を渡した。
それを見た京一が自分にも貰えないかとさりげなく手を出してみたが、
やはりさりげなく無視されてしまう。
それを更にさりげなく気づかないふりをして、京一は素早く話題を変えた。
「絵莉ちゃんっていろんなコトやってんだな」
「しがないルポライターですもの」
どうやら誰にも気づか(れずにすんだようだ、と京一が胸を撫で下ろしていると、
突然杏子が直立不動(の姿勢をとった。
大地から垂直に突き立ったかのような、指先までぴんと伸ばした姿勢だ。
「あッ、あのッ!! 初めまして、真神学園新聞部部長の遠野杏子ですッ!!」
朝の新宿に響き渡る大声で名乗る杏子に、絵莉は頷いたものの苦笑を隠せない。
杏子はそんな彼女にもお構いなしで、
今のところ最も尊敬する人物に会えた喜びを傍迷惑に表していた。
「ど、どうしましょ、本物よ、本物の天野さんに会えるなんて、感激だわッ!!」
「そ、そう、良かったね」
何故か小蒔の手を取ってぶんぶん振りまわす杏子に、小蒔もそう言うのがやっとだ。
彼女の興奮は見てて微笑ましくなるものだったが、
残念ながら本人以外には少しの感興も呼び覚まさなかった。
「おい、感激のご対面なら後でやってくれよ。俺達ゃ急ぐんだからよ」
うんざりしている様子の龍麻を見やって、京一が助け舟を出す。
幸いなことに、絵莉もすぐに乗ってくれた。
「急ぐって、どこかに行くの?」
「ええ、桜ヶ丘中央病院へ」
「桜ヶ丘中央病院(? 何かあったの?」
「葵が病院からいなくなったんです」
「葵ちゃんが?」
「行き先が全然判らなくて、とりあえず最後に会った桜ヶ丘に行ってみようと」
醍醐と小蒔に交互に事情を聞いた絵莉は、ようやく龍麻が苛立っていた理由を知ることが出来た。
そしてそれは驚くべきことに、まさに彼女が伝えようとしていた情報に関連するものだったのだ。
手帳をしまった絵莉は五人を見渡し、最後に龍麻の所で視線を固定させて言った。
「一緒に来てもらいたい所があるの。九角に関係する場所なんだけど」
「そんな暇は──」
「いいえ……もしかしたら葵ちゃんの手掛かりが掴めるかも知れないの」
九角と葵がどう関係があるのか、興味がない訳でもなかったが、
とにかく今は葵の身柄を確保することが最優先であるはずだ。
だから龍麻は相当に渋ったが、絵莉に強引に説き伏せられ、結局頷かざるを得なくなってしまった。
それでも慎重に、彼女の予想が外れた時のことも考え、保険をかけておくことにする。
「遠野さん」
「なッ、何」
「遠野さんには桜ヶ丘に行って欲しいんだ」
龍麻の口調には静かな中にも激流を孕(んだ、有無を言わせないものがあったが、
今の杏子にはそれでさえも抗わせるだけの理由があった。
「い……嫌よ、絶対嫌。せっかく天野さんとお知り合いになれたんですもの、
今日はついていかせてもらって取材のノウハウとか教えて貰うんだから」
彼女にとっては生き神に等しい存在が目の前にいるのだ、
その決意を翻させるのは容易なことではなかった。
……生き神様の託宣を除いては。
「遠野さん、お願い。頼めるのはあなたしかいないの」
生き神様にお願いとまで言われてしまって、杏子は頬を紅潮させる。
それでもなお即答は出来ないほど、絵莉の側で話を聞けるという機会は魅力的なものだったが、
遂に彼女は妥協点を見出した。
「……サイン」
「え?」
「サイン下さいッ! そしたら天野さんのこと諦められますッ!!」
図々しすぎる申し出に、絵莉は困って龍麻達の顔を見た。
しかし彼らは一様に肩をすくめたり天を仰いだりしていて、全く役に立たない。
「サインなんて……書いたことないわよ」
「いいんです、天野さんの直筆だったら、もうなんだっていいんですッ!」
目を爛々と輝かせて先程自分が渡した名刺を差し出す杏子に、
たじたじとなった絵莉は殴るように自分の名前を書き付けた。
もちろんこれは、彼女のサインの第一号になる。
「か……感激だわッ! これはもう家宝にしなきゃッ!!」
名刺の裏側に名前を書いてもらった杏子はそれを掲げ、
口付けをしてから大事に大事に財布の中にしまった。
「いいあんた達、天野さんの足引っ張ったらあたしが承知しないわよッ」
腰に手を当てて、物凄い剣幕で檄を飛ばす杏子に、微笑さえせずに頷いた龍麻は、
いつのまにかついてきていたマリィの高さまで腰を落とした。
「マリィもこのお姉ちゃんと一緒に桜ヶ丘(に行くんだ」
「イヤ」
「マリィ」
「イヤ。オ願イ、マリィモ連レテ行ッテ」
駄々をこねるマリィに、なんと言って説得したものか龍麻が考えていると、
彼女の頭の上で碧玉色(の瞳が輝く。
猫に怖れをなす龍麻ではないが、この時はメフィストの眼光に気圧されてしまったようだった。
「……しょうがないな、でもあんまり俺の傍から離れるなよ」
「ウンッ」
甘いと言いたげな仲間達の視線に気づかないふりをして、龍麻は絵莉に尋ねた。
「行きましょう。どこなんですか? 九角に関係ある場所っていうのは」
「世田谷区の等々力(渓谷よ。その地が九角と深い関わりを持っているわ」
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