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──十年が過ぎた。
二十歳にも満たなかった龍麻も成人し、社会人として忙しい日々を送っていた。
マリアは変わらぬ美貌のまま、真神の教師を続けていた。
そして彼らは、共に暮らしていた。
「ただいま」
「お帰りなさい、あなた」
帰って来た夫を出迎えたマリアは、靴を脱いだだけの龍麻に抱きついて唇を重ねる。
強引に首を捻られた龍麻は痛みに顔をしかめながらも、
十年前と全く変わっていない身体を抱きしめて応えた。
龍麻がそろそろ首の痛さに限界を感じ始めた頃、マリアはようやく解放してくれた。
鞄を渡し、家にあがる。
この部屋に住み始めてから十年が過ぎていたが、二人とも引っ越すつもりはなかった。
過不足無い大きさが気に入っていたし、
このサイズのベッドを置ける部屋を都内で探すのは大変な苦労なのだ。
着替えようとクローゼットに向かう途中、テーブルに並べられた料理を見て、龍麻は妻に尋ねた。
「あれ、今日はやけに豪華な料理だね。何かあったの」
「ええ、後で話すから、先に着替えてきて」
マリアがこんな風に言うのは珍しいことだ。
よほど大事な──多分良いことがあったのだろうと思い、
龍麻はこの場で無理に聞いたりせず、大人しく着替えることにした。
料理の当番は、マリアが毎日作るようになっていた。
これは龍麻の仕事が定時に帰れることなどほとんどないものであり、
一方マリアは教師だけにほぼ決まった時間に帰ることが出来るというのもあったが、
何よりマリアが龍麻の為に料理を作りたいと言い出したのがその大きな理由だった。
おかげで龍麻はこれまで栄養失調で倒れることもなく、
同僚からの飲みの誘いもほとんど断ってまっすぐ帰宅している。
最初のうちは付き合いが悪いことを怒られたりもしたが、
説明するうちにどうしても見せる羽目になったマリアの写真を見せた途端、
同僚達は渋々ながらも納得したもので、
こうして龍麻は毎晩愛情のこもった料理を食べられるという、
ささやかな──しかし、極めて価値のある幸せを手に入れていたのだった。
ただ、彼女は食材に遠慮無く高価なものを選ぶので、
それが唯一、取るに足りないほどの小さな悩みの種ではあった。
その種は恐らく永遠に発芽しない──そう龍麻は思っていたが、
目の前に並ぶ、いつにも増して豪華な料理を見たらため息をつきたくもなるというものだ。
だから龍麻は、その悩みと仕事の疲れと家に帰ってきた安堵とを一緒くたにして、
更に椅子に座るついでにそれを実行したのだった。
「ふぅ」
これで気持ちを完全に切り替え、妻の、愛するマリアの話を聞く準備が出来た。
龍麻はワインの注がれたグラスを軽く鳴らし──本当はビールの方が好きだったが、
家で飲むことはほとんど無かった──、食事を始めた。
「で、話って」
「私ね、教師を辞めることにしたの」
ワインを飲みかけていた龍麻は、予想を遥かに超える重大な話に、
危うくグラスを取り落とすところだった。
マリアの躾が行き届いているために、テーブルマナーで恥を掻いたことは無い龍麻だったが、
その嗜みも忘れ、手で口元を拭ってしまう。
普段なら優しくたしなめられるところだが、マリアは何故か何も言わなかった。
ただ黙って自分を見ているだけの彼女に、
余程ショックを受けているのだと思った龍麻は自分の動揺を抑えて尋ねる。
「まさか……何か言われたとか」
いくらなんでも十年の間全く容姿が変わらなければ不審を抱かれるのも当然だ。
それが特にマリアのように目立つ女性とあれば、
その手の声はもっと早くから上がっても不思議ではなかった。
就職して数年経った今はどうにか自分だけの収入でも彼女を養ってやれるが、
彼女が意に染まぬことをさせられて良い気分になるはずもない。
表情を曇らせた龍麻だったが、マリアの顔が自分ほどに雲っていないことに気付いた。
それどころか、喜びめいたものさえ浮かんでいる。
ただ辞めただけなら、これほど豪華な料理を用意する必要は無い。
ようやく気付いた不審を表情に浮かべた龍麻に、マリアは静かに告げた。
「……二ヶ月ですって」
「……まさか」
意味を理解した龍麻は、思わず立ちあがっていた。
驚かせようという一心で演技していたのだろう、
雲間から現れた太陽のように喜色を露にするマリアに、
龍麻ももちろん大きな喜びが胸郭を浸すのを感じていたが、
まずそれよりも大きな感情を整理しないといけなかった。
「あれ、本当だったんだ……」
呆れたように呟き、椅子に腰を落とす。
十年前に聞いた、でたらめでしかないと思っていた秘術。
自分との子を産むことも出来ず、自分が死んでもなお永い刻を生きなければならないマリアを
その責め苦から救い人に変ずる、とても人に話せない方法は、本当に存在していたのだ。
共に過ごした十年の中でも見たことが無いほど驚いている龍麻に、マリアは微笑みかける。
彼と共に過ごせた十年、そして共に過ごせる何十年かを思って。
「ありがとう、あなた」
それは、初めにマリアが妖魔でなくなっていることに気付き、
遠からず龍麻にこれを告げることが出来る日が訪れると知った時から言おうと決めていた言葉だった。
自分の体に変化が訪れた時、マリアは今の龍麻と同じく呆然としたものだった。
龍麻が探してきた秘法のことを忘れた訳では無かったが、
始まった日々変わらぬ、穏やかな生活はそのようなものをもう必要としていなかったのだ。
しかし、意を決して病院に行き──何しろ自分は人でないのだから、
診断など受けてその事実を発覚させる訳にはいかず、相当悩んだのだ──、
そこで事も無げに新たな命が宿っていることを告げられた時、ようやくマリアは、
自分が世界で一番幸福であると自覚することが出来たのだった。
本当の幸せに満たされ、きっと彼もそれを分かち合ってくれるだろうと信じていたマリアが見たものは、
号泣を始める夫の姿だった。
マリアは龍麻のこういう姿を予想していなかった訳ではないが、それでも驚かずにはいられなかった。
ティッシュを渡してやりながら、その何枚かを自分にも使い、遂には夫と同じくらい泣きだし、
二人はしばらくの間、幸福な泣き声を上げ続けた。
「……それにしても」
ティッシュがほとんど空になった頃、ようやく泣き止んだ龍麻に、マリアが話しかける。
二人とも顔はくしゃくしゃで、声もひびわれていたが、気にもしなかった。
龍麻は新しいティッシュの箱を開けながら、何気なく応じる。
「それにしても?」
「本当に十年で済んじゃうとは思わなかったわね」
愉しげにマリアが笑うと、龍麻は十年前と変わらぬ顔で赤面したのだった。



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