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「ね、手広げてみてよ」
「は? なんだそれ」
「いいから」
小蒔はいつも唐突で、そして強引だ。
今は穏やかな倦怠に心身を委ねたい場面なのに、
全く意味の解らない、奇妙な命令をされて惟々として従うほど龍麻はお人よしではない。
そういつもいつもお前の言うことは聞かないぞ、という意思を、むしろ態度に込め、
龍麻はごろりと、小蒔とは反対方向に転がった。
「何してんの」
「……」
見て判らないのか、俺は寝る。
龍麻が背中にそう語らせていると、いきなり首が捻じ曲げられた。
「痛ててててててててて」
「早く」
たくさん弟妹がいるのに、なんてわがままなヤツだ──
たくさん弟妹がいるからこそわがままになる場合もあることを知らない龍麻は、
物理的な限界の近くまで首を曲げられつつ、そんな無駄なことを考えていたが、
このままでは永遠に世界を九十度横から見て生きなければならなくなりそうなので、仕方なく降伏した。
「なんだってんだよ」
この、はりつけのような格好に何の意味があるのだろう。
少し考えて意味などないと解ったら、飯くらい作らせてやろう。
そこまで考えて龍麻は、小蒔の料理は腹に平穏をもたらさないことを思いだし、別の罰を考える。
大体食べ物は良くない──小蒔は冷蔵庫の中のものを勝手に開けて食べることが多々あるし、
二人分買ってきたものでさえ時には一・五人分食べようとする。
だから何を買わせても、それが龍麻の期待するような効果をもたらすことは、おそらくないだろう。
では何を──
友人達の前では多少背伸びを強いられる龍麻も、本質的には善人であり、
こういう時にとっさに何かを思いつける、
例えばいつも木刀を携えている友人のような才能は持ち合わせていない。
今龍麻が小蒔にさせたい、あるいはして欲しいことと言えば、
せいぜい蹴るなだの膝枕させろだの背後からがばっと抱きつかせろだの、
どう考えても直接言った方が早いことばかりだった。
それでも何か決めておかないと損だ、と貧乏人根性を発揮して、龍麻はあれこれ考える。
しかし実際のところ、罰など考える必要はなかった。
大の字になって寝た上に、いつものあの、
今にも波しぶきとなって跳ねかかってきそうな笑顔を顔全体に浮かべた小蒔が、
手足だけでなく、胸も腰も薄い身体を密着させた途端、
彼女がなぜこんなとっぴもない格好をさせたのか、たちまちわかってしまったからだ。
「……」
無防備な、全てを開放する格好。
大人になるにつれてすっかり忘れてしまった、身も心も投げ出してしまうという、
口にするには少し恥ずかしい感覚が、龍麻の裡にはっきりと甦ってきたからだ。
そして晒けだした身体の上に、小蒔がいる。
彼女と、ひとつになる──陳腐な言葉だけれど、本当にそんな感覚だった。
世界で最も美味しい果物よりももっと甘い匂いを漂わせる髪と、
世界で最も美味しいデザートよりももっと柔らかな唇がある、
今は頬を押しつけるようにしている頭部だけは別にして、
小蒔の身体の全て、よくつねる手とよく蹴る足でさえもが、
ほとんど自分の血と肉になったような感じがする。
手首をそっと掴む手を、掴みかえしたくなった龍麻は、腹の底からの息と共にそれを放棄した。
自然に、何も考えず──
小蒔のメッセージに従うべきだと考えたのだ。
頭の中のほんの少しの部分が抗議する、小蒔の重さについてはこれを却下して、龍麻は目を閉じた。
深く息を吸い、そして吐く。
彼女の身体が触れ、そして遠ざかる、ただそれだけの単純な行為が、
胸の奥まで快感となって染みこんできた。
それに伴って最も端的に快感を表す、身体の一部も反応を始めるのだが、
それはあくまでも幸福が先に立つ、単なる肉体的な反応なのだ。
龍麻はそう思い、あえて何も言わず、態度にも何も表さず、小蒔とひとつになる行為を続けた。
「あ、ボッキしてきた」
ところが、同じく幸福を噛みしめていると思っていた、起伏に乏しく、また肉付きも少ない、
スカートを履いていなければ京一の言うように少年と見間違えられても、
もしかしたら納得してしまうかもしれない少女は、あまりに身も蓋もないことを言ってのけた。
「勃起とか言うなよ」
「お、恥ずかしがってるね」
男として仕方のない反応をからかわれて頭に血が上った龍麻は、重ねていた腕を解き、
彼女の名前である桜というよりは薔薇の色に薄く染まった頬を両手で挟みこんだ。
掌に力を加えると、唇が尖る。
その部分を思いきり音を立てて吸いたててやりたいという衝動を、
龍麻は膨らませ、棘で飾り立ててから放った。
「犯すぞお前」
「いいよ」
もちろん、龍麻は本気で怒っていたわけではない。
幸福だのなんだの思っていても反応してしまったのは確かであるし、
その気恥ずかしさを隠すために、半ばは演技で怒ったと言っても良いくらいだ。
けれども普段はロケット花火よりも勢いのある言葉を紡ぎ出す唇から、
はらりと水面に落ちる花片のような声を、急に耳でなく、
心臓に直接撃ちこまれてはどうしようもなかった。
喉につっかえた、自分でもなんだか良く解らない塊を、無理やり呑みこむ。
それは表にはあまり出なくても、腹のあたりの動きで小蒔には良く伝わったらしく、
小憎らしい頬はふるふると震えていた。
「……」
「どうしたの、しないの?」
オセロをしていて盤面の六十枚ほどを自分の色に染めた時のような勝ち誇った瞳と、
これ見よがしに突き出された、頬よりも薄い桃色──つまり、桜色だ──
をしている唇がどうにも気に入らなかったが、かすかに、
訊ねればきっととぼけられるくらいかすかに動いた太腿に負けて、
龍麻は頬を押さえていた手を耳朶から、さらにもう少し後ろへと滑らせる。
重力に従って必然的に落ちてきた頭は、柔らかく接地した。
「んっ……ふ……」
重力に従って落ちてきた頭は、重力に逆らった動きを繰りかえす。
小さな動きで何度も繰りかえされたキスは、少しずつ長く、ゆったりとした触れ合いへと変化していった。
そのうち小蒔の手が動き、手首を掴む。
もう一度腕を広げさせようとしているのだ、と気付いた龍麻は、抗わずしたいようにさせた。
身体の力を抜くと、小蒔の方から舌を伸ばしてくる。
「……」
蛇のように素早く、一瞬だけ唇を舐めた小蒔は、挑発的に龍麻を見た。
この手の挑発に弱い龍麻はすぐに乗せられ、下から頭を持ち上げて小蒔を捕まえようとするが、
両腕を広げた状態ではいくらも持ち上がらず、目指す場所には届かない。
「うー……」
次第にむきになって唇を突き出していると、いきなり小蒔の頭が落ちてきた。
小刻みなリズムが全身から伝わり、首筋の辺りには呼気がかかる。
「ぷっ、もうダメだ……顔赤くて、なんかタコみたいだよ」
「うるさいな、悪いか」
「必死だった?」
「俺はいつでも真剣だよ」
それはほとんどヤケになって言った台詞だったにも関わらず、小蒔は妙に感銘を受けた面持ちをした。
龍麻の額に触れ、汗で張りついた前髪を撫でつけて瞳を覗きこむ。
「ふーん、真剣なんだ。……へー」
「なっ……ん……」
だよ、と続けようとした口は、開いた形で塞がれた。
驚いている龍麻の口腔に舌が潜りこんでくる。
常になく積極的に求めてくる小蒔に、龍麻もすぐに応えた。
「……っ、はっ、んふっ」
手を使わないキスは、想像していたよりもずっと卑猥だった。
少しでも深く相手の口内に舌を差しいれようと、せわしなく顔を動かす。
鼻息や涎など気にする余裕もなく、激しく快感を求め合う行為は獣のようだ、
と龍麻は思ったが、すぐに獣はキスなどしないことを思い出す。
しかし体裁も繕わず絡める舌はやはり獣のようで、獣は決してしない、
愛情を確認する営みを龍麻はずっと続けたいと願った。
「んんっ……っう……ん……っ」
真横に広げさせられていた手は、いつのまにか耳の横に来ている。
小蒔が動かしたのかと思った龍麻だったが、掌は固く握り合わされており、
どちらが動かしたのかははっきりしなかった。
ただ、強さと温かさ、それに柔らかさ──
波動となって伝わってくる、快いそれらの感覚に、酔いしれるばかりだった。



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