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「やった……のか……」
息を呑んで二人の攻防を見守っていた醍醐が、動かない九角を見てようやくそれだけを言う。
九角に対する好悪の念とは別に、圧倒的な闘いに、文字通り呼吸を忘れていたのだ。
「緋勇っ」
肩で息をしている龍麻の名を呼ぶと、倒れた九角を睨みつけていた龍麻が弾かれたように駆け出す。
本堂の中に入っていく彼の後を、醍醐達も慌てて追った。
「美里さんっ」
本堂の奥に倒れていた葵を見つけた龍麻は、彼女の許に駆け寄る。
恐怖に心臓を鷲掴まれながら必死に呼びかけると、うっすらと彼女が目を開けた。
「わた……し……」
安堵のあまり涙を滲ませた龍麻は、顔を拭う。
その腫れた顔を見て、その頬に手を触れさせた葵は、何故か龍麻の腕の中を拒むように立ちあがった。
「お願い、緋勇くん……それに皆も。私のことはもう……放っておいて」
葵の言葉を理解出来た者は一人もいなかった。
九角に何か良からぬ法を施されたのではないかと、龍麻も立ちあがって一歩近寄る。
それを葵は、あからさまに拒絶した。
「美里……さん……」
現実を受け入れられず、龍麻の頭が真っ白に染まる。
本堂の隅へ、手の届かない陰へと後ずさった葵に、龍麻の代わりに小蒔が詰め寄った。
「葵……どうしちゃったのさ。九角に何かされたの!?」
「私のせいで、たくさんの人が死んでいく……私のこの、呪われた『力』のせいで……」
葵は恐慌に陥っているのか、頑なに拒む。
「私も……きっと今に、この『力』で皆を傷つけてしまう。
だからもう、皆とは一緒に行けない。私のことは……忘れて」
「葵……」
知り合って三年、初めてこれほど感情を露にする葵を見た小蒔は、
どうしたら良いか解らず立ちすくんでいた。
他の仲間達も葵の異様な興奮状態に近づけないでいる。
すると小蒔を押しのけるようにして、龍麻が彼女に歩み寄った。
一同が見守る中、乾いた音が堂内に響く。
「ひーちゃんッ!」
「たつ……ま……」
誰も予想もしていなかった行動に、葵は頬を押さえ、殴りつけた男の顔を呆然と見た。
「そんな風に、自分を……自分だけを傷つけて、それで……誰が救われると思ってるんだ」
龍麻が怒っていたなら、葵は反発したかもしれない。
しかし、熱を帯びていく頬を押さえた葵が見たのは、大粒の涙を伝わせている男の顔だった。
顔は醜く腫れ、頭髪は汗と砂埃で乱れきっている。
その顔はどうしようもなく愛しいものだったが、
それは紛れもなく自分が作り出してしまったものだ。
様々な想いが、涙となって葵の頬を伝う。
彼にはたかれて熱い頬の上を。
彼の想いが宿る頬の上を。
「俺は……美里さんも……皆と一緒に闘って……不幸にしないで……
東京を護るって……未来を変えるって、言ったじゃないか」
膨大な想いが妨げるのか、龍麻の言葉は断片的であり、ほとんど意味が通っていない。
「龍麻……」
呼んではいけない。
呼ぶごとに、想いが抑えられなくなる。
葵が己の心に抗っていると、不意に視界が消失した。
「ごめん……不安にさせて。話を聞いてあげなくて。
でも、誰も……死んだりなんかしない。俺達は……誰も葵のせいで傷ついたりなんかしない」
「龍麻……龍麻っ」
龍麻の胸で、葵は泣いた。
彼と一緒なら、どんな呪わしい宿命(も乗り越えられると信じられる、胸の熱さだった。
全ての想いを流し尽くし、葵は龍麻の胸から離れた。
新たに生まれてくる想いに、陰(はなかった。
ただ彼を、仲間達を愛しむ想い。
そっと目許を拭って堂の奥から彼らの所に戻ると、仲間達は笑顔で迎えてくれた。
「オ姉チャンッ!」
涙声のマリィが飛びついてくる。
それを受け止めてやると、同じく目を赤く腫らしながら笑う小蒔に軽く肩を小突かれた。
「……心配したんだからッ」
京一も、醍醐も、他の仲間達も笑っている。
まだ目許に涙を溜めたまま葵が微笑むと、後ろから龍麻がやって来た。
「帰ろう」
だが頷く前に、葵は確かめておかねばならないことがあった。
「九角(は……」
「斃した」
龍麻の言葉は短く、聞き間違いようのないものであり、葵は小さく息を呑んだ。
それを誤解したのか、京一が陽気に言ってみせる。
「これで俺達の闘いも終わったってコトさ」
しかし、彼の声に被さるように堂の外から悪しき響きが聞こえてきた。
「まだ……これしきのことで、俺は斃れんぞ」
「九角……ッ」
「出て来いよ……俺達の闘いは殺るか殺られるかじゃねェと終わらねェ……そうだろ?」
葵は訴えかけるように龍麻を見たが、龍麻の表情は変わらなかった。
彼だけでない、京一も、醍醐も、小蒔も。
彼を斃さねば終わらないという覚悟が、全員の顔に浮かんでいた。
「凄ェ瘴気だな」
堂内から最初に出た京一が、毒素さえ感じさせるほどの氣に眉をしかめる。
続こうとする龍麻を押しのけて外に飛び出した葵は、九角に向かって叫んだ。
「もう止めて、こんな闘いはッ」
返事はなかった。
肌を灼かれるような陰氣の只中に立ち、両手を掲げ、
何物かに向かって呼びかける九角の声が葵の悲痛な叫びを粉々に砕いた。
「来い……この地に漂いし怨念たちよ。俺の中に巣くうおぞましき欲望よ、俺を食らい尽くせッ」
彼の身体に陰氣が凝縮していく。
長身を瞬く間に覆った陰氣は、なおも集まり続け、
九角が鬼道五人衆を変生させた時よりも昏い陰が彼のいた場所を侵食する。
「いと憎き、徳川の地よ。いと恨めしき、我が宿命(よ。
我が悲願叶わぬなら、この現世(を我に相応しき鬼共の這う地獄に変えるまで。
見るがいい、我が真の『力』を──ッ!!」
その姿は、まさしく鬼そのものだった。
赤黒い肌に鋭い牙、隆々と盛りあがった筋肉、三メートルに届こうかという体躯。
鬼道五人衆が変じたのとは全く違う畏怖を呼び覚まされ、京一達は誰一人として動けなかった。
それは初めて鬼を見る雪乃は無論、魑魅魍魎の類は幾度となく見ている如月でさえ例外でなく、
人の心の奥底にある原初的な恐怖が形となった鬼に、竦(みあがっていた。
その中でただ一人、動いた人物がいる。
「はあああッ──」
大地を踏みつけた力を打撃に変換し、練った氣を拳に乗せて鬼の腹に撃ちこむ。
ありったけの氣を込めて放った一撃だったが、悪鬼と化した九角には致命傷とならなかった。
無防備になった一瞬、鬼の爪が、横薙ぎに龍麻を払う。
大木ほどもある、筋肉がいびつに盛り上がる腕から繰り出された攻撃は、
龍麻の身体をぼろ屑のように吹き飛ばした。
防御の体勢すら取れずにそれを受けた龍麻は、為す術なく木に叩きつけられる。
したたかに頭と背中を打ち、そのまま根元に倒れ伏した。
龍麻が、斃れる。
自分の宿命も厭わず、陽の暖かさで包んでくれる男が、力なく横たわっている。
木に激突し、ぴくりとも動かない龍麻を、葵は現実と受け入れられなかった。
しかし瞳は、呪わしい菩薩眼は、捉えた光景が嘘でないと冷たく突きつけている。
たつま──
頭の中で彼の名が瞬く。
それが眼前で倒れている男の姿と結びついた時から、葵の意識は途切れ途切れになった。
「葵、危ないッ!」
小蒔の声で、葵は自分が龍麻の許に駆け寄っていると知った。
迫ってくる鬼の気配も同時に知ったが、構わず龍麻の傍に跪(いた。
「龍麻……!!」
ただ龍麻を、愛する男を救うことだけを念じ、想いを解放する。
しかし、余程傷が深いのか、龍麻は指先をわずかに動かしただけで意識を取り戻さない。
葵は更に想いを込め、己の『力』を彼にかざした掌に注ぎ続けた。
「緋勇!」
何かの冗談のように軽々と吹き飛ばされた龍麻が、醍醐の瞳に映る。
「ヒユー!」
友人(がやられるのを、アランは助けられなかった。
「緋勇君!」
邪妖の氣に折伏(された黄龍を、如月は見る。
「タツマッ!」
マリィがアオイとパパとママの次に好きなお兄ちゃんが、痛がってる。
鬼に倒された龍麻に、四人は震えた。
怒りに。
彼を護りたいという、宿星(に。
「うおおお……ッ」
如月と醍醐は、聖獣の『力』が、魂の奥底からひとりでに噴き上がってくるのを感じた。
そしてそれは、近くに感じる別の氣と共に昇華していく。
「Whats……?」
「身体ガ……熱イ……」
アランとマリィは、初めて感じる己の中の凄まじい『力』に戸惑いを隠せなかった。
もし彼らが一人で覚醒してしまったなら醍醐と同じく暴走してしまったろうが、
彼らの氣は同じ四神の宿星を持つ醍醐と如月の氣によって制御され、
あふれ出す膨大な氣にも自我を失うことはなかった。
四方を守護する聖なる氣が、龍を護る為に覚醒する。
辺りに満ち満ちていた陰氣さえも取りこんだ四神の『力』が、鬼の身体を包み込んだ。
「ぐおおッッ!!」
四色の、淡い輝きが巨大な鬼を覆う。
陰氣を食らうことで鬼と化した九角は、相反する氣に身体を切り刻まれ、苦悶にのた打ち回った。
「う……」
龍麻が身体を起こす。
一瞬、何が起こっているのか判らなかった龍麻の額に、暖かな温もりが伝わる。
急速に像を結ぶ視界が、聖なる光に包まれた鬼の姿を捉えた。
身体に失われた活力が戻り、新たな氣がチャクラを巡る。
立ちあがった龍麻に、多量の『力』を一度に使った葵は木にもたれながら、
それでも前方をしっかり見据えて言った。
「お願い……九角さん(を救ってあげて」
頷いた龍麻は、九角と決着をつけるべく走った。
「緋勇ッ」
「ダイジョウブデスカ、ヒユー?」
「緋勇君」
「タツマオ兄チャン、良カッタッ」
喜ぶ四人に応えた龍麻は、もう充分に練り上げた氣を更に高める。
質量共に圧倒的な氣が龍麻の身体から発せられ、四人が下がった。
彼らの瞳、否、身体全体を、黄金の光が照らし出した。
荘厳な輝きは、眩いにも関わらず目を開けていられる。
今や彼らだけでなく、等々力不動全体をも照らし出す曙光(に、仲間達は等しく勝利を確信した。
感覚が、失せる。
九角を斃そうと氣を練った龍麻は、途中から自分が生み出す以上の氣が流れ込んでいることに気づいた。
制御しようとしてもどうにもならないほど多くの氣に、龍麻は抗うのを止める。
すると流れ込んでくるそれらの中に、仲間達の氣が微かに感じられた。
京一、醍醐、小蒔、如月、アラン、雪乃、雛乃、マリィ、そして、葵。
彼らの想いは膨大な氣の流れの中で自我さえ失いつつあった龍麻を繋ぎとめ、
それに導かれるように氣が収斂(していく。
「──ッ!!」
基底(と頭頂(の前に手をかざし、
己が下に戻ってきた氣を両の掌に乗せ、全てを終わらせる為に鬼に向かって放った。
陰(が、陽(の中へと取りこまれていく。
陽に呑みこまれた鬼はそこから逃れようとしたが、陽は巨体を包み込んでなお大きさを増し、
遂に鬼の姿を己の中に消し去った。
全ての氣を放った龍麻は、立つだけの力も失くしてしまっていた。
膝が砕け、その場に座りこんでしまいそうになる。
すると、肩が力強く支えられた。
「……っと。見届けるまでは、倒れんじゃねェぞ」
京一の肩を借りてどうにかその場に立つ。
少し乱暴に感じる支え方は、気のせいではなかった。
「ッたく、やられるんならもうちっと早く言えよ」
言い返そうとした龍麻は、こちらを向いていない京一に、彼の真意を理解した気がした。
京一は、龍麻を救えず、その後も醍醐達に見せ場を奪われた自分に怒っているらしいのだ。
だから龍麻が倒れそうになった時、誰よりも早くそれを察知して支えてくれたのだ。
「今度からそうするよ」
龍麻が小さく笑って答えると、京一は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
龍麻と京一、そして醍醐や他の仲間達の見ている中で、光が消えていく。
「見事……だ……人の『力』、見せて貰ったぞ……」
それと共に色を取り戻していく景色の中心に、人に戻った九角の姿があった。
しかし完全に人の姿に戻った九角の身体からは、なお瘴気が散っている。
陰の氣を取りこむ外法を用いることで鬼と化した九角は、
もはや彼の部下であった鬼道衆の怨念と同じく、陰氣のみで己を成していたのだ。
陰氣が浄化された今、彼に助かる術はない。
だが片膝をつき、龍麻を見る九角の目には、奇妙な安らぎがあった。
「これで……ようやく俺も長き呪縛から解放される。
俺は……ただ欲しかっただけなのだ……我が一族の安息の地が」
遂に身体を支えることも出来なくなり、九角は倒れる。
葵が近寄ろうとすると、それを制して九角は続けた。
「お前らも覚えておくがいい。人の世に復讐の念が絶えぬ限り争いが終わることはない。
人の世に陽(が照らす限り、陰(もまた消えることはないのだ。
努々(……忘れるな……陽と陰の闘いに終わりはないことを……」
彼の最期の声は、ほとんど風に散って聞き取れなかったが、
龍麻達は聴覚によらずそれを聴いていた。
倒れた九角の身体が、薄くなっていく。
水岐や佐久間と同様、外法によって変生した身体は塵となって消えた。
「終わった……な……」
醍醐が呟く。
それは九角や佐久間、この闘いで斃れた者達全て向けられた、鎮魂の呟きだった。
江戸から続く負の情念が引き起こした、現代の東京を恐怖に陥れた一連の事件は、
こうして幕を下ろした。
解決の立役者となった少年達は、それを誇るでもなく、ただ元の平穏な生活に戻ることをのみ願う。
それこそが、彼らの『力』の源であった。
「さて……帰るとすっか」
明るい京一の声に皆頷き、それぞれの生活に帰る為に踵(を返す。
たった今凄まじい闘いが行われた残滓など一片も残っていない境内に一人たたずんだ葵は、
九角が斃れた場所に向かって静かに手を合わせた。
彼の冥福を祈り、仲間の後を追おうと振りかえる。
そこには、龍麻がいた。
「帰ろう……葵」
控えめに差し出された手を握り、葵は並んで歩きはじめた。
陽(が、往く路を照らしだしていた。
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