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龍麻が自分のクラスの扉を開けると、もう九割がたの級友達が来ていた。
それも当然で、あと三分もすればマリアがやって来て朝のホームルームが始まる時間だ。
龍麻が軽く手を挙げて挨拶する友人達に応じていると、京一が全く焦った様子もなく入ってきた。
「ふぅ、ギリギリセーフってトコか」
「全く……朝から邪念が多すぎるんだ、お前は」
京一の後ろに続く醍醐が言っているのは、新宿駅に着いた京一が、
早朝の真面目さは混み始めた電車内で使い果たしたとばかりに、
OLやら女子高生やらの品評会を一人で始めて学校に向かわなくなってしまったことだ。
龍麻も醍醐も三大本能を片っ端から満たそうとする男など、
放っていくことにためらいを覚えなかったが、こんな男でも進級できないのはさすがに哀れだ。
二人で京一の両側を囲み、半ば連行するように連れてきたのだ。
「くそッ、お前らは真面目すぎんだよ」
「学校に行くのは学生として当たり前だろうが」
「何が学生だッ、お前だって散々サボってるくせしやがって」
早速口を尖らせて言い争いを始める二人を放って、龍麻は自分の席に向かう。
そこに友人達と談笑していた小蒔が、輪を離れてやってきた。
「おっはよ」
「おはよう」
「随分遅かったね。迷ったの?」
答えたのは龍麻ではなく、京一との不毛な争いを打ち切った醍醐だった。
「いや、そうじゃなくて京一がな」
「なんで俺のせいにすんだよ」
「お前のせい以外、他に何があるんだ」
力強く断言する醍醐に龍麻も首を振る。
黙らされた京一に、小蒔がしみじみと諭した。
「京一……あんまり醍醐クンと緋勇クンの足引っ張るなよ」
防戦一方に追い込まれた京一は、わざとらしく額に手を当てて教室を見渡す。
「そういえば、美里はどうしたんだよ」
「あ、うん……ボクも気になってるんだけど」
葵は遅刻したことがない。
時にはマリアより遅く教室に入ることがある小蒔とも違い、
始業ぎりぎりに来ることさえまずないといって良かった。
だから、この時間にまだ姿を見せていないということは、具合が悪くて休むのかもしれない。
龍麻と小蒔が揃いの表情を浮かべると、扉が叩きつけるような勢いで開かれた。
ちょうど扉の前に立っていた小蒔は、思わず飛び上がってしまう。
小蒔だけでなく、クラス全員を振り向かせた主は、隣のクラスの遠野杏子だった。
彼女がこうやって入ってくるのはいつものことなので、驚いた生徒達もすぐに自分達の会話に戻る。
目の前に用のある四人が揃っているというのに、アン子の声は教室の奥まで優に届くほど大きかった。
「ちょっとアンタたちッ、事件よ事件ッ!!」
「なんだアン子、新聞部が廃部にでもなったのか?」
京一の毒は、普段と較べて特に強かった訳でもない。
しかし龍麻達が見たのは、雷光の如き速さで繰り出されたアン子の掌と、
それが見事命中してよろめく京一の姿だった。
「それどころじゃないんだから余計なコト言わないのッ!!」
「どしたのさ、そんなに大変なコト?」
龍麻の肩にもたれて身を支える京一には一瞥をくれただけで、小蒔が訊ねる。
するとアン子は、雷速の手の動きをそのまま声に変換したようにまくしたてた。
「大変も大変よ、耳かっぽじって良く聞きなさいよ、
美里ちゃんとマリア先生が誘拐されたのよッ!!」
「誘拐……って」
高校生と教師が、この日本の中心で、早朝から。
いくらなんでも鵜呑みにするには引っ掛かる部分が多すぎる情報だった。
「ちょっとアン子、本当なのソレ? 冗談だったら趣味悪すぎるよ」
「本当も本当、あたしがこの目で見たのよッ!!
外国人の、まだ子供みたいだったけど、その二人と銃を持った男達が
美里ちゃんとマリア先生を脅して、無理やり車に乗せて連れ去ったのよ」
どうやらアン子が嘘を言っている訳ではないと知り、龍麻達は顔を見合わせる。
そもそもどれほど馬鹿げた話であっても、自分達は一笑に付せる立場ではないのだ。
そして事実、もうとっくにホームルームは始まって良い時間なのに、まだ葵もマリアも姿を見せていない。
どうやら現実は、映画や小説などよりずっと性質の悪い脚本によって作られているようだった。
「詳しく話してくれ、遠野」
ついでにもう少し声を潜めて話すよう頼んだ龍麻に、アン子は今度は極端に声を絞って話し始めた。
四人は円陣を作り、顔を寄せて彼女の話を聞いた。
「ミサトアオイって言ってたのが聞こえたから、多分狙いは美里ちゃんね。
マリア先生は一緒にいて巻き添えを食った可能性が高いわ」
「外人の子供二人に、銃を持った男か……営利目的か?」
腕を組み、醍醐が唸る。
龍麻は考えをまとめるために沈黙を保ち、仲間達が交わす意見を聞くのに専念していた。
「あたしが見た感じではそうじゃなかったわ。男達は子供に指揮されていたし、
その子供も一人は黒人、もう一人は多分ロシア系で学生服を着ていたもの」
「営利目的じゃないとすると、まさか、鬼道衆……?」
醍醐の目許に薄く憎悪が浮かぶ。
この手で同級生であった佐久間を葬ったという精神的外傷からは立ち直れたものの、
そうなるように仕組んだ鬼道衆に対する念は、消えることなく精神の奥底にたゆたっている。
憎悪の感情は己を歪めると、苦すぎる教訓を得ている醍醐は、
もう決してそれに支配されることはなかったが、
鬼道衆の名を聞くと泡のように精神の表層に浮かんでしまうそれを、
完全に抑えることまではできなかった。
「くそッ……今度は美里を狙ってきやがったか」
「それも早朝とはな、裏を掻かれたな」
拳を打ち鳴らす京一に、龍麻が応じる。
小蒔が夕方とはいえ一人になったところを拐われたのだから、
葵にも同じ危険が及ぶ可能性を考えて当然だというのに、
朝の警戒を怠ったというのは失態という他はなかった。
こうなったら、一刻も早く助けだすしかない。
「うーん……鬼道衆とも違うような気がするのよ。これを見て」
鬼道衆に対する憎しみを露にする三人だったが、アン子の見解は彼らとは異なっていた。
その理由をポケットから取り出し、五人の輪の中央に差し出す。
「誘拐犯が落としていったものなんだけど」
「なんだこりゃ、鷲……みたいだな」
「やっぱりそう見えるでしょ? 鬼道衆って組織がどんなのか知らないけど、
アンタ達今までこんなの見たことある?」
確かに、今まで鬼道衆を名乗った水角、風角、炎角、岩角は、
いずれも忍者装束を着ていて、それらはこのような鷲の紋章とは基本的に相容れない格好だ。
「いや……ないな。でも、じゃあ誰が」
「わからないわ。でもとりあえずはこれを手がかりに当たってみるしかないわね。
結構特徴的なものだから、部室へ行って調べてみれば何か判るかも」
「よし、俺達も手伝う」
差し当たっての行動が決まり、教師が入ってこないのを良いことに
級友達が話し続ける教室を抜けだして、龍麻達は駆けだした。
二台の車が大きな建物がそびえ立つ敷地の中へと入っていく。
一見ごく普通の寮か、あるいは小規模の学校のように見えるが、
門前に立つ警備員の目は険しく、建物自体にもどこか暗い雰囲気が漂っていた。
窓の全てに黒いフィルムが貼られた、見るからにいかがわしい高級車は、
この敷地内に入ってむしろ本来の居場所に戻ってきたように溶けこんでいた。
車が停まり、中から複数の人間が降りてくる。
彼らもまたこの建物に相応しい、とてもまっとうには見えない品格の持ち主だったが、
その中に、陰湿な雰囲気からはかけ離れた二人の女性の姿があった。
数十分前に誘拐された、マリアと葵だ。
別々の車によって連れてこられたマリアと葵は、
誘拐した犯人達が目的地に着いたことによってようやく再会していた。
しかし、それを彼女達が知ることはできない。
車に乗せられると同時に、目隠しをされてしまっていたからだ。
更に降ろされると今度は後ろ手に手錠を嵌められてしまう。
両脇を抱えられて連行された二人は、どこか部屋のような場所まで来ると、乱暴に突き飛ばされた。
マリアが必死に身体を起こそうとすると、白人の少年の声がする。
「ただいま戻りました、学院長様。女は無事確保しました」
「ごくろう」
ここはジルが、『鍵』である葵を手に入れるよう命令した部屋であった。
傍らにはどのような『力』によってか、彼女が鍵であると見抜いたサラという少女もいる。
そしてジルに報告した白人の少年は、彼と同じ制服を着ていた。
この部屋の中で同じ服装をしているのがこの二人だけということから、
少年がジルにとって特別視されているのが判る。
新しく築かれるべき栄光の第三帝国に、有色人種は必要ないのだ。
報告に満足気に頷いたジルは、葵の傍らに伏す女に気づいた。
「うむ……? そっちの女はなんだ」
「はッ、目標と一緒に居た為に」
「目撃されたからよォ、ついでに連れてきちまった」
わずかに身を固くして答える白人の少年──イワンに、黒人の子供──トニーが声を被せる。
着崩した服装、ガムを噛みながらの応答に、ジルは誰にも判らないほど眉をひそめたが、
何かを言ったりはしなかった。
豚が醜いからといって腹を立てても意味のないことで、
肉さえ美味ならば手をかけて育てるのは当然のことだ。
この唾棄すべき黒人の子供は、ただその『力』にのみ存在意義があるに過ぎなかった。
「もうひとり、隠れていた女が写真を撮っていましたが、
その女のカメラは21の『力』で破壊しておきました」
イワンから報告を受けたジルは、『鍵』に恭しいまでの態度で話しかけた。
「ようこそ、我がローゼンクロイツ学院へ」
「ローゼン──クロイツ?」
葵はその名を聞いた覚えがあった。
確か、昨日のバザーを主催した学校が、その名前を持つはずだ。
会場には学院長のジルという男も来ていて、収益金を受け取っていたはずだ。
ならば目の前にいる男がそのジルなのだろうか。
善意の仮面の裏でこのような非道な行為をなし、自分と母親を裏切った男に、葵は二重の衝撃を受けていた。
口を閉ざしてしまった葵に代わって、憤然とマリアが糾弾する。
「あなたたちッ! こんなコトをして、許されると思っているのッ!!」
「貴様……名は何という」
「私はマリア・アルカード。この娘の担任教師よ」
目隠しをされ、両手を括られて床に転がされていても、
マリアの威厳はいささかも損なわれることはなかった。
教師として葵を護り、大人として少女を庇うという気概にあふれている。
しかし悲しいかな、生徒達の英語の成績を押し上げる原動力となっている熱意も、
今の状況では空回りしてしまうだけだった。
ジルはマリアにそれ以上の関心を示さず、再び葵に語りかける。
「我々が用があるのは、ミサトアオイ──貴様の内に秘められた、強大な『力』だけだ」
「この娘をどうするつもりなのッ」
「どうもせんよ。ただ、我々選ばれた民の為、千年王国の礎となってもらうだけだ」
声を荒げるマリアに酷薄な笑みを浮かべたジルは、黒人の少年に命じた。
「死にゆく者にこれ以上話をしても時間の無駄だ。21、この女を始末しろ」
「OK」
相変わらずガムを噛みながら、トニーと呼ばれた少年は軽く頷いてみせた。
しかしすぐにジルは気が変わったのか、21を制止する。
「いや、待て──他の者にやらせよう。20──お前が殺せ」
「えッ……」
部屋の中にいたものの、誰からも存在を無視されていた少女は、
突然名前を呼ばれて哀れなほど身を震わせた。
彼女の腕の中にいる猫が、低く喉を鳴らす。
「聞こえなかったのか。お前が殺せと言ったのだ、20。
お前の火走りの能力を見せてみろ」
「マリィ……デキナイ……」
「この……出来損ないがッ!!」
拳を固めたジルは容赦無くそれを用いようとしたが、無機質な少女の声がそれを止めた。
「学院長様。この女性」
「どうした、17」
「この女性の発する原子核波動に分裂、不調和の波が見えます。
しばらく調査の対象物にされてはいかがでしょう」
一瞬、ジルは17が20を庇ったように感じ、不快に思ったが、
ようやく実用段階にまでこぎつけた貴重な番号つきを、
20はともかく、二人も失う訳にはいかない。
特に17は、有色人種であるのが惜しいほど自分に忠誠を尽くしている。
「……よかろう、この二人を収容施設に連れていけ」
そう命じたジルは全員が退出した部屋に一人残り、
壁に大きく掲げられた鉤十字に敬礼することで不愉快を晴らしたのだった。
一命を取り留めたマリアと葵は、石畳の部屋に移されていた。
部屋といっても灯りや一切の調度品はなく、扉は鉄格子製で、
このような一室があるだけでも、ローゼンクロイツ学院がまともな学校ではないと知れる。
「まるで牢獄ね」
マリアの呟きは、事実を正しく言い表していた。
冷たい床と薄暗い室内は健全な精神力を蝕んでいく。
目隠しと手錠が外されていたのがせめてもの救いだった。
教え子の様子を観察したマリアは、恐怖で顔が蒼ざめてはいるものの、
取り乱している様子はないのを確認した。
教え子の勁さに感嘆する彼女に、鉄格子の向こうを見つめていた葵が小声で呟いた。
「先生……ごめんなさい。私のせいで、先生をこんな目に遭わせてしまって」
マリアは思わず教え子の横顔を見据えていた。
本来なら教師が側にいながらこのような危険な目に遭わされてしまったことを責めてこそ当然なのだ。
それを彼女は、彼らの目的が彼女にあったとはいえ、年長の自分の方を気遣っている。
今まで接してきたどの人間にも、このような慈愛を持った者はいなかった。
だからマリアは、葵が本心から言っているのではない、と思ったのだ。
しかし彼女の瞳に嘘はなく、マリアは己を恥じる気持ちと、彼女への感動を胸の裡に抱いた。
「美里サン」
「は、はい」
「アナタのせいじゃないわ。アナタが誘拐されなければならない理由なんて、どこにもありません。
だから、自分のせいだなんて言うのはお止めなさい」
「はい……すみません」
怒られた訳ではないがうなだれる葵に、マリアは励ますように微笑んでみせる。
硬質の笑いで応じた葵の表情が急に変化した。
「くしゅん」
確かにここは嫌な水気があり、空気も冷たい。
マリアは教え子の身体を優しく抱き寄せた。
「もっと……こっちにいらっしゃい」
ほんの少しだけ強張らせたが、葵はおとなしく身を預けてくる。
マリアは肩を包み、自らの温もりを彼女に分け与えてやった。
そして寒さだけが理由ではないだろう、全身を震わせている葵の髪を撫でてやりながら、
とにかく話すことが必要だと考え、静かに口を開く。
「彼ら……アナタの『力』のことを知っているようだったわね」
「はい」
葵の声が慄いている。
異能の『力』を持っているが故に狙われる──
それは普通の高校生にとってはとても受け入れられない事実に違いない。
ましてや彼女のような、心優しい性格では。
マリアは深い同情を瞳に湛えて彼女を抱きしめたが、
口にするのはどうしても彼女自身が抱く疑問になってしまう。
「ジルという男、一体何者なのかしら……それに、あの子供達の『力』。あれは──」
そこまで言ったマリアは、急いで口を閉じた。
誰かが近づいてくる足音が聞こえてきたのだ。
いざとなれば、彼女だけでも救わなければならない──
葵の肩を抱く手に力を込め、マリアは足音の主が姿を見せるのを待った。
足音はどうやら一人分のようで、それも軽さからいってあのジルという男や、
自分達を拉致した少年二人のものでもないようだ。
ならば、サラと呼ばれていた少女か──
しかし予想は外れ、マリア達の前に現れたのは、マリィと呼ばれていた一番幼い少女だった。
ジルの部屋では目隠しをされていたマリアと葵が、彼女がマリィであると判ったのは、
彼女の腕に抱かれている小さな黒猫によってだった。
連れていかれた部屋の中で、低く、小さくはあったが場違いな猫の声を、二人とも聞いていたのだ。
鉄格子の前に立ったマリィは、辺りを窺いながら手を牢獄の中に差し出す。
開かれた掌の上には、小さなパンが乗っていた。
「Meals」
今更毒を盛る可能性もないだろうが、彼女はまぎれもなく学院長と呼ばれていた男の一味だ。
食べ物などと言われて受け取れる訳もなく、マリアは蒼氷色の瞳を険しく輝かせた。
しかし、あろうことか葵が立ちあがり、少女の許に近寄る。
制止しようとマリアが声を喉元まで出しかけると、その前に葵が少女の手からパンを受け取った。
「私達……に?」
「Yes」
葵ももちろん目の前の少女が自分を攫った一味の仲間だと言うことは解っている。
しかし、彼女はマリアを殺せという男の命令に従わず、結果的に救ってくれたのだ。
こんな、まだ年端もいかない少女だというのは驚きだったが、
自分を見つめる少女の、明るいグレーの瞳に敵意は感じられなかった。
どちらかというと、何かに怯えているような様子さえ窺える。
今はそばかすの浮いている、けれどきっと将来は美人になるだろう端整な顔は、
眉は曇り、瞳にも子供らしい輝きはなかった。
「あなた……日本語が判るの?」
少女の返事に、自分が日本語で話していたと気づいた葵は、表情を和らげて訊ねる。
少女はわずかに眉目を動かし、それがどうやら自分の顔を真似ようとしていると解って、葵は更に微笑んだ。
ぎこちないながらも少女の顔に笑顔めいたものが浮かぶ。
「スコシ。コレ……食ベテ」
「ありがとう。あなた……名前は?」
「マリィ……マリィ・クレア」
「そう……素敵な名前ね。私は美里葵。ミ・サ・ト・ア・オ・イ。わかる?」
「ミサ……ト……ア……オイ……?」
「うふふ、そう。……あら、血が出てるわ。どうしたの?」
たどたどしい発音で名を呼ぶマリィの、額の端に小さな血の痕を見つけ、葵は眉をひそめた。
すると途端にマリィの表情も、元と同じものに戻ってしまう。
「ジル様ニ……叱ラレタ」
「そう……手当てしてあげるわ」
幼い少女にこのような仕打ちをするジルという男に新たな嫌悪を抱きつつ、
彼女の額に手をかざし、『力』を念じる。
柔らかな光にマリィは驚いたようだったが、すぐに目を閉じ、おとなしく治療を受け入れた。
「はい、これで大丈夫よ」
「アリ……ガト」
マリィは戸惑っているようだ。
それが『力』に対してなのか、それとも思わぬ親切を受けたからなのか、葵には解らない。
しかし、今は彼女をこれ以上怯えさせてはいけない、それだけを意識して葵は話しかけた。
「かわいい猫ちゃんね。この子の名前も教えてくれる?」
「メフィスト……マリィノトモダチ」
彼女の肩に乗り、人形のように身動きしない黒猫について訊くと、
初めてマリィは自分から嬉しそうに答えた。
猫はじっとこちらを見ている。
翠玉の瞳には少女と同じく敵意は感じられなかったが、
どうも観察されているような気がして、葵は妙な居心地の悪さを覚えた。
それを払拭すべく頭を振り、少女に微笑みかける。
「そう……ね、私もマリィの友達になってもいいかしら」
マリィは頷かない。
しかし、彼女の態度は拒絶しているのではなく、
戸惑っているように見えたので、葵は積極的に話しかけた。
「マリィは何歳? 十歳くらい?」
「……十六」
「……え?」
外人の子供は日本人から見ると年齢が判りにくい。
だがそれは一般的には発育が良いため実年齢より上に見えるのであって、
目の前の少女はまだ第二次性徴も表れていないようにしか見えなかった。
とっさに意味が呑みこめず、葵はニの句が継げなくなってしまう。
「イイ匂イ、スル……アノ時計ト同ジ」
「あの時計……って」
しかし、マリィは素早く立ちあがると、妖精のように身を翻して行ってしまった。
再び沈黙が訪れる。
食べ物を貰いはしたものの、それはマリィの善意に応えただけであって、
食べる気など全く起こらない葵は、無意識に奥の壁に背をつけて座った。
胸に、再び不安がせり上がってくる。
──助けて……
不安を堪える為に、葵は仲間達の姿を念じる。
その中には龍麻の姿もあった。
葵にとって彼は関わりたくない人物の一人である。
だが同時に、このような事態は見過ごさず、必ず助けに来てくれるという確信もあった。
救出された後のことはあえて考えないようにして、葵は念じ続けるのだった。
教室を抜け出した龍麻達は、
事件を目撃したアン子が手に入れた唯一の手掛かりである鷲の紋章について、
どんな些細なことでも載っていないかと新聞部の資料を漁っていた。
「あァッ、もうッ!!」
アン子が絶叫する。
情報収集、分析はジャーナリストを志望するなら必須の能力であったが、
これだけの手掛かりで膨大な資料を当たるとなると並大抵の苦労ではない。
アン子は醍醐や小蒔の数倍の早さで山と積まれた資料を片っ端からめくっていたが、
同じ紋章を見つけることはどうしてもできなかった。
「ないないない、小学校中学校高校大学短大公立私立総合学園専門学校、
どこにもないわッ!! 一体どういうことなのよッ!!」
「全国会社便覧……こっちにもないよ」
アン子が五冊ほど調べた頃、ようやく一冊だけ調べ終えた小蒔がぼやく。
醍醐も隣で同じような疲労を肩に浮かべ、龍麻だけが黙々と調べ続けていた。
否、龍麻だけではなかった。
最もこの手の作業が苦手であると思われる男も龍麻の横で山と積まれたファイルをめくっていたのだ。
「ねぇ……どうしたのかな、京一」
「うむ……朝食った飯が当たったのかもしれんな」
小蒔と醍醐が酷いことを言っても、反応すらしない。
いよいよこれは世紀末か、などと二人が悲観した時、京一がやにわに立ちあがった。
「あったッ!!」
「あったって……何が?」
間抜けなことを聞く小蒔を、京一はじろりと睨みおろした。
「何がじゃねェッ! こいつを見やがれ」
京一が指差した先にある記事を、小蒔は声に出して読んだ。
大田区文化会館で行われた世界孤児救済バザーは、盛況の内に幕を閉じ、
その収益金が財団法人の理事長、ジル・ローゼスさんに手渡された。
ジルさんは長年、孤児の育成と教育に携わり、自らも今春、
大田区内にローゼンクロイツ学院を創立。世界各国の恵まれない孤児達を引き取り、
熱心な教育と手厚い保護の元、日々救済に励んでおられる──記事にはそうあった。
そして記事に添えられた写真には、子供から目録を受け取る一人の初老の男が写っている。
規律よりも威圧を感じさせる、あまり良い印象を受けない制服の襟には、
まさに鷲を象ったバッジがあった。
「これ……!」
「そうよ、今日の新聞じゃないッ! あたしッたらなんで思い出さなかったのよ」
「お前、読んでたのかよ……だったらもう少し早く思い出しやがれ」
アン子が早く思い出していれば、肩の凝る作業をする必要もなく、
マリアと葵をより早く助けに行けたのだから、皆がじっとりとした視線で睨んだのは仕方のないことだった。
「ま、まぁいいじゃない、見つかったんだから。それよりこれで行く場所は決まったでしょ」
「ああ、ローゼンクロイツ学院に行こう」
龍麻は勢い良く立ちあがる。
アン子を責めたところで意味がなかったし、犯人が判った以上、一秒とて時間を浪費する気はなかった。
「気が早ェな──が、確かに怪しいな。行ってみようぜ」
「よォし、予備のカメラも持ったし、乗り込みましょうッ!」
部屋の片隅から二台目のカメラを取り出し、意気揚揚と立ちあがったアン子に、
目配せしあった四人は役割分担を決めて話しかけた。
「遠野。お前は残って美里とマリア先生のことを適当にごまかしておいてくれ」
「なッ、何よそれ」
「絶対に誘拐されたことを周りに知られんなよ」
「そうそう、そういうのは口が達者なアン子が適任だもんねッ」
記者の本質は真実に近づくことにあると信じているアン子は、皆に口々に言われても引き下がらなかった。
「騙されないわよッ、またそうやってあたしを置いてくつもりなんでしょッ」
「頼む遠野、この件を警察沙汰にする訳にはいかねえ。昼まででいいから、なんとかごまかしてくれないか」
龍麻が止めたのは、彼女の安全を慮ってのことだった。
相手は銃を持ち、誘拐のような荒事も平気で行う集団だ。
何の『力』も持たないアン子を連れていくのは、どれほど彼女が望んでもできない相談だった。
龍麻に負けないくらい強い光を眼鏡の奥の瞳に宿らせてアン子は抵抗していたが、遂に諦め、軽く俯いた。
「……もう、緋勇君にそんな顔されたらどうしようもないじゃない。
わかったわよ、こっちは上手くやっておくから。そのかわり」
「あぁ、マリア先生と美里は絶対助け出してくる」
力強く請け負った龍麻は、京一達と共にローゼンクロイツ学院へ急ぐべく部室を飛び出した。
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