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翌日マリアが目を覚ましたのは、寒さで肩を震わせたことによってだった。
散々に求めあったあの後、寝間着さえ着ずに寝てしまったらしく、
目覚めはしたものの、まだ目は開けずにシーツを手繰り寄せる。
こうしていれば、そのうち龍麻が起こしに来てくれて、
あくびをしつつテーブルに座れば淹れたての紅茶が置かれるだろう。
ただし、今日はさすがにその前にシャワーを浴びないといけないだろうが──
その光景を夢見て、心地良い質感のシーツを被り直したマリアは、
異変に気付いて勢い良く跳ね起きた。
いくら裸で眠ってしまったといっても、そのまま放っておかれる訳がなかった。
彼が、隣にいるならば。
毎朝駄々を捏ねて中々起きようとしないマリアだが、初めて東京このまちに来た時と同じ、
誰も居ないベッドに心臓まで青ざめさせ、そのままシーツだけを掴んで玄関へと走る。
まさしく龍麻は、昨日何処にも行かないことを約束した男は、外に出ようとするところだった。
「龍麻!」
発した声は、怒声に近いものだった。
振り向いた龍麻の横顔は、昨日とは異なり、見つかってしまったことを悔やむものであった。
「一応手紙は書いておいたんですけど」
「説明しなさいッ!」
口調を教師のものに変え、マリアは詰め寄る。
そうすれば、彼が翻意してくれると信じて。
しかし、昨日マリア自らもう教師と生徒ではない、と言ってしまったからか、
龍麻は申し訳無さそうにしながらも譲らなかった。
「マリアを、人に変える方法を探しに行こうと思って」
あまりに荒唐無稽な話に、マリアは怒っているのも忘れて龍麻を見た。
その必要性からオカルト的な知識にも手を染めたことのあるマリアだが、
そのような話は聞いたことがない。
例えあるとして、数百年生きた自分でさえ存在すら聞いたことの無いものを龍麻が探し当てるまで、
どれだけの日数がかかるやら知れたものではなかった。
「そんなもの……ある訳ないでしょうッ」
だから、そんなものを探しに行く必要などないから、ずっと、ただ傍にいてくれればいい──
そう言おうとしたマリアは、控えめに、しかしきっぱりと首を振った龍麻に遮られてしまった。
「俺の勝手なんですけど、マリアより一日だけでいいから遅く死にたいんです」
そう言った龍麻の瞳を、マリアはもう睨めなかった。
唇を噛み、違うことを言いそうになるのを必死に堪えて彼を見つめる。
やがてその唇から、不承不承ではあるが、統一された意思が放たれた。
「必ず、還ってきて」
「はい」
最後に触れ合わせた唇の感触を、マリアは、龍麻が出ていった後もずっとなぞっていた。

龍麻を送り出したマリアは、そのままベッドに戻り、何もする気が起きずにただ寝転がっていた。
納得しての別れとはいっても、龍麻を喪ったという想いが性質の悪い酒のように身体を蝕んでいた。
休みで学校に行く必要が無いのを良いことに、少なくとも今日はこのままこうしているつもりだった。
と言っても眠れるわけではなく、瞼を閉じても思い浮かぶのは去っていった男のことばかりで、
広すぎるベッドを持て余しながら寝返りを繰り返していた。
それでも、横になっていれば眠気はやってくるらしく、
いつしかマリアは泥のような眠りに落ちていた。
浅く、気だるい眠りを断続的に繰り返すマリアは、自分が今起きているのかどうかさえ判らなかった。
それでも構わない。
龍麻がいなければ、この世界などあってもなくても関係無いものだったからだ。
しかし、ただ彼のことを想うという、最も楽しく、退廃的な時間を過ごしていたマリアの耳に、
家の入り口の方からかちゃかちゃと言う音が聞こえてきた。
玄関には間違い無く鍵をかけてあるし、泥棒程度ならどうとでも出来る──
目覚めても残る気だるさの中でわずらわしい音から心をそむけ、シーツを手繰りよせたマリアは、
突然ある予感に捕らわれ、勢い良く跳ね起きた。
そのままシーツだけを纏い、玄関へと急ぐ。
着くのを待っていたかのように開かれた扉の向こうには、
彼女が信じた予感が現実のものとなって立っていた。
「ただいま……って、なんて格好です。朝と同じじゃないですか」
「龍麻……どうして」
声を詰まらせたマリアの問いに、龍麻はいかにも照れたように頭を掻いた。
「説明しますから……とりあえず、服を着てください」

着替えたマリアはテーブルに座った。
本当なら話など後回しで、すぐにでも抱いて欲しかったのだが、それはさすがに言えなかった。
龍麻の顔は朝までと変わらぬ穏やかさながら、どこか不安定なものであったのだ。
せりあがる不安を抑え、一心に帰って来てくれた龍麻を見つめる。
一瞬だけ目を合わせた龍麻は、その後忙しく視線をさ迷わせ、
どこから話して良いか迷っているようであった。
マリアが自分でも驚くほどの辛抱強さで待っていると、
二度咳払いをしてから、龍麻はようやく口を開いた。
「裏密っていましたよね。隣のクラスの、オカルトにやたら詳しい」
龍麻が何を言おうとも受け入れる覚悟の──実のところ、彼が傍にいてくれさえすれば、
どんな結果だろうとどれほどの覚悟も必要とする訳ではないが──マリアだったが、
これには全く意表を衝かれ、しばらく黙らざるを得なくなった。
「偉そうには言ったけど、俺も何処から行っていいかさっぱり解らなかったんで、
もしかしたらって思ってあいつに聞いてみたんです。そしたら」
龍麻が差し出したのは、ぼろぼろの本だった。
縫製はとっくにほつれ、うっかりすると崩れてしまいそうな代物だ。
机の上に慎重にそれを置いた龍麻は、緊張なのか、それとも崩さないようになのか、
手を震わせながら紙をめくった。
欧州圏の言語なら大体理解出来るマリアだが、この本に記されているのは漢字、
ということがようやく解る程度の難解な文字だった。
「ここ……なんですけど。俺も読めなくて、裏密に翻訳してもらったんですけど」
そこで口を閉ざした龍麻は、もったいぶっているのではなく、
何故かその先を言いたくなさそうにマリアには感じられた。
その証拠に、何気なく龍麻を見ると、彼は大慌てで顔をそむける。
マリアがますます不安を募らせると、ひどく棒読みな龍麻の声が聞こえてきた。
「物の怪を人に変じる術。龍丹を用意し、その物の怪に注ぐべし。
回数は物の怪の妖力によって変ずるなれど、その妖力によって変ずると心得るべし」
龍丹とやら言うものを用意し、注ぐ……恐らく飲むか食べるかすれば良いのだろう。
言っていることは割と基本的なことであり、マリアは納得したが、問題はその服用するべきものだった。
「龍丹……って何かしら」
「それも聞いてきたんですけど、その……要するに、俺の……らしくて」
龍麻が言葉を濁した部分を理解するのに、マリアはしばらく時間がかかった。
答えそのものはすぐに浮かんだのだが、どうしてもそれを思考に結び付けられなかったのだ。
嘘臭い、と思った。
どう考えてもご都合主義だ。
大体西洋の魔である自分が、東洋の秘術とやらで人間になれるとも思えない。
しかもそれが、オカルトに詳しいとは言え、
歩いていけるような近所に住んでいる少女の家から見つかるとは。
マリアはつい、発作的に嘲笑するところだった。
恐らく、そうしても龍麻は怒らなかったに違いない。
彼の還ってきた時の表情は、喜劇にすらなり得ないこの馬鹿ばかしさに基づくものだったのだろうからだ。
しかし、数百年の刻を生きた妖魔として嘲笑しようとしたマリアは、女としてそれを止めた。
嫌だった。
龍麻がいない日々など、例え自分の為であったとしてももう耐えられなかった。
正確には一日にも満たない彼との別離でいやというほどそれを思い知らされたマリアは、
龍麻が探してきた、というのも憚られるような安易さで手に入れた秘術とやらを、信じようと思った。
結果など構わない。
彼と共に在ることが出来るのなら、それだけで良かった。
下唇を軽く噛み、口の中で語調を整えて尋ねる。
「そう……それで、ワタシの場合はどの位必要なの」
「一万回くらいは必要だろうって言ってました。計算だと、大体三十年はかかっちゃうんですけど」
もはや自棄やけになったのか、龍麻は照れずにそう言った。
三十年と言う数字はマリアにとっては決して長いものではないが、
龍麻にとっては人生の三分の一に当たる長さだ。
「アナタは……それでいいの?」
完全には抑えきれず、わずかにビブラートのかかった声でマリアは尋ねる。
返ってきたのは、力強い返事だった。
「俺も……思ったんです。マリアのいない毎日なんて嫌だって。
だから、まずこれを試して、駄目だったらまた別の方法を探して……
その時、俺だいぶマリアより年上になっちゃってますけど」
本気で言っているらしい目の前の馬鹿に、マリアは今度は失笑を隠さなかった。
帰ってきてしまった龍麻に、自分がまた別の方法、
などというものを探しに行かせるとでも思っているのだろうか。
笑うマリアに龍麻は憮然としていたが、本気ではないのは容易に判る。
彼もまた、もう結果など気にしていないのだ。
見つからないかもしれない秘術を求めて自分と離れ離れになるより、
共に在ることを選んでくれたのだ。
喜びにマリアは胸が張り裂けんばかりであったが、
半日とはいえ自分を置き去りにした龍麻に、素直に喜びを見せるのも面白くない。
いかにも真剣を装って少し考えた末、彼女は実につまらなそうに言った。
「そうね、でもそんなに待たなくても結果は出ると思うわ」
「どうして」
「簡単じゃない、一日三回なら十年で済むわ」
「……あ」
赤面する龍麻に気取られないよう、腰を浮かせる。
「それにね」
立ちあがったマリアは、彼の胸に飛び込んだ。
「もう百回は済ませてるから、そんなにはかからないんじゃないかしら」



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