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可能な限りの早さで大田区へ移動した龍麻達は、
アン子が調べてくれた住所にある、灰色の塀に囲まれた建物を見つけていた。
「ここか……ローゼンクロイツ学院ってのは」
「学校……なんだよね一応。でも塀は高いし、無機質で、なんか嫌な感じだなぁ」
小蒔が塀を見上げて呟いた。
塀の上には鉄条網まであり、刑務所か収容所のようなたたずまいを見せている。
角から顔だけを出して正門を伺った京一は、仲間達に軽く首を振った。
「あぁ……警備員までいやがる。こりゃ簡単には中に入れなさそうだな」
「とりあえず塀を一周してみよう。他の入り口が見つかるかもしれない」
龍麻が口元に手を当て、少し考えてから言うと、醍醐が賛意を示した。
「そうだな……誘拐なんぞするような手合いだ、正面から入って通してくれるとも思えんな」
しかし、龍麻達が期待するような侵入口は、残念ながら見当たらなかった。
塀は三メートル近い高さがあり、更に鉄条網の為に、乗り越えるのは不可能でないにしても困難だ。
やむを得ず、正門が見える位置まで戻ってきた龍麻達は、次の作戦を練ることにした。
「俺が壁を壊す。そうすりゃ警備員が出てくるだろうから、その隙に三人は中に入ってくれ」
「壁を壊すってお前、そんなコト出来るのかよ」
驚く京一に、龍麻は素っ気なく応じた。
「やったことはないが、『氣』を全開にすれば壊せると思う」
「全開ってお前、あの金色に光るヤツか? ありゃお前がぶっ倒れちまうじゃねェか」
龍麻が金色に光るのを二回、倒れるところも二回目撃している京一は、さすがに首を縦には振れなかった。
「お前がぶっ倒れたら救ける人間が三人になって二度手間じゃねェか」
「じゃあ他に方法があるのかよ」
押し殺してはいるものの、龍麻の語勢は強い。
作戦とすら言えないようなめちゃくちゃな策だったが、どうも龍麻は本気であるようだった。
「ねェけど落ち着けって」
本来京一は龍麻よりも短気で醍醐に抑えられる側だったのに、
最近は二人で龍麻を抑えなければならなくなっている。
とはいえ、理論や理屈などといったものは京一から縁遠いところに存在するもので、
それらをたぐり寄せるのも一筋縄ではいかない。
「あの警備員共をおびきだしゃいいんだろ? おい小蒔、お前ちょっと色仕掛けしてこい」
「なッ、なんでボクがそんなコト」
「ああクソッ、お前じゃダメだ、色気ゼロだからな」
一人で結論を出した京一の考えは龍麻以上に酷く、小蒔となぜか醍醐を憤慨させ、
龍麻を苛立たせるというマイナスの結果しか産まなかった。
四人全員が険悪な雰囲気になり、学院に侵入どころではない状況に陥りかける龍麻達に、
不意に背後から声がかかった。
「方法ならあるわ」
「誰だッ!」
学院の関係者に発見されたと思った龍麻は、鋭く誰何する。
しかし、そこにいたのは龍麻の良く知った女性だった。
「天野、さん……」
研ぎ澄ませていた氣が、一度に抜ける。
張り詰めていた心身も弛緩してしまい、
恨みがましく神出鬼没のルポライターを見る龍麻に代わって、京一が訊ねた。
「絵莉ちゃん……どうしてここに?」
「もちろん仕事よ。理想の福祉施設と名高いローゼンクロイツ学院の取材、ってね」
「え?」
「それと、その裏に潜む陰謀を暴くために……ね」
「陰謀って……やっぱここにはなんかあんのかよ」
絵莉は、同意というには大げさすぎる頷き方をした。
「何かどころか、この学院ほど叩いて埃が出る学校もないんじゃないかしら。
それはそうと、あなた達はどうしてここに? 何か、乗りこもうとしてたみたいだけど」
龍麻と京一が同時に言おうとして、同時に口を閉ざす。
それきり黙ってしまった二人に代わって、仕方なく小蒔が説明した。
「葵が……誘拐されたんです。友達がそれを目撃して、そこに落ちてた校章がここのやつだったから」
「美里さんが?」
「はい。美里と一緒に、俺達の担任も」
「担任って──マリアが!?」
醍醐の補足を聞いた時の絵莉の反応は、只事ではなかった。
元より年齢よりも若い喜怒哀楽を見せる彼女だったが、この時はほとんど小蒔と同じくらいの驚きようだった。
「絵莉ちゃん……マリアせんせー知ってんのかよ」
「えッ、ええ、まぁね」
友人──というよりも悪友に近い、
呑み仲間という関係を彼らに説明する気にはなれなかった絵莉は、
興味津々で自分を見る京一や小蒔の追求をかわさなければならなかった。
「それはいずれ機会があったら話すとして、そうね、そういうことなら協力するわ。
まずローゼンクロイツ学院についての情報を聞いてちょうだい」
「そんな時間は」
「ううん、絶対損にはならないから」
焦りと不満を斑に浮かべる龍麻を強引に説き伏せ、
絵莉はここに取材に来た動機となる、ローゼンクロイツ学院の裏の面について語り始めた。
「このローゼンクロイツ学院は孤児達を集めて英才教育を施し、
施設の面でも優れた評価を得ている学校なの。
でも、その実態はあまり知られていないわ。
わたしが入手した情報では、ドイツ人である学院長のジルは、
孤児を引き取り養育する福祉施設という仮面の裏で、
身寄りのない子供達を利用した人体実験を行っているらしいの」
「人体……実験?」
小蒔の顔が嫌悪に歪む。
「詳しくは解らないけど、脳の成長が最も活発な、
十代前半までの子供達の右脳を人為的に操作する──平たく言えば、超能力に関する実験が」
「超能力……って」
小蒔は半信半疑といった風に腕を組んだ。
自分達の『力』も超能力の一種だが、それを研究するというのは、
こんな力などなくても一向に構わない彼女にとって理解しがたいことなのだ。
しかし絵莉は、いたって真面目に話を続けた。
「人間の隠された能力を開発する研究は、昔から行われているわ。
時には、国家機関でさえもが関わって」
うそ寒そうに首をすくめる小蒔に、
絵莉は悪いと思いつつも更に彼女が嫌悪を抱かずにいられないであろう話題を出した。
「学院長のジルは、福祉財団の理事長であると共に、医科学の権威としての側面も持っているわ。
その辺りも取材で聞き出そうと思っていたんだけど、
ヨゼフ・メンゲレの再来でないことを祈るしかないわね」
「めんげれ……? 誰だそりゃ」
京一が頭の悪い発音で首を傾げたが、今回は京一だけでなく、誰もその名前を知らなかった。
これは彼らが不勉強なのではなく、普通の高校生は全く知る必要のない人名だからだった。
「ナチスドイツの時代、あのアウシュビッツ収容所で人体実験に興じ、
死の天使と恐れられた狂気の医師よ」
その名はかつて人類に恐怖と絶望を植え付けたナチスドイツの関係者の中でも、
最悪な部類に属するもののひとつだった。
自らの欲望のままに人体実験を繰り返し、多くの無辜の人間を殺した医師。
彼の悪名は忘れてはならない負の遺産として後世に伝えられている。
自分でナチスの名前を出したことで、絵莉はもうひとつ、
その忌まわしい組織と今龍麻達が乗りこもうとしている学校との関係に思い至った。
「そういえば、ここの校章を見たって言ってたわね。あれについては何か知ってる?」
「ただの鷲じゃないんですか」
「ええ、鷲を紋章に使うのは特にヨーロッパの方に多いんだけど、
その中には──ナチスもあるのよ」
龍麻達の顔に、不安が色濃く浮かぶ。
ナチスについて詳しい訳ではなくても、その名が不吉なものだと言うことくらいは知っているのだ。
しかし、ナチスといえば、あの有名な紋章なのではないか。
その疑問を京一が口にした。
「ナチスって……あれじゃねェのかよ、まんじとかいう」
「よく誤解されているけど、それは向きが反対なのよ。
ナチスの使ったのは鉤十字、ハーケンクロイツと呼ばれるものね。
でも、あまりにも鉤十字のインパクトが強いから目立たないけれど、
ナチスは鷲の紋章も良く使用していたわ」
子供を人体実験の材料にする、ナチスの亡霊──
それは最悪の組み合わせだった。
そして、そのような組織に囚われてしまった葵の運命は。
「超能力の研究……ということは、美里を攫ったのも俺達の『力』を知っての可能性が高くなったな」
「それじゃ──葵も実験に使われちゃうの?」
醍醐の低い声に答える小蒔に、普段の生気は全くない。
親友が実験材料にされるなど、想像することさえ耐えられるものではなかった。
龍麻もそれは同じで、爪が食い込むほど拳を握り締め、恐怖と怒りに身をわななかせる。
「急いだ方がいいわね」
険しい表情で頷いた絵莉は、彼らを学院内に入れるべく手早く作戦を立てた。
「方法は──そうね、わたしは取材許可を取ってきたから、一応、ここへの来訪を許可されているわ。
だからあなた達は、ジャーナリスト志望の学生ってことにして、
今日は一日見習いとして一緒に中に入る。これでどうかしら」
「そうだな……そっちの方が良さそうだ。いいだろ、緋勇」
「……一つ問題がある。桜井は美里と同じ制服を着てるだろう。気づかれるんじゃないのか」
学園内に入ってからならともかく、入る前に気取られてしまっては意味がない。
強行突破を提案した男にしては慎重なことを口にしたが、絵莉は意に介さなかった。
「守衛さえパスしてしまえば、後はあなた達、どの道暴れるつもりなんでしょう?
醍醐君の後ろに隠れてれば大丈夫よ」
龍麻のそれと較べても劣らない大雑把な作戦に、醍醐と京一は思わず顔を見合わせた。
「マジかよ……絵莉ちゃんって意外といい加減なんだな」
「ふふッ、経験よ、経験。それじゃ、正門を抜けたら自由行動ってことでいいわね」
「でも、後で天野サンに迷惑がかかっちゃわない?」
もっともな小蒔の心配を、絵莉は一笑に付した。
「気にしなくていいわ。マリアはわたしの友人でもあるし、
ローゼンクロイツ学院は相当胡散臭い所みたいだから、
わたしのことなんて気にしないで好きにやっていいわよ」
そう言いきった絵莉は、龍麻達を従え、堂々と正門に向かって歩き出した。
彼女に気付いた警備員が、警戒を隠そうともせず身構える。
「こんにちは。学院長に面会をお願いしました、ルポライターの天野ですけど」
「身分証を」
愛想良く話しかけた絵莉にも警備員の態度は変わらず、
いかにも後ろ暗い場所を警備しているという印象を龍麻達に与えた。
絵莉が差し出した身分証を、警備員は嫌味なほど念入りに確かめてから返す。
「確かに。学院長は本日急用で外出しているので、替わりの者が話を伺うことになっている」
「わかりました」
早速中に入ろうとする絵莉だったが、さすがに警備員は見逃さなかった。
良く訓練された動きで絵莉達の進路に立ちはだかる。
「待ちなさい。その学生達はなんだ」
「あぁ、この子達はわたしの母校の後輩達で、ジャーナリストの卵なんです。
今日はわたしの助手として一緒に連れてきました」
「そんな話は聞いていない」
「はい、いつも頼んでいるカメラマンと助手が風邪で寝込んでしまって」
尋問のような口調の警備員にも、絵莉は動じることなく嘘を並べ立てる。
さすがにフリーのルポライターとして経歴を積んでいるだけあってか、
このようなことはお手の物であるらしかった。
「学院長は、今回の取材を学院の宣伝の一環だと仰っていました。
いい記事を書きますから、許可願えないでしょうか」
「しかし……」
なお渋る警備員に、絵莉は幾度か使い、効果のある戦法を使った。
「なんでしたら、わたしの方から学院長にお話してもいいのですけど」
最上位者に名前を知らされて喜ぶ組織の人間はあまりいない。
それが苦情や疑問めいたものなら尚更で、出世や勤務評定に関わることは極力避けたいのだ。
絵莉の読みは的中し、鉄面皮だった警備員の顔に微かな狼狽が生まれた。
「そんな事で学院長の手を煩わせる必要もない、止むを得んな、立ち入りを許可する。
ただし指定された場所以外に入らないこと、大きな声を出して騒がないこと。
以上は厳しく守らせるように。わかったな」
「ありがとうございます。皆、行くわよ」
明るい声を出して助手達を促した絵莉は、
こうしてまんまと龍麻達を潜入させることに成功したのだった。
無言のまま人気のない──敷地内はほぼどこも人の気配などなかったが──
場所まで来てから、絵莉はようやく息を吐き出す。
場数は踏んでいても緊張することに変わりはないのだ。
「ふぅ……上手くいったみたいね」
「ボク、ドキドキしたよ」
小声で興奮を語る小蒔に愛嬌のあるウィンクをしてみせた絵莉は、表情を改めて龍麻を見た。
「それじゃ、わたしは話を聞いてから怪しいところを探ってみるわ。あなた達も」
「はい……必ず二人を助け出します」
「お願いね」
龍麻の肩を叩き、絵莉は取材をするべく彼らと別れる。
この学院の実態を探る必要はあったし、
取材をすることでいくらかでも龍麻達への注意を逸らすことができるのだ。
友人の無事と救出を祈りつつ、絵莉は自分の役割を果たすため、伏魔殿へと入っていった。
絵莉と別れた四人も、足音を殺して建物の奥へと進む。
灰色の廊下に暗めの照明、そして小さく、数の少ない窓は、どうにも陰鬱な気分に彼らをさせた。
「なんか……とても子供達を養育する場所には思えないね」
小蒔の感想に、京一が辺りを見回して答える。
「ああ……冷たくて、嫌な感じだな。にしても結構でけェ建物だな……どっから探すよ、緋勇」
「そうだな、表向きは学校なんだから、そんな場所に拐った人間を隠したり、
実験なんかしないだろう。何かあるなら地下か奥だな」
「違えねェ……よし、先に一番奥まで行っちまおうぜ」
初めは見つからないよう慎重に進んでいた龍麻達が、
どうやらその必要はないようだと気づいたのは、ほとんど最奥部まで来てからだった。
「人っ子一人いないね」
「あぁ……病院だってもうちょっと人の気配はすると思うが」
教室の入り口らしい扉はいくつかあったものの、どれも覗き窓ひとつない重い扉で、
部屋の中の声など一切聞こえてこない。
天井の、かろうじて点いている照明がなければ、廃墟かと思ってしまうほどだった。
だから建物の一番奥のくらがりにひっそりとあった階段の前に、
鮮やかな赤い服を着た少女が立っているのにも全く気づかず、
彼女が振り向いた時にはもう隠れようがなかった。
「やべェ、見つかっちまったか」
慌てる京一を制し、龍麻は少女に近づいていく。
ここまで来たら、もう遠回りはできなかった。
「こんにちは」
「……アナタタチ、ダレ」
「俺達はこの学校を取材に来たんだ」
「シュザイ……?」
そうなった時には容赦なく昏倒させるしかないとしても、
大声で人を呼ばれさえしなければ、龍麻は彼女に危害を加えるつもりはなかった。
少女に日本語は通じるようであるが、難しい言葉は解らないようだ。
まだ十歳程度にしか見えない少女に、龍麻は逸る気持ちを抑え、ゆっくりと言葉を選んだ。
「ああ。ここはとてもいい学校だって聞いているから、それを教えてもらおうと思って来たんだ」
努めて穏やかに話しかける龍麻の、少女は忍耐力を試すように小首を傾げるだけで何も言わない。
その時、後ろで彼女を見ていた小蒔から驚きの声が上がった。
「ね、緋勇クン。このコが持ってる腕時計……葵のだよ」
「本当か?」
「うん、間違いないよ。葵、入学祝いにお父さんから貰ったって嬉しそうに見せてくれたもん」
何故この少女が葵の時計を──努力も水泡に帰し、龍麻の口の端がゆっくりと曲がり始める。
しかし、葵という言葉に反応したのは龍麻だけではなかった。
「アナタタチ……アオイヲ知ッテルノ?」
この少女は、何かを知っている。
情報を引き出すため、龍麻は苛立ちを抑え、辛抱強く頷いた。
「美里は俺達の友達なんだ」
「トモ……ダチ?」
反応の鈍い少女に痺れを切らしたのは、龍麻より小蒔の方が先だった。
「ねぇッ、葵の居場所知ってるの? 知ってるんだったらお願い、教えてよッ」
「ドウシテ? ドウシテ、アオイヲ捜スノ?」
少女の問いに、小蒔は声を詰まらせてしまう。
それほど人間味のない、そして小蒔にとっては考える必要さえない問いかけだった。
「どうしてって……そんなの当たり前じゃない。
葵はボクの……ボク達の、大切な仲間なんだから」
「ナカ……マ?」
仲間という言葉に対する少女の反応は異常だった。
「仲間ハ、大切ジャナイヨ。ダッテ、新シイ仲間ハイクラデモ作レルモノ。
データサエアレバ、イクラデモ増ヤセル」
少女の日本語は片言で聞き取りにくかったが、
例え完全に発音されたとしても龍麻達は意味を理解することができなかっただろう。
京一がこんなガキ放っといて先に行こう、と目で促す。
それを無視して小蒔は膝をつき、少女の両肩を掴んで語りかけた。
「増やせる……って、何言ってるの? 葵は人間なんだよ。
ううん、人間だけじゃない、キミのそのネコだって、死んじゃったら増やせないんだよ」
「メフィストガ……死ヌ?」
身近な例えを出されて、少女は小蒔の言うことを理解したようだった。
腕に抱いた猫を見下ろし、眉を曇らせる。
「そう、生きているものは死んじゃったらもう帰ってこない。
メフィストがいなくなっちゃったら、悲しいでしょ?」
「カナシイ……ワカラナイ」
「お願い、葵の居場所を知ってるんだったら……教えて」
困惑したように頭を振る少女に、小蒔は懇願する。
すると想いが通じたのか、少女は指を下方に向けた。
「ソコノ階段ヲ……降リタトコロ。
デモ、ジル様ガ入ッチャ駄目ダッテイッテタ。実験スルカラッテ」
「──ッ!!」
最悪の想像に背中を鷲掴みにされた龍麻達は、
もう少女のことなど省みず、階段を争うように降りていった。
ただ一人この場に残された少女は、彼らが降りていった先をじっと見つめていた。
ジル様ハ入ッチャ駄目ダト言ッタ。
アオイ──メフィストト同ジ、トモダチ。
ジル様ハメフィストヲ殺セト言ッタ。
マリィノトモダチヲ助ケニ来タ、アオイノトモダチ。
アオイガ死ンデシマウト、アオイノトモダチハ言ッタ。
幾つもの考えが、幼い少女の頭の中を巡る。
どうすれば良いのか──今まで命令されるだけで、自分の考えで行動したことも、
またその自由も与えられなかった少女は、今、初めて自分の行動を、自分自身で決めようとしていた。
考えることに慣れていない少女には、それはとても難しいことだった。
ジルの意に従うか、反するか。
トモダチを助けに行くか、見捨てるか。
たった二つの選択肢を、いつまでも選ぶことができず、マリィは、
考えるのを止めて、部屋に戻ってしまおうかと思いはじめる。
そうすれば、昨日までと変わらない日常だけは確保されるから──
そう思い、踵を返そうとしたマリィの腕の中で、メフィストが鳴き声をあげた。
「メフィスト……?」
まだトモダチになって数日とはたっていない黒猫は、低いうなり声を発している。
メフィストが自分の決断に異を唱えているのだとマリィが理解したのは、
腕に立てられた小さな爪の痛さによってだった。
「メフィストモ、アオイヲ助ケタイノ……?」
腕を引っかかれた拍子に離してしまったメフィストは、
マリィの問いに答えることなく、マリィとは反対方向に歩きだす。
軽やかに階段を下りていくメフィストに、マリィは見捨てられたような気がして心が竦んだ。
トモダチガ、イナクナル──
それはジルに怒られて鞭で打たれるよりも、罰として食事を抜かれるよりも、
もっとずっと辛いことだった。
「待ッテ、メフィ」
それを小さな友人に教えられたマリィは、黒猫の後を追う。
「ニャア」
踊り場を曲がったところで待っていたメフィストは、遅れてきた友人に一声鳴くと、再び腕の中へと戻った。
「ウン……行コウ、メフィ」
トモダチを離さないよう、しっかりと抱いたマリィは、
彼女にとって二人目の友人を助けるため、暗い地下室へと下りていった。
龍麻達が向かった地下の研究室では、今まさに実験が行われようとするところだった。
巨大なコンピュータが幾つも並び、その隙間に白衣を着た人間が何人かいる。
部屋全体は薄暗く、最小限度の照明が不気味に灯っているだけであったが、
その最奥部だけが不思議なほど明るかった。
床から天井まで、三メートルほどもある巨大なシリンダーが貫いており、
中に満たされた薄緑色の液体が、幻想的ともいえる輝きを放っていたのだ。
全部で五本あるシリンダーは三本が空であったが、
その内の一本には何か得体の知れぬ生き物が蠢いており、
そして、最後の一本には──裸の女性が入れられていた。
白い肌が薄緑色の液体に包まれ、筒の中に浮かんでいる姿は、女神像のような美しさであった。
彼女の前に、一人の男が立っている。
制服を着、直立不動で立つ男の瞳には、女神を崇拝する神官のような陶酔が浮かんでいた。
均整の取れた裸身を眺めながら、男は機械に向き合っている部下に尋ねた。
「様子はどうだ」
「はッ、ジル様。サイ粒子抽出機をテレモニターに接続。被験者の念波動を原子結晶化し、
抽出、培養、増幅。その後、粒子断面及び検出数値がモニター化されます」
「よし、続けろ」
男はローゼンクロイツ学院長、ジル・ローゼスであった。
己の邪な野望の為に攫ってきた葵を、
その『力』の秘密を探るべく実験にかけようとしていたのだ。
「フフフ……ミサトアオイか、素晴らしい、この『力』。実験せずともワシには解る。
こやつこそ、ワシが探していた『鍵』だ。よもやこんな島国で出会おうとはの」
完璧な素体を前にして、思わずジルは感嘆を漏らした。
目の前の女は、これまでに実験してきた二百人の素体などとは比べ物にならぬ素質を有している。
この女が長い間世界中を捜し歩いて求めてきた『鍵』であることは、疑いなかった。
「この『力』を解明すれば、我が帝国は更なる進化を遂げる。
シロウとやらはしくじったが、下等民族にはどの道必要のないものよ。
我ら優良種たるアーリア民族こそが大いなる『力』を手にするに相応しい」
「ジル様、ご覧くださいッ。超能力レベルが最高値に達しています。
このままではメーターが振りきれますッ!」
「構わん、続けろ。……素晴らしい、まことに素晴らしい。
この『力』──第三帝国復活の大いなる一歩となるであろうぞ」
ジルの声が興奮にうわずる。
訪れる第三帝国、そしてその指導者として君臨する自分を思い、
法悦の境地に浸っていると、研究室内に非常警報音が響き渡った。
「何事だッ!」
「侵入者です……男三名、女一名。こちらへ到着するまであと八秒……七……」
警備員が報告するより前に、ジルの傍らにいる盲目の少女が告げる。
彼女は常人にはない超感覚的な視力を有しており、
四人の男女が全速力でこちらに向かっているのを、どんなカメラよりも正確に捉えていた。
「何ということだ、神聖なる実験の最中に。……ここから生きて出られると思うな」
歯軋りしたジルは、実験を一時中断して、いまいましい侵入者を抹殺すべく指示を下し始めた。
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