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 教室に足を踏み入れたことを、葵は後悔した。
 初秋の心地よい空気に誘われて、少し勉強をしようと思ったのが大きな間違いだったのだ。
四十人ほどが入る教室には、葵の他に一人しか居なかった。
それも、葵が同級生の中で最も苦手とする男子の一人である緋勇龍麻だけが、
朝の光射す教室内に座っていたのだ。
 葵は入らなければ良かったと後悔したが、もう龍麻と目が合ってしまった。
こうなったら鞄を置いたらすぐに教室を出て、生徒会室にでも行こう。
勉強はできなくなってしまうが、龍麻と二人きりになるのは嫌だった。
 しかし、たった数歩を移動することさえ葵は許されなかった。
葵が姿を見せたときからずっと凝視していた龍麻が、
彼女が鞄を置くなり立ちあがり、右腕を掴んだのだ。
「大事な話がある」
 充分な警戒はしていたつもりだった。
だが、いつもよりも低められた声と彼の表情の深刻さ、そして、
右の手首を掴まれたことが、葵の警戒心に一瞬の空白を生じさせた。
「ま、待って……!」
 急速に身の危険が迫っていると恐怖した葵は、彼の手を振り払おうとするが、
声は空しく彼の背中に当たって消え、手は手錠のように硬く剥がせなかった。
 教室を連れ出された葵は、大股で歩く龍麻に引きずられるようについていく。
 こんなところを見られたら、すぐに学校中で噂になってしまうに違いない。
他人の評判などは気にしないとしても、龍麻と交際しているなどという噂は、葵にとって忌避すべきものだ。
そのため大声を出して人目を惹くわけにもいかず、誰にも見られないよう祈るしかなかった。
 永い、実際には三分にも満たない時間を経て葵が連れてこられたのは屋上だった。
まさかいかがわしい行為に及ぶつもりなのではと警戒する葵をよそに、
龍麻は手を離し、自分から距離をおいた。
そこで葵は龍麻がやつれていることに気がついたが、
それを指摘するよりも早く、彼は信じられないことを告げた。
「昨日、桜井が襲われた」
「……!」
 彼の言葉が持つ意味を、すぐには受けいれられなかった。
頭の中で反響する忌まわしい言葉に五感を支配され、清涼な空が無色になり、
肌に快い秋風も感じなくなる。
低く喘いだ葵は、龍麻を強く睨んだ。
「襲われた……ってどういうこと?」
 意味は明白でありながら葵が問い返したのは、
 襲われたのではなく龍麻が襲ったのではないかと思ったからだ。
すぐにそんな犯罪を自分から告白する理由がないと思い違いに気づいたが、
入れ替わるように女性が襲われるという言葉の意味を理解し、不意に足が震えだした。
「詳しくは聞いていないが、醍醐を呼びだすために佐久間の手下にさらわれたらしい。
俺の家に来た桜井は、暴行の傷が酷かった」
 龍麻の説明が頭に入ってこない。
コンクリートの地面に座りこんでしまいたいのを、かろうじて葵は耐えた。
「俺じゃ怪我を治すのは不得意だったが、なんとか二時間くらいかけて治したよ。
その後制服を買ってきて、泊まるかどうか一応訊いたが帰るって言うから送った」
 龍麻は淡々と事実を告げる。
それが起こった現実の過酷さを和らげるための配慮であると葵は悟ったが、
だからといって彼に感謝したりはしなかった。
 小蒔が戦いに参加することを龍麻は望んでおらず、何度も止めようとしたのを葵は知っている。
盲目者との戦いで小蒔に怪我をさせたことを悔いているのも。
だがそもそも、龍麻が転校してこなければ一切は始まらなかったのだ。
「……貴方のせいよ! 全部貴方のせい!」
 葵は龍麻をなじった。
全ての責任が彼にあるかのように、激しく。
目を伏せて反論しない龍麻が、結果の重大さを認識しているようで厭わしく、
渦巻く激情を減じさせることなくぶつけた。
「どうして助けてあげなかったの!?
緋勇君なら、私を操るみたいに小蒔を操って助けることもできたのでしょう!?」
「……何を言っている?」
「とぼけないでっ!」
 叩きつけるように叫んだ葵は、自分の声の大きさに驚いて口をつぐんだ。
するとこれまで黙していた龍麻が顔を上げた。
「俺は他人を操ることなんてできない。どういうことだ?」
 龍麻の眼光が圧を強める。
葵は瞳の暗黒に呑みこまれそうになったが、親友のためには引き下がれなかった。
「貴方は氣を注いだ相手を操れるのでしょう?
盲目者との戦いの時に、小蒔にこっそり氣を注いで、それで」
「それで? 桜井から何か相談があったのか?
身体が勝手に動いて困るとか、俺に何かされたとか」
「それは……ないけれど……」
 龍麻の眼に揺るぎはない。
彼の眼の影響から逃れようと、半歩後ずさったところで葵は手首を掴まれた。
しばらく感じていなかった熱が、手首を通して全身に伝わる。
それは葵に大きな混乱をもたらし、龍麻への怒りを別のものに変えていった。
「待て……お前、プールの時にも同じことを言っていたな?
あの時ははぐらかされたが、あの時点でもう、
何か心当たりがあったんじゃないか? 話してみろ」
 それを言いたくなかったからこそ、葵はプールで話をした時逃げたのだ。
それからも龍麻が氣で人を操れるという前提で警戒していたのが、あまりの龍麻の剣幕に、
誤解だったのかもしれないと葵は思いはじめていた。
 だが、もう逃げ場はない。
龍麻は怒っており、彼を納得させる以外に解決の道はない。
手首からの脈動が、心臓を通って脳へと伝わる。
自らが招いた頭痛であるのに、葵は、それが龍麻によってもたらされたと錯覚した。
「桜井のことは、どれだけ罵られても仕方がねえと思っている。
こんなことなら、佐久間を徹底的に潰しておくべきだった。
何か償いができるなら、なんでもするつもりだ」
 沈痛な面持ちで告げた龍麻が、口調を一変させる。
「けどな、持ってもいない『力』のことでなじられるのは別だ。知ってることを全部話せ」
 龍麻の圧力、特に底知れない黒瞳から感じる、丸裸にされてしまいそうな圧力に、
葵は半ば自動的に口を開いてしまった。
「わ、私……夏に入る頃から、身体が変になって……」
「変?」
「ひ、緋勇君が私に氣を注いだときみたいに」
「……ああ。それで?」
 ついさっきまで龍麻を糾弾していたはずなのに、今や立場は逆転し、葵が難詰される側だった。
それでも、冷静になればまだ優勢に話をすすめることができたかもしれない。
しかし頭の中で鳴り続ける血流の音が、思考をひどく妨げた。
「それで……その、そうなる時はいつも、最初に緋勇君にそうされた時みたいに
右の手首が熱くなるから、緋勇君がそういう『力』を使ったんじゃないかと」
「……最初に俺がした時っていうのは、保健室のことか?」
「え、ええ」
 顔を引きつらせつつ頷いた時、脈動が下腹に響いた。
それはまったく場違いな、今起こるべきではない反応であったにも関わらず、
もたらした影響は絶大で、ほとんど全ての感情的なものを根こそぎそちらに振り向けさせた。
葵は思わず膝を合わせたが、龍麻は気づかなかったようだ。
「なるほどな。大体解った」
 逃げだしたい気持ちと聞きたい気持ちがせめぎあう。
だがそれは精神だけのことであって、右腕を掴まれている以上、逃げることは不可能だった。
 怒気こそ薄れたものの、圧力はいささかも減じていない龍麻の瞳が葵を見据える。
「俺があの日お前を襲ったのは、校舎裏で眼が合っただろう?
あの時にお前がそういう人間だと解ったからだ」
「そういう人間って……?」
「お前が俺には逆らえない、本能的に従う……命令されたい性ってことだ」
「な、何を言って……」
 この男は狂っている。
そう葵は断定せざるをえなかった。
転校してきて顔も全く見たことがないような人間同士が、互いの本質など見抜けるはずがない。
まして葵は龍麻に好意的な感情など持ちあわせておらず、彼の分析など的外れもいいところだ。
佐久間よりも外見は悪を醸しだしていないので今まで判断できなかったが、
この緋勇龍麻という男は、佐久間など比較にならない悪に違いなかった。
 手を振りほどいて逃げるべきだ。
理性が発する警告に、葵は従えない。
どうしてなのかも解らぬまま、呆けたように口を開け、
龍麻がさらなる毒を吐きだすのをただ待ち受けた。
「蝙蝠にやられた時は別として、その後電車の中で触ったりしてもお前は抵抗しなかったよな。
その気になりゃ声を出すくらいはできたのに、振り払いもしなかった。それに」
 龍麻が口を閉ざした時、葵は不意に風の冷たさを感じた。
それが身体が熱くなっているが故のことだと、気づく余裕もない。
「身体が変になった、って言ったよな? その時、何をネタにオナニーしたんだ?」
「――!!」
 抜けるような朝の秋空にそぐわない、顔が見えない夜の闇の中でさえ
聞きたくないような下品な言葉に、葵は顔をしかめる。
絶対の秘密が侵食されようとしている恐怖は、かつて経験したことのないものだった。
「身体が火照るのを俺のせいだと思っているなら、俺にヤられる想像でオナる。違うか?」
「ち……違うわ」
「違わねえだろう? 氣ってのはあくまで即効性だ、
注がれた直後から火照りが続くことはあっても、時間を置いて、
特定の場所だけ火照らせるなんて不可能だし、まして他人を操るなんて芸当はできねえ。
なのにお前は保健室で掴まれた時のように右の手首が熱くなるなんて言いやがる。
どんな風に身体を触られたか、思いだしながらしてたんだろう?」
 図星を言い当てられた葵は沈黙するしかなかった。
恥辱に肩が震え、彼の瞳の圧力に抗しきれなくなる。
そのまま気を失ってしまえたら、いっそ楽だったかもしれないが、
尽きかけていた気力を振りしぼって、葵は最後の抵抗を試みた。
「本当に……本当に、緋勇君は……何もしていないの……?」
「そんな事ができるんなら、さっさとお前を支配してるだろうよ。
何もお前が一人になった時を待たなくたって、どこででも操れるんだからな」
 明らかとなった不都合な真実に、葵は親友の身に生じた悲劇さえ忘れて膝から崩れ落ちた。
倒れる寸前に龍麻に抱きとめられたが、払いのける気力もない。
間近に迫る彼の顔にも、抗えなかった。
 この瞳に呑まれたら、どうなるのだろう。
自分が自分でなくなってしまうのだろうか。
龍麻の物となり、彼の欲望に奉仕するだけの人形となってしまうのだろうか。
……だとしても、犠牲は自分だけに留めなければならない。
「お願い」
 葵はかすれた声で囁いた。
「小蒔にだけは、手を出さないで」
 それは魂からの願いだった。
もう自分はこの悪魔から逃れることはできないかもしれない。
でも、小蒔だけは護らなくては。
 悲壮な覚悟を胸中に宿した葵は、軽いため息が聞こえてきて、驚いて顔を上げた。
「勘違いしてるみたいだな」
「え……?」
「俺は桜井には何の感情も持ってねえ。従わせようだなんて思っちゃいねえし、
向こうも俺と目が合ったって何とも思ってねえだろう」
 黒い瞳はごく微量色を薄めたようだったが、龍麻が本心を語っているのか、葵には判らなかった。
安心させて籠絡するための嘘かもしれない。
葵がかつて対面したことのない邪悪な男は、
葵と小蒔の両方を手に入れようと画策しているかもしれないのだ。
 だが、息がかかるほどの近さで受ける瞳の圧力は、葵から考える力を奪っていた。
「まあいい……お前には、そのうち解らせてやるさ」
 解らせる? 何を?
 訊かなければならない気がした葵が口を開こうとすると、予鈴が遮った。
龍麻も掴んでいた葵の手を離し、自ら校舎に続く扉を開ける。
「戻ろうぜ。今日はこのまま帰っちまいたいくらいだが、鞄を教室に置いてきちまった。
もう皆来てるだろうしな、仕方ねえから授業に出るだけ出るさ」
 葵を待たずに龍麻は教室へと戻ってしまった。
 一人残された葵は呆然と立っていたが、我に返ると慌てて自分も教室へと戻った。
 授業が始まっても、葵は全く集中できなかった。
 考えなければならないことが多すぎる。
 最初に浮かぶのは、やはり小蒔のことだった。
小蒔は学校に来ておらず、龍麻の話は残念ながら正しいらしい。
最悪の事態には陥っていないようだが、彼女が受けた心の傷を思うと、葵は胸が張り裂けそうになる。
連絡を取りたいところではあったが、今の時点ではまだ避けるべきだろう。
 それにしても、醍醐を誘い出すために小蒔を利用したという佐久間の卑劣さには、
怒りを覚えずにはいられない。
この点に関する限り、葵は龍麻と意見が同じで、
もし佐久間が小蒔に跡が残るような傷を負わせていたら、彼を決して許さないだろう。
いずれにせよ大切なのは小蒔の容態で、彼女の元気な顔を見たいと祈る葵だった。
 次に考えたくはなくても、どうしても避けては通れない龍麻のことを考える。
 龍麻は葵を従いたい性だ、と評した。
彼にそんな妄想を抱かせるような態度を取ったことがあっただろうか?
あるいは、彼はめぼしい女性に片っ端からそうやって、
自分が優位に立てるような声のかけ方をするのだろうか?
前者には全く心当たりがないし、後者は確かめようがない。
少なくとも彼が真神に転校してきてからは、他の女性、
つまり『力』に関係する女性以外と親しくしているところは見たことがないし、
彼女達に対しても親密というほどではないようだ。
葵の知らないところで密会している可能性はもちろんあるが、
なんとなく葵は違うような気がしていた。
 どちらにしても、葵にとってはありがたいことではない。
だが、この春からの体調の変化は龍麻が関係していなければ説明がつかず、
なんとか真相を究明したいと、これも真剣に願わずにはいられなかった。
 どくり、と心臓が鳴る。
もし――もし、真相が葵の望まないものであったとしたら。
龍麻の言ったとおり、自分でも知らなかった一面があったとしたら。
その先を考えるのは、恐ろしかった。
だが、その先に道が続いていそうなのが、もっと恐ろしかった。
 結局葵はこの件に関して、判断を先延ばしにするという彼女らしくない決断を下した。
そうするしか、もはや葵にはなかったのだった。

 京一が醍醐と小蒔について龍麻から聞かされたのは、葵に遅れること四時間後だった。
龍麻は最初から葵と京一には別々に話すつもりだったが、
これほど時間が空いたのは京一がこの時間にようやく登校したからだ。
 葵にはあえて伝えなかった、醍醐が佐久間を殺したということも話し、事態の深刻さを余さず伝えた。
「佐久間の野郎、そこまで堕ちやがったか」
 葵と同じ、屋上で龍麻から昨夜の件を聞かされるなり、京一は吐き捨てた。
金網が曲がりそうなほど強く掴み、しばらく動かない。
 京一の脳裏には、先日醍醐と交わした会話が浮かんでいた。
 京一と醍醐は、真神学園の屋上で放課後の一時を過ごしていた。
空はどこまでも青く、そこからくりぬいたような白い雲が所々に浮かんでいる。
どういう風の吹き回しか、普段なら何人かはいるこの場所は、二人だけだった。
本来なら龍麻がいてもおかしくはないのだが、なにか用事があるとかで、今はいない。
帰りに寄る予定のラーメン屋もまだ開いていないので、龍麻を待ちつつ、
それまでの時間潰しといったところだった。
「なあ、京一」
「なんだよ」
 全く気のない返事にも、醍醐は気分を害した様子はなく、
空を見上げて、巨体に似つかわしくない、ためらいがちな声で続けた。
「お前、最近の佐久間を見ていてどう思う」
「知らねェよ。俺に男を観察する趣味はねェからな」
 もっともな台詞に苦笑した醍醐は、しかしそこで話を止めず、空を見上げて続けた。
「俺はな、京一。この頃良く考えるんだ。
俺達が持つこの『力』は何の為にあるんだろう……ってな」
「……」
「『力』を持つ者と持たざる者──その違いは一体どこなんだろうって考えるのさ」
「またお前はそんな辛気臭ェこと考えてんのかよ」
 金網に背を預けた京一は、全くこの秋空に似つかわしくないことを言う男にらしくない説教を始めた。
「いーじゃねェか、別に、どっちでもよ。別にあって困るもんでもねェだろうが。
──それによ、他人が持ってねェモンを持ってるってコトは、気分がいいじゃねェか」
 軽口を叩いてみせる京一だったが、醍醐は乗ってこなかった。
腕を組み、遥か遠くを見つめてひとりごちるように呟く。
「お前らしいな。……が、そう考えられるお前がうらやましいよ」
「……ッたく、美里もだけどよ、お前ら余計なコト考えすぎだぜ」
「あぁ……そうかもしれんな。だが……生きていく上で、こんな『力』は必要なのか?
確かに俺達はこの力のお蔭で命を助けられたこともあった。
だが平凡な人としての生をまっとうできず、愛する者をもこの力の為に失わなければならないとしたら、
俺は……そんな力は欲しくない」
「……」
「俺は、これ以上何かを失うのは御免なんだ」
 言葉を切った醍醐は、話題を変えた。
「俺は──今の佐久間に、凶津を重ねて見ているのかもしれない」
「確かに佐久間はお前のことを良くは思ってねェだろうさ。
お前と自分との差を歴然と感じてんだろうよ」
 醍醐の心配は、京一には危うく感じられるものだった。
 佐久間は他人の努力を認めようとせず、自分に才能が無いことを受け入れられず、ただ妬み、僻む。
恐らく最も醍醐とは相性が悪いタイプだろう。
はっきり言えば、全く関わらないのが一番の選択なのだ。
しかし京一は、それを口にはしなかった。
「お前があいつのコトを心配してんのは解るがよ、それが佐久間に伝わるかどうかは別問題だろうよ。
佐久間ヤツにはお前の気持ちを受け入れるだけの余裕は無いと俺は見てるがな」
「……」
「あんまり甘ェこと言ってると、取り返しのつかねェコトになるぜ」
「……あぁ」
 渋々一度は頷いた醍醐は、すぐにまた口を開く。
「京一、俺は──」
「俺はなァ、醍醐。何が起こるかわからねェ日常の中で、
絶対に護らなくちゃならねェモンを抱えちまったお前の方がよっぽど心配だぜ」
 遮った京一の口調に、深い気遣いを感じ取った醍醐はそのまま沈黙した。
 再び腕を組み、己一人の思索の路に入り込んだ醍醐を見やって、京一は頭を振る。
 髪を、ほんの少しだけ冷たさを感じさせる風が揺らした。
乱れてしまった髪をかきあげ、京一は呟く。
「風が──強くなってきやがったな」
 空に向けて放たれた京一の声は、すぐに秋の始まりを告げる風に乗って散っていった。
 まだ薄れては居ない記憶を辿った京一は、自分が酸味を効かせた表情をしていることに気がついて頭を振った。
過去の過ちを省みるのは、己の性向にふさわしくないと思っており、また、それは全くの事実だった。
 ここに居るのが龍麻だけで良かったと思いながら、表情を整えるために京一は幾分龍麻を睨みつける。
「……で、醍醐はどうしたんだ」
「判らない。さっき電話してみたが、誰も出なかった」
「あの野郎、くだらねェモンを抱えこみやがるからな……でけェ図体してるくせによ」
 もう一度金網を揺らした京一が、思いだしたように向き直った。
「まさかてめェも責任感じてやがるんじゃねェだろうな」
「感じてないわけねえだろ」
 龍麻が断言したので、かえって京一は怒気を削がれた。
「けッ、まァその分ならいいだろうよ。降りるつもりはねェんだろ?」
「ああ、もちろん」
「ならいい、腑抜けたコト抜かしたらブン殴ってやるところだったぜ」
 それは京一もまた降りるつもりがないということだった。
それを察したのか、龍麻は感銘を受けた風に京一を見た。
「なんだそのツラは」
「……いや」
 龍麻が笑っていたら、京一は彼を殴っていたかもしれない。
かといってそうならなかったのもどこか面白くなく、その腹いせとでも言うべきか、
結局次の授業をサボることに決め、一人屋上に寝転がる京一だった。



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