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 葵が龍麻に追いついたのは、彼が校舎の入り口に差しかかる頃だった。
葵は小走りで追ったのだが、龍麻の移動は妙に速く、
百メートル近くも進んでようやく声が届く距離まで近づけたのだ。
「緋勇君」
 呼びかけに足を止めた龍麻は、ゆっくりと振り向いた。
「何か?」
 鉄の瞳が再び葵を射抜き、葵は、少しだけ余分に息を整えなければならなかった。
「あ……あの、手を怪我しているみたいだから」
 指摘されて初めて気がついたというように、龍麻は両手を順に見た。
左手の甲には少なくない血が滲んでいたのだが、痛いそぶりも見せなかった。
「ああ、本当だ。でも、放っておけば治る」
「駄目よ、そんなの。手当てしてあげるから、保健室に行きましょう」
 龍麻は口の端をやや不満げに曲げ、即答しなかった。
 余計なお世話だと葵も思った。
彼と親しいわけでもなし、大したこともなさそうなのだから、
喧嘩をして負った傷など、彼の言う通り放っておけば良いのではないか。
そう思いつつも、葵はこの色々と規格を外れている転校生をなぜか放ってはおけなかった。
 保健室に龍麻を連れてきた葵は、彼を椅子に座らせる。
保健医は不在だが、龍麻が言ったとおり傷は大したことがなく、葵でも手当てはできそうだった。
消毒液とガーゼを用意し、彼の手を取る。
血を拭えばたった今喧嘩してきたとは思えない、綺麗な手だった。
葵は幾分緊張しながら治療を始めた。
「……」
 龍麻は無言のままだ。
「あ、あの……ああいうことを、いつもするの?」
 気まずさに耐えきれなくて苦し紛れに吐いた質問は、最悪の内容だった。
 赤面する葵の、触れている手がわずかに揺れる。
葵が顔を上げると、龍麻が苦笑していた。
ずいぶんとおとなびた表情に、葵の頬はますます熱くなった。
「どこの学校でもああいう連中はいるもんだけど、転校初日に喧嘩を売られたのは初めてだな」
 彼の言う通り、たとえ偏差値が真神學園よりはるかに上の高校でも、
落ちこぼれてしまう人間は必ず存在する。
内に篭るか、外に発散するか、折り合いをつける方法を見つけるか、
全てを拒んで他人に当たり散らすか。
二年間で最下層に落ちてしまった佐久間と、何もしないでも上層に留まれる龍麻が
出会ってしまったのは、確かに不幸と言うべきだったろう。
「あの……ごめんなさい」
「どうして君が謝る?」
 なんとなく口にした謝罪は、シャープに両断されてしまった。
彼の顔を直視できなくなった葵は、治療に専念する。
「あいつは、クラスの他の子にも迷惑をかけているのか?」
「いえ……佐久間君はあまり学校に来ないし、来ても授業には出ないことが多いっていう話だから」
「ふうん……困っているようなら、次はもう少し手厳しくやってもいいんだけど」
 葵は返答に窮した。
喧嘩を拒もうとしないのと、負けるとは露ほども思っていないらしい態度は、
決して葵の好むものではないからだ。
今日は佐久間から絡んできたのだとしても、二度三度と続くのなら龍麻にも責任がないとは言えなくなる。
これまでの人生で熾烈な競争や強烈な悪意というものに接してこなかった葵は、
喧嘩や暴力というものに対して当然否定的であり、その考えに疑いを持ったことなどなかった。
学校中から忌み嫌われている佐久間に対しても、クラスが同じになったのが今年初めてであり、
つまり、龍麻と同様、初対面であるわけだ。
だから佐久間の悪評は伝え聞いてはいても、そこまでの悪人とも思っておらず、
今回の件も大勢で喧嘩したのは卑怯だとしても、龍麻に対しても対応が悪かったのではないかと
非難する気持ちが皆無ではなかったのだ。
 ではなぜ我関せずで済ませず、龍麻のみを治療しようとしたのか。
それは葵自身にも判らなかった。
深く考えるのは怖い気がして、葵は早く彼と別れようと思い、治療に専念した。
 ふと気づくと、龍麻が見ている。
先ほどの旧校舎裏よりもはるかに近い、息がかかりそうな距離で、葵はまともに彼の眼を見てしまった。
「……っ」
 彼の深い黒色の瞳に、呼吸が詰まる。
親愛も、欲望もない、何の変哲もない眼に、なぜこうも心騒がせられるのか。
知らぬ間に満ちた潮のように、何か恐ろしいものに心を侵蝕される悪寒に、葵は思わず立ちあがっていた。
「あ、あの、包帯を取ってきます」
 追いかけてくる龍麻の視線から逃れるように、葵は身を翻した。
動悸が外に聞こえそうなほどに高まり、震える指先を隠して棚を開く。
渾身の力で引ったくるように包帯を掴み、振り返った葵の、目の前に龍麻が居た。
「……!!」
 変化は急激だった。
音もなく動く龍麻が、淀みのない、熟練のダンサーのような動作で、
ほとんど衝撃も与えずに葵を押し倒す。
葵が状況を把握したときには、世界は九十度転回し、右腕は頭の上で押さえられていた。
 豊かな前髪の奥に覗く、黒い瞳が葵を見据える。
さっきよりも近い距離で射抜かれた葵は、声も出せないでいた。
 龍麻が顔色一つ変えぬまま、無造作に制服に手を入れる。
女性にとって大切な部分のひとつである胸のふくらみは、呆気なく占領されていた。
生まれてからこの方、誰にも触らせたことなどなく、いずれ誰かが触れるのだとしても、
その誰かの具体的なイメージさえなかった部分に、気持ちの悪い感触が伝わってくる。
それはまだ異性と交際した経験のない少女の甘い幻想を打ち砕くには充分で、葵の心を、
粘度の高い恐怖が塗りつぶしていった。
「や、やめ……て……」
 掠れた声をあざ笑うように、胸が揉まれる。
自分の意志に寄らず形を変える肉体の気持ち悪さに、空気が固体になったように飲みこめない。
「中々大きいな」
 果実の出来を品評するような龍麻に、葵はようやく反抗の意志を宿し、
空いた左手で龍麻の右手を掴んだ。
しかし、ようやく掴んだ手は鋼のように固く、制服から引っ張り出すことなどとてもできなかった。
「どうして……こんなことをするの……?」
「どうして、だって? 気づいていないのか?」
 龍麻が何を言おうとしているのか、葵には全く理解できなかった。
そもそも龍麻とは会ってまだ数時間しか経っておらず、そのほとんどは授業中で、
会話を交わしたわけでもなく、お互い人となりなど知りようもないというのに、
何故彼は知った風なことを言うのか。
「わからないわ。わからないから、説明して欲しいの」
「なら、わからないままでいいさ。そのうち、嫌でもわかるだろうからな」
 葵の懇願をにべもなく否定した龍麻は、右の掌を嫌らしく動かした。
手を一杯に広げ、全てをつかみ取ろうとするが、豊かな乳房は、
指の先にまで柔らかな質感を与えてなお余る。
指を沈めるように押し当て、逆に持ちあげるように掴む。
下から持ちあげるように掬い、餅を捏ねるように左右に揺らし、女体を堪能した。
「やめて……お願いだから……」
 気持ち悪さしか感じない龍麻の行為に、葵の喉からは薄紙を裂いたような声しかでない。
彼の、このような狼藉に及んでいるにもかかわらず、いささかの揺るぎもない黒い瞳に、
底知れない恐怖を覚えたのだ。
葵は未だ男性の欲望にぎらついた瞳など見たことはないけれども、
龍麻のそれはあまりに冷徹で、ほとんど義務的に狼藉を働いているようですらある。
これが彼の本性ならば、凄まじい邪悪と言わざるをえなかった。
 もう一度、葵は龍麻を押しのけようと試みる。
だが、頭上に押さえつけられた右手は石像と化したように全く動かせず、
ただ手首に篭る熱が増すばかりだった。
「その様子じゃ、まだ処女みたいだな。もしかしたら、男とつきあったこともないのか?」
 恥辱で葵の頬が紅く染まる。
真神學園内で人気投票をすれば間違いなく上位に入るだろう葵は、彼の言う通り、
交際を申し込まれたことは幾度となくあっても、誰か特定の異性と交際した経験は未だ無かった。
親友が同様に異性に関心をみせなかったため、それに慣れてしまっていたというのもあるが、
葵の心を騒がせる異性が現れなかったというのも事実である。
そして目の前にいる、今日転校してきたばかりの異性は、
もっとも最悪な意味で葵の心を騒がせたのだった。
「お願い……今なら、誰にも言わないから」
「今を過ぎたら誰にも言えなくなるのにか」
 言葉尻を捉えられた葵は顔を青ざめさせ、一方で龍麻は勝ち誇ったように乳房を弄んでいた手を
腹へと移動させた。
ブラジャー越しではない、肌に直接触れられる不快感は胸に勝る。
色気と美しさの完璧な均衡が取れた唇を歪め、葵は忌まわしき暴漢の手を排除しようとしたが、
暴れるすべさえ彼女には残されていなかった。
 滑らかな腹部を龍麻の手は這いまわる。
弦楽器を弾くように肋骨の間を滑り、呼吸に合わせて上下する腹を、
花の種を運ぶ春風のように優しく撫でていく。
ゆるやかに、そして明確に、一定の方向を目指して。
 龍麻の親指がスカートの上端に触れ、葵は新たな恐怖に首筋を掴まれた。
彼が最終的にどこを目指しているのか、遅まきながら気づいたのだ。
「ひっ、緋勇君……止めて……っ……!」
 だが、龍麻の表情には変化がない。
薄い笑いも欲望にぎらついた眼も見せず、淡々といえるくらいに葵の身体を侵略しているのだ。
彼が人間の姿をしているだけの怪物にすら思え、絶望が心を浸していくのを感じた。
 だが、不意に顔をしかめた龍麻は、押し倒したときと同様、滑らかな動作で身体を起こした。
葵の腕を取って彼女も起こすと、襲っていたなどとおくびにも出さぬようすで半歩離れる。
呆然としている葵の前で、入り口の扉が開き、保健医が入ってきた。
 年配の保健医は数十秒前まで行われていた、穢れた行為に気づく気配もなく、
生真面目を装った龍麻に話しかけた。
「あら、どうしたの?」
「彼女が少し具合が悪いと言うので、連れてきました」
「そう……まだ用事があるのだけれど、付き添っていた方がいいかしら」
「いえ、もう大丈夫みたいです。な」
「え? え、ええ、はい、大丈夫です」
 淀みない龍麻の返答を、保健医はすっかり信用したらしく、葵を頼むよう言って出ていった。
 再び龍麻と二人きりになった葵は、壁を背にして警戒したが、
龍麻は、今日の所は陵辱をあきらめたようだった。
葵に学生鞄を渡し、自分の鞄を持つと、拍子抜けしている葵を尻目に、さっさと出口へ向かう。
「こういうのは、ムードも大事だからな」
 あまりにも人を馬鹿にした言い種に、葵は思わず睨みつけた。
元来負の感情を浮かべるようにはできていない顔に浮かんだ憎しみの相は、
少しでも罪の意識があるのなら、許しを請わずにはいられない深い憂いをも帯びたものだったが、
龍麻は意に介した風もなく、颯爽とすらいえる足どりで保健室を出ていった。
両腕をかき抱いたままの葵は、彼の残影が消えるまでその場を動けなかった。

 その夜、葵は中々眠ることができなかった。
瞼を閉じても夕方の出来事が脳裏に、熱量を伴って鮮明に浮かびあがってくる。
葵は近隣の学校にまで噂が及ぶ美貌の持ち主であるため、
学内外を問わず交際を申し込んでくる男は枚挙に暇がない。
真面目な学生からいかにも軽そうな男、文通から始めて欲しいなどという古風なものや、
かなりしつこく誘われたことも一度や二度ではない。
そうした彼らを断ってきたことで、対処する術は身につけたと思っていた。
 だが、今日転校してきた緋勇龍麻という男は彼らのいずれもと違った。
今まで葵が関わった男達の、もっとも性質の悪い男でさえやらなかった、
いきなり襲いかかってくるという暴挙を、それも學園内で働こうとしたのだ。
葵に警戒心が足りなかったのは否定できないが、それにしても、
誰かに見つかれば停学では済まない狼藉に及ぼうとするなどと、常人の想像を超えている。
 龍麻の顔を思いだし、葵は寝返りを打った。
悪相ではない――どちらかといえば整っている顔立ちだ。
量が多く、襟足と前髪が長めの、重さを感じさせるくらいの黒髪は、
流行の髪型ではないけれども、意志の強さをみなぎらせた眉目とシャープなラインで構成された骨格は、
流行り廃りに左右されない、普遍的な良さを持つ男の顔だった。
だから葵も同級生として自然に彼を受け入れたのだ。
 それがゆえに佐久間達不良の不興を買ったというのは、まだ理解できる。
そして彼が見た目からは想像できない強さを有していて、数を恃んだ不良達を返り討ちにしたことも、
納得はできる。
 しかし、そのあと、純然たる好意で治療をしてやったというのに、
まさか恩を仇で返す――それも、女性にとってもっとも辛い仇で返そうとするとは!
保健医が来てくれなければ、葵の貞操はあの場で奪われてしまったかもしれないのだ。
 布団の中で小さく身震いした葵は、さらに記憶を辿る。
 何故こんなことを、と訊ねた葵に、龍麻は言った。
「わからないままでいいさ。そのうち、嫌でもわかるだろうからな」と。
 それはまるで、葵にも責の一端があるような口ぶりだった。
そんなことを――男性の欲望を誘発するようなことを、知らぬうちにしてしまったのだろうか?
 常識的に考えればあるはずがないことを、葵は律儀に考えてしまう。
それほど龍麻の狼藉は、これまでおよそ人間の陰というものを、知りさえせずに生きてきた
葵にとって衝撃だったのだ。
 陰。
彼の黒い瞳を葵は思い起こす。
あれが悪人の眼というものなのだろうか。
休み時間に転校生が物珍しい同級生達と、十年来の友人のように親しく語らっていた姿は偽りで、
女に対して一方的に欲望をぶつけようとする姿こそが真実である男が持つ、漆黒の闇なのだろうか。
葵にはわからなかった。
ただ、彼の眼を見て身がすくむような感覚に、一度ならず囚われたのは事実だ。
容易に気を許してはならない――そう考えるのは、哀しいことだったけれども。
 教師や他人に今日の一件を報告するつもりがない以上、これ以上は考えても仕方のないことだ。
記憶を辿るのを止めた葵は、龍麻が改心してくれることを願いつつ、眠ろうとした。
 忌まわしい記憶を努めて忘れようとする葵に、不意にある衝動が涌き起こった。
信じがたいそのような衝動が生じたことに愕然とし、寝返りを打って消し去ろうとする。
だが、噴火し、隆起する火山のように急速に心の一角を昂ぶらせる衝動は、その程度では解消できない。
眠りに落ちてしまって欲しいという願いも空しく、目は冴えるばかりだ。
耳鳴にも似た鼓動が頭の中を激しく叩き、落ちつこうと深く吐いた呼気の熱さに驚き、
被りなおした布団の中で、得体の知れない興奮に囚われ、ついに葵は衝動に屈した。
 強く目を閉じなおし、これからすることは記憶に残さないという決意を胸に、布団から右腕を出す。
自分も含めて誰も見ていないというのに、ひどく怯えながら、葵は右腕を頭の上に置いた。
それは数時間前、龍麻によってなされた、意に染まぬ姿勢の再現だった。
 なぜこんな姿勢を取りたくなったのか、己の心に何回訊ねても葵は回答を得られない。
これは暴漢による、女性を辱めるための姿勢に他ならないというのに。
現に今、自分から取ったこの姿勢に、葵は嫌悪を感じている。
一瞬の油断で押し倒され、息がかかる距離で見た男の顔に抱いたのは、激しい恐怖だけだ。
なのになぜ、もう彼の圧力はないのに、再び、魂を束縛されたように右手を挙げてしまうのか。
解答を見つけだせないまま、葵は低く喘ぎ、閉じていた目をゆっくりと開いた。
広がる黒い闇は、何故か葵の記憶を刺激し、刺激された記憶は、右の手首に不思議な熱を呼び覚ました。
痛くはなかったが、吸いついたように離れなかったのは、この熱のせいなのか。
 再び目を閉じた葵は、左手で右の手首に触れてみた。
そこにはほのかな熱と、普段よりもはっきりと感じられる脈拍があった。
 音さえ聞こえてきそうな脈拍の理由を、葵は知ろうとはしなかった。
むしろ考えてしまうことを怖れるように、腕を戻し、
固く眼を閉じて再び寝返りを打ち、無理やり眠ろうとした。
陸に上がった軟体動物のようにベッドの上でのたうち回った末、
葵は彼女が望んだ闇の世界へと沈んでいく。
その右の手首に感じる熱は、意識を手放す直前まで、はっきりと残っていた。



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