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マリアの心は弾んでいた。
冬が終わるからではない。
彼女が元いた地の冬はもっと暗く陰鬱なものであり、東京の冬などどうということは無かったし、
それに彼女は夏よりは冬の方が好きだった。
彼女が珍しく、他人にもそれと解るくらい喜んでいたのは、遂にこの日を迎えたからだった。
龍麻と、教師と生徒という関係を終える日が。
「先生、一年間ありがとうございました」
いよいよ彼女が受け持った生徒達の、卒業の時が訪れた。
ほとんど全員の生徒が最後の挨拶を終えた彼女の許にやって来て、色々な言葉で別れを惜しんでくれる。
それはもちろんマリアにとって嬉しいことであり、
彼女は一人一人丁寧に祝辞を贈り、教室から送り出していった。
壁のように彼女を囲んでいた生徒達も一人減り二人減り、
教室はやがて新たな教え子達が現れるまでの間、静謐な空間と化す。
さっきまでのエネルギーが嘘のように空になっている教室を見渡して
マリアがため息をついたのは、ほんのわずかな疲れと、龍麻が挨拶に来なかった不満のためだった。
もちろん、納得はしている。
既に一緒に暮らしていて、更にこれからも一緒に暮らすのに、いまさら挨拶も無い。
それに龍麻のことだ、きっとどんな顔で皆に混じって挨拶をしたらよいか解らないのだろう。
それをとぼけて会話をこなす、というのも愉しいのであるが、
龍麻はそこまで器用に出来ていないということはマリアも知っており、
また、彼の愛すべき要素のひとつでもあるのだった。
でも、龍麻がもし目の前に立っていたら、彼はどんな表情をして挨拶し、
自分はどんな受け答えをしていただろうか。
そんな想像をしたマリアは、声に出して小さく笑った。
自らの笑い声に促されるようにしばらく笑い続けていたマリアは、
それを収めるとしばらく来ないことになる教室の戸締りを行う。
事務的にそれらいくつかの作業を終えると、これ以上ここにいても仕方ないので、
最後に龍麻の席、窓際の、
時にはカーテンが彼の姿をすっぽりと覆ってしまうこともあった席に一瞥をくれて教室を出た。
生徒達は卒業式でも教師には仕事があり、
それを終えねば龍麻の待っている家に帰ることは出来ないのだ。
職員室に戻ったマリアは、同僚と談笑しながらちらちらと時計を見る。
時間はまだ午前の早い時間であり、マリアがどれだけ焦っても夕方まで帰ることは出来ない。
それでも、何もしないでいると時間ばかりが気になって精神衛生的に良くないので、
マリアはどうでもよい雑事をこなして時間を紛らわせることにした。
拷問に等しい数時間が過ぎると、マリアは同僚が伸びをしている間にもう職員室を出ていた。
明日からはしばらく休みであり、少なくとも今日はゆっくりと出来る。
だからマリアは家に急いだ。
彼と居られる時間を、一秒でも多くする為に。
背筋を伸ばし、律動的に歩く彼女に注がれる視線はいつにも増して多かったが、
マリアの頭の中には一人の男のことしかなかった。
信号にさえ苛立ちを見せながら家路を急いだマリアは、
マンションに着いてからはほとんど一息で自分の部屋に向かい、扉を開ける。
もどかしげにヒールを脱いだところで物音に気付いて姿を見せた龍麻に、半ば飛ぶように抱きついた。
「お帰りなさい……っと、どうしたんですか」
自分の卒業を特に喜んでいる様子もない龍麻に、マリアは少し拗ねてみせる。
「別にどうもしないわ」
そう言ったきり口を閉ざし、身動きもしない。
こうしていれば、きっと──
微かな空気の流れと共に、唇が受ける快さ。
期待通りの龍麻の行動に機嫌を直したマリアは、今度は自分からキスを仕掛けたのだった。
口実をつけて今から龍麻をベッドに引っ張り込もうか。
着替えながらそんなことも考えていたマリアは、
キッチンから漂う芳しい匂いにその考えをひとまず捨てることにした。
足音を立てずに歩き、龍麻の後姿をそっと覗う。
手馴れた様子で包丁やフライパンを操る姿は、彼の同級生も知らない、マリアだけが知るものだ。
それで良い──ただでさえ長身で人気のある彼が、鮮やかに料理をするところなど見ては、
彼に惚れ、誘惑しようとする者が大勢出るに違いないから。
教師にあるまじき独占欲を抱いたマリアは、しばらく龍麻を眺めていた。
龍麻は見られているとも知らず料理を続けていたが、
テーブルに皿を並べようと振り向いた拍子にマリアに気付く。
「なッ、何してんですそんな所で」
龍麻が動揺したのも無理はない。
ドアから半分だけ顔を出しているマリアは、少し薄気味の悪さすら感じさせるものだったのだ。
見つかってしまったマリアは悪びれずに姿を見せ、テーブルに座る。
「見てたのよ、アナタを」
彼女の瞳がゆらめいているのは、必ずしも誘っている訳ではない。
マリアにとって彼は、尽きることのない愛情の対象なのだ。
「別に、見るなら……そこから見ればいいのに」
音高く皿を置いた龍麻は、勢い良く踵を返してキッチンに戻る。
明らかに照れを隠している同居人に、マリアは涌き出る笑いを噛み殺すのに懸命にならねばならなかった。
食事はいつもと同じ、それほど豪華なものでもなかった。
妙に経済観念が発達している年下の男が卒業程度で外食は大げさだと断ったからだ。
それならそれで良い──とっておきのワインの封を切れば良いのだから。
そう妥協したマリアは、今手に入れようとすれば相当の代価を払わねばならない年代物の一本を開けた。
豊かな香りが鼻腔を満たす。
「……先生」
「もう先生は無しよ。外でもね」
匂いに情感を増幅させられたマリアは片目を閉じ、
声そのものがひとりでに踊り出すような陽気な声で言った。
グラスを掲げ、龍麻にもそうするよう促し、キスをするようにグラスを触れ合わせる。
しかし、紫色の蟲惑的な液体の向こうに透けて見えたのは、
らしくない蔭りを浮かべた龍麻の顔だった。
それに気付きたくないのに気付いてしまったマリアは、
気のせいであれば良い、と願いながら視線上にあるグラスを口元へと運ぶ。
顎を上げる寸前に見えた龍麻の顔は、やはり、このワインのような酸味を含んでいるものだった。
彼の表情の原因がそれであるかのように、
マリアは憎悪を込めてテーブルの上に置いたワインを睨みつける。
彼に口を開かせないよう、何でも良いから話そうとしたマリアだったが、
どういうわけかこの時に限って何も、思いつくことすら出来なかった。
口の中で暴れる酸味にてこずっている間に、一口も飲むことなくグラスを置いた龍麻が、
一瞬目を伏せ、そして上げる。
「マリア、俺……ここを出ようと思うんです」
彼が名だけで呼んでくれたのは初めてで、マリアにとって記念すべき一言となるはずだったが、
この時の龍麻の声だけは、どうしても記憶の中に留めることが出来なかった。
思いつめた龍麻の表情は、それが彼が随分前から考えていたこと、
そしてもう戻るつもりがないことを雄弁に物語っていた。
その決心を意外だとは思わないものの、受け入れることとは話が別だ。
「どうして? 大学にもウチから通えばいいじゃない」
陽気さを失っていないマリアの声は、過剰なまでの努力によって保たれたものだった。
そうすることで、龍麻の言を冗談だと済ませてしまおうとしたのだ。
「ありがとうございます。
けど……俺は単純なんで、ここで一緒に暮らしてるとその先まで期待しちゃうから」
それこそが望みである──そうマリアは言おうとして、気付いた。
自分と彼の間に横たわる、底の見えないクレヴァスを。
恐らく、いや決して彼は悪意で言ったのではない。
自分達の将来を真剣に考え、考え抜いた上で言ったのだろう。
しかしそれだけに、自分と暮らすことがどれほどこの未来ある青年にとって負担になるか、
解らないマリアではなかった。
無言で龍麻を見つめる。
深い黒の瞳には、彼らしくない迷いが浮かんでいた。
その迷いを与えたのは、自分。
ならばその迷いを解いてやれるのも、自分だけだった。
「そう……ね。アナタの言うとおりかもしれないわ」
顔だけでなく、声帯までを氷で覆ってマリアは言った。
それが彼にとって最善の答えであるはずだった。
「ええ。……今まで、お世話になりました」
龍麻の声は明るさを取り戻し、選択が間違っていないとマリアに信じさせた。
そう思わなければ、到底耐えられなかった。
彼の前で取り乱してはいけない──それが、教師として、大人として、最後にしてやれることだった。
だからマリアは、笑顔を作る。
心からの、偽りの笑顔を。
「いつ戻るの?」
「もう長いこと戻ってませんし、出来れば今日にでも」
ほとんど機械的に頷いたマリアは話を終え、最後の晩餐を始める。
一人だけで飲む、数百年を寝かせたワインは、あまりに酸味が強すぎるものだった。
気が付けば、食事は終わっていた。
ほとんど残らないように作ってくれる龍麻の料理だが、今日は二人ともほとんど残してしまっていた。
しかし、哀しそうに手付かずの皿を見ただけで、龍麻は何も言わない。
「ごちそうさまでした」
ただ、そう小さく呟いて、食器を片付けようと立ちあがった。
いつもならこのまましばらくは座って話をするのに、
今日はこの場から逃げ出そうとしているかのように急いでいた。
「待って。片付けはワタシがするわ。アナタは……帰る準備をしなさい」
「でも」
「いいから」
マリアは強引に彼から皿を奪い、片付け始める。
顔を見ないように片付けをしていると、龍麻は諦めたように荷物の置いてある部屋へと向かった。
彼と過ごせる残り少ない時間を自分から縮めるようなことをしたのは、
マリアも彼と同じく、逃げ出したかったからだった。
何処から、何処へ。
その答えを、マリアは両方とも持っていなかった。
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