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カーテンの向こうから、忌むべき光が射込んでくる。
まだこの季節だから耐えられるものの、夏などの黄色い光線は、本気で嫌悪の対象と成り得る。
かと言って人の世で生きていく為には避けて通れない光でもあり、
造物主に不平を言いながら目を覚ますのがこれまでのマリアの日課だった。
今は違う。
不平を言うことに変わりはないが、言う対象が変わったのだ。
「起きてくださいよ、マリア先生」
朝だというのに少し疲れ気味の声と共に、肩が揺さぶられる。
それは優しく、夜の使者たるマリアを眠りの国から呼び戻すには優しすぎる起こし方だった。
「ん……もう少しだけ」
「そう言ってもう三回目じゃないですか! 教師が遅刻したらマズいでしょ」
声の調子が少し荒くなる。
学校での颯爽たる自分との落差に幻滅しているのかも知れなかったが、
そんなことはマリアの知ったことでは無かった。
布団をかぶりなおし、徹底抗戦の構えをとる。
「マ・リ・ア・先・生!」
更に一段階大きくなった声は、明らかに怒りを抑制していた。
もうそろそろ頃合いかも知れない。
マリアは気配を探りつつ、大きなベッドの上を転がって声から遠ざかった。
「いい加減にしてくださいよ。無理やり起こしますよ!」
痺れを切らした──当然だろう、最初に声をかけてからもう一五分以上過ぎている──
声の主が布団を剥そうとベッドに乗ってきた。
「朝ご飯だってもう出来て──ッ!」
近づいてきた声の距離を正確に測り、タイミング良く腕を伸ばす。
虚を突かれた声の主は、為す術なく捕らえられてしまった。
その首筋から鎖骨に連なる辺りの皮膚に、思いきり唇を吸い付かせる。
鮮やかな痕が残ったのを確かめてから、今度は唇同士を触れ合わせた。
諦めたように身動きしない声の主に、喉の奥で笑いを噛み殺して挨拶をする。
「Good morning……龍麻」
龍麻は拗ねているのか、返事をしない。
今度は小さく笑いながら、マリアはようやく身体を起こした。
「挨拶は?」
「……Good morning,Maria」
小声ながらもきちんと答えた龍麻に、良く出来ました、というように軽く抱擁する。
これが、ここ1ヶ月のマリアの朝だった。
「早くしてくださいよ。もうあんまり時間がありませんよ」
服装を整えたマリアがテーブルに座ると、すぐに熱い湯気と芳香を立ち上らせた紅茶が供された。
他の食べ物が少し冷めてしまっているのは自分のせいであるから、それについては何も言わず、
紅茶に蜂蜜を落とし、スプーンでかき混ぜながら新聞に目を通す。
行儀が悪いと同居人は顔をしかめるが、
教師が時事を知らないのも都合が良くないので仕方が無かった。
それも龍麻に言わせれば、一五分早起きすれば良いだけとのことだが。
「はぁ……全く、学校なんて行きたくないわね」
「先生がそんなこと言ってどうするんです」
朝から愚痴をこぼすマリアに、龍麻は辛抱強く付き合う。
「だって、自由登校になってから貴方もあんまり来ないし」
「先生が変な所にキスマーク残すから行けないんですよ!」
語気を荒げる龍麻を、マリアは何食わぬ顔で聞き流して紅茶を飲む。
見れば龍麻の襟元には、先ほどの印がまだ鮮やかに残っていた。
この分ではしばらくは消えないだろう。
満足気に微笑んだマリアに、棘のある声が飛んできた。
「なんですかその顔」
「別に。いいじゃない、男の子だったらキスマークの一つや二つ付けてた方が格好良いわよ」
「……一つや二つじゃないじゃないですか」
「そうだったかしら?」
「そうですよ! 今日は体育もあるし、とても行けませんよ。
この間だってアン子に気付かれて誤魔化すの大変だったんですから」
口を尖らせる龍麻の態度が、微妙に変わる。
「……どうしたんです? 調子悪いんですか?」
龍麻が尋ねたのは、ほとんど手付かずになっているマリアの皿を見てのことだった。
それには答えず新聞を畳んだマリアは、紅茶を飲み干すと立ちあがって龍麻に近寄る。
「……そっちがいいわ」
「! そんな朝から、止め……っ、んぅ……」
意図を悟って逃れようとする龍麻の後ろ髪をかき分け、首筋に噛みついた。
程なく膨大な氣が身体に流れこんでくる。
今のマリアは、特に血を必要としている訳ではない。
しかし、普通の食物と較べれば格段にエネルギー摂取の効率が良いのも確かで、
特に龍麻の持つ龍氣と共に吸う血は、一度吸えばニ、三日は眠らなくても良いほどの栄養となる。
加えて、快楽と苦痛の狭間で悶える龍麻を見るのがマリアは好きだった。
「も、もう……いい……で……痛……っ」
椅子を掴んで何かに耐えていた龍麻の手がだらりと垂れ下がる。
背もたれに体重を預け、人形と化した男の身体に手を這わせながら牙を立てた。
美味なる血と豊潤な氣を、龍麻の生活に影響を与えない程度に吸う。
己の穿った二つの小さな孔に、たっぷりと唾液を擦り込んでからマリアは顔を離した。
「はぁっ……もう……ちゃんと、食べて……ください……よ……」
恍惚と恨みのない混ざった表情で、龍麻が吐息を漏らす。
その表情に闇の眷属としての本能が鎌首をもたげるのを自制しながら、
マリアは龍麻の身体に這わせたままの手を動かした。
「朝から……元気なのね」
「しッ、仕方ないでしょう。男の……生理なんだから」
実はそうではなかった。
性欲が増してしまうのは、ヴァンパイアに血を吸われる副作用なのだ。
もちろん龍麻には教えていない。
教えてしまったら、今後絶対に血を吸わせてはくれないだろうからだ。
反応してしまったことを恥じている龍麻に心の中だけで謝ったマリアは、
固くなった膨らみを指の付け根で撫でる。
パジャマを押し上げている肉茎は本人の意志と無関係に大きさを増し、雌を求めてひくついていた。
「ちょ……先生、本当に、遅刻……しちゃい……ますって……」
この時マリアは既にもう片方の手もパジャマの上着に滑りこませ、
上下動が激しくなりつつある胸板をまさぐっている。
もし龍麻がここで求めてきたら、遅刻も省みずに欲望を充足させていたかもしれない。
しかし残念なことに、龍麻の言う通りだった。
こんな事ならもっと早く起きておけば良かった。
する気もない事を考えながら、マリアは慌しく学校へ行く準備を整えねばならなかった。
心地良い温もりの身体としばしの別れを交わし、
龍麻が呆れるほどの早さで化粧を整え、忘れ物が無いか確かめる。
扉から一歩を踏み出したマリアは、振り返って玄関まで見送りにきた龍麻に片目を閉じてみせた。
「いい? ワタシが帰って来るまで、一人でなんてしたら駄目よ」
「しませんよ!」
「フフッ、約束よ。それじゃ」
『約束』を龍麻が守ることは疑いない。
それを守らせる相手がいることに無上の喜びを感じながら、マリアは扉を閉めた。
授業を終え、雑事を片付けたマリアは可能な限りの早さで家に帰った。
もともと彼女はその美貌と共に身持ちの固さでも有名だったが、
それが龍麻が家に来てからは極めつきになっていた。
全く、家に戻れば彼女の希望を全て満たす男がいるというのに、
どうして寄り道などできようものか。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、律動的に歩く彼女の長身を幾本もの視線が追いかけたが、
マリアはそれに気付く事さえなく龍麻の居る処へと戻ってきた。
「お帰りなさい」
電話する時間さえ惜しんで帰ってきたのに、扉を開けるとそこに龍麻はいた。
笑顔で出迎える龍麻に、学校での──これまでとの自分とは違う自分が顔を出す。
「ふぅ……ッ、ただいま。ね、お風呂は沸かしておいてくれた?」
「沸いてますよ」
肩を借りてヒールを脱ぎながら尋ねると、事も無げな答えが返ってきた。
どこかすましているような態度を崩してやりたくて、マリアは髪をかき上げる。
広がる女性の香りに戸惑ったような顔をする龍麻に、とっておきの笑みを見せた。
「ありがとう。フフッ、一緒に入る?」
「! い、いえ、まだご飯の支度が……」
「ね、入りましょう?」
後ろから甘く抱きしめ、耳朶に軽く口付けてやる。
それだけでこの純情な少年は身を固くし、術にかかったように従順になってしまうのだ。
マリアはねじが止まってしまったおもちゃのように、
まばたきさえ忘れている龍麻の腕を取って浴室に向かった。
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