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「今日は目白と目青不動に行く」
最後の授業が終わるなり龍麻は京一と葵を呼び、そう告げた。
簡単に頷いた京一に対して、葵は即答を保留した。
朝の屋上での話もあり、うかつに龍麻と行動を共にするのは避けたかったのだが、
珍しく、龍麻はあいまいな返答を許さなかった。
「一緒に行くぞ」
「でも……小蒔と醍醐君が……」
「今日は摩尼を置いてくるだけだから、三人でも危険は少ないだろう」
反論を許さない強い口調だった。
葵は助けを求めて京一を見たが、彼もまた、頭を横に振った。
「しばらくは固まって動いた方がいいだろうな」
小蒔が葵と別れてから家までのわずかな時間に拐われたことを、葵は失念していた。
実行犯である佐久間の仲間達も今日は学校に来ていないが、鬼道衆は未だ全容を見せていない。
龍麻の用心深さを、葵は認めざるをえなかった。
「……わかったわ」
力なく頷いて葵は同行を承諾した。
目白までの電車内は、葵が危惧したようなことは起こらなかった。
電車は比較的空いており、卑劣な行為に及ぶ隙がなかったのだろう。
扉に背を向けて立っていた葵はいつ龍麻が魔手を伸ばしてくるか、
気が気でなかったが、彼はそれらしい素振りさえ見せなかった。
「どうした、降りるぞ」
「え、あ、はい」
警戒するあまりに目白駅に着いても構えていた葵は、反対側の扉が開いて慌てて龍麻に続いた。
江戸の鎮護を願って置かれた不動明王は、当初はこの金乗院ではなく
文京区にある新長谷寺(にあったとされるが、
第二次世界大戦の戦火により寺が焼失した為現在の場所に移されたという。
弘法大師作と伝えられる不動像は左腕が無い断臂(不動明王であり、
特に徳川三代将軍家光の信仰が篤く、目白と言う号を贈ったのも彼であると伝えられていた。
この場所に龍麻達が来た理由は、
彼らが持つ五色の摩尼と呼ばれる、鬼が封ぜられた宝珠を再び封印するためであった。
鬼道衆の手によって奪われ、陰氣を注がれて風角や水角といった人形(を生み出す源となった宝珠。
龍麻達は醍醐が師と仰ぐ、筮竹(によって未来を視る筮法師、新井龍山の勧めに従って、
元あった場所に摩尼を戻すために、東京の各処にある五色不動を回ることにしたのだった。
「緋勇、美里。こっちに祠があるぜ」
京一の声に、摩尼を安置する祠を三方に分かれて探していた龍麻と葵は彼の所に向かう。
京一は不動堂の裏手、訪れる者もなくひっそりとした場所の一角にいた。
「こいつだ」
「これが、龍山先生の言っていた祠かしら」
「さァな。けど他にそれっぽいのは見当たらねェ──おい、緋勇」
京一に言われて龍麻が袋から摩尼を取り出すと、風角を斃(して手に入れた珠は乳白色の光を放っていた。
「間違いねェみてェだな」
京一が無造作に祠の扉を開ける。
中には珠の色と同じ、乳白色の布団が置かれているだけで、他には何もなかった。
場所を空けた京一に代わり、進み出た龍麻は丁寧に摩尼を置いた。
手を離し、転がったりしないことを確かめてからゆっくり一歩下がる。
輝きこそ失せたものの、それ以上何も変化は起こらず、拍子抜けした京一が言った。
「これでおしまいか? なんか出て来たりすんじゃねェのかよ」
「……終わり……みたいだな」
肩透かしを食った気分なのは龍麻も同じだった。
扉を閉め、やはり何も変わらないことを確かめると、軽く肩をすくめる。
しかし他にどうしようもないので、三人は寺を出ることにした。
「小蒔と醍醐君……大丈夫かしら」
道すがら、葵が呟く。
それは三人で行動していることを咎めているのではなく、
純粋に二人を心配して言ったのではあるが、応じた京一の態度はどこか突き放すかのようだった。
「さァな。醍醐にも小蒔にも連絡がつかねェんじゃどうしようもねェし、
摩尼も俺達が持ってるよりさっさと封印しちまった方がいいだろ。
鬼道衆が取り返しに襲ってきたりしたらマズいしな」
「それは……そうだけれど」
葵は京一の正論にも納得した様子を見せない。
目白不動に出発する前に小蒔の家に電話をし、彼女がいることだけは確認できたものの、
具合が悪いとかで電話口にも出てもらえなかった。
家族も困惑しているのが伝わってきたので、葵はそのまま電話を切るしかなかった。
「別の日に出直すのも面倒くせェ、さっさと目青不動に行こうぜ」
頷く龍麻と京一に促され、釈然としないながらも葵は歩きだす。
すると、横合いからいきなり声をかけられた。
「それが五色不動の力って訳ね」
三人が驚いて振り向くと、そこにいたのは、フリーのルポライターを名乗る天野絵莉だった。
二日前に織部神社で会ったばかりではあるが、その時といい今といい、
神出鬼没と言うにふさわしい行動力だ。
「絵莉ちゃん……なんでここに」
「白蛾先生に聞いたのよ。あなたたちが不動巡りをするって」
「あのおしゃべりジジイ」
吐き捨てるように京一は言ったが、知られて困る行動でもなかったし、
基本的には美人に会えて嬉しいはずだから、単なる同族嫌悪なのだろう。
「天野さん、龍山先生とお知り合いなんですか」
代わって龍麻が訊ねると、絵莉は軽く手を振った。
「知り合いってほどじゃないけど、以前、仕事で占いの取材をした時にお会いしてね。
風水や陰陽道にも詳しいと聞いていたから、
今回の一連の事件のヒントが得られないかと思って昨日会いに行ってみたの」
「昨日? それじゃ、俺達と入れ違いかよ」
「そうみたいね。京一くんのこと、先生仰っていたわよ」
「どうせやかましい小僧が、とかそんなんだろ」
「ふふッ。──そういえば、今日は三人だけなの?」
笑いを収めた絵莉が訊ねる。
彼女にとってさえ自分達は五人一緒にいるのが当然であると映っていたようで、他意はないだろう。
それでも事情を話すわけにもいかず、龍麻は返事を口篭もらせてしまった。
「え……ええ」
「そう……ま、いいわ。実は鬼道衆について判ったことがあるの。ちょっと時間ある?」
二人について追及されなかったのは、幸いといえた。
三人と絵莉は、境内の日陰になっている部分に場所を移した。
まだ夏の暑さが色濃く残る一日(は、不快な汗を肌に浮かべさせる。
時折、思い出したように吹く微風を唯一の涼として、龍麻達は絵莉の話に耳を傾けた。
「実はね、鬼道衆の狙いがなんなのか、それを調べていたんだけど」
「東京の壊滅じゃねェのかよ」
何を今更、といわんばかりの京一の態度にも、絵莉は怒ったりはしない。
「ええ、それがひとつにあるのは間違いないわ。
でも鬼道衆(の動きを見ていると、それだけじゃないように思えるの。
水岐君や他の人達を唆(して事件を引き起こしたりしているのは、
何か別の意味があるんじゃないかっ……て」
「何か……?」
「二日前、織部神社であなた達に会ったでしょ。
あの時、神主の織部さんに見せて頂いたものがあるの。
江戸時代の古い書物なんだけどね、そこに気になることが書いてあって。
菩薩眼──って聞いたことある?」
ここ数日で色々新しい単語を覚えた龍麻達だったが、
また新しい一語を覚えなければならないようだった。
困惑した顔を浮かべる三人に、絵莉は微笑して小さく頷く。
彼女自身も、その書物を見て初めて知った言葉だったから、彼らが知らないのも無理はなかった。
「まぁ、当然よね。その書物には菩薩眼なるものの説明が簡単に記されていたんだけど、
菩薩眼──別名龍眼っていうのは、
元々風水の発祥の地である中国の客家(という土地に伝わる話で、
地の龍──つまり龍脈が乱れる時その瞳持つ者が現れ、人を浄土へと導くと言われたらしいわ。
その眼は氣の流れを詠(み、太極(を視(ると言われた。
でもその瞳(は何故か女性にしか発現せず、風水に詳しい時の権力者達は、
こぞって菩薩眼の女を探したと言うわ。
そしてそれだけじゃなく、その書物には、
鬼(達が菩薩眼の瞳を持つ女性を攫(っている様子も記されていたわ」
「鬼達が……?」
「ええ。何故鬼が菩薩眼を狙っているのかという理由は記されていなかったけれど、
江戸時代、人と鬼の間でその菩薩眼を巡る闘いがあったらしいわね。でも」
絵莉はここで言葉を切った。
あれほど鳴いていた蝉(でさえもが、彼女の言葉を聞き入ろうするかのように押し黙った。
「でも、私が驚いたのは、当時その鬼達が、町の人から何と呼ばれていたかなの。
書物(にはこう記されていたわ。鬼道衆──とね」
三人は一瞬ではあるが、不快な暑さを忘れていた。
昨日龍山に聞いた話では、江戸時代に九角鬼修(と言う男が幕府転覆を謀る為に組織したのが、
鬼道衆という人ならざる『力』を持つ集団なのだということだった。
今龍麻達が闘っている鬼道衆の棟梁も九角の血を引く者だろう、そう締めくくった龍山の話は、
これでいくらか補強されたことになる。
子々孫々に渡って受け継がれる恨み──その積年の怨念は、いかほどのものだろうか。
これまで人の恨みつらみというものに縁なく生きてきた龍麻達には、想像もつかない。
たまらず自分の肩を抱いた葵は、ふと心づいて絵莉に訊ねた。
「それじゃ、今私達が闘ってる鬼道衆の目的も、その菩薩眼の瞳を持つ女性を探そうと――?」
「その可能性はあるわね。今までの事件が菩薩眼の伝承と関係するとしたら、
鬼道衆の目的は東京の壊滅よりも東京を混乱させ、
龍脈を乱すことによって菩薩眼を持つ者を覚醒させることかもしれないわね」
「なんだそりゃ……そんなことの為に罪のない人間を苦しめてるってのかよ」
立ちあがった京一は、理解不能、と言った趣で叫んだ。
龍麻にも同種の表情が浮かんでいる。
その菩薩眼とやらがどれほど重要かは知らないが、無辜(の人々を巻き込み、
東京を混沌の渦に叩きこむ行為など許されるはずがなかった。
鬼道衆に対して強い嫌悪と憤りを浮かべる龍麻達の顔を見て、
絵莉は胸に抱いていた想いを静かに吐露する。
「私ね、ずっと考えていたの。何故……あなた達のような若者にだけ『力』が発現したんだろうって。
何故、大人(ではなく」
それは彼女が渋谷で鴉が人を襲うという怪事件を縁に『力』持つ雨紋や龍麻達と出会い、
その後も東京の各処で起こる怪異を追いかけるようになってから、ずっと抱いていた疑問だった。
事件を起こした人間も、それを解決しようとする龍麻達も皆、
子供から大人への最後の階(を上る寸前の年齢だった。
そこに何らかの意味があるのか──絵莉は考えると同時に、ある種のやりきれなさをも感じていたのだ。
彼らだけに責を負わせ、何も出来ない自分に。
しかし、今の龍麻達の表情を見て、絵莉はその意味をある程度理解したように思えた。
未来を見る、純粋な瞳。
良きにつけ悪しきにつけ、その真っ直ぐな想いは人生のごくわずかな期間にしか得られないものなのだ。
彼らの瞳に浮かぶ、いずれ失ってしまう貴重な輝きを、絵莉は眩しげに見やった。
「でもね、もう考えないことにしたの。あなた達は──選ばれたんだから」
「天野さん……」
龍麻達には、絵莉の寂しそうな表情の意味を推し量るだけの年輪が不足していた。
それはいみじくも彼女が感じた眩しさと一体のもので、
まさに彼らの年齢だけが持ちうる光は、その眩しさ故に影すらも生み出さないのだ。
年上の女性を慰める言葉など持たない龍麻達は、無言で絵莉を見るしかできなかったが、
続く彼女の言葉には力感が漲(っていた。
「頑張って、みんな。あなた達にこの東京(の未来がかかっているの。
私も出来る限り協力するけれど、東京を護って、未来を作るのはあなた達なんだから」
それは大人なら誰でも言いそうな陳腐な説教だったかもしれない。
しかし龍麻は、素直に感動し、彼女の督励(を受け入れていた。
絵莉が真剣にこの東京の未来を案じ、自分達に希望を託しているのがはっきりと伝わってきたからだ。
「協力はありがてェけどよ、また危険な場所に行くのかよ」
「大丈夫よ、今までだって結構ハードな現場をくぐってきてるんだから」
皮肉とも本気ともとれる京一の台詞に、絵莉はおどけて胸を叩いてみせ、勢い良く立ちあがった。
その仕種こそ、龍麻達には眩しく映る。
「それじゃ、私は行くわね。
菩薩眼のことや、白蛾先生が仰っていた九角って人のことをもう少し調べてみるわ」
「俺達はこれから目青不動に行きます」
「ええ、何か判ったら連絡するわ」
絵莉は律動的な足取りで去っていく。
口では表しにくい、胸にこみ上げるものを感じながら、龍麻達は後ろ姿を見送っていた。
ふと京一が、顔はそのまま動かさず訊ねる。
「ところで連絡──ってどうやってすんだ? これまでは行く先々でなんか会ってたけどよ」
「俺の家の電話番号を教えた」
つまらないことを訊く、とばかりに龍麻が答えるや否や、京一は胸倉を掴みかかってきた。
静から動へ、鮮やかな豹変に龍麻も反応できない。
「何ィッ!! てめェ何抜け駆けしてやがんだッ!!」
「抜け駆けって何言ってんだ馬鹿野郎、聞かれたから教えただけだ」
「だ・か・ら・ッ!! いつ、どこで、どうして聞かれたんだってんだよッ!!」
馬鹿正直に答えようとして、それが何の意味もないことだと龍麻は気づいた。
教えた所で京一の、明らかに間違っている怒りが解ける訳もないのだ。
胸元を締めあげて詰め寄る京一を払いのけ、葵の手を掴む。
「行くぞ美里、とっとと次の不動に行かねえと日が暮れちまう」
成り行きを半分呆れて見守っていた葵は、突然巻きこまれて声も出ず、
引っ張られるがままになってしまった。
「あッ、この野郎ッ、話はまだ終わってねェぞッ!!」
さっきまでの静謐さが嘘のように京一の怒号が響き、釣られるように蝉も鳴きだす。
木陰の間を走りぬける三つの影は、時に重なり、時に離れながら去っていった。
豊島区から世田谷区へと移動した三人は、目青不動への道を歩いていた。
「えっと……確か、この先を右に行った所が目青不動よ」
道案内は葵が務めている。
京一も龍麻も寺社仏閣にあまり興味がなく、場所を調べるのすら怠っていたからだ。
葵の案内は正確で、三人は道を間違えることもなく目青不動に着いた。
「ここか? パッとしねェ寺だな」
「パッとする寺ってどんなんだよ」
「あぁ? そりゃお前、金ピカででっけェ大仏がいてよ」
東京にも幾つか大仏はあり、中でも板橋区の乗蓮寺にある、
いわゆる東京大仏は奈良、鎌倉の大仏に次ぐ大きさである。
京一の言うような金でできてはいないが、中々の威容で隠れた東京の名物になっている。
そこに較べれば今龍麻達が前に立っている寺は、確かに素朴ではあった。
もちろん寺の格は大きさや大仏の有無などで決まるものではないのだが。
「この目青不動は教学院最勝寺といって、由緒正しい天台宗のお寺なのよ」
「ふーん。ま、中に入ろうぜ」
相変わらず由来や縁起と言ったものに全く関心のない京一は、葵の解説を聞き流して中に入っていく。
苦笑する葵に同じ顔で応えて門をくぐった龍麻は、危うく誰かとぶつかりそうになってしまった。
「なんや、危ないな」
軽い身のこなしで避けた男は、軽妙な関西弁でそう言った。
驚いて顔を上げた龍麻は、どうやらその男が日本人ではないようだということに更に驚く。
男の関西弁はそれほど馴染んでいたのだ。
最初から笑っているように見える細長い目は、左側の目に大きな刀傷があって奇妙な凄みがあるが、
時代遅れな鉢巻に、はだけた学生服の内側から覗く赤いシャツが、
いかにも趣味が悪いという印象だった。
その中で、右の肩から突き出ている包みがとりわけ異彩を放っている。
厳重に包まれてはいるが、中身は一体何なのだろうか。
これと似たような物を、どこかで──記憶を巡らせた龍麻は、すぐに答えに行き当たった。
京一が肌身離さず持ち歩いている木刀と、雰囲気が似ているのだ。
ならばこれは、武器なのか──京一以外にそんなことをしている奴がいるのか、
と龍麻は驚いたが、これは愚問だった。
何しろ彼の周りには雨紋や小蒔などがいるのだから。
「ん? んん?? ほうほう──」
余計なことを考えていた龍麻が、とにかくぶつかりそうにはなったのだから謝ろうとすると、
男は先手を取ってしげしげと眺めてくる。
それはほとんど観察であって、龍麻は薄気味の悪さを覚えずにはいられなかった。
「なんだ、お前の知り合いか?」
無言で首を振る龍麻に、京一は一歩進みでる。
初対面から馴れ馴れしい人間は、あまり彼の好みではなかった。
「おい、俺達になんか用かよ」
「ちょい待ち、そないな恐い顔せんといて。ちょっとこの兄さんがええ男やったさかい」
流れる空気が一気に変わった。
京一は前に出ていた分をきっちりと下がり、葵もさりげなく龍麻の影に隠れる。
一番下がりたいのは間違いなく龍麻のはずだったろうが、
逃げ遅れた犠牲者は気の毒にも生贄として捧げられる運命が待つのみであった。
ご丁寧に背中を押しだす京一に、龍麻が全身の力で踏ん張っていると、
男が嘆かわしげに額に手を当てる。
「なんや、そないに引かんでもええがな。
ま、それはそうと、兄さんたち、目青不動に用でっか?」
「おめェにゃ関係ねェだろ」
京一の声は威勢が良いが、腰が引けているので迫力はない。
怖い物などそうはないこの男も、趣味が違う相手となると、
触らぬ神にたたりなしと言った態度が精一杯なのだった。
「そりゃそうや。でも気ィ付けとき。この辺りは鬼が出る言われとるんや。
せいぜい食われんようにな」
「おい……こいつ大丈夫なのか?」
それは龍麻こそ聞きたかった。
ぎこちなく龍麻が首を振ると、男は急に興味を失くしたように背を向けた。
あっけにとられる龍麻達に向かって、歩き去りながら手だけを振る。
「ほな、またな」
あっけにとられる三人を残して、男は消えてしまった。
白昼夢でも見たような顔をしていた三人だったが、
男が消えて三十秒近くも過ぎてから、ようやく京一が呟く。
「鬼、ねェ……」
本物の鬼と闘っている京一達からすれば、
男の言っていることはいかにも幼稚に聞こえたのは無理からぬことだった。
手にした木刀で軽く肩を叩いて苦笑した京一は、
まだ固まったままの龍麻の背中を思い切り叩いて促した。
「ヘンなのに関わっちまった。さっさと奥へ行こうぜ」
中に入った三人は目白不動の経験を生かし、今度は最初から隅の方を探す。
その読みは当たり、それほど時間も浪費せずに隅の方にある小さな祠を見つけることができた。
「お、こいつじゃねェか」
「そうね、目白不動の祠と同じだわ」
「てことは」
龍麻が摩尼を取り出すと、やはり宝珠は蒼く輝いていた。
京一が祠の扉を開き、龍麻が納める。
ほのかな輝きは徐々に薄れていき、やがて完全に消えた。
「二つ目終わり──ッと。ちょろいもんだな」
再び京一が無造作に扉を閉めたことで、
龍麻達が持っている摩尼は二つとも封印完了となったのだった。
学校を出発する時は何が起こるのかとそれなりに緊張していた京一も、
封印とやらが単なる散歩に終わったことに気が抜けてしまい、大きく欠伸をした。
「んじゃ帰ろうぜ。後は明日、醍醐と小蒔が来たら決めようぜ」
「ああ……そうだな」
できることは全て終えたので、三人は新宿に戻ることにした。
二つの不動巡りを終えて龍麻達が新宿に戻ってきたのは、
辺りもそろそろ暗くなろうかという時刻だった。
既に秋も深まりつつあるこの季節は、駆け足で夜が訪れ、風も冷たくなってくる。
「夜は冷えるな、そろそろ」
「そうだな」
「こんな日は熱いラーメンを食(るに限ると思わねェか」
京一の提案に龍麻は頭を振った。
「いや、今日は美里を送っていく」
「……ッと、そうだな、その方がいいか」
京一があっさり退いてしまったため、葵は自分で防御しなければならなくなった。
「あの、私は一人で帰れるから」
「駄目だ」
龍麻の口調は強く、重い。
邪な目的があったとしても、おくびにも出していなかった。
この意志を退けるには相当の口実が必要だと思われ、葵はそれだけの理由をとっさに用意できなかった。
「しょうがねェ、今日は諦めるか。それじゃ、美里は任せたぜ。
……ッとそうだ、明日にでも醍醐ん家(に行ってみねェか」
「ああ、わかった。それじゃあな」
龍麻の本性を知らない京一は、それが最善とばかりに葵を龍麻に委ね、帰ってしまった。
「行くぞ」
龍麻に促され、葵は仕方なく重い足取りで自分の家へと向かうのだった。
今いるところから葵の家までは、十五分ほどある。
はじめ葵は龍麻と話す気もなかった。
形式さえ取りつくろう気になれなかったのだ。
考えを変えたのは、彼が邪な欲望を自分に向けるかもしれないと気づいたからで、
何でも良いから気を反らした方が良いと思ったのだ。
だがこれが難題で、小蒔と醍醐の話は今はしない方が良いだろうし、
そもそも龍麻としたい話などない。
迷った挙句、葵は言葉の泉から浮かんだ語句を、ほとんど吟味せずに喋った。
「あっ、あの……緋勇君は、どうして戦うの? その、危険なのに」
その質問は、葵の意図と正反対の結果をもたらした。
龍麻は立ち止まり、葵を凝視したのだ。
殴られるのではないか、と葵は錯覚した。
そう思ってしまうほど、龍麻からは殺気が発せられていた。
夜であっても人型の輪郭が浮かぶほどの氣に、彼を怒らせたことを葵は後悔し、恐怖した。
だが、深いため息と共に怒りの氣を消した龍麻は、再び歩き始めた。
「……前の学校で」
低く下げられた龍麻の声は、離れていると聞きとるのが難しく、
葵は彼に近づかなければならない。
襲われるという懸念もあったが、彼が何を話すのか、好奇心が上回った。
龍麻は前を向いたまま語る。
「前の学校で、俺は普通の高校生だった。『力』なんてなく、特に目立ちもせず、
将来の目標なんてものもなく、そこそこの勉強と、友達と遊ぶだけの、普通のな」
真神に来てからの龍麻は、人当たりは良いが、
誰かと親しくしているところを葵は見たことがない。
強いて言うなら京一と醍醐だろうが、放課後はほとんど毎日一緒に行動している
彼らとさえ、ほんの少し隔意があるように葵には思えるのだ。
ただし、これは葵が小蒔とあまりに仲が良いため、少し基準が辛いかもしれない。
いずれにしても、今の龍麻から、彼が言う普通の生活というものを想像するのは難しかった。
「異変が起こったのは二年の二学期だった。夏休み明けで登校してこない生徒が六人居た。
全員女で、後から判ったことだが、六人とも手ひどくレイプされて、
その上治らない怪我までさせられたって話だった」
女性にとって忌むべき言葉に葵は眉をひそめる。
被害の当事者になりかけた身としては、加害者となっていたはずだった男の口から
その言葉を口にされれば警戒するのは当然だった。
龍麻は葵の微妙な反応にも関心を寄せる様子はなく、
ただ自分の過去を辿るのに集中しているようだった。
「大事件だ――が、六人はショックで口も利けなくなっていたのと、
それぞれ学年もクラスも別だったから、事件の発覚と関連づけるのは遅れた。
俺もこの時点ではそんな事件が起こったことすら知らなかった」
車が横を走り抜けていく。
再び静寂が訪れるまで待ってから、龍麻は話を続けた。
「俺が事件を知ったのは、七人目が狙われてからだ。
狙われたのは、俺の同級生だった。
それも単なる同級生ってだけじゃない、俺とそいつ、
そいつの幼馴染の男の三人はつるんで遊ぶ仲だった」
この時、龍麻の瞳に過去を懐かしむ色が浮かんだが、後ろにいる葵には見えなかった。
龍麻もまた、気配を閉ざすようにポケットに手を入れ、葵などいないかのように振る舞った。
「ある日の昼、血相を変えた男が俺の所に来て言った。
『アイツを探してくれ。学校には来たらしいんだが、どこにもいないんだッ!』
意味が判らなかったが、とにかく二人で学校中を探し回った。
三十分以上経って、ようやく音楽室で彼女を見つけた。
――彼女は裸で、宙に吊りあげられていた。
何の仕掛けも無しに、ただ身体が浮いていたんだ」
春までの葵なら、この時点で続きを聞く気を失くしていただろう。
荒唐無稽にも程がある龍麻の話を、だが、今の葵は信じている。
人知を超えた出来事を、葵も身を以て体験しているからだ。
「俺もあいつも訳が解らなかったが、誰の仕業かはすぐに判った。
音楽室に、俺達以外の奴がいたからだ。
素性なんて知らないが、とにかく彼女を救けようとあいつは突進した」
龍麻の声が低くなる。
それは学校で女子生徒に話しかけられて応ずる時のような、
耳に快い低さではなく、感情のゆらぎを悟られまいとするかのような抑制された低さだった。
「あいつがいきなり転んだ。何もないところで後から足を引っ張られたような
不自然な転び方だったが、あいつはすぐに立ちあがろうとした。
――できなかった。右手だけが異様な動き方をしたかと思うと、自分の左手の指を掴んで折った」
「――!」
「もちろん自分でそんなことをするはずがない。
さとみを吊るした奴が、『力』で比嘉を操ったんだ」
龍麻は友人達の名前を出してしまっていることにも気づいていなかった。
それほどの深い怒りに苛まれているのが、彼の輪郭を薄く滲ませている、
金色の輝きを通じて葵にも解った。
「絶叫が響いた。それでもあいつは進もうとした。文字通り這ってでも、彼女を救けようとしたんだ」
突然、龍麻の声から力が抜けた。
葵が龍麻を知ってから初めて聞く、別人から発せられたように弱く、
小さく、死に瀕した子猫が出すような、か細い声だった。
「俺は進めなかった。あまりにも常識外れの状況に、足が動かなかった。竦んだんだ」
「やがてあいつの動きが止まった。その時になって初めて、
俺は友達二人を苦しめている奴に向かって突進した。
それも、怒りや義憤に駆られてじゃない。
恐怖の裏返しに過ぎない、逃げる方向を間違えただけの突進だった」
春からの戦いにおいて龍麻が怯えているところを、葵は見た覚えがない。
人ですらない敵に対しても、退却はおろか、仲間達よりも先に挑みかかっていく彼を、
喧嘩好きの不良に近い人物だと思っていたので、彼の独白は意外だった。
「あと一歩で奴を殴れる、というところで足が止まった。
殴るために握っていた拳が解かれて、自分の首を絞め始めた。
自分の手なのに振りほどけない。意識が遠くなって、死ぬ、と思った。
高笑いを始めた奴の顔を殴れない怒りで頭が一杯になった時、光が爆ぜた」
龍麻が立ち止まる。
彼の横に並んで立つか、葵は迷った。
それほど龍麻は悄然としていたのだ。
「そこから後は覚えていない。目覚めたら、病院のベッドだった。
そこにいた男――後に俺に『力』の使い方を教える奴が、状況を教えてくれた。
敵――俺達を襲った奴は、意識はあるが錯乱していて何も聞きだせないという話だった。
女友達の方は……外傷はなかった」
一呼吸の間が、葵に真実を悟らせた。
先の六人の女生徒は、全員襲われていた。
七人目の彼女も、外傷以外の傷を負わされたのだ。
「男友達の方は左手と右足に後遺症が残ると。
敵は『力』を持っていたこと、俺も『力』に目醒めたこと。
『力』を使って女を襲った奴を裁く術はないが、男が然るべき処置をすること。
そして、俺は『力』の使い方を学ぶ必要があるということを、男から聞かされた」
龍麻にも怪我はなかったという。
比嘉とさとみ、彼の友達だけが、一生残る深い傷を負ったのだ。
その事実は龍麻を苦しめた。
「どうしてあいつと一緒に突進しなかったのか。
どうして足を竦ませちまったのか。
どうして、もう少しだけ早く『力』を発動できなかったのか。
自分が許せなかった。だから、俺は初めて会った男の、命令にも近い申し出を受けた」
龍麻は敵――さとみを襲った相手を再起不能にしたことを悔いてなどいないが、
事実としては警察沙汰になっても不思議ではない傷害事件を起こしたということになる。
『力』の使い方を教えるという、鳴瀧という男の提案もあり、
龍麻は通っていた高校を休学することにした。
大怪我で入院という体裁だったので、比嘉とさとみに挨拶はできなかったが、
二人に合わせる顔もなく、龍麻は強い後悔を胸に十七年過ごした地を去るしかなかった。
修行は楽なものではなかった。
鳴瀧が言うところの『氣』というある種の生命エネルギーを体内で生成する方法に、
生成した氣を操る方法。
それに基礎体力の増強に、寝る時間以外は全て費やされた。
鳴瀧の教え方は懇切丁寧からは程遠く、出来なければ勝手に死ねと言わんばかりの
過酷なもので、龍麻は何度も怪我をして、中には命に関わるものもあった。
それでも逃げようとは思わなかった――平穏な生活が理不尽に奪われた憤りが、
怯懦のせいで友を半身不随にさせてしまった怒りが、倒れることなど許さなかった。
半年に及ぶ修行を終えた龍麻に、鳴瀧は真神學園に行け、
そこから全てが始まると告げた――
「奴はなぜ俺にこんな『力』の使い方を教えたのかは言わなかったが、俺は決心していた。
『力』を悪用する奴は、全員叩き潰すと。
それからこんな『力』を宿す奴が出てこなくなる方法があるなら、必ず探しだすと。
……これが俺の戦う動機だ」
龍麻の話に惹きこまれていた葵は、彼に抱いていなければならなかった警戒心を失念していた。
葵が自分の失策に気づいたのは、見慣れた自分の家を隠すように立ちはだかった龍麻に、
右の手首を掴まれてからだった。
龍麻の過酷な過去に冷えていた心が、一気に反転する。
否、反転したのは心だけではなかった。
「――や、やめて……放して……!」
「だから、俺はお前に『力』は使ってねえ。
身体が火照るっていうのはあくまでも氣を注いだ副作用に過ぎねえし、
俺が使えるのは氣、つまり生命力を操るだけだ。
それも、お前には怪我を治す時以外に使ってねえ」
意に介さない龍麻に、葵は心を覗かれている気がして赤面した。
掴まれた手首を本当に自由にして欲しいのか、解らなかったのだ。
拘束とはとても言えない、ほとんど重ねているだけの龍麻の手は、葵の身体を内側から灼く。
この春から馴染みとなってしまった、下腹に溜まる熱は、
このような場所で帯びてはいけないものだ。
この時間帯から歌舞伎町に群がりはじめる少女達とは異なり、
葵は十二分にそれを弁えているはずなのに、身体の欲求を抑えることができない。
渦を巻いて体内を巡る恐怖と昂揚に衝き動かされて、葵は龍麻を見た。
「手首が熱くなる、って言ったな。俺にこうやって掴まれてから」
「え……ええ」
「それなら、俺が『今日はどんなに火照ってもオナニーするな』って命令したらどうなる?」
「わ、わからない……わ……」
葵は口ごもったのは、本当に答えが判らなかったからであるが、
別の困惑があったからでもあった。
今こうしている間にも、不思議な火照りは身体を苛みはじめている。
全く受け入れられないことだとしても、龍麻に触れられた瞬間から生じた、
身体の敏感な部分に触れてみたい、そこに触れて得られる快感を享受したいという
欲求は無視できないほどに大きくなっていた。
龍麻の手が肌を滑り、手を包む。
守護天使の羽のように、あるいはイブを探す蛇のように、いつの間にか開いていた指の隙間に、
解きほぐされた指の腹に、甘美な暖かさを植えつけていく。
卑猥な言葉を投げつけられたばかりだというのに、
葵は危うく恍惚の吐息を漏らしてしまうところだった。
葵が相反する思考と欲求に葛藤している間にも、
龍麻の手は葵の手首から先を愛撫し続けている。
力づくで彼女を物にしようとした男とは思えない繊細さで、
甲をなぞり、指に絡まり、掌を包んで葵を更なる困惑に導いた。
「俺に他人を操る力なんかねえ。もしあったとしてもそんなものを使うつもりもねえ。
今、俺が氣を注いでいないのは判ってるな? ただ触ってるだけだ。
これで一晩お前が我慢できたんなら、俺は自分でも知らねえ『力』を
持ってるってことになる。その時は潔くお前に手を出すのを止めてやるよ」
龍麻の言い分は好条件に見せかけて、葵に恥辱を強いるものでしかない。
葵もそれに気づきはしたが、右手を嬲る龍麻の手が明瞭な思考を妨げていた。
指の間に入りこみ、ぴったりと嵌った彼を払いのける気力もなく、
薄暗がりでもなぜかはっきり見える彼の暗黒の瞳を、呆けたように見つめるだけだった。
瞳が近づいてくる。
龍麻の暗黒が自分を呑みこんでしまうほど巨大化したと思った葵が、
そうではなく、自分が引き寄せられているのだと気づいたのは、彼の胸に頬が触れてからだった。
ただ制服の黒のみが、葵の五感を支配する。
それは奇妙に心地よく、葵は、いつの間にか腰に回されていた腕を振りほどく気も失くしていた。
「いいな、今日はどんなに疼いてもオナニーはするんじゃねえぞ。
しなけりゃお前の勝ち、したら……解ってるな」
低められた声の振動が、葵の肉体を震わせる。
聞いたことをすぐにも忘れてしまいたい下劣な言葉であるのに、
顔も上げられず、ほとんど全面的に聞き入れてしまっていた。
朦朧とする意識の中を、ある種の衝動が閃光のようによぎり、
その光を追いかけてはいけない、と本能的に感じ、光から逃れるように龍麻の胸に顔を埋める。
だが、龍麻は無情にも葵の拘束を解き、彼女に光を取り戻させた。
「それじゃあな。家に入るまでは、見送ってやる」
一応は送ってもらった相手に、礼を言うことさえ失念して、葵はふらふらと家に帰っていった。
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