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 等々力渓谷は、世田谷区という東京の都心にあって、まるで別世界のような静かさと緑に満ちた場所だ。
駅からすぐの渓谷入り口から降りていくと、澄んだ空気と鳥の鳴き声が迎えてくれる。
そして奥には、今でこそ見る影もないが、
その轟くさまが等々力の名の由来となったとも言われる不動の滝が涸れることなく流れ続けていた。
絵莉は更に奥へと案内しながら、龍麻達をここに連れてきた理由を説明する。
「九角家は、天下分け目の合戦として名高い関ヶ原の合戦より前から
徳川家の忠臣として栄えた名門だったわ。それが十五代将軍の頃、幕命にそむき、
謀反を企てたとして一族郎党皆殺しの上御家おいえは取り潰し。
その時九角家の長だったのが九角鬼修こづぬきしゅう
鬼修は鬼道と呼ばれる外法を用い、江戸壊滅を目論んだと言われているわ。
その為に地の底から鬼達を甦らせたとも言われている。
でも結局鬼修は幕府が集めた武士達の手にかかってその命を落としたのだけど、
その子孫は脈々と怨恨の血筋を繋げてきた。
幕府への──いえ、江戸の街に対しての恨みを募らせながら」
「それじゃ、俺達の相手は祖先の復讐の為に」
 それは以前、醍醐の師匠である新井龍山に聞いた話と一致するものだった。
百五十年にも渡る恨みつらみというのは到底龍麻達には理解出来ないが、
彼らが東京の壊滅を目論み、自分達を狙ってくる以上闘わざるを得ない。
それに、絵莉の口ぶりでは葵の失踪の原因にも彼らが関わっているようで、
どちらにせよ許すことは出来そうになかった。
「おそらくはね。……後、判っているのは相手があなた達と同じ高校三年生だということ」
「それ……本当ですか!?」
 付け加えられた新たな情報に、龍麻達は一斉に驚き、絵莉の顔を見た。
絵莉は冗談の一片も浮かべずに頷き、集めた情報を提供する。
「世田谷にある私立龍州りゅうずの宮高校三年、九角こづぬ 天童てんどう。それが彼の名前よ」
 声も出ない様子の彼らに続ける。
「そこまで辿りつくのは苦労したわ。九角かれの祖父を追ってようやく辿りついたの。
今まで調査しても見つからなかったはずよ。
龍州の宮高校の名簿を探しても、九角の名前はないんだから」
「どういうことですか?」
九角かれはその高校に存在していながら存在していない──
つまり、学校側が存在を知らないってことよ」
「んな馬鹿な」
 信じられない、と京一が声を上げ、小蒔も首を振る。
しかし絵莉は、自分の調査結果に自信を抱いていた。
「それだけじゃないわ。九角という名前は戸籍上にも存在しない。
どんな『力』が働いているかは解らないけど、
九角はこの東京のかげの中で人知れず生きているの。
もしかしたら、それも鬼道という外法の為せるわざなのかもしれないわね」
「江戸時代の怨恨……そんなものの為に水岐や凶津……佐久間は踊らされたのか」
 醍醐が深い憤りを込めて呟く。
恨みや妬みなどというものからは縁遠いこの男は、
佐久間が鬼と化した理由がそんなものだったとは信じられなかったのだ。
「ええ……でも、そんなもの、ってだけではないの」
 絵莉の口調が重い。
「九角家が取り潰された理由、そして葵ちゃんがいなくなった理由……それはね」
 驚愕が、龍麻達の間に音もなく広がった。

 龍麻達が等々力渓谷の入り口に到着した頃。
病院を抜け出した葵は、渓谷の中にある堂の中にいた。
「御屋形様──女を連れて参りました」
「御苦労……下がっていいぞ」
 病院からここまで、自分を導いてきた気配が消える。
代わりに部屋の中に、濃密な、とぐろを巻いている気配が生じた。
様々な負の情念が絡みあい、鎌首をもたげている。
そばにいるだけで気分が悪くなる陰の氣に葵が動けないでいると、その氣の持ち主が立ちあがった。
薄暗い部屋の闇を引き連れている男に、葵は今更のように後悔する。
しかし、これは自分が選んだ道だった。
「待ってたぜ……良く俺の申し出を受ける決心がついたな」
「本当に……これで他の人には手を出さないでくれるんですか」
 それだけが彼女の望み、この厭な場所から逃げださない為の心の拠り所だった。
 声を震わせながらも言った葵を男は鼻で笑い、むしろ面倒くさそうに頷いた。
「……いいぜ。約束しよう、他の奴には手を出さねェ」
 男は背が高く、龍麻よりももう数センチほど上背がある。
更に頭頂部で髪を小さく房にしており、それも含めると醍醐と同じくらいの身長がありそうだった。
葵が恐怖に耐えながら男の顔を見ると、男は顎に手を当て、ふてぶてしく言った。
「それよりも挨拶がまだだったな。俺が九角こづぬ 天童てんどう──鬼道衆の頭目だ」
「あなたは……何故こんなことをするの。罪の無い人を巻き込んで」
 葵の非難は、おびただしい陰氣に呑みこまれ、跡形もなく滅殺されてしまった。
男の表情から余裕が消え、陰氣が膨らむ。
その宿怨の氣は見えない鎖となって葵の手足を縛り、心をなぶった。
「罪が無いだと? お前には聞こえないのか、この東京まちに眠る、
亡霊達の怨嗟えんさの叫びが。不実の内に殺された者達の、魂の慟哭どうこくが」
 男の告発に唱和するように、不浄の響きが堂内に木魂こだまする。
「俺には聞こえる──復讐しろ──破壊しろ──この街を滅ぼせ──ってな」
 言葉そのものが陰の力を持ったかのようだった。
音一つない空間に、九角の呪言がきしむ。
「人の世にいて、絶対の正義とは何か知っているか。
何が正義で、何が悪か──それを決めるのは神でも仏でもない。
それを決めることが出来るのは、闘いに勝利した者だけだ。
そうして歴史は作られる。勝者の正義という名の下に」
 九角の声には反論を許さぬ圧力があった。
 葵の脳裏に、夢で見た数々のいくさが映る。
菩薩眼の女を手に入れる為に争い、死んでいった男達。
彼らは確かに、名すら残さず消えていった敗者だった。
 葵の顔に微小に浮かんだ理解の色を見逃さず、九角は語調を強める。
「俺は勝者となる。その為にお前の『力』が必要なのさ。菩薩眼の『力』がな」
「いや……止めて、近寄らないでッ」
 恐怖に駆られ、葵は叫んだ。
男の陰氣に、心も身体も食らい尽くされてしまう気がしたのだ。
すると九角はあっさりと動きを止め、手を引く。
「いいぜ。そうしたら約束もなしだ」
 九角の声には駆け引きを楽しむような響きすらあった。
葵は自分がどうしようもなく愚劣な選択をしてしまったことを悟ったが、
もう引き返すことは出来なかった。
「俺は別にどっちでも構わねェぜ。俺が欲しいのはこの東京まちだからな」
 身を引いた九角は、何故かその魔手を伸ばしてこなかった。
「まだ少し時間がある……少し話してやろう」
 再び椅子に座った九角は、膝に腕を乗せて語り始めた。
その口調には何故か憐憫が含まれており、葵の嫌悪をいくらか和らげる。
近づこうとはもちろん思わなかったが、葵は彼の話を聞くことにした。
「美里葵──お前は菩薩眼の持つ真の意味を知っているか」
「意味……?」
「そうだ。菩薩とは仏教の開祖である仏陀釈尊ぶっだしゃくそんの滅後、
広く衆生しゅじょうを救済する為に遣わされた仏神のこと。
菩薩眼とは、その菩薩の御心と霊験を有する者の証。
菩薩眼を持つ者は、大地が変革を求め乱れる時代の変わり目に顕現けんげんし、
その時代の棟梁となるべき者の傍らにて衆生に救済を与える。
その為江戸の昔から菩薩眼を巡って幾多の悲劇が繰り返されてきた。
菩薩眼の歴史は戦乱の歴史。江戸時代、我が祖先もその為に徳川と闘い、そして滅んだ。
実の娘である菩薩眼の女を護る為に……な」
「え……」
「徳川は、九角家の長女である菩薩眼の娘を手中に収める為、
九角の人間を皆殺しにし、屋敷を焼き討ちにしたという。
九角家が謀反を起こした訳じゃねぇ、徳川が欲望の為に九角家を滅ぼしたのさ」
「そんな、それじゃ」
「俺とお前は、遠い祖先で繋がっている──共に生きるえにしを持って生まれたのさ」
 嘘よ──葵はそう叫びたかったが、どうしても声が出せなかった。
九角の話は、見た夢を裏付けるものだったからだ。
鬼道衆が、なんらかの『力』でそう信じ込ませる為に夢を見せたのかもしれない。
しかし、夢に出てきた仲間達、姿格好は全く違っても、魂が同じだと告げる仲間達は、
確かに過去むかし見たものであり、現在いま見ているものだった。
だから、彼の話を信じざるを得ない。
 葵はにわかに足が震えるのを感じた。
龍麻に支えて欲しかった。
彼の腕の中でないと、九角の話した真実に耐えられそうになかった。
しかし、龍麻はいない。
自分が彼と別れることを選んだのだ。
「俺はずっとお前を探していた。かつて我が血筋より、徳川の手に奪われた菩薩眼の娘、
美里葵──お前をこの手に取り戻す為にな。
だから俺は祖先の意に従い、鬼道という陰の呪法を蘇らせ、その全てを以ってお前を探していたのさ」
 再び九角が立ちあがり、近づいてくる。
後ずさりしようとした葵は、踏みとどまった。
自分が退がることで、彼が身を引いてしまったら、全ての意味がなくなってしまう。
 葵は覚悟を決め、眼を閉じた。
そうでもしないと、これから為されることを受け入れられなかったからだ。
 愚かさをあざ笑うが如く、葵の頬を冷たい涙が伝う。
 陰氣が心と身体、美里葵の全てを犯した。

「そんな……それじゃ、美里さんは」
 絵莉の話を聞いた龍麻は、喘ぐように言った。
京一達は声すら出せず、葵の持つ宿命に呆然としている。
「ええ。何らかの形で自分が菩薩眼の所有者であることを知り、
恐らくこれ以上あなた達に迷惑をかけないように九角の許に行った可能性が高いわね」
「そんな……」
 葵が語った夢の話は、真実だったのだ。
なぜあの時もっと真剣に耳を傾けなかったのか、龍麻は悔恨に身を引き裂かれんばかりだった。
 助けなければならない。
 助けて、謝らなければならない。
強い決意を漲らせて、龍麻は仲間達を見まわす。
皆小さく頷き、龍麻と共に往く決意を表した。
 階段を上りきる寸前で、絵莉が立ち止まった。
龍麻達を振りかえり、静かに告げる。
「ここが、九角家終焉しゅうえんの地。
奥にある古びた御堂──そこが九角家の屋敷の名残だという話よ」
 殺気が漂っていた。
今にも破裂しそうな陰氣が、階段の向こうにひしひしと感じられた。
龍麻達は無言で心を引き締め、氣を練り始める。
 するときざはしの木陰から、四人の男女が現れた。
「待っていたよ」
「如月! どうしてここに」
「僕の定めは東京を護ること……これほどの邪妖の氣、見過ごすことは出来ない」
「アランも」
「ボクの中の『力』が言ったネ……等々力不動ここに行けと。そうしたら、ヒスイに会ったネ」
「雪乃に……雛乃さん」
「ついに鬼道衆やら言うのと闘うんだろ、オレの出番ってことだよな」
「この地に集まる禍々しい氣……織部の巫女として、わずかな力ではございますが、
ご助力させていただきます」
 彼らはこの先に満ちる邪悪な氣を感じ、なお共に闘ってくれると言うのだ。
彼らの想いを無下にすることなど、龍麻に出来るはずもなかった。
「ありがとう……でも気をつけてくれよ」
 四人に謝意を込めて頭を下げた龍麻は、陰氣を感じているのか、
メフィストを強く抱きしめているマリィの頭を撫でた。
「マリィはここで天野さんと待ってるんだ」
「イヤッ! アオイオ姉チャンガイルンデショ? マリィ、オ姉チャンヲ助ケルッ!」
 マリィの火走りファイアスターターの『力』は充分知っているが、それにしてもあまりに危険過ぎる。
だから無理にでも置いていこうと考えたが、マリィは頑なについていくと言い張った。
階上に満ちる陰氣はもう一刻の猶予もないほどで、
仕方なく、龍麻は説得を断念して連れていくことにした。
 不動尊の境内には、これから始まる闘いを察知して逃げたのか、生き物の気配はなかった。
人々の信仰が集まるはずの場所に、霧と見紛うほどの陰氣が漂っている。
「凄ェ妖氣だぜ」
「なんだ、空が急に暗く──」
 京一が思わず呟いたのと、醍醐が異変に気付いたのはほぼ同時だった。
 空だけではない。
等々力不動全体が、黄昏時の、夜にうつろう寸前のような紫色に染め上げられていた。
何らかの邪悪な『力』が働いているのは明白で、龍麻達は油断無く辺りを窺う。
 堂の前に、一人の男が立っていた。
この場にある陰氣の全てをこの男が生み出しているのではないかというほど、
かげを纏った男。
彼が闘うべき敵であることは、見た瞬間に判った。
「そろそろ来る頃だと思ってたぜ」
 龍麻達に囲まれても萎縮する様子もなく、男は腕を組んで言い放った。
「俺は九角天童。お前らの敵、鬼道衆の棟梁だ」
「とうとう出やがったか」
 京一が木刀を構えるが、九角は腰に下げた、恐らく真剣だろう刀にまだ手を添えない。
京一には一瞥だけをくれ、最も強い氣を放っている龍麻に視線を止めた。
「お前が緋勇か……いい面構えじゃねェか。菩薩眼の女は本堂の中だ」
「そこを……どけ」
 葵の情報を出すことで動揺を誘い、挑発するという九角の意図を龍麻は理解していたが、
彼の怒りは既にそんな必要もないほど奔騰しきっていた。
「生憎と、そうもいかねェな。なァ、お前ら」
 誰もいない虚空に向かって九角は呼びかける。
すると一際濃い氣が彼の周りに集まり、昏いかげを形作った。
「なッ──お前らは……ッ」
「馬鹿な……確かに斃したはずだ」
 醍醐が叫び、如月が同調する。
無論驚きは彼らだけのものではなく、直接鬼道衆と闘ったことのない雪乃と雛乃、
マリィ以外の全員が驚愕を隠し切れず動揺していた。
 斃したはずの鬼道五人衆が、そこにいた。
斃す前と変わらぬ、鬼の面に忍者装束を着た姿で。
「これは怨念よ。てめェらに復讐したいと願うこいつらの憎悪、
悔恨、怨嗟の念が集い、形を取ったのさ」
 愉しそうに説明した九角は、人差し指と中指を立てて顔の前に構え、複雑な印を切り始める。
「目醒めよ……目醒めよッ」
 一度形を取った鬼道五人衆の姿が薄れていく。
しかし彼らは消え去ったのではなく、より恐ろしいものへと変生へんじょうしていた。
化け物。
五人の人型があった場所には、文字通りの化け物が現れていた。
巨大な百足のような化け物、古代の恐竜のような化け物、獅子のようなたてがみを生やした化け物。
それらは角が生えているという以外は似ても似つかないもの達だったが、
紛れもなく鬼道五人衆が変生したものだと龍麻達に知らしめていた。
何故なら、額、腹、胸……場所は違えど、彼らの身体には鬼の面が張りついていたからだ。
それは面であり、顔ではないのかもしれない。
だが向きさえも逆さまについている面は、龍麻達の生理的な嫌悪感をそそらずにはおかないものだった。
 自らの手で変生させた部下を満足気に見やった九角は、腰間の剣を抜き放つ。
「さァ、始めようか」
 薄暗い空間に、白刃が煌いた。
 雷光の如き刃を躱し、龍麻は九角と相つ。
京一達も武器を構え、それぞれ敵にあたった。



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