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 昼間の喧騒も失せ、都会の中心であることが嘘のように静まりかえった新宿中央公園。
 その中を、一人の男が歩いていた。
瘴気めいたものを撒き散らしながら歩くその姿に、近寄ろうとする者などおらず、
運悪く通りすぎる羽目になった者も道の端へと避け、小走りで去っていく。
 男はそれらの者を一顧だにせず、酩酊したような足取りで、
偽りの光に満ちた歌舞伎町の方へと、灯りに誘われる蛾のように向かっていた。
「何でだ……何で、俺は……奴等に勝つことができねぇ」
 男は溜まった唾を吐き出した。
そうすることで忘れようとしたいまいましい奴等の顔は、
しかし消え去ることはなく、それどころか口に出したことでより鮮明さを増してしまう。
 緋勇。
 蓬莱寺。
 そして、醍醐。
思い浮かんだ三人の顔は、悪意に満ちた笑みを浮かべていた。
葵を奪っていった奴。
自分を嘲笑っている奴。
そして、自分を見下している奴。
鬱屈する心情は日々内圧を高めていたが、それを発散する場を男は持たなかった。
それ故にその鬱屈は合わせ鏡のように自らを増幅していき、
もはや思考の大半を占めるまでになっていた。
「クソ……どうすれば、奴等に……」
 自覚の無いまま口を動かし、憎しみを形にする。
その鬱憤をわずかでも晴らすべく、刹那的な快楽を求めて歩を進める男の耳に、
突然囁きかける声があった。
「何を悩むことがある、我らが同胞よ」
「誰だッ!」
 男は立ち止まり、辺りを見回した。
誰もいない。
気配すらない。
薄暗いとはいえ、電灯もあり、人影程度なら容易に識別できる公園内にあって、
声が幻聴だったかのように周りには自分以外誰もいなかった。
 気に入らなかった。
姿を見せないのも気に入らなかったし、己の内心を覗かれたのも気に入らなかった。
暴力をふるうことでどす黒い欲望をいささかでも晴らしてやろうと、男は必死に声の主を捜し求める。
しかし、声は耳のすぐ傍から聞こえてきているというのに、人影はどこにも見当たらなかった。
苛立ちを募らせる男に、更に声は語りかける。
「主の抱くその怨恨は、我らが鬼道の恩恵を得るに相応しい。
限りなく我らに近い魂を持つ男よ──」
 言っていることは半分も解らなかったが、声は、奇妙に心安らぐ響きを帯びていた。
苛立ちを、薄い膜が覆っていく。
「さあ、解き放て──そして、嬲り、殺し、そして食らうが良い。思いのまま、奪うが良い」
「奪う──?」
 何と快い響きか。
生きる為に命を食らい、牝を手に入れる。
己の欲望の赴くままに生き、他者から奪うことは、牡の、獣の本能であった。
脳の最も原初的な部分を刺激され、男の心が緩む。
その隙間に、声はぬるりと忍びこんだ。
「怖れることはない。『選ばれし者』よ、己の内に渦巻きし暗き念に身を任せるが良い」
 侵入してきた声が、頭の中を食い荒らす。
それは、ひどく甘美な感覚だった。
「恨め──憎め──殺せ──」
「なッ……なんだ、頭が……」
 男は地面に膝をつき、頭を抱える。
声はますます思考の隅々にまでその淫靡な触手を伸ばし、男から何もかもを奪っていった。
「堕ちるが良い、佐久間よ……変生せよ……」
「ぐッ……がァッ……ぐぉォおぉォ……ッッ!!」
 誰にも聞こえることのない囁きが、幾重にも反響し、男を食い尽くす。
 男が最後にあげた叫びは、獣の咆哮であった。

「それでは今日の授業はこれで終わりです。
昨日も言いましたが、佐久間クンを見かけた人は先生に連絡してください。
──それでは、Goodbye,everyone」
 生徒達が担任であるマリア・アルカードに唱和すると、
静かだった教室が一斉に騒がしくなる。
学校という拘束から解かれた彼らからすれば当然のことではあるとしても、
それにしても、欠席を続けている佐久間に誰も関心を払おうとしないのは哀れといえた。
 帰り支度を整える龍麻のところに、醍醐雄矢がやってくる。
彼が来た理由を龍麻は察したが、自分からは口にせず、彼が切りだすのを待った。
「一週間……だな。佐久間がいなくなって」
「ああ」
 龍麻は短く答えた。
 同級生達と同様、龍麻も彼に好印象を抱いてはいない。
なにしろ龍麻は転校初日に彼に因縁をつけられ、佐久間が恃む暴力の洗礼にさらされたのだ。
偶然居合わせた京一と共に彼らを退けはしたものの、
以来隙あらば復讐しようという陰湿な視線が途絶えることはなく、うっとうしさは募る一方だった。
 粗暴で何度かの暴力沙汰を引き起こしている佐久間は、
真神学園全体でもほとんど全員に嫌われていた。
その中で、佐久間のグループに属する不良連中以外で最も中立に近いのは、
佐久間が形だけ所属しているレスリング部の部長を務める醍醐であったろう。
 自分が佐久間を嫌っていると知りつつ、彼の話題を出さねばならないということは、
事態の深刻さを物語っているのかもしれない。
そう推察した龍麻は、眼で醍醐に続きを促した。
「どうやら、自宅にも帰っていないらしくてな。
このままだと、警察に捜索願いを出すことになるらしい」
 と言うことは、親にも全く話していないということか。
 現在一人暮らしの龍麻は、週に一度親と連絡を取るくらいではあるが、
その時は大抵自分から電話をかけているし、仲が悪くなったこともない。
いくつかの事情があって割とあっさり反抗期を終えてしまった為に、
家出など考えたこともない龍麻には、佐久間の心境は全く解らなかった。
 その後も儀礼的に佐久間について醍醐と話したものの、
もちろん龍麻は失踪した彼の居場所など知るはずもなく、
会話は中途半端なものに終わらざるを得なかった。
 醍醐も彼の家に電話をかけてみたりはしているが、
ぞんざいな口調で親に知らないと言われればそれ以上のことは訊けず、
彼の子分達に訊いたところでまともな答えが返ってくるはずもない。
焦慮を覚えつつも、どうしようもないのだった。
 いつものように彼らのところにやって来た小蒔は、
あまり心楽しくない会話を続ける二人に、口を挟む気にもなれず無言で立っていた。
 掌に、苦い熱さが蘇る。
夏休みのある日、不埒にも葵を強引に連れて行こうとした彼を、小蒔は激怒して張り飛ばしたのだ。
悪いことをしたとは思っていないし、葵を護るためなら彼に嫌われようとどれほどのことでもない。
しかし、こうして佐久間が失踪してしまうと、
その原因のいくらかでもあの平手打ちにあったのではないかと、つい考えてしまうのだった。
 彼女らしくない、あまり健全ではない思考に陥っていた小蒔は、
頭を一つ振って佐久間のことを追いだし、どうやら二人の話も一段落したらしいとみて口を開きかける。
ところがその拍子に目に入った時計の針は、それどころではない位置を示していた。
「ッと、もうこんな時間だ。葵、あーおーいッ」
 小蒔が呼ぶと、別の友人と話していた葵は、のんびりと龍麻達のところにやってきた。
「あら小蒔、まだ行かなくていいの?」
 何を話題にしていたのかいかにも楽しそうで、声にもそれが表れていて、
小蒔はやや沈んでいた気分を晴らすことができた。
「うん、今から行くトコ。ハイこれ、学校への地図」
「ありがとう、後から行くわね」
「今日何かあるのかよ」
 葵と小蒔の会話に割りこんだのは、蓬莱寺京一だ。
彼は六時限目の授業中爆睡していて今起きたところで、大きなあくびをしながらの質問だった。
 京一の喉の奥を見せられて小蒔は眉をしかめたが、映像記憶を消すかのように頭を一つ振ると、
京一ではなく龍麻と醍醐の方を見て答えた。
「あれ、言ってなかったっけ? 弓道部の練習試合なんだ、今日」
 少なくとも龍麻には初耳だった。
京一もどうやら同じようで、いかにもつまらなそうに二度目のあくびをしている。
もう少し観察すれば、醍醐はどうやら前から聞いていたらしいというのが
態度から窺えたのだが、その前に京一が三度目の欠伸が混じった声で言った。
「なんだ、そんなんかよ……俺はまたいよいよ小蒔が男子校に転校すんのかと」
「な・ん・でボクが男子校に転校しなきゃなんないのさッ」
「そりゃお前、その学校のボスに君臨して全国を支配すんだよ。
そしてそれに立ち向かう美形の剣士! かー、燃えるねェ」
 六時限目の夢の続きなのか、京一の言うことにはこれっぽっちも意味がない。
白けた目で京一を見た小蒔は、軽く頭を振って他の友人に説明した。
「はぁ……もういいや、バカはほっとこ。
真神と仲のいいゆきみヶ原高校でやるんだけどね、良かったらみんなも応援に来てよ」
 小蒔に無視されても堪えた様子もなくどこか遠くに旅立っていた京一だったが、
荒川区にあるというその高校の名前を聞いた途端、光の速さで戻ってきた。
「何ィッ! ゆきみヶ原っていやぁお前、二十三区でも指折りのお嬢様学校じゃねェかッ!
水臭ェなぁ小蒔、なんでさっさと言わねェんだよ」
「やっぱ、京一には教えなきゃ良かった……」
 処置無し、と短い髪を振る小蒔に、京一を除いた一同が笑う。
その笑いが収まったのを見計らって、小蒔は軽く手を上げた。
「んじゃ、ボクは行くね。他の部員も待ってるし」
 鞄を持ち直した拍子に、小蒔の腰についている小さな何かが揺れた。
目ざとくそれを見つけた京一が、素早く手を伸ばして確かめる。
彼の手の内に収まったのは、いかにも古ぼけたお守りだった。
「ん? お前こんなお守り前からつけてたか?」
「あ、これ? へへへ、醍醐クンに借りたんだ」
「醍醐に? なるほどねェ」
 京一の口調はおせじにも上品と言えるものではなかった。
京一だけでなく、葵と龍麻もらしくない好奇心を瞳に浮かべて醍醐を見やる。
「なッ、なんだその目は。それはだな、醍醐家に代々伝わるそれは由緒正しいお守りでだな、
俺はそれを持っている時は試合に負けたことが無いという」
「いやいや、わかったよ」
 いつになく饒舌な醍醐を遮って京一は顎を撫でた。
「ふんッ。役に立つかはわからんが、桜井が勝てるようにと思っただけだ」
 揃って同じ表情をしている三人に、弁が立つ訳ではない醍醐は諦めて腕を組み、横を向く。
まだ日に焼けている横顔は、少し赤らんでいるようにも見えた。
「えへへへ、ありがと、醍醐クン。今日は三年間の締めくくりだからね、雛乃にも勝たないと」
 京一からお守りを取り戻した小蒔は、いかにも大事そうにそれを結び直す。
そのお守りとそれをあげた人物を交互に見た龍麻は、
驚きっぱなしの心情をなんとか手繰り寄せて、全く別のことを聞いた。
「雛乃っていう子は、ライバルなのか?」
「うん、ゆきみヶ原の弓道部長で、一年の時からずっと互角なんだ。
実家が神社だから、巫女さんなんだよ」
「巫女か……俺には見えるぜ、竹箒を持った和風美人の姿が」
「緋勇クン、ちょっといいかな」
 お嬢様学校の弓道部長にして、巫女。
京一が妄想するのもある意味当然と言える。
また遠くに旅立った京一に目を細めた小蒔は、龍麻の耳を引っ張った。
「雛乃もなんだけどさ、ゆきみヶ原に行ったら京一が向こうの子に
ヘンなちょっかい出さないように見張っててくれる?」
 龍麻が笑って頷くと、小蒔は勢い良く身を翻した。
「それじゃ、後で向こうでねッ」
「気合が入ってるな」
 龍麻のつぶやきに葵が応じなかったのは、彼とはあまり会話したくなかったのと、
警戒は龍麻にこそ向けられるべきではないかと思っていたからだ。
 龍麻が異能の『力』によってゆきみヶ原高校の女子生徒を誑かす可能性は、ないとはいえない。
何しろ初対面に等しい葵に襲いかかったくらいなのだから、充分に注意しておく必要があるだろう。
 葵の心配をよそに、京一が醍醐の方を向いて声を張りあげる。
「……にしても、お守りとはな。もうちょっとマシなモンは思いつかなかったのかよ。
女にプレゼントすんのにお守りはねェだろ」
 話題をまぜっかえしつつ、友人のセンスの古さをこきおろす京一に、葵はすまして応じた。
「あら京一くん、小蒔、とっても喜んでたわよ。
醍醐くんに貰ったんだって、わたしに見せに来たくらいだもの」
「とッ、とにかく、深い意味はないんだからなッ」
 孤立無援であることを悟ったのか、醍醐は巨体に似つかわしい大きな足音を立てて行ってしまった。
その地響きは、葵の髪をわずかに揺らすほどだった。
「行っちまったぞおい。醍醐、お前会場の場所知ってんのかよッ」
 大声で叫びながら、京一は醍醐を追って教室を出ていった。
 不器用な醍醐に葵は思わず小さく笑う。
その直後、もうこの場には龍麻しかいないことを思いだし、慌てて笑顔を収めた。
笑顔を誤解されていないかと、おそるおそる龍麻を見る。
 龍麻は驚くほど険しい顔をしていた。
鬼道衆に対してと同じくらいの、とても友人に向けるとは思えない表情に、葵は戦慄する。
なぜ彼がそんな顔をしているか、想像を巡らせた葵は、やがて、ある一つの可能性に思い至った。
 小蒔を狙う龍麻が、醍醐を邪魔者と考えているのではないか。
 対象が龍麻でなければ、葵は決してこのように人を疑わなかっただろう。
しかし彼は疑われても仕方ないだけのことを、葵に対してしでかしている。
もし想像通りに小蒔が狙われているとすれば、どんな手段を用いてでも親友を護らなければならなかった。
「どうした、険しい顔して」
 龍麻に言われて葵は反射的に厳しく言い返しそうになった。
心を落ち着かせてから、せき止めた言葉を口にする。
「緋勇君が険しい顔をしていたから、驚いてしまって」
 龍麻にも自覚はあったのか、質問に質問で返しても怒りはしなかった。
「ああ、上手くいってほしいってちょっと強く願ったのが出ちまったかな」
 淀みなく答えた龍麻に、そんなはずがないとは言えなかった。
だが、想像を今突きつけるのは良くないと思い、葵は結局あいまいに答えるしかなかった。
「そうね……本当に、そう思うわ」
「俺達も行こう。一応、桜井に京一を見張っておくよう頼まれたからには、役目を果たさないとな」
 龍麻に促され、葵は渋々彼と並んで京一達の後を追うのだった。

 荒川区に来た龍麻達は、ゆきみヶ原高校まではすんなりと着くことができた。
女子校らしく、校門の前でたむろする、特に龍麻達男三人に向かって、
興味と警戒がミックスされた視線が何本も注がれる。
最初は愛想良く手など振っていた京一も、そのうちの幾人かが駆け足で去っていったところで、
ここに来た本来の目的を思い出したらしく向き直った。
「美里、弓道場の場所は書いてあんのかよ」
「ちょっと待って、ええと……書いてないわ」
 書くも何も、小蒔の地図は大雑把に駅から高校までの道が書いてあるだけで、
それ以上の説明などどこにもない。
それでも葵は親友の名誉の為になんとか手がかりがないかノートの切れ端を見ていたが、
とうとう諦めて京一に紙片を見せた。
 四角く囲って「えき」、そこから棒が二本伸び、
二度ほど折れ曲がってまた四角い囲みで「がっこー」。
それだけしか書いてないメモを見せられた京一は、思わず紙を破り捨てそうになってしまった。
「なんだこりゃあッ! ッたく、そそっかしい奴だな。どうすんだよ」
「そうね、困ったわね」
 あんまり困ったようには見えない葵に、二の句を継ごうとして失敗した京一は、矛先を龍麻に向ける。
「ここでこうしていても埒があかねェし、よし緋勇、
中に入って誰かに聞いてみようぜ。なるべく可愛い子によ」
「しょうがねえな」
 葵が止める間もなく、京一は龍麻の腕を引っ張って行ってしまった。
 小蒔が去り際にしていった忠告を葵は思いだす。
京一と龍麻、別々に行かせたら小蒔と葵の危惧は現実のものとなったかもしれないが、
二人一緒ならかえって悪いことはできないだろう。
 葵の予測は当たって、二人はすぐに戻ってきた。
「校舎の裏側だそうだ。そこから入っていけるって」
 事務的に報告する龍麻に対して、京一の機嫌は悪い。
「くそッ、もう少し話したっていいじゃねェか、あの子だって俺達に興味あったぞ、ありゃ」
「今日は桜井の応援に来たんだろ。それに、俺は桜井にお前から目を離さないよう頼まれているからな」
 龍麻の正論に加えて重々しく頷く醍醐に、京一は舌打ちしながらもナンパを断念したようだった。
「ッたく、練習試合なんざ見たってしょうがねェだろうが」
 不用意な一言は醍醐を怒らせ、彼は京一の横にぴったりと張りついた。
「すまんが緋勇、京一が余計なものに気を取られないよう反対側についてくれないか」
「わかった」
「だーッ、暑苦しいんだよてめェらッ!」
 仲が良いのか悪いのかわからない、威圧感だけは抜群にある三人組が往く。
 ひとまず彼らが問題を起こしそうになくなったことに安堵しながら、
葵はその後ろをついていくのだった。

 なんとか弓道場まで辿りついた龍麻達は、入り口を探すうち、
道場の外で大きく深呼吸をしている小蒔を見つけた。
道着に弓道袴を着ている彼女は、制服姿とは違って随分凛として見える。
どうやら集中しようとしているみたいだから、
気を散らせないためにそっとしておいた方がいいか──そう目で会話した龍麻と葵と醍醐をよそに、
京一はひとりずかずかと彼女のところに行ってしまった。
「何してんだお前、こんなトコで」
「あ……みんな」
 せっかくの配慮も台無しになり、仕方なく三人も彼女の許に行く。
 しかし、知り合いの顔を見て、小蒔は明らかに安堵したようだった。
「試合はいいのかよ」
「うん、これから。ちょっと外の空気を吸いにきたんだ」
「なんだ、緊張してんのか」
「そッ、そんなコトないよ。ないと……思う」
 小蒔はいつもなら反発するであろう京一の台詞にもやや弱気に答えるのが精一杯のようだ。
その表情に相当の緊張を見て取った醍醐が、陳腐ながらも心からの励ましを与えた。
「武道というのは精神的なスポーツだからな。
試合前から気持ちを乱していたら、本当の力は出せないぞ。自分を信じろ、桜井」
「う、うん、そうだよね、ありがと、醍醐クン」
 まだ表情は硬いものの、小蒔はなんとか笑っていた。
京一の無神経とも言える行動が、かえって今の彼女には落ち着きを取り戻させる効果があったようだ。
京一がそこまで計算して行動したかどうかは、怪しいところではあるが、とにかく、
龍麻達がそれぞれの言葉で改めて小蒔を励ましていると、彼女を呼ぶ澄んだ声が聞こえてきた。
「小蒔様──ッ」
「雛乃の声だ」
 小蒔がライバルだと言う雛乃の声は、確かに教室で京一が言った通り
和風な赴きを感じさせるものだった。
声にやや遅れて姿を見せた雛乃は、学生服を着ている所が想像できない、
それほど和装が似合っている女性だった。
 多分解いたら腰まで届くのだろう、豊かで艶やかな黒髪を結いあげ、
その前髪は日本人形のように綺麗に切り揃えられている。
そしていかにも穏やかな眉目はこれも当然漆黒で、
特に瞳は深く静かに輝いており、折り目のついたたおやかさを感じさせるものだった。
 小蒔に気づいた彼女は、周りにいる龍麻達に深く一礼してからやってくる。
どこまでも物腰の柔らかい彼女に悪い印象を抱けるはずもなく、
京一などはみるからに鼻の下を伸ばしていた。
 近づいてきた雛乃は再び、先程よりも深く頭を下げる。
「こんな所にいらしたのですか、小蒔様。わたくし、探してしまいました」
「こ、小蒔サマ〜!? お前いつからそんなに偉くなったんだよッ」
 驚く京一に、小蒔は恥ずかしそうに手を振った。
「雛乃は誰にでもそうなんだよ。止めてって何度も言ってるんだけど、ね、雛乃」
「ふふ、小蒔様は小蒔様ですわ」
 上品に口元に手をあてた雛乃の笑顔には、小蒔に対する深い信頼があった。
それを嬉しく思うものの、やはり恥ずかしい小蒔だったが、
三年前に初めて出会ってからずっとこう呼び続けてきた雛乃が今更変えるとも思わない。
軽く髪をかき上げた小蒔は、話題を打ちきって彼女がここに来た理由を訊ねた。
「もう……で、どうしたの? そろそろ?」
「はい、小蒔様の順番が近いので、呼びに参りました」
「うん、すぐ行くよ。じゃーね、みんな」
「それでは、わたくしも失礼させて頂きます。また後ほど、改めてご挨拶に参りますので」
 再び応対に困るほど頭を下げて去っていく雛乃の姿勢は、少しも乱れがない。
同性の葵でさえもが感嘆したほどだったから、京一などはすっかり骨抜きにされていて、
木刀に顎を乗せながら、いかにも眼福だった、と言った感じで呟いた。
「あれが雛乃ちゃんか……想像どおりの和風美人だったな。な、緋勇」
「まあ……そうだな」
「おッ、その反応は結構気に入ったカンジか?」
 からかう調子が強い京一の質問に答える気もないのか、
龍麻は彼を一瞥しただけで弓道場に入っていった。
「なんだよあの野郎……まさか、雛乃ちゃんを本気で狙うつもりなのか?」
「やれやれ、俺達も行こう、美里」
「ええ、そうしましょう」
「おい、なんだよお前らまでッ」
 殊更に彼を無視して弓道場に向かう醍醐と葵に、
理由がわからない京一が憤慨しながら後を追うのだった。
 道場は既に独特の緊迫感が入り口から吹き出すほど満ちており、
龍麻達は足音を立てないよう注意して隅っこに座った。
「小蒔はどこかしら」
「そうだな……お、いたぞ」
 京一が指差した先、ちょうど向こう正面に小蒔は座っていた。
表情に先ほど見られた不安や緊張の色はなく、研ぎ澄まされた針のような集中が一身に漲っている。
事実、真正面に座っていた龍麻達は間違いなく視界に入ったはずであったが、目もくれなかった。
 前の射手が競技を終わり、小蒔が立ちあがる。
音もなく所定の位置に構え、遥か先にある的を見据える。
弦が大きく引き絞られた。
固唾を呑んで龍麻達が見守る中、小蒔は番えたまま微動だにしない。
やがて──右手が微かに動くと、大きな、乾いた音が道場に響き渡った。



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