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如月骨董品店の扉を、京一は何の前置きもなく開けた。
手入れが行き届いている引き戸は勢い良く滑り、派手な音を立てる。
京一はそれを気にも留めずずかずかと踏み込んだ。
「如月、いるか」
さほど大きくはない店の隅々にまで届く京一の声にも、店主からの返事はなかった。
龍麻を振り返った京一は、焦りを転化させて罵る。
「くそッ、留守かよ。無用心なやつだな、鍵もかけねェで。なんか盗まれたらどうすんだよ」
「心配はいらない」
京一にとっては何の意味もない商品の一つを手に取り、
自分の言ったことが実行可能であると証明するように手の内で弄んでいると、いきなり奥から声がした。
もちろん京一は本気で盗もうとしていた訳ではないが、虚を突かれたのは確かで、
品物を取り落としそうになってしまう。
「どわッ!! 居たら返事くらいしやがれ」
「ちょっと品物の整理をしていたんだ」
「学校はどうしたんだよ」
驚かされた腹いせだろうか、京一は皮肉を込めて言ったが、如月は眉ひとつ動かさず受け流した。
「それは君達もお互い様だと思うけどね。どうしたんだい、二人だけで」
「あァ──実は訊きたいことがあってよ」
「醍醐君のことかい」
単刀直入に過ぎる如月の言葉に、二人は目を瞠った。
京一が商品を置き、如月に詰め寄る。
「知ってるのか」
「いや、ただ血相を変えて君達が入ってきたから、そうじゃないかと思っただけだ」
「頼む、醍醐に何が起こったのか、知ってるなら教えてくれ」
京一の声には龍麻が彼と知り合ってから、まだ幾度かしか聞いたことのない、
他人を心配する響きがあった。
いつもの飄々とした感じも失せ、焦った様子が滲み出ている。
彼らとは一年にも満たないつきあいでしかない龍麻は、二人の間にある、
年月のみが織りあげることが出来る絆を羨ましく思った。
「……僕が今から話すことは、君達の闘いにこれから深く関わることだ。
良く覚えておいて欲しい」
如月もいつになく真剣な京一の態度に表情を改める。
細面の彼が顔を引き締めると、女性の多くが魅了されてしまうであろう貌が浮かんだが、
如月は自分の容姿には全く関心を払わない性格だった。
もちろん龍麻達も如月の表情に興味はなく、彼が告げる真実にのみ注意を払う。
静まりかえった店の中に、如月の声が響いた。
「人は──生まれながらにして『宿星』というものを持っている」
「それが醍醐と何の関係が──」
たまらず京一が遮ったが、如月は強い調子で続けた。
「いいから聞くんだ。宿星は『星宿』とも言って、
元々は古代中国で星座を表す呼び方なんだ。
人はそれぞれ、天が決めたその宿星に導かれるままに一生を送ると言われている。
僕も──そして君達も、宿星を持って生まれてきているんだ。
そして特に強い宿星を持つ人は、大きな因果の流れの中にいると言ってもいい。
例えば──君達のように」
「宿命……ってやつか」
「そうだね。宿命という言葉はそこからきているんだ」
少し表情を和らげた如月は、龍麻達に質問した。
「君達は『四神』というものを聞いたことがあるかい」
「少しだけなら」
その言葉は数日前、織部神社の双子巫女である雪乃と雛乃から聞いた覚えがある。
確か、風水という占いの一種における、東西南北を守護する獣のことだったはずだ。
ただしその時の話の論点は、四神の中心にいる『黄龍』が象徴するという龍麻達の力の源、
龍脈の方だった。
龍麻がそう答えると、如月は組んでいた腕を解いて口調を改めた。
「そうか。それでは結論を言おう。
醍醐君は四神のうち、『白虎』の宿曜を持って生まれた人間だ」
「白虎ォ?」
いよいよ訳が解らなく京一は素っ頓狂な声を上げたが、
龍麻は小蒔の話のある部分を思い出していた。
──醍醐クンは人が変わったみたいに、ううん、獣になったみたいに佐久間に襲いかかって──
彼女は屋上でそう言っていた。
単なる比喩だと思っていたのが、そうではなかったということなのだろうか。
考える龍麻の内心を読んだかのように如月が言った。
「そうだ。醍醐君は杉並区で生まれたと言っていたね」
「それがどうかしたのかよ」
答えたのは京一だった。
頼って来た如月があまりに意味不明なことを言うものだから、
声には棘を通り越して毒が含まれている。
しかし如月は、顔色ひとつ変えずにその毒を吸収してしまった。
「杉並は、新宿の西──白虎は西の守護の星を持っている。
醍醐君は間違いなく白虎の宿曜を持っていると見ていいだろう」
「なんでそんなコト言い切れるんだよ」
「僕には解る訳があるんだ。それよりも」
この時の如月は、強引に話題を変えようとしているように龍麻には見えた。
その疑問を追及してみたく思ったが、如月は口を差し挟む隙を与えずに話を続けた為、
遂にタイミングを逸してしまう。
「醍醐君は不安定な龍脈の影響で急激に覚醒してしまい、
白虎の氣に呑み込まれてしまったんだろう。
今はきっと、文字通り生まれたばかりの虎のように自分の『力』に戸惑っているに違いない。
そこを鬼道衆が狙ってくる可能性は非常に高いと言えるだろう。まだ力を制御しきれない彼を」
一拍置いて、如月は二人に檄を飛ばした。
「急ぐんだ。彼を救えるのは君達だけだ」
「けどよ、やつの居場所が判らねェんだ」
「そう遠くへは行けないはずだ。多分、まだ新宿近辺にいるんじゃないかと思う。
この辺りで彼が身を寄せそうな場所に、心当たりはないかい」
如月の質問に、龍麻と京一は同時に同じ場所を思い浮かべた。
「一箇所、あるな……ジジイんとこがよ」
「行ってみよう、京一」
「ああ。すまねェな如月、急に来ちまってよ」
「いや、構わないよ。それより、僕にもそこの住所を教えてくれないか。
何か解ったら連絡するよ。それと、緋勇君」
如月は棚に置いてあるものを取り、龍麻に渡した。
「これは使う者の氣を増幅させる呪法が施されている篭手だ。
力無き者が使えばかえって重荷となるだろうが、君なら使いこなせるはずだ」
黒に近いくすんだ色をしている篭手は、如月の言うような力を秘めているとは思えない。
だが、龍麻は黙って腕に装着した。
「ありがとう、使ってみるよ」
「ああ、代金は効果を確認してからでいい」
まさか売り物だとは思っていなかった龍麻は、とっさに返事ができなかった。
言いたいことを色々呑みこんでから、ようやく答える。
「わかった」
「おい、早く行こうぜッ」
京一に急かされて、代金を訊くことなく龍麻は如月骨董品店を出る。
彼らを見送った如月は、店の扉を閉めると素早く身を翻し、店の奥へ姿を消した。
竹林を、龍麻達はひた走っていた。
「急ごうぜ。如月の言うコトを信じるワケじゃねェが、何か嫌な予感がしやがる」
二人は既に小走りをしており、これ以上速度を速めると、
もし鬼道衆と闘う事態になった時に対処できなくなる。
これが呼吸を乱さずにいられるぎりぎりの速さだったが、龍麻はもう少しだけ速度を上げた。
するとせっかく走りだしたところで、京一が急停止する。
「あッ」
文句を言おうと龍麻も立ち止まると、京一がその前に叫んだ。
彼が叫んだ理由を知った龍麻は、もう少しで自分も叫んでしまうところだった。
前方に、良く見知った人影があったのだ。
京一の声に気づいた人影は、立ち止まり、振り向くと、こちらに近づいてくる。
豪胆な京一が背後に隠れようとしてきて、押し返す龍麻も実のところ彼の背後に隠れたかった。
「緋勇クン……それに京一も」
前方を往く影は、葵と小蒔のものだった。
ばつの悪さを隠しきれず、京一は後頭部を掻く。
「へ……へへッ。ドコ行くんだよ」
「ドコ行くんだじゃないよ。いつまで待っても二人が部室に来ないから、
ミサちゃんに占ってもらって今から龍山のおじいちゃんのトコに行くんだよ。一体何してたのさ」
返ってきたのは矢のような怒声だった。
たまらず二人は首をすくめる。
理由はどうあれ、約束をすっぽかし、更に彼女達に黙って醍醐の許に行こうとしていたとあっては、
どんな言い訳もできるものではなかった。
「あ……あァ。ちょっとな」
「……もう、これっきりにしてよ。ボク達は、五人一緒がいいよ。一人だっていなくなるのは嫌だ」
「すまねェ」
京一は両手を合わせ、龍麻も頭を下げる。
彼女達、特に小蒔は相当に怒っているらしく、容易には許してくれそうになかったが、
今はそれどころではなかった。
「……悪かった。だけど、今は」
「うん……わかった。行こう、おじいちゃんの──醍醐クンの所へ」
小蒔もここで怒っても何にもならないことは判っている。
ただ、醍醐がいなくなり、これで龍麻と京一もいなくなってしまったらどうしたら良いのか、
という不安が抑えきれなくなってしまったのだ。
うっすらと滲む涙を隠し、小蒔は先頭に立って歩き始める。
その肩を、突然強く掴まれた。
「痛ッ……どうしたの、緋勇クン」
「気配がする──複数だ」
緊張した龍麻の声に、他の三人も身構える。
確かに、一般人のものではない禍々しい気配がいくつも前方から近づいてきていた。
「へッ、こりゃいよいよ醍醐はジジイの所にいるみてェだな」
木刀を袋から出しながら、京一が不敵に呟く。
醍醐の居場所さえ判れば、障害など排除すれば良いだけのことだ。
樫の木剣を握り締め、京一は仲間と共に鬼道衆が姿を見せるのを待ち構えた。
彼らの前に現れたのは、醍醐をも凌駕する体格の大男だった。
「鬼道五人衆がひどり、おでの名は岩角(。ごの先(、通(ざない」
訛りのある、そして舌足らずな喋り方で男はそう名乗った。
朴訥(さを感じさせもするが、紛れもない鬼道衆の一員であり、
醍醐の許へ行こうとする龍麻達を明らかに邪魔しようとしている。
斃(すべき、敵だった。
「おで、命令されだ。九角(様に命令ざれだ。おめだぢを殺(ぜど」
岩角は淡々と、薪でも拾ってこいと言われたかのように、
人の命を奪うことを宣言する。
氣を練りながら、龍麻は一歩で間合いに飛び込めるようつま先だけで移動した。
すると、背後からも複数の気配を感じる。
危機を覚えた龍麻は、ことさら大声で岩角に訊いた。
「佐久間を唆したのはお前かッ!」
この場での指揮官である岩角と話している間は、手下も仕掛けてはこないだろうという判断だ。
「違(う。それは炎角(がやっだごどだぁ。
だども、炎角は佐久間(の望みさ叶(えだだげ。
あいづは強くなりたいと望んだだ。だがら、変生(えてやっだ」
「そんなに自分の強さに自信がねえか。俺達がそんなに怖いか」
冷静さを失わせようと挑発気味に言ったが、岩角は巨体を揺らして嗤った。
「ぐへぐへぐへ、おめだぢなんで怖くねえ、だども捜しもんするのにおめだぢは邪魔だ」
「捜しもの? 何を捜してるんだ」
「女だ」
「女?」
「ぐへぐへぐへ、教(えでやらね。おめだぢに教えだら九角様に怒(られる」
頭は悪そうでも、どうやら最低限の知能は持っているらしい。
これ以上の情報収集は無理だと判断した龍麻は、作戦を素早く立て、仲間達に伝えた。
「俺と京一が正面突破する。二人は後に続いて、抜けたら桜井はそのまま醍醐を呼びに行け」
「え、でも……」
龍麻と京一、二人だけではいかにも分が悪く、小蒔は渋ったが、
龍麻はそれ以上彼女の意見を聞かなかった。
「美里は残れ。お前の『力』が無いと、さすがにこの人数は厳しい。
その代わり、絶対怪我はさせねえ」
「は、はい」
龍麻の威に打たれた葵も、異論なく頷く。
氣を練る龍麻に呼応するように、岩角と同じ、茶色の装束を着た忍者の集団が十人ほども姿を現した。
さらに後方にも六人ほどの気配がある。
緊迫する状況の中、京一が小蒔に笑いかけた。
「いいか小蒔、醍醐が眠てェコト言ってやがったらケツ蹴っ飛ばしてやれ」
「……絶対醍醐クンを連れて戻ってくるから、それまで待ってて」
「アホか、この程度の野郎共、俺と緋勇で充分だってんだ……行くぜ、緋勇ッ!」
言うなり京一は岩角に斬りかかっていった。
「逃がさねえど……ッ」
厭いやらしい笑いを浮かべて行く手を遮る岩角に、木刀が一閃する。
不意を衝かれた岩角は、倒れこそしなかったものの大きくよろめいた。
「どけよ」
京一の声に凄みが漲る。
「俺は今機嫌が悪ィんだ。手加減できねェから覚悟しやがれ」
敵の只中に突入した京一は、手当り次第に木刀を振るい、敵に当たっていった。
後ろに続く龍麻も、篭手から氣を迸らせて忍者を狙い、道を開いていく。
少人数の龍麻達の方から仕掛けてくるとは思っていなかった鬼道衆の忍者達が、
わずかに怯んで統制を乱す。
その隙を逃さず門を守護する仁王のように左右に別れて立った龍麻と京一は、
葵と小蒔に向かって同時に叫んだ。
「今だ、行けッ!!」
二人の間をくぐり抜けた葵と小蒔は、小蒔がそのまま龍山の庵へと走っていき、
葵は少し離れたところで立ち止まる。
それを見届けた龍麻と京一は門を閉じるように素早く葵の前に立ち、鬼道衆に正対した。
「へへッ、これで後はこいつらをブチのめすだけってわけだ」
初手は成功したとはいっても、敵は東京を滅ぼすために暗躍している、闇の殺人集団だ。
数も多く、二人だけではいかにも分が悪いが、陣形を縮めてくる敵を京一は平然と見渡した。
「半分はお前にくれてやる――それくらいなら、お前でも何とかなるだろうよ」
声には寸毫の震えもなく、虚勢を張っているわけでないのは明らかだったが、
龍麻の返答は京一の想像を超えていた。
「ノルマは八か。なら、あのデカイのを倒した方がラーメン奢りって事だな」
「……おい、そりゃ話が別だろ」
自信とは関係なくラーメン代は龍麻が持つものだと決めていた京一は、
自分の財布の中身を思いだして思わず素に戻っていた。
そこに眼前で漫才を始められて、怒りが頂点に達した忍者の一人が、苦無を投じる。
眉間を狙った苦無を、動じる色もなく木刀で叩き落とした京一は、
そのまま苦無を投じた鬼道衆に突撃した。
「ラーメンの為だ、てめェら死にやがれッ!」
本気とも冗談ともつかない鬨(の声を上げて戦いを始める京一に、
一瞬笑顔を閃かせた龍麻も、自身を囲む敵に挑みかかっていった。
醍醐の意識は、昏い中にあった。
深い、足場の無い常闇。
足掻いても足掻いても抜け出すことの叶わない闇の中に、醍醐は浸かっていた。
怠惰と退嬰が支配する闇は、母親の手の如き生ぬるい温かさで醍醐を迎える。
出たくなければ、ずっとここに居ればいい──そう囁く甘美な声。
それが自分自身が生んだ落とし子であると知りつつ、醍醐は抗おうとさえしなかった。
厭だった。
わずかでも意識を、理性を取り戻せば、思い出してしまうものがある。
永遠に自分を苛むであろうそれを思い出すくらいなら、
何もかもを捨てて闇の中に逃げ込むほうがましだった。
だから醍醐は世界を捨て、己を捨て、全てを捨てる。
しかし、その、全てを捨てて逃げ込んだはずの意識の中に、どこからか入りこんで来た声があった。
「白虎よ──」
「やめろ……俺をそんな名で呼ぶなッ!」
口元がわずかに動いたが、声は発せられていない。
己の内面に向かって叫ぶ醍醐を無視して、声は再び語りかけた。
「思い出せ……己の内の黒い欲望を。柔らかき肉の感触を」
「やめろ……やめてくれ」
永久(の楽園を追い出されようとしている醍醐は、内なる声に向かって弱々しい悲鳴で抗った。
しかし声は、手足をばたつかせて必死に逃げようとする醍醐に、
薄絹を纏った妖婦のようにまとわりつき、意識の最も深き部分をぬらりと愛撫する。
閉ざしたはずの意識を、肉の記憶が占めていった。
鋼と化した己が腕をたやすく呑みこみ、捧げられた供物。
興奮を刺激して止まない血の匂い。
生々しく蘇る記憶から醍醐は逃れようとするが、
ひとたび獲物を捕らえた声は決して離れようとしなかった。
「食らえ──殺せ──」
「やめ……て……くれ……」
「さあ来い、白虎よ。来るがいい」
我を失った醍醐は、声に導かれるまま精神(を委ねた。
闇から新たなる闇へと己を捧げることへのためらいが薄れ、
ただ引かれるままに精神をうつろわせていく。
その時別の方向から、奇妙な抑揚を持った声が響き渡った。
「オンキリキリ オンキリキリ」
遠くもなく近くもなく、あらゆる所から聞こえ、どこからも聞こえない。
その不思議な言に、醍醐は無反応だったが、彼の意識の内にいるもうひとつの声は反応を見せた。
取り込みつつあった醍醐から離れ、わずかに怯む。
すると奇妙な抑揚は、更に不可思議な韻律を奏で始めた。
「ナウマクサラバタタ ギャティビャクサラバ ボッケイビャクサラバ
タタラタセンダ マカロシャダケンギャキサラバ ビキンナンウンタラタ カンマン」
言葉そのものが力を持ち、不可視の縄となって醍醐を誘う声を縛る。
空となっている醍醐の意識の内に荘厳に響いていたのは、
真言(と呼ばれる、宇宙の真理を集約した音であった。
「不動明王呪か……老いぼれが」
醍醐をかどわかしていた声の質が変ずる。
それまでの蜜のようにねっとりとしたものではなく、言葉の端々にまで毒素を滲ませた呪詛だ。
しかしその毒も、いよいよ大きさを増す真言の前には無力であるようだった。
「ナウマクサマンダ バサラダンセン ダマカロシャダソハタヤ ウンタラタカンマン」
「まあいい。そうしていられるのも今の内だ」
声は、なおしばらくその場に留まっていたが、やがて唐突に一切の気配が消えた。
真言の方も、こちらは徐々にその勢いを弱めていく。
完全に真言が止むと、護摩壇に焚かれた火の音だけが空気を震わせた。
「退散しおったか。鬼道衆め……人の弱き心につけこむとは、何と卑劣な」
護摩を終えた龍山は、結跏趺坐(を解いて護摩壇から降りる。
筮法師(であると共に密教の行者でもある龍山は、
佐久間を己の手にかけたショックで意識を閉ざした醍醐を狙う鬼道衆の手から、
不動金縛りの法によって愛弟子を護ったのだ。
「雄矢よ」
呼びかける声に、数日前に龍麻達と接した時のような張りはない。
「雄矢よ、己の内に閉じこもったままでは何も解決せぬ。
このままではお主の精神(は、確実にあやつらに囚われてしまうぞ」
醍醐の反応はない。
聞こえているかさえ疑わしかったが、龍山は構わず続けた。
「わしにはこうして護ってやることしか出来ぬ。
強き精神を持ち、立ち向かう意思を取り戻さねば、その精神の檻から出ることは叶わぬのじゃ」
息子に語りかける以上の愛情を込めて、龍山は心を閉ざした醍醐に呼びかけたが、返事はない。
深く嘆息すると、護摩の修法を行った影響で鋭敏さを増している五感が、
何かが近づいてくる気配を察知した。
「ふむ……客人か」
氣は小柄な人間のもので、邪悪なものでもない。
そのまま待つことにした龍山の前に現れたのは、数日前に醍醐達と一緒にここを訪ねてきた少女だった。
名は、桜井小蒔といったはずだ。
挨拶もせず入ってきて、勢い良く襖を開ける小蒔の無礼を、龍山は咎める気にはならない。
この少女がどれだけ醍醐のことを案じているか、その短い動作だけで充分に伝わってきたからだ。
「おじいちゃんッ!!」
「おお、嬢ちゃん。どうしたんじゃ、そんなに息を切らせて」
恐らく竹林の入り口からここまで全力で駆けてきたのだろう、小蒔は両肩で息をしている。
髪は乱れ、汗を額に張りつかせた酷い格好だったが、この上もなく美しい姿だった。
「醍醐……クン……醍醐クン、ここに来ませんでしたか」
「雄矢も幸せな奴よの。こんな可愛い嬢ちゃんにそこまで心配してもらって」
「おじいちゃんッ」
好々爺ぶりを発揮して龍山が茶化すと、小蒔は鬼の形相で睨みつける。
微笑ましい若さに、龍山は眦(を下げておどけてみせた。
「おお、くわばらくわばら。雄矢なら、ほれ──」
「醍醐クンッ!!」
「三日前、庭で倒れておってな」
「醍醐クン……良かった……」
指し示す龍山も既に忘れ、数日ぶりに再会した仲間に、小蒔は泣きそうになるのを堪えて近づいた。
しかし醍醐の顔に表情はなく、開かれた瞳も死人のように濁っている。
異常に気づいた小蒔が龍山を見ると、醍醐の師はさっきまでとは全く異なる沈痛な面持ちで告げた。
「じゃが、それからずっと意識が戻らぬ。身体に異常がある訳ではない。意識だけが戻らぬのよ」
「そんな……なんとかならないの」
「残念じゃが……わしらにはどうすることも出来ん」
自分自身で壁を破らない限りは──そう言おうとした龍山は、
いつのまにか部屋に入り込んでいた新たな気配に気づいた。
小蒔と話していたとはいえここまで接近を許すとは、自分の耄碌(ぶりを悔やむほかない。
「嬢ちゃん──雄矢と奥に下がっておれ」
突然険しくなった龍山の声に、小蒔がとっさには反応できずにいると、
部屋の隅から一つの影が浮かび上がった。
「くくく……勘の鋭い爺め」
嘲笑と共に姿を現したのは、紅蓮の色をした忍者装束に身を包んだ男だった。
「久しぶりだな……」
「お前は……ッ!!」
男が着ている服の色に、記憶を呼び起こされた小蒔が叫ぶ。
比良坂兄妹をたぶらかし、利用価値が無くなるや地下の研究室に火を放って証拠を隠滅した卑劣な男。
小蒔の瞳に、あの時の炎にも劣らない怒りの焔が宿った。
「どうやら覚えていてくれたようだな。嬉しいじゃねェか」
「嬢ちゃん──雄矢を連れて逃げるのじゃ。こやつはわしが食い止める」
恐らく、勝ち目は薄いだろう──しかし、醍醐と小蒔の前途をこんな所で失わせる訳にはいかなかった。
彼らを護れるのなら、老いた自分の命など安いものだ。
しかし、龍山の悲壮な覚悟は、生命力に溢れた小蒔の声に簡単に弾き返されてしまった。
「おじいちゃんを置いていけるワケないじゃないッ。
それにボク、皆と約束したんだ。醍醐クンを連れて帰るって」
「威勢がいいじゃねェか、小娘。いいだろう、俺様が相手してやろうじゃねぇか」
孫ほどに歳の離れた小蒔に怒られて、素直に感銘を受けた龍山は、
彼女を挑発する炎角を目を細めて見やっていたが、
おもむろに袂から一枚の札を取り出し、小蒔に渡す。
「これを使いなさい。ちょっとしたお守りじゃ」
「それは……爺……」
「赤い装束など着おって、自分の得手を晒すなど小物のやりそうなことじゃ」
「言うじゃねェか……地獄で後悔させてやるぜ」
その名に相応しく激情を燃え上がらせる炎角に、弓を取り出した小蒔が叫んだ。
「お前の相手はボクだッ!!」
「ああ、いいぜ」
鷹揚に頷いた炎角は、後ろの空間に向かって顎をしゃくってみせた。
「おい野郎共ッ!! この爺を始末しろ。白虎は九角様の所へ連れて行く」
「卑怯だぞッ!! お前の相手はボクのはずだッ!!」
裏切られたと気づいた小蒔は、荒れ狂う怒りをそのまま言葉にして叩きつけたが、
炎角は動じる色も見せなかった。
「だから、おめェ(の相手はしてやるだろうが。
だが俺の手下のことまでは、言ってなかったよなぁ」
「こ、の……卑怯者ッ!!」
奥歯を噛み砕かんばかりに歯軋りする小蒔に、炎角は彼女の怒りを上回る激情で返した。
「誰と話をしてると思ってやがるッ!
どうせてめェもあの世に逝くんだ、爺も一緒に送ってやるだけのこったッ!!」
炎角は指図し、手下を龍山と醍醐に向かわせた。
二人を護ろうと小蒔は動こうとするが、炎角に阻まれてしまう。
多勢に無勢で、小蒔一人ではどうすることもできなかった。
「醍醐クン……おじいちゃんッ……!!」
小蒔の目の前で、炎角の手下が醍醐を両側から抱え起こす。
物のように担がれ、運ばれていく醍醐を止めようと小蒔が動くと、突然熱風が吹いた。
「うあぁッ!」
炎角が放った炎の氣が、小蒔を撃ったのだ。
龍山から渡された札の効力によって火傷は防いだものの、
氣による打撃の痛みまでは消すことができず、たまらず悲鳴を上げる。
「てめェの相手は俺様がしてやるっつってんだろうがッ!!」
勝ち誇り、哄笑する炎角の眼前で、山が動いた。
連れ去ろうとしていた下忍の一人が、庵の外へと吹き飛ばされる。
突如生じた火山の噴火に、この場に居る全員が等しく驚き、戸惑っている間に、
もう一人の下忍が打ち倒された。
九角より命じられた指令の一つが失敗してしまったことに、炎角は大きな音を立てて舌打ちした。
「ちッ……白虎の力だけ暴走しやがったか」
そうではなかった。
乳白の氣を纏(う醍醐の瞳には、強い意思が戻っていたのだ。
瞬く間に部屋の中の鬼道衆を、炎角を除いて倒した醍醐は、静かに小蒔と龍山に向き直った。
「桜井……心配かけて済まなかったな。龍山先生も」
「馬鹿もんが。ぎりぎり間におうたから良いが、
もう少しで嬢ちゃんまで危険な目に逢わすところだったんじゃぞ」
「すいません」
「醍醐……クン……」
小蒔の声は掠れ、目からは大粒の涙が浮かんでいる。
それをこの上なく尊いものに感じ、醍醐は万感の想いを短い礼に込めた。
「お前の声が聞こえたよ。……ありがとう、桜井」
「うん……うんッ」
懸命に目を擦りながらも、次から次へと涙が溢れてしまい、
収拾がつかなくなっている小蒔を微笑寸前の表情で眺めた醍醐は、炎角に静かに宣告した。
「表へ出ろ……貴様らが這い出てきた地の底へ、もう一度送り返してやる」
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