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部屋に入るなり、着替えもせずにベッドに倒れこむ。
たったそれだけの動作でも、全身が渇望した。
もっと刺激を。
準備万端となった全身に、能う限りの快感を。
血液に乗って全身に伝わる命令を、葵は目を閉じて抑えこんだ。
目蓋の裏で、光が再び瞬く。
この光は正しい道を照らすものではない。
照らす先に待ち受けているのは、果てのない迷路なのだ。
そう解っているのに、光の誘惑に抗えない。
たった数時間の誘惑を耐え抜けば、以後は決して屈しないという確信があるのに、
瞬く光にじりじりと引き寄せられてしまう。
誘惑はあらゆる形をとって葵を苛む。
乾いた唇を舐めたい。
胸に手を当てて忙しく鳴る心臓を抑えたい。
火照る足の間に触れたい。
ひとつに耐えてもあぶくのように次々と現れる種々の囁きを、葵は必死に拒もうとした。
だがすでに足の指先にまで巣食ってしまった欲望を退けるのは容易ではなく、
いつしか、呼吸をするだけで肌に擦れる制服さえもが葵の理性を責めたててきた。
押し殺した息を、電気をつけていない部屋に吐く。
体内の熱気をいくらかでも排出したつもりだったが、もうその程度ではどうしようもなかった。
短い葛藤の末、腹の前で手を交差させる。
左手で龍麻がそうしたように右の手首を掴むと、そこは熱く脈打っていた。
自分の身体にはこれほど激しく血が流れていたのかと驚くほどで、
その強い脈動は、葵に一つの記憶を呼び覚まさせた。
忌まわしいはずの記憶が、写真のように正確に蘇る。
してはいけない。
暗い車道に飛びだすような、明確な破滅が待っている。
してしまったら最後、何もかもが終わってしまう。
強い警告は、だが、それ以上の甘美な囁きに妨げられる。
本当は、ずっとこうしたかったのだろう。
「違う……わ……」
声無き反駁は、頭の中で反響する笑い声にかき消される。
嘘を吐くな。
毎日のように自慰をしながら、龍麻のことを想っていたくせに。
「違う……」
乾いた唇を舐め、葵は己に逆らう。
だが押さえつける手の力に比例するように、嘲る声は大きくなっていく。
お前は龍麻を好いてなどいない。
なのに、龍麻に蹂躙される夢を見る。
命じられ、辱められ、服従することを望んでいるのだ。
「違うっ……!」
ならば、試してみろ。
緋勇龍麻は憎むべき男に過ぎず、ひとかけらの情も抱いてはいないのだと、自らに証明してみせろ。
「……」
心の声の命令に、葵は従った。
そうしなければ、壊れてしまいそうだったから。
左手の拘束を解いた葵は、右手を頭上に掲げる。
右の手首に龍麻の圧力が蘇る。
数ヶ月前に龍麻に組み敷かれたときと同じ姿勢は、記憶とそれ以上のものをもたらした。
あの時は恐怖だけだった。
今は、違う。
右手は頭上に固定したまま、左手をスカートの内側へと潜らせる。
下着を履いたまま、あえて無造作に疼きの源に触れた。
「っ、あ……!」
大きな声が出てしまい、慌てて唇を噛んだ。
左手も右手も動かしたくなかった。
左手を動かせば直接的な快感が失われるし、右手を動かせば、
押さえつけられているのだという妄想による間接的な快感が失われる。
こんな風にあの時の事を思いだしながら自慰をするのは初めてだったが、たちまち没頭した。
あの時、もう少し時間があったなら、龍麻はどんな風に触ったのか、想像しながら左手を操る。
彼に痴漢された時のことも、夢の世界で抱きしめられた時のことも、
忌まわしいはずの記憶が万華鏡のように蘇り、その都度左手は動きを変えて葵を嬲った。
「あ、ぁ……あ、駄、目っ……!」
足が開かされていく。
スカートが捲れあがり、露になった太腿が無遠慮に撫でられる。
抗っても愛撫は止まらない。
あまりの快感に腰が浮く。
それでも、彼に押さえつけられた右腕だけは、釘で打ちつけられたように動かない。
左手が下着の中に潜りこんでも、指先が淫らな珠を執拗に弄んでも、
龍麻の熱が宿った右手は、彼の命令を忠実に実行していた。
オナニーはするな。
どれだけ疼いても、自分で慰めるな。
葵は従う。
彼の支配下にある右手以外を使って、彼に無理やりに襲われているという想像で、
燃えるように熱い肉体が求めるままに淫楽を貪る。
嫌っている龍麻を想い、自分に利があるはずの約束を破り、
何重もの矛盾を全て快楽の業火で焼きつくそうとするかのように、
足を大きく開き、卑しい水音が部屋に満ちるのも構わず指を動かした。
「あぁ……嫌、止めて……っ……!」
強引に。
だが、乱暴ではない。
これまで龍麻が触れたとき、痛かったことは一度もなかった。
どれほど利己的であったとしても、どれほど葵が嫌がったとしても、
龍麻の愛撫は少なくとも葵の肉体には悦びのみをもたらした。
彼の家であっても、電車の中であっても、全く不本意ながら葵は、彼の手を拒みきれなかったのだ。
「そんなところ、触らないで……ああ……」
口先の拒絶とは裏腹に、葵の腰は浮き、指先は深く下着をまさぐる。
触ってはいけないところ、この数ヶ月ですっかり覚えてしまった淫楽の源を、
龍麻ならそうするであろう触り方で。
「ふっ……ん……!」
かつてない快感に、腰が浮きあがる。
これまではあえてしないようにしていた、龍麻に犯されているという想像は、
一気に葵を快楽の虜にした。
脳裏に龍麻の瞳が思い浮かぶ。
威圧でも劣情でも支配でも欲望でもない、ただ黒い瞳。
初めて目が合った瞬間から、葵はただならぬものを感じていた。
呑まれる――何もかもが、彼に取りこまれる感覚。
気のせいかと思った感覚は、その後彼と目が合うたびに抱く一方で、
小蒔や他の女性がそのような感覚を抱いたとは聞いたことがない。
それがつまり、従いたい性ということなのだろうか――
秘唇を弄りながら、葵は彼の言葉を反芻する。
いや、そんなはずはない。
男女は支えあうものであり、一方的な依存は健全ではない。
ごく普通の、互いを尊敬し、愛しあう両親の下で育った葵は、
男女の価値観も至って常識的なものを受け継ぎ、それを疑いもしなかった。
オナニーでさえ肉体の健全な成長に伴って数回したことがあるのみで、
どちらかといえば汚らわしい行為だと敬遠していたのだ。
だがそれは、偽りだったのか。
愛液に塗れた指を、日々培ってきた動きで忙しなく踊らせ、淫戯に耽る葵の姿は堂に入ったものだ。
陰核に触れるたび、全身に走る電流めいた快感を存分に堪能し、
それが消え去る前に次の快感を求めて自らの秘所をまさぐる。
昨日までは、葵の自慰は控えめだった。
親と同居する当然の警戒として声は抑え、気づかれないよう慎重に行った。
だが、今、葵にそのような警戒心はない。
このタイミングで親が来ることはないという予測はあっても、
それ以上に、身体を蝕む快楽の虜となっていた。
染みでる愛液に指を浸し、性器をなぞる。
膣内に挿れるのは怖かったが、龍麻にされていると思うと止まらなかった。
「嫌、嫌っ……」
龍麻は犯す。
どれほど葵が嫌がろうとも。
親しく言葉を交わしたわけでも、同じ趣味を持つわけでも、一緒の将来を夢見ているわけでもないのに、
当然のように葵がいずれ愛する相手に捧げる時まで、大切に護ってきた純潔を踏みにじろうとする。
許されるはずがない。
許してはならない。
なのに、葵は龍麻を止められない。
のしかかる彼の身体を、押さえつける彼の手を、跳ねのけられない。
「あッ……う……ッ……」
腰が浮き、ベッドが軋む。
ほとんど裾を上げていない、膝丈のスカートは今や下着が見えるほど捲れあがっていたが、
直そうともせずにクリトリスを擦る。
「止めて……緋勇君っ、あ、あ……!」
黒い瞳が葵を睨む。
何よりも黒いその瞳は、葵を呑みこみ、咀嚼する。
永久の闇の、なんと快いことか。
明かりを灯すように伸びた舌が、唇を濡らしただけで消える。
咎めるように一度は閉じた口も、理性など必要ないとばかりにしどけなく開き、
熱された喘ぎをとめどなく吐きだした。
「はっ、あ……ッ、ん……!」
龍麻に無理やり触られているという妄想は、興奮をむしろ促進させる。
受け止めきれないほどの快感を、溢れだしてもなお、葵の意向など無視して与え続ける。
押さえつけた手首から熱を伝え、もがく様を愉しみながら、己の欲望のままにふるまうのだ。
快楽の波に浚われるのは決して本意ではなく、男の力づくに抗えないから。
龍麻の動きを模した手に、思うがまま劣情を貪らせる葵は、自らが欲する以上の淫楽に溺れた。
「くうッ……そんな、強く……ッ……」
龍麻の命令に従えば彼から解放されるというのに、彼に抗い、嬲られる。
そんな矛盾も快楽に目覚めた肉体と、本性に気づいた精神が融けあう前には意味をなさない。
ベッドから落ちそうなほど足を広げ、ナメクジのように身体をのたうたせて、
右腕だけは磔にされたかのごとく頭上に固定したまま、
葵は初めて具体的な想像を伴った自慰に酔いしれた。
「許して……ああっ……!」
いつしか喘ぎから拒絶は消え、懇願へと変わっている。
愛液に塗れた指も留まることを知らず、はっきりと見たこともない性器の感じる部位を刺激し続けていた。
「ああッ、あッ、私、私、もうッ……!」
びくん、と不自然に身体が震える。
馴染みのある兆候に葵は一層刺激を強めた。
「うっ……あ、あッ――!!」
溜まっていた快感が一気に弾ける。
汚らわしいと決めつけるには、あまりにも大きな快楽。
足をぴんと張り詰めさせた葵は、腰を哀れなほど揺らして絶頂した。
泡沫の熱が去り、理性が居場所を取り戻す。
頭上に置いた右手を動かすと、それは、当然意図したとおりに顔の前に来た。
全身の熱と同時に、手首の熱も去っている。
代わりに押し寄せたのは、深い悔恨だった。
龍麻が葵を従わせる、何かしらの『力』を使ってはいないというのは真実だった。
別れ際に掴まれた、彼の熱が残る右腕は、葵の意思で頭上に固定され、
どんな強制力も働きはしなかった。
性器を弄り、淫楽に耽った左手は、あくまでも葵の意思で動かしたのだ。
「……」
ため息をついた葵は、これからのことに思いを馳せずにはいられなかった。
龍麻と交わした約束は、反故となった。
それはすなわち、今日葵が耽った妄想が現実になるということだ。
自慰を行ったことを認めれば、龍麻は今後も強引な干渉をするだろう。
逆に我慢できたと嘘をつけば、手を出すのを止めると言った。
たった一度嘘をつけば、大きな悩みのひとつは解決できることになる。
だが、他者の欲望から逃れるために自らの欲望を偽るというのは、あまりに浅ましい気がした。
どちらを選ぶにしても、容易に選べる問題ではなく、選んだ後のことまで慎重に考えなければならない。
急に突きつけられた自己の内面に、葵の頬を一筋の涙が伝う。
それはもう歩めない未来への、決別の標だった。
翌朝、龍麻と顔を合わせたくない葵は、学校を休んでしまおうかとも思った。
そうしなかったのは、小蒔が学校に来るかもしれないという、祈りにも似た願望があったからだ。
小蒔に余計な心配をかけさせたくないという気持ちは、偽りのないものだった。
それでもいつもと全く同じように、というわけにはいかず、
葵が教室に入ったのは、朝のホームルームが始まる直前だった。
登校時間を遅らせた小細工が功を奏し、龍麻が話しかけてくる時間的余裕はない。
何人かの女生徒と慌ただしく挨拶を交わした葵は、滑りこむように席についた。
教科書を机にしまいつつ、素早く周囲に視線を走らせる。
空席は三つで、他の二つはともかく、小蒔の席が空いたままなのは葵を落胆させた。
これで今日学校に来た意味はほとんどなくなってしまった。
保健室に行ってしまおうか、と優等生らしからぬことを考えているうちに、
ホームルームは終わりに近づいているようだった。
「それではこれで朝のホームル−ムを終わります。
佐久間クンを見かけた人は、ワタシに連絡してください」
マリアの声は必ずしも事務的という訳ではなかった。
素行が悪くても佐久間は彼女の生徒であり、
親もどこへ行ったか知らないとあれば心配しない訳にはいかない。
にも関わらず、もう一週間以上も同じ台詞を繰り返しているため、
どこか諦めているような響きもそこにはあった。
同級生達の反応は更に寂しく、元から信望の乏しかった佐久間ではあるが、
静かになるのはマリアの声が教室に響く一瞬だけであり、後は彼を話題に出すことすらなかった。
彼らの無情さを嘆きつつも、マリアは話題を変える。
「それから、今日の欠席者も醍醐クンと桜井サン──」
こちらももう、馴染みになってしまいつつある報告だった。
醍醐と小蒔は日を同じくして突然学校に来なくなってしまい、
小蒔は連絡が取れたものの、醍醐の方は佐久間と同じで全く行方が判らず、
最も彼らと親しい龍麻や京一に訊ねてみても、逆に親から何か聞いていないか問われる始末だった。
この状態がもう数日続けば、
マリアは二人の生徒の捜索願いを出すという不名誉な記録を樹立する羽目になる。
生徒達には聞こえない、極小のため息を形の良い唇から押し出して
マリアが教室を出ようとすると、向こうから扉が開いた。
「遅くなってすいません」
生気に乏しい声と共に入ってきたのは、桜井小蒔だった。
声だけでない、いつも薔薇色の頬も土気色に変わり、
豊かな感情を描く目鼻は枯れる寸前の花を思わせるほど力無い。
マリアはとにかく数日ぶりに教え子が姿を見せたことを喜びつつも、
あまりに別人のような彼女に心配を抱かずにいられなかった。
「桜井サン……もう具合はいいの?」
「はい」
必要最小限の返事だけをして、小蒔は席に向かう。
いつもなら何かしら話しかけてくる彼女が、逃げるように背を向けたことに、
マリアの心配は募ったが、今の小蒔にかけてやれる言葉を彼女は持っていなかった。
「そう……でも、あんまり無理はしないでね」
そういうのが精一杯で、後は彼女の友人達が彼女を励ましてくれるだろうという、
らしくない期待を抱きつつ教室を後にするしかなかった。
マリアの期待に応えようとした級友達は、話しかけようとして、
小蒔の周りに張り巡らされた不可視の壁に遮られ、あえなく粉砕されてしまった。
椅子に座った小蒔に近づいたはいいものの、
こちらを見上げるただのガラス玉のような瞳に恐怖すら感じ、いそいそと離れていく。
そんな中で、彼女の傍らに立ち、いつもと同じ挨拶を交わしたのは、長く、美しい黒髪を持つ、
この学校で最も彼女と交流がある少女だった。
「おはよう。もう平気なの?」
「う……うん」
しかし小蒔からは、彼女が普段から一番の親友であると公言している葵の質問ですら
避けようとしている態度が感じられた。
緩慢な動作で鞄から教科書を取り出す小蒔に、次はなんと言って話しかけようか、
葵が迷っていると、横から腹立たしいほど明るい声が割り込んでくる。
「なんだよなんだよ、シケたツラしやがって。お前は脳天気さだけが取り柄なんだからよ」
明らかに具合の悪そうな小蒔に対して、京一の物言いはいかにも無神経なものだった。
彼の隣に立つ龍麻も顔をしかめているが、さすがに葵が抗議しようとすると、その前に小蒔が力なく答えた。
「うん……ごめん」
それは葵が彼女と知りあって以来、初めて耳にしたといっても良いくらい落ちこんだ声だった。
いくら京一の言葉に傷ついたにしても、こんな風になってしまうことはありえない。
言葉を詰まらせてしまった葵の耳に、同じくらい沈んだ京一の声が聞こえてきた。
「……チッ、やっぱり嫌な予感が当たっちまったか」
「え?」
「醍醐も休んでんだよ。お前と同じ日から、ずっとな」
一瞬だけ見開かれた小蒔の目はすぐに伏せられた。
それは彼女が醍醐の休んだ理由を知っていると、何よりも如実に告げていた。
しかし小蒔は何も言おうとはせず、葵の不安を募らせる。
言いたくないのなら、無理に聞かない方が良いのではないか──
そう葵が思ったのは、小蒔を傷つけたくないという、彼女を思いやってのことだ。
しかし逡巡する葵に代わり、京一が直線的なまでに小蒔に訊ねてしまった。
「その日のコトは、一応は緋勇に話を聞いてる。その上で、お前からも話を聞きてェ」
葵は咎めるような視線を京一に向けたが、小蒔は、むしろすがるように京一を見上げた。
「ボク──ボク、どうしていいかわからないんだ。醍醐クンが……っ」
一気に溢れでようとする感情を制御できず、小蒔の声に涙が混じる。
うろたえる龍麻と葵を横目で見た京一は、親指を天井に向けて立ててみせた。
「とりあえず屋上へ行こうぜ」
今から行けば、一時限目は出ないことになる。
しかし誰も、それについては何も言わなかった。
小蒔の話を聞くことは、授業などよりずっと大切なことであるはずだったから。
授業中の時間だから、屋上にはもちろん誰もいなかった。
それでも龍麻達は隅の方の、あまり目立たない所を選んで小蒔の話を聞いた。
龍山の許を訪れた帰り、佐久間と手下に襲われたこと。
助けに来てくれた醍醐が、突然人が変わったように佐久間に襲いかかったこと。
佐久間が水岐のように化け物に変わってしまったこと。
そして、その化け物を醍醐は容赦無く斃()し、息の根を止めたこと。
その後醍醐は、どこへともなく行ってしまったこと。
それらのことを小蒔は、時間をかけて、ぽつりぽつりと話した。
すでに龍麻から聞いたことではあるが、本人の口から語られる辛さは比でなく、
葵は小蒔の顔を直視できなかった。
意外だったのは龍麻も同様に苦渋に満ちた顔をしていて、
小蒔を護れなかったという後悔は偽りでなさそうだった。
龍麻と葵が小蒔の受けた心の傷を思い、それぞれ心を悼める中、京一の反応はやや異なっていた。
「あの野郎……手前ェ勝手なコトしやがって」
葵は初め、野郎というのが醍醐を指しているのだと解らなかった。
それほど京一の言葉には彼らしくない憤りが含まれていたのだ。
「醍醐くんはきっと、私達に迷惑がかかると思って」
「それが手前ェ勝手ってんだよッ!! そんなに俺達が頼りにならねェってのか」
小蒔のことを思えば言えるはずもなく、また殺人を犯したなどと相談できる訳もない。
京一の言うことは明らかに理不尽であったが、葵は引き下がった。
これ以上京一を刺激しても仕方なかったし、彼が怒る理由も理解はできたからだ。
「野郎……探し出してブン殴ってやらねェと」
「探し出すのはいいけど……どうやって」
指を鳴らす京一に、小蒔が訊ねる。
全てを、一人で背負うには重すぎる事実を仲間達に話したことで幾らかは荷が軽くなったのか、
朝のような死人さながらの表情からは回復していた。
自分の受けた傷も確かに酷いけど、醍醐クンの方がもっと辛いはずだ。
だから、今はガッカリしてる場合なんかじゃない──
そう考えられるのが、彼女のかけがえのない強さだった。
醍醐を探し出す方法までは考えていないのか、京一は無言で小蒔を睨みつけるだけだ。
思案を巡らせた葵は、こういう時最も頼りになる人物を挙げてみた。
「ねぇ……アン子ちゃんやミサちゃんに相談してみたらどうかしら」
「他に方法はねェ……か。しょうがねェ、美里、もうすぐ一時限目が終わるからよ、
そしたら小蒔と一緒にアン子を捕まえてくれ。
そうだな……新聞部の部室で落ち合おうぜ。俺も後から行くからよ」
葵の提案に、京一はあまりいい顔はしなかった。
それは消極的な同意からも判ったのだが、龍麻には、
彼の拒絶がかなり深いところから生じていると感じられた。
「ええ、わかったわ。行きましょう、小蒔」
葵には感じ取れなかったらしく、小蒔を促してアン子達の所に向かう。
大きな音を立てて扉が閉まると、京一はこの場に残った龍麻に強く促した。
「なんだよ、お前も行けよ」
京一は明らかに龍麻が残るのを歓迎していなかった。
自分の予感に自信がなかった龍麻も、彼の態度でそれを確信に変えた。
京一は、一人で醍醐を探そうとしている。
それはきっと、醍醐の一番の友であるという想いからなのだろう。
しかし、京一が醍醐に対して怒ったように、
龍麻にも『力』を巡る戦いに巻きこんだ者に対する責任感がある。
たとえ彼らが自ら戦いに身を投じたとしても、そしてそのことを悔いていないとしても、
龍麻は彼らを護ると決心していた。
ゆえに、京一と醍醐の紐帯には及ばないかもしれないが、
誰にも──自分にも頼ろうとしない京一を、そのまま行かせる訳にはいかなかった。
邪魔者を見る京一の態度に刃向かい、龍麻は無言で立ちはだかる。
そのまま殴りかかってくるのではというほど殺気を漲らせて肩をいからせた京一は、
諦めたように髪を勢い良く掻いた。
「チッ、ッたく、勘がいいってのは良くねェな」
敗北を認めたようにぼやいた京一は、次の瞬間、手近にあった金網を力一杯殴りつけた。
何の罪もなく揺らされた網は仲間に被害を訴え、大きな音が屋上に鳴り響いた。
「野郎……俺にすら相談しねェなんてよ、
俺は──俺はあいつにとってその程度のモンだったってことかよ」
血を吐くような声が、青空に溶けていく。
龍麻は初めて見る、己を曝け出す京一を、ただ無言で見守っていた。
「……すまねェ」
荒れ狂う感情をどうにか鎮めた京一は、ぶざまなところを見せたと恥じる。
無表情で、視線をずらしてくれている龍麻の配慮がありがたかった。
最後にもう一度だけ頭を振り、思考を未来へと切り替えた京一は、
葵や小蒔には言わなかった事実を告げた。
「実はよ、前に水岐を追って港区の地下へ行ったことがあったろ。
あん時に如月が俺に言ったことがあってよ」
頷いて続きを促す龍麻に、京一は金網にもたれて続ける。
「奴は『醍醐から目を離すな』って言いやがったんだ。
意味がわかんねェから聞き直したらよ、醍醐の氣がどうとかって余計わかんねェこと言いやがって」
「それで」
「それだけだ。もうちっと聞こうとしたら小蒔に呼ばれちまってよ。
そん時ゃ気にも留めてなかったんだけどよ」
確かに如月は、何かを知っている節がある。
今回の件について有益な情報を持っているかは判らないが、行ってみる価値はあるように思えた。
「如月……か。行ってみるか」
龍麻が賛意を示すと、京一は二つ返事では頷かなかった。
「なぁ龍麻、悪ィけどよ」
そこで言い淀んだ京一の意図を、龍麻は正しく理解した。
「あぁ……俺達二人で行こう」
「すまねェな」
葵達を騙すことになるが、あまり女性をこの件に立ち入らせたくなかったのだ。
仲間意識や友情とは異なる、説明のしにくい男の性()のようなものが、
二人の裡には確かにあり、暗黙の了解となって龍麻と京一を衝き動かしたのだった。
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