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 薄暗い一室に、二人の男女がいた。
しつらえられている調度品は豪華なものだったが、二人の関係に男と女のそれは窺えない。
男は初老であり、女は彼の孫ほどの年齢であったからだ。
もちろん、愛に年齢という障壁はない。
しかし、彼ら二人の関係は、恋人同士でも、血縁関係という訳でもなかった。
 木製の椅子に座った少女が、ビロードのかけられた机の上に手をかざしている。
肌の浅黒い、インド辺りの出身を思わせる少女は瞼を閉じており、
何もない机の上で、パントマイムのように手を動かしていた。
 その傍らに立つ老人は、一風変わった服を隙無く着こなしている。
日本の学生ならばそれほど違和感を感じないであろう襟の立った服は、
何かの組織、それも高度に統制のとれた組織に属していることを思わせる、皺一つ無い制服だった。
口元にわずかな髯をたくわえ、白銀の髪を丁寧に後ろに撫でつけてある男が、
威厳の篭った口調で少女に尋ねる。
「視えるか……17よ」
 男の問いにも数字で呼ばれた少女はすぐには答えない。
手を、それほど大きくはない机の上で忙しく行き来させ、時折手首が返る。
いくらかの想像力を持つ者なら、
彼女はカードのようなものをめくっているのだと考えることも出来たろう。
恐らく彼女以外には、いや、目を閉じている彼女自身にも見えないカードを、
全てめくり終えた少女は、ゆっくりと呟き始めた。
「女帝のカード……大いなる愛に満ち溢れた女帝のカードが視えます。
その近くに、白き力と戦車のカードが。そして、更に近くに太陽のカードも」
 少女の呟きは、誰に向けて発せられたのか判らないほど弱々しい。
しかも意味不明の言葉の羅列であったが、男は微動だにせずに少女の言葉に耳を傾けていた。
「光が包んでいます。柔らかく、暖かい光が……ああ、あなたは、いったい……」
 初めて少女の声に変化が訪れる。
それは恐怖であり、憧れであり、感情の発露だった。
「恐れることはない、女神よ」
 男が口を開いた。
慄えの混じり出した少女の声を、なだめるような口調だ。
その声に慰められたのか、少女は恐慌を収め、押し黙る。
 彼女を見下ろし、男は語り始めた。
「サラよ……お前は殺戮と破壊を招く女神。世界を見通す『力』を持つ、選ばれし者。
お前のその汚れなき網膜に、大いなる『鍵』となる者の在処を焼き付けるのだ。
そしてその『鍵』を手にした時、我らゲルマン民族が再び世界を支配するのだ」
 手振りを交え、狂熱を込めて語る男もまた、
少女と同じく目に見えない何者かに向かって演説を行っているかのようだった。
少女はそれを何も言わず、無表情で聞き入っている。
瞼は閉ざされたままで、彼女はもしかしたら目が見えないのかもしれなかった。
 男が放つ異様な熱気に満たされつつあった部屋の、扉が突然開く。
「誰だ」
 陶酔を覚まされた男は、鋭い声を開いた扉に向かって投げつけた。
男の、槍の如き怒りを受けたのは、まだ年端もいかない少女だった。
「20か……何の用だ」
 白人の少女は、大抵の人間の庇護欲を刺激する可憐な外見だったが、
男の声からは熱が消え、氷点下のような冷たさになる。
それは男が、入ってきた少女が抱いているものを見ることで、更に温度を下げていった。
「……何だ、その猫は」
「拾ッタノ。雨ニ濡レテ、カワイソウダッタカラ」
「捨ててこい」
 命じた男の声は、ほとんど最下限まで冷え切っていた。
眼光にも同種の侮蔑を湛え、少女の小さな身体に容赦無く突き刺す。
しかし、少女は激しく全身を戦慄かせたが、男の命令に従おうとしなかった。
「聞こえなかったのか、捨ててこいッ!!」
「イヤ」
「わしの言うことが聞けないのかッ!!」
 声帯を振り絞って少女が抗うと、一転、男は氾濫する河のように激した。
少女は腕の中の小さな生命にすがりつき、懸命にその激流に耐えた。
「フン……出来損ないが」
 少女を見る男の、深い皺の刻まれた顔には、愛情めいた物は欠片すら見当たらなかった。
徹底的な蔑視、あるいは憎悪のみを、半世紀以上も歳の離れた少女に恥じる所なく投げつけていた。
 すると、それまで無言だった、サラと呼ばれる少女が再び口を開く。
「学院長様。女帝のカードが示せし名が視えます。
美しき聖なる星に護られしその名は……ミサト アオイ」
 男はマリィと呼んだ腹立たしい少女を無視し、サラを賞賛した。
「ふむ……良くやったぞ、17。その者が真に『鍵』たる者かどうか、確かめねばなるまい。
今まで二百人の『鍵』と出会ったが、真の『鍵』たる者はいなかった」
 盲目の少女の顔が、わずかに曇る。
それを見た男は、穏やかに語りかけた。
マリィに対してのものと、同一人物とは信じられない優しい態度だった。
「別にお前を責めている訳ではない。わしは嬉しいのだ。
総統の成し得なかった偉業を成す喜び。
わしの老いた胸はその感動に打ち震えておる。
早速19と21を『鍵』の許に向かわせよう」
 老人は興奮を隠そうともせず、インターホンに手を伸ばす。
しかし、まだ何事か手を動かしていた少女は、机上に盲目の視線を注いだまま更に告げた。
「お待ちください。あともうひとつ、微かですが、何か視えます。
ドラゴン……いえ、旅人を表す愚者のカード。
深い霧のようなものに遮られて、それ以上は視えません。
それが『鍵』にどのような影響を及ぼしているかは解りませんが、何かを感じます」
「ほう……お前の透視でも視えぬものがあるというのか」
 老人は少女の告げた内容に、わずかな興味を抱いたようだった。
しかし彼の情熱は『鍵』にのみ注がれており、それ以外のものは、
例え黄金の塊であっても興味を示さなかっただろう。
「まあ良い、気にかける程でもあるまい。それよりも『鍵』の場所は」
「場所は……シンジュク……マガミ……ガクエン……」
 頷いた老人は部下に出動を命じ、第三帝国復活の偉大なる一歩を踏み出した。

 朝七時。
まだ空気が澄んでいる、人々も、街も本格的に目覚めてはいない時間に、
龍麻と京一、醍醐、それに鎧扇寺学園高校の紫暮兵庫を加えた一行は
江戸を鎮護する五色不動のひとつ、目黒不動へと来ていた。
目的は、先日岩角を倒して手に入れた五色の摩尼の一つを封印する為だ。
「着いたぞ。ここが目黒不動、下目黒瀧泉寺だ」
「悪かったな、紫暮。こんな朝早くから呼び立てて」
「いらん気を使うな、ここは俺の地元だぞ。それに朝の稽古のついでだからな」
 聞けば紫暮の家は武道家揃いで、全員が朝早くから稽古を行っているそうだ。
だからなのか、龍麻がこんな早い時間から案内を頼んでも、二つ返事で引き受けてくれた。
龍麻の電話が稽古の誘いでないと知った時の紫暮の落胆は、只事ではなかったが。
 今朝も待ち合わせの時間より前に一稽古してきたのだろう、紫暮は柔道着のままだ。
京一が彼にあまり近寄ろうとしないのは、どうやら汗の臭いが気になるらしかった。
龍麻が、さりげなく距離を置く京一を、同じくさりげなく睨んでいると、
紫暮が武道家らしい低い、しゃがれた声で言った。
「それより、お前ら男三人だけとは珍しいな」
「ま、たまには男の友情を確かめあうのもいいと思ってよ。なァ、緋勇」
 葵達は何も最初から来ないことになったのではない。
目黒不動に行くという話が出た時、これまで通り学校帰りに行けば良いものを、
何故か京一が早朝に行こうと言い出して、その時点で朝があまり強くない小蒔は脱落を宣言した。
部活の朝錬にはきちんと起きているらしいのだから、
いかに摩尼の封印を軽視しているかが判ろうかというものだが、とにかくこれで一人。
 京一は小蒔をたしなめるどころか、次になぜか葵を標的にし、
何も大勢でぞろぞろと行くことはないだの、
遠くまで行くから万が一生徒会長が遅刻でもしたらシャレにならないだの、
とってつけたような理由を幾つも並べ立てて彼女の同行を断ってしまったのだ。
渡りに船である京一の提案に葵が乗り、これで二人。
結局摩尼の封印には龍麻と京一、醍醐の三人で行くことになり、
案内役がいないのを不安に思った龍麻が、紫暮に連絡を取って四人で目黒不動に向かったのだった。
 朝から友情などと気色悪いことを言う京一に、龍麻は目を細めるだけで何も答えない。
朝ラーメンを食べたいとでも言った方がまだ信用できるというもので、
京一の魂胆を疑ってかかる、なまじ強い意思を宿す瞳は、
それが負の感情であっても同じ強さで光を放ってしまう為に、
その視線をまともに受けた京一は思わずたじろいでしまった。
「なッ、なんだよその目は」
「別に」
「わははッ、嫌われたもんだな、蓬莱寺。まぁいい、こんなことで良ければいつでも呼んでくれ。
 緋勇、それに醍醐、今度は俺の練習につき合ってくれよ。じゃあな」
下駄の音を響かせて、紫暮は去っていった。
まさかあのまま学校に行く訳ではないだろうが、古風な音がいつまでも響く。
 彼がいなくなった後も、なんとなく険悪な雰囲気を漂わせていた三人だったが、
自分達が何をしにここに来たのか思い出し、寺の中へと入った。
「よし、さっさと祠を見つけて摩尼を封印しちまおうぜ」
 やる気のある京一、というのも不気味なものがある。
龍麻は自分よりも彼とのつき合いが長い男に答えを求めると、彼の返答はこうだった。
「トイレにでも行きたいんじゃないのか」
「なるほど」
 深く頷いて賛意を表した龍麻は、醍醐と並んで京一の後をのんびりついていくのだった。
「お、あった。こっちだ緋勇」
 祠を探し当てた京一が二人を手招きする。
龍麻と醍醐が到着するや否や京一は、以前行った金乗院と最勝寺と同じ、小さな祠の扉をさっさと開けた。
あまりに適当な開け方に驚いた醍醐だったが、龍麻も無言で珠を置き、
またあっという間に京一が閉めてしまった。
「何も起こらんようだが……」
「ああ、お前は初めてだったっけ。封印つってもこんなモンだぜ。な、緋勇」
 龍麻は頷く。
鬼を封じ、江戸を護るという大層な役割を与えられている割に、
封印といっても特殊な儀式を行ったりする訳ではなかった。
百葉箱に近い小さな祠の中に摩尼を置くだけだ。
置かれる摩尼の方も、輝きが失せ、
どのような技巧によってか中に彫ってある龍の紋様が消えるのがほとんど唯一の変化だった。
「それで、本当はなんでこんな朝に行こうなんて言い出したんだ?」
 用事を済ませた龍麻に改めて問われ、京一はそっぽを向いて答えた。
「だから言ったじゃねェか。男の友情を確かめあおうってよ」
「そんなたわ言信じられるか」
「くッ……」
 一万年もの間凍り続けた氷を両断するような龍麻の否定に京一は屈したが、
それでも口を開いたのは数歩歩いてからだった。
「この間ン時、お前の頭を殴っちまったからよ、ま、その、なんだ」
「なんだそりゃ、そんな理由か」
 一応謝るつもりがあって、女性の前では切り出しにくかったのだろうか?
 それにしても、龍麻には殴られた記憶がない。
岩角との戦いは激しかったので、乱戦中に間違えて当たったのだろうか。
 首をかしげる龍麻に、醍醐が口添えした。
「ふむ、そういうことなら俺も謝らねばならんな。あのときは随分迷惑をかけた」
「別に、迷惑ってこともねえさ。あれから具合はいいのか?」
「ああ、何ともないな。気力というか、気分が昂ぶる時もあるが、
昔みたいに闇雲に暴力を振るいたくなるわけでもない。
滾っているのに頭は冷静というか……上手く説明できんが」
「一皮剥けたってことじゃないのか?」
「そうだったら嬉しいが、自力で壁を超えたという実感がないからな」
 腕を組み、小難しげに考えた醍醐は、思いだしたように腕をほどいた。
「緋勇こそ大丈夫なのか? 京一に殴られて一旦は呼吸が止まったそうだが」
「あッ、馬鹿野郎」
 龍麻は醍醐が伝染したような小難しい顔で京一を睨みつける。
受け流そうとして失敗した京一は、観念して顛末を語った。
「元はと言やァお前が悪いんだぞッ! 美里を護れッつったのに、突撃しやがって」
「呼吸が止まった……?」
 容疑者の自己弁護を無視して、龍麻は目撃者に訊ねる。
「ああ、と言ってもすぐに美里が『力』を使って回復したから、ごく短い時間のことだったがな」
「……」
「や、思いっきりなんて殴ってねェからな俺はッ! こつんって程度だぞ」
「それほど軽くは見えなかったが」
「お前は黙ってろ醍醐ッ! べ、別になんともねェんだろ?
ならいいじゃねェか、水に流すってことでよ。
そうだ、この近くに美味いラーメン屋があるから行こうぜ。
腹も一杯になりゃあ細かいコトなんざ忘れちまうってモンよ」
「こんな時間にラーメン屋なんて開いてないだろう」
 冷静な醍醐の指摘に、京一は顔を赤くして怒鳴った。
「うッ、うるせェな、腹が膨れりゃなんでもいいんだよこの際ッ!
こんな所で無駄話してねェで、さっさと行こうぜ」
 殺人未遂事件を無駄話と言い切り、さらにどさくさに紛れて謝る相手に
飯を奢らせようとする傍若無人ぶりに呆れる龍麻と醍醐だった。
 醍醐の指摘したとおり、早朝から開いているラーメン屋などなく、
結局二十四時間営業の牛丼チェーン店で朝食を済ませた龍麻達は、それぞれ満足げな表情で店を出た。
もちろん、金額が少ないからといって自腹を切るような京一ではない。
大盛りにお新香までつけた代金を払う素振りすら見せずに店を出たのは、いっそあっぱれというべきだった。
彼に比べれば、同じ大盛りにこちらは味噌汁をつけながら、
一応は財布を出した醍醐の方がはるかに常識的だといえるだろう。
最初から代金を取り立てる気のない龍麻は、笑って身を縮める巨漢に財布をしまうように言ったのだった。
 三人とも模範的な学生というわけではなく、学校をサボることに抵抗はない。
一仕事終えたという達成感もあり、食欲も満たされたので、
ここから新宿に直行するのは面倒くさいという気分が鎌首をもたげてきていた。
揃って遊びに行くかどうかはこれから決めるとして、まずは今日は学校に行くのを止めよう。
同じことを考えた龍麻と醍醐が、できれば相手に言いだして欲しいなどと考えていると、京一が振り返った。
「よっしゃッ、腹も一杯になったところで学校に行こうぜ。今からならまだ一時限目には間に合うだろ」
 信じられないことを言った京一に、龍麻と醍醐はお互いの顔を見て、更に揃って空を見上げた。
槍でも降ってくるのではないかと思ったのだ。
 何かに感づいた表情で醍醐が、この男にしては意地の悪い笑みを浮かべる。
「珍しいな、お前が学校行きたがるなんて……さては出席日数が危ないのか?」
「ばッ、馬鹿野郎、ンな訳あるかッ。ほれ、なんだ、秋は勉強の季節とか言うだろうが」
 京一の戯言など槍が降ってもまだ信じられるものではないが、
出席日数が足りなくて卒業できないのはあまりに哀れなので、
龍麻と醍醐は混ぜっ返すのはやめて、学生の義務を果たすべく京一につきあうことにしたのだった。
 目黒を出発した龍麻達が、新宿駅に着いた頃。
真神学園へ続く通学路は、まだ閑散としていた。
真神学園はそれほどランクの低い高校ではないが、登校の風景は他の多くの高校と大差ない。
学校へ向かう生徒の数は始業の十五分ほど前から急に増え始め、五分ほど前にピークに達するのだ。
その中には京一や、時に小蒔の姿もある。
 今は始業まで三十分以上あるので、喧騒とは無縁のこの時間の、
数えるほどしかいない生徒達の中に、ひときわ目立つ金髪の、深紅のジャケットを着た女性がいた。
真神学園の英語教師である、マリア・アルカードだ。
その美貌と気さくな態度の為に全校生徒で知らぬ者はなく、一説には彼女を一目見ようと、
彼女の出勤する時間に合わせて登校する生徒が多すぎて問題になり、
止むを得ずにマリアの方が時間を変えたと言われている。
 今、その噂が真実であると証明するかのように、
彼女を見かけた数少ない幸運な生徒達は例外なく挨拶し、
マリアもそれに応えていたが、やがて彼女は一人の生徒の肩を叩いた。
「美里サン」
「あ、マリア先生、おはようございます」
「Good Morning. 今朝は一人なのね」
 マリアは良く彼女──美里葵と、彼女の友人である桜井小蒔が一緒に通学しているのを見ている。
毎回、ではない。
小蒔が寝過ごして遅刻寸前に駆け込んでくる日が、
月に五日ほど──夏休みを過ぎて部活動が終わってからは、もう一日二日ほど増えている──あった。
今日も、その何日かのうちの一日なのだろうか。
教師としてまっとうな感覚を持っているマリアは、生徒の遅刻などもちろん喜ばしいはずもなく、
扉を開けて彼女が駆け込んでくる、ごく近い将来を想像して内心で眉をひそめた。
しかし、どうやら問題児未満の教え子は、まだ夢の続きを愉しんでいる訳ではないようだった。
「はい、小蒔ったら後輩を扱くんだって弓道部の朝練に行ったんです」
「そう……桜井サンらしいわね」
 内心のことなどおくびにも出さず、
マリアは朝という時間には似つかわしくないほど艶やかに微笑む。
葵もそれに応じて小さく笑ったが、マリアは、彼女の表情がすぐれないことに気がついた。
「美里サン、なんだか元気が無いけれど、何かあったのかしら?」
「あの……大事な腕時計を失くしてしまって」
「まぁ……」
 物にはほとんど執着しないマリアは、葵の悲しみを完全には理解出来ない。
しかし、彼女の小さな染みのようであった不安が、顔一面に広がっていくのを見て、
それを推し量ることはできた。
目で促すマリアに、葵は落ち込んだ様子で語り始める。
「昨日、ボランティア活動をしている母と一緒に、
大田区の文化会館で行われたバザーの手伝いに行ったんです」
「バザー?」
「はい。世界中の恵まれない子供達の為のバザーで、収益金は孤児院を建てる為の基金になるそうです」
 恐らく葵は、世界中にいる孤児達を実際に見たことは無いだろう。
それを見る必要がないというのは幸せなことであり、
見たこともない子供達の為に慈愛の手を差し伸べる彼女の行為は讃うべきものだが、
マリアの口調には葵に対してだけではない憐憫が含まれていた。
「……戦争や災害といった混乱で最初に被害を受けるのは、いつの時代も……子供達。
愚かな──いえ、悲しいことね」
「ええ……」
 葵の声は沈んでいる。
彼女を責めても仕方がないと、マリアは頭を振って話題を戻した。
「それで、腕時計はその時に?」
「はい。高校入学の時に父から贈られたものなんです」
 そこまで葵が言った時だった。
突然、マリアの表情が険しくなる。
何事かと葵が驚いていると、
極度の摩擦を与えられたタイヤが上げる、けたたましい悲鳴が鼓膜を撃った。
ほぼ同時に、敬愛する教師の身体が覆い被さってくる。
 彼女が纏う甘い薔薇の香りに五感を惹かれながら葵が見たものは、
停まった車から降りてくる幾人かの人間だった。
黒服の男達が二人、それに子供が二人。
一直線にこちらに向かってくる彼らは、どうやら自分達に用があるらしかった。
でも──どうして。
暴力の匂いを隠そうともせず近づいてくる男達を見ながら、葵はひどく冷静に考えていた。
マリアの腕の中という安心感と、彼女がもたらす薔薇の香りが、
恐怖を忘れさせていたのかもしれない。
『力』のせい──?
自分を護っていた腕を解き、今度は背中に押し込めて盾となるマリアの、
美しい金色の髪が、そんなことを考えさせる。
 どうして、私なのか──
 どうして、誰か他の人じゃないのか──
 春から幾度となく抱いてきた怨嗟の念が、鎌首をもたげる。
葵の心という巣穴から這い出してきたその蛇は、ある人物に向けて威嚇の音を鳴らす。
 貴方のせい――
それは葵が今年になって覚えた負の感情。
しかも、本当はその人物のせいではないと、葵は知っている。
彼はきっかけに過ぎず、葵が巻きこまれている信じがたい事象の数々は、
あきらかな悪意を持つ者たちによって引き起こされているのだと。
 それでも葵は彼を罵った。
罵っていれば、否定するために彼が現れるとでもいうように。
 しかし、いくら彼が超人的な『力』を持っていても、
今は目黒区に行っているはずだから、来られる訳がない。
小蒔が行かないのを幸いに、自分も同行をやめたのを葵は悔いた。
 葵と彼女を庇うマリアの前に、悪意を発散させながら男達が立つ。
その中の、白に近い金髪を短く刈り上げた目つきの鋭い白人の少年が、尊大な口調で命じた。
「Stop! Freeze.」
「What──are you doing?」
 威圧的な少年の眼光に抗して、マリアが答える。
 命令に詰問で答えながら、彼女は時間を稼ぐことを念頭に置いていた。
朝のこの時間だ、何分か稼げればきっと目撃者が現れてくれるに違いない。
マリアが緊張を隠し、暴力に立ち向かう決意を固めていると、
黒人の、まだ十五にはなっていないだろう子供が、早口でまくしたてた。
「Shut up.」
 下品な音を立ててガムを噛みながらの台詞に、
マリアは彼の頬を思いきり張り飛ばしたい衝動に駆られた。
しかし、葵がいる状況下で激発はできない。
この子供はともかく、黒服の男二人、
そして白人の少年はなんらかの専門的な訓練を受けているのが容易に見て取れたからだ。
「Aoi Misato,Aren’t you?」
「Come on!!」
 白人の少年が写真を取り出し、そこには恐らく葵が写っているのだろう、
本人と写真を見比べて同一であることを確かめると、黒人の子供が乱暴に葵の腕を掴んだ。
その手を彼女に代わって払いのけたマリアは、教え子達には決して聞かせたことのない怒声を彼らに浴びせた。
「Kidnappers……Don’t be silly. Let her go,and go away!!」
「Bitch!!」
「Freeze.」
 子供はよほど躾が行き届いていないのか、今にも激発しそうであったが、
少年の方は対照的に恐ろしいほど冷静だった。
彼の命令に応じて、黒服の二人が銃を取り出す。
早朝の青空に鈍色の凶器は空想の産物ではないかと言えるほど浮いていたが、
それが本物であることはマリアも認めざるを得なかった。
 抵抗を諦め、腕を上げる。
「Take her with us.」
「Hey bitch,come on!!」
 子供が下卑た笑い声をあげて腕を掴んだ瞬間抑えが利かなくなり、
マリアは彼の頬を音高く打ち鳴らしていた。
「Shit!! Fucker.」
 頬を抑えた子供の身体から、異様な気配が立ち上る。
単なる怒りや憎しみとも違うそれに、マリアは思わず立ちすくんでいた。
 マリアが子供を殴ったことに一瞬怯んだ男達も、
再び彼女と葵の腕を掴み、車に連れていく。
「Hey,21ッ!! Let’s go away.」
 子供はなおも妖しい気配を周囲に撒き散らしていたが、
少年に呼ばれるとガムを吐き出して車に乗りこんだ。
 マリアと葵を別々の車に押し込めた男達は力任せにアクセルを踏み込み、
来た時と同様スキール音を立てて去っていく。
 そのスキール音が完全に消え去ってから、一人の少女が木陰から姿を現す。
真神学園の制服を着た、手にはごついカメラを持った少女は、誰あろう遠野杏子、通称アン子だった。
「と……とッ、特ダネだわッ!! この写真を週刊誌に売り込めば……
ううん、警察に持ってってコネを作っておくのも悪くないわね。
白昼の誘拐劇を目撃した美少女記者。ワイドショーとかの取材も来たりして」
 ジャーナリストの悪癖として、全ての事柄をまず記事に置き換えてしまうというのがある。
他はともかく、その部分だけは充分にジャーナリストになる条件を満たしているアン子は、
友人と教師が攫われたという事実を前に、そのニュース性しか頭にないようだった。
興奮冷めやらぬ様子でまくし立て、撮影した特ダネ映像を収めた機械を愛おしげに見やる。
「ん……? ああッ!! カメラ、壊れてる……
どうして、いつも念入りに手入れしてあったのに」
 カメラは彼女にとってペンの次に大切な物だ。
だから手入れはプロも舌を巻くほど丁寧に行っていたし、何か故障があれば必ずチェックしてあった。
現に今も、ピントを合わせ、シャッターを切るまでは間違いなく動作していたはずなのだ。
それからわずか数分の間に故障するなどと、考えられないことだった。
 マスコミデビューのチャンスを逃したアン子はがっくりとうなだれていたが、
気を取りなおして現場検証を始める。
「そういえばあいつらが逃げる時、何か光る物が落ちたみたいだったけど……あ、あった」
 眼鏡を常用しているアン子は、もちろん決して視力が良いわけではない。
しかし、彼女の興味の対象である限り、その眼はどんな小さな事柄をも見落とすことはないのだ。
 油断なく地面を見渡していた彼女は、
マリア達が誘拐犯と揉み合っていた場所に落ちている小さなものを拾い上げた。
「何コレ……バッジかしら。鷲……? でもどっかで見たことあるような気が……」
 考えてみてもこの場では思い出せそうにないので、とりあえずポケットにねじ込む。
「これは面白くなってきたわね」
 呟いたアン子は、事件を報告すべく、真神学園の、自分の隣のクラスに向かって駆け出したのだった。



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