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 ものものしい扉を見つけた龍麻は、一気に踏み込んだ。
すでに氣は練ってあり、この扉の向こうに誰が居ようと、容赦なく打ち倒す覚悟も決めている。
 いかにも秘密めいた扉の向こうで龍麻を待っていたのは、
罠でも、不意打ちでもなく、よりおぞましいものだった。
遥か向こうの空間で、葵が、一糸まとわぬ姿で細長い容器に入れられていたのだ。
薄緑色の液体が満たされた筒に閉じ込められた彼女は、
数ヶ月前に死蝋という男の研究室で見た、忌まわしい実験の結果である生物を思いださせた。
「美里ッ!!」
 胸糞の悪い想像に、龍麻の氣が爆発的に膨れる。
仲間達が物理的な圧力を感じたほど、それはこれまでの闘いのどれよりも膨大な氣だった。
膨大で、そして危険な陰氣。
 闖入者に唖然とする白衣の男達を無視して、龍麻は一気に葵が収められたシリンダーの前に立つ
男の元へと走った。
その速度は仲間達をも置き去りにしている。
「ちッ……どの道ここまで来たらやるしかねェんだ、行くぜ、醍醐、小蒔ッ!!」
 極めて狂暴な存在と化した龍麻に舌打ちした京一は、
周りが見えなくなっている彼を援護すべく後を追った。
醍醐と小蒔もすぐに続く。
 邪魔な研究員を突き飛ばし、一直線に葵の許に向かっていた龍麻は、
彼女の前に立つ老人を視界に捉えた。
彼こそが葵を攫った犯人であるジル・ローゼスだと直感し、激怒を燃えあがらせて肉迫する。
 しかし、あと数歩で間合いに入るという距離で、突然不可視の壁が立ちはだかった。
何が起こったか判らないまま弾き飛ばされた龍麻は再び突進する。
だが一切手加減なしの体当たりでも、壁を打ち破ることはできなかった。
再び吹き飛ばされる龍麻を、追いついた京一が起こす。
「何だこりゃ……これも『力』なのか?」
 龍麻は答えず、無言でジルを睨みつける。
 侵入者が17の築いた壁に空しく体当たりするのを、
微動だにせず見ていたジルは、嘲った笑みを浮かべた。
「フフフ……ここまで辿りついたのは褒めてやるが、所詮はその程度か」
「学院長様。この人間達にもアオイと同じ『力』が視えます」
「なるほど……17の予知に表れたのはこやつらか。
いいだろう、こやつらも実験材料にしてくれる。
19、21、やれッ、殺して構わんッ!!」
 17の報告に得心して頷いたジルは、彼の忠実な兵士達に命令を下した。
「了解しました」
「ケケッ、オモシレエ。グチャグチャニ潰シテヤル」
 二人の子供がジルの前に進み出る。
京一は彼らに奇妙な氣を感じたが、口ではこう言って挑発した。
「けッ、こんなガキ共で俺達の相手が務まるワケがねェだろうが」
「ここにいるのはワシが創り上げた革命の為の兵士達だ。
お前等如き、軽く屠ってくれるわ」
 京一に人が持ちうる限りの悪意を凝縮した笑みを向けたジルは、拳を振り上げ、演説を始める。
それは彼が崇拝してやまない、総統アドルフ・ヒトラーの動きを寸分違わず模したものだった。
「ワシは大地を流れる大いなる『力』を長い間研究してきた。
そして創りあげた──『力』を授かるに相応しい人間を。
貴様等は特別な人間ではない。単に神が気まぐれを起こしたに過ぎぬのだ。
貴様等に『力』を使うだけの資格があると思っているのか? 下等民族の貴様等に」
 傲然と言い放ったジルは、彼らの後ろにいる小さな人影に気付いた。
「20め……どこに行っておった」
 ジルの声に、龍麻達は先ほど階段の前にいた少女がいつのまにかいることに気づいた。
明るいグレーの瞳は、数分前とはまるで異なる光にあふれている。
彼女と目の前の初老の男との関係は判らなかったが、
少女の目に浮かんでいたものは、自分達と同じ輝き、葵を助けたいと想う意思だった。
「何だその瞳は……よもや貴様、こやつらを手引きしたのではあるまいな」
「……」
「調製が足らなかったようだな。こやつらを始末したら、もう一度レベル2からやり直さねば」
 吐き捨てたジルの目には、既に20は物としか映っていない。
大人が、子供に対して決して向けてはならない視線だった。
 二人のやり取りを見ていた龍麻の心に、男に対する更なる怒りが加わる。
拳を衝き動かさんとするそれを制御し、龍麻はいつでも飛びかかれるよう身構えた。
男の前に立つ二人の子供もそれに呼応して構えるが、男は演説を続ける。
「崇高な力を持つワシの兵士、お前達は選ばれた民なのだ。
成長して汚れることもなく、いつまでも美しく輝く帝国の民。
永遠に純粋な残酷さを持ち続ける至高の子供達。
それなのに貴様は、汚らわしく俗な、甘い感情を捨てきれぬ。どうしようもない失敗作よ」
 小さな身体を蝕む言葉の猛毒にも、マリィは唇を噛んで良く耐えていたが、
遂に決然とジルを、育ての親を睨みつけた。
「アオイ……マリィノコト、トモダチッテイッテクレタ。
アオイガ死ンジャッタラ、マリィ、悲シイ……ダカラ、アオイハマリィが護ルッ!!」
「貴様──その『力』の故に親に捨てられ、
のたれ死ぬしかなかった貴様を拾ってやった恩も忘れおってッ!!
貴様等兵器がこの学院から出て生きていけるとでも思っているのかッ!!」
「ワタシハ兵器ジャナイッ!!」
 叫び声と共に、龍麻達の傍らを熱風が通りすぎた。
驚いた彼らがとっさに顔を庇うと、紅蓮の焔が龍麻の前方の空間に燃えあがる。
息苦しくなるほどの気流が消え去った時、龍麻の突進を阻んだ超物理的な壁は焼失していた。
 17が生み出した壁が破られたことにジルは驚きの表情を見せたが、
すぐにより凄まじい侮蔑を取って代わらせる。
それは人の物とは思えない、悪鬼の顔だった。
「フン……『力』があればこそ使ってやってきたが、やはり失敗作は失敗作か。
19、21ッ! 20も始末しろ」
 ジルの命令に応じてイワンとトニーが龍麻達の前に立ちはだかる。
龍麻達もそれぞれ武器を構えて彼らと対峙した。
 先に仕掛けてきたのは21と呼ばれたトニーの方だった。
怒りで膨れ上がった膨大な氣をまだ纏めきれていない龍麻に向けて、悪意の波動を発する。
とっさに交差させて顔を庇う龍麻の腕に、強烈な圧力が加わった。
「く……ッ」
「龍麻ッ!」
 龍麻の周辺に生じた異様な力場を見て、京一が跳ぶ。
下品な笑いを浮かべるトニーを叩き伏せようと木刀を振りかざすと、横合いからいきなり打撃を受けた。
不意を衝かれ、たまらずもんどりうって倒れる。
「野郎……ッ」
 起き上がった京一は矛先を変え、自分に一撃を与えたイワンを倒そうとしたが、
イワンの方が素早かった。
滑るように近づいてきたイワンは、筋肉の動きを無視したかのように連打をしてくる。
懐に潜りこまれては木刀の間合いを取れず、京一は防戦一方に追い込まれてしまった。
「京一ッ」
 押されている京一など久しぶりに見た醍醐は、龍麻と京一のどちらを先に救うか迷う。
その彼の前に立ちはだかったのは、ジル・ローゼス本人だった。
「下等民族が」
 ジルもまたイワンと同じく、圧倒的な疾さで醍醐を襲う。
総番の座こそ譲ったものの、その実力は決して龍麻に劣らない醍醐だったが、
ジルの打撃は空手の有段者に引けを取らないものだった。
「ぐ、お……ッ」
 手数の多い攻撃を、遂に躱しきれずもらってしまう。
続けざまに二発目を受け、巨漢の膝が地に着いた。
「醍醐クンッ!!」
 小蒔が叫ぶ。
この狭い場所では弓は味方に当たる恐れがあり、射ることはできない。
それでも、仲間達への想いに身を灼かれた小蒔は、無謀にも無手でジルに挑もうとした。
「来るなッ!!」
 近づこうとする彼女の気配を察知し、醍醐は押し留める。
大切なものを護ることの出来ない『力』に、何の意味がある──
自分への怒りが、全身に満ちる。
下腹、胴体の一番下に溜まったその怒りは脊髄から頭頂へと抜け、
身体に収まりきらないほどの活力と、それに伴う圧倒的な快感、
そして敵を斃せという本能が心を支配していく。
「む……?」
 止めの一撃を見舞おうとしたジルは、
醍醐の身体から異様な氣が発せられているのを感じ、攻撃の手を止めた。
目の前の男から発生しているのは、彼がこれまで生み出した兵器のどれよりも強力な『力』だった。
この『力』は、手に入れねば──
既に勝利を確信しているジルは、殺すのではなく、気絶させるに留めようと拳を固める。
 その時、ジルとほとんど同時に醍醐の異変に気づいた小蒔が叫んだ。
「醍醐クンッ、それはダメだよッ!!」
 佐久間を斃した『力』。
その時の獣と化した醍醐を見ている小蒔は、後に訪れた彼の自己喪失の危機を思いだし、
あの悪夢だけは繰り返してはならないと、必死に止めようとした。
しかし、醍醐から放たれる氣は乳白色の輝きを、
今や一回り彼の身体を大きく見せるほど放っている。
また……また、醍醐クンが──
悲痛な表情を浮かべ、変貌を遂げるのを見守るしかない小蒔の前で、醍醐が動いた。
低い姿勢から体当たりを放ち、ジルを吹き飛ばす。
物凄い勢いで吹き飛んだジルを見て、小蒔は覚悟した。
みんな──ジルだけじゃない、ボク達も、醍醐クンに──
「何をしている、桜井ッ! 下がっていろッ!!」
「え?」
 自分が怒られていることも気づかず、小蒔は訊ねた。
醍醐の声はいつもと変わらないものだったからだ。
「醍醐クン……なんともないの?」
「当たり前だ、俺はもう……陰の力には囚われん」
 穏やかに、しかし確乎たる決意を秘めて醍醐は言い、再び立ちあがったジルに突進する。
その後ろ姿は、小蒔にはとても大きく見えた。

 守勢に立たされた京一を、イワンの正確無比な拳が狙う。
全く無表情に、そして鋭い動作から生み出される打撃は、
これまで京一が受けたことのない、訓練された格闘術であり、
場数を踏んでいる彼でさえ受けきることはできなかった。
「く……ッ」
 なんとか隙を見出し、反撃に転じようとするのだが、木刀を構える暇もない。
一方的に攻められて苛立つ京一の腹に、重い一撃がめり込んだ。
「がはッ」
 落ちた頭に、止めの一打が飛来する。
本能でイワンに体当たりして痛打から逃れた京一は、遂に木刀を捨てた。
「調子に乗りやがって……」
 血の混じった唾を吐いた京一に、さほどのダメージも受けていないイワンが再び殴りかかってくる。
手本のように美しい軌道を描いて顔を狙う拳に、京一は蔦のように腕を絡ませた。
「……ッ」
 鮮やかにクロスカウンターを決められ、イワンが初めて呻いた。
自分が攻撃を受けたのが信じられないように頭を振り、果敢に挑んでくる。
しかし、彼の攻撃は、もう京一にとって脅威ではなかった。
「……!!」
 一打を受けたとはいえ、まだそのスピードは全く減じていないイワンの攻撃を、
京一は避け、受け流し、撃ち返す。
イワンの攻撃の全てを読みきり、拳を交わすそれは、ほとんど演武のような光景だった。
 連打を浴びて足にきたところを、こめかみに狙い澄まされた一発を受け、
イワンの身体は機械に叩きつけられる。
しばらくは身動きもできないようだったが、
ジルの命令は本能よりも強いのか、敵を倒そうと立ちあがってきた。
「お前の攻撃はパターン過ぎるんだよ」
 握り締める京一の拳が淡く輝いている。
それは、さながらボクシングのグローブのようだった。
「確かに疾くて重ぇから大概のヤツは倒せるんだろうが……ま、世の中は広いってこった」
 諭すように京一は言ったが、イワンの耳には届いていなかった。
目だけを殺意にぎらつかせ、拳を放つ。
既に躱さなくても平気なくらい遅いそれを受け止めた京一は、
そのままイワンの腕を引き、彼の身体を引き寄せると、最後の一撃を腹に撃ちこんだ。
「う……ッ」
 氣を込めた強打を受け、イワンは悶絶する。
よりかかってきた彼の身体を、京一は振り払わずその場に静かに寝かせてやると、
龍麻達を助けるため木刀を拾った。

 骨が軋み、肉が縮む嫌な音が、龍麻の聴覚を激しく弄る。
「ケケケッ、潰レヤガレ」
 トニーは蟻を踏み潰すかのような無邪気さで龍麻に『力』を加える。
その圧力は留まるところを知らず、龍麻の全身は外側から圧されて悲鳴を上げた。
「く、そ……ッ」
 身体が収縮していくように感じる。
手足を動かそうとしても、強力なバネに抑えつけられたように微動だにしない。
大気の数倍の圧力を受け、龍麻の意識は朦朧とし始めた。
「死ネッ……!」
 龍麻の抵抗が弱まったと見るや、トニーはさらに圧を強める。
 物も、人も、彼の手にかかって潰せないものはない。
特に生物が爆ぜる時の感触に残虐な悦びを覚える彼は、いよいよ龍麻を握りつぶそうと、
前方にかざした手をゆっくりと絞っていった。
その手が完全に握られた時、彼の前には何も残らないのだ。
 トニーの指が曲がり、指先が掌に近づく。
あと数秒もすれば圧殺が完了する。
龍麻の最後の抵抗すら愉悦とするトニーの幼い顔は、狂気に彩られていた。
 その、陰影を増すチョコレート色の肌が、突然白く輝く。
驚いたトニーは集中を解いてしまい、あとわずかのところで獲物を逃してしまった。
窮地を脱した龍麻も、何が起こったのかとっさには判らず、呼吸を整えながら状況を確かめる。
 左右で戦う京一と醍醐の他、後方から彼らを援護する小蒔の傍らに、
先程廊下で会った少女と目が合った。
まさか、彼女が助けてくれたのかと思う間もなく、背中に再び異常な圧力を感じる。
慌てて飛び退ると、トニーが憤怒の形相で再び龍麻に掌を向けていた。
接近して攻撃しようとした龍麻だが、トニーが展開する圧力空間は、
攻撃と同時にそこを通り抜けるもの一切を阻む強力な防御にもなる。
空間すら歪ませて見せるトニーの超能力の前では、
猪すら退けるであろう龍麻の突進も著しく減じられてしまい、ついには一歩も進めなくなった。
 だが、トニーの邪悪な笑みも一瞬で霧消する。
彼の顔の前の何もない空間に突如として炎の球が発生し、彼を焼こうとしたのだ。
「Shit!」
 トニーは集中を解いてしまい、龍麻を襲っていた圧力の場も消失する。
悪態をつきながらもう一度龍麻を潰そうとするトニーだったが、三度目の機会は与えられなかった。
 一気に間合いを詰める龍麻に、トニーはとっさに頭をかばってしゃがもうとする。
唯一の子供らしい仕種は、だが完了することはなく、腹に感じた激痛が、彼の最後の意識だった。
肉体的には九歳の子供に過ぎないトニーの身体は、
龍麻の氣を乗せた打撃に耐えることなど到底無理だった。
 ジルに薬物を投与され、生きるには全く必要のない『力』を与えられた挙句、
攻撃衝動だけを肥大化させられた哀れな子供は、口の端から薄く血を流して倒れた。
 動かなくなったトニーに極小の時間哀れみの目を向けた龍麻は、醍醐の加勢に回る。
 トニーの攻撃を受けている間も、龍麻は彼の氣が爆発的に増えたのを感じていたが、
まだ二人の勝負に決着はついていなかった。
白虎の『力』を覚醒させても、なおジルの力が上回っていると言う訳ではない。
むしろ手数は醍醐が勝り、その中の何発かには致命的な打撃も入っている。
にも関わらず、ジルは打撃が当たった瞬間こそ苦悶の表情を浮かべるものの、
その動きが鈍ることはなく、すぐに体勢を立て直して反撃を与えてくるのだ。
それは龍麻が援護に加わってさえ変わらず、二人を相手取ってもなおジルは倒れなかった。
 幾度目かの攻防を終え、三人は束の間対峙する。
激しい応酬にも関わらず三人とも息を全く切らしておらず、
もし観客がいれば、映画かゲームのような非現実的な感覚を抱いたであろう。
「ククク……素晴らしいな、その『力』。是非とも研究材料にしてくれるわ」
「……どうなってやがる」
 思わず悪態をつく龍麻の隣で、醍醐はジルを睨んでいる。
すると彼の制服の内側、右の胸の辺りが、ほのかに光っているのに気づいた。
それは鼓動のように明滅しながら、ジルの回復に合わせて光を弱めていく。
何かが、醍醐の脳裏に閃いた。
「どうした、もう終わりか」
 ジルの挑発に乗せられた龍麻が飛び出す。
それに加わらず機を測っていた醍醐は、ジルが龍麻との攻防に気が逸れたのを見逃さず動いた。
龍麻の拳を半身で躱し、正面に無防備な姿を晒したジルの、
奇妙な輝きがあった部位に、必殺の手刀を見舞う。
手刀と言っても、彼の丸太のような腕から繰り出されるそれは、
まともに命中すれば胸骨にひびくらいは入るかもしれないものだ。
その重い打撃がジルに命中した時、彼の身体から異様な音が聞こえてきた。
生物が発する音ではなく、何かの金属音だ。
それを聞いたジルの顔から余裕が失せた。
「クッ……貴様、聖杯を……ッ」
 龍麻達にはなんのことだか解らなかったが、ジルの動揺からすると、
よほど影響のあるものらしかった。
ちらりと視線を交わした龍麻と醍醐は、同時にジルの懐に飛びこんだ。
 二人の突撃をすんでのところで躱したジルは、この場での勝利は諦めなければならないと悟っていた。
 様々な奇蹟を生み出し、ヒトラーが捜し求めたと言われている聖杯。
ジルはそれを模して、超常的な力を封じこめた聖杯を作らせ、所持しており、
龍麻達に幾度も攻撃を受けてもたちまち回復するのは、これの効力だったのだ。
それが破壊されてしまった今、ジルに勝ち目は薄い。
この狂気の医師は己の身体にも赤血球増幅などの身体能力を向上させる処置を施していたが、
『力』を持った龍麻と醍醐は、それに劣らない動きをしている。
 これほどの実験材料を見逃さなければならない無念にジルは歯軋りしたが、
今は逃げ出すことを考えねばならなかった。
 明らかに動きの鈍ったジルに、ほとんど氣の塊となった龍麻が必殺の一撃を叩きこもうとする。
醍醐も巧みに側面に回りこみ、退路を断とうとすると、少女が身を呈して彼らの進路を塞いだ。
「学院長様、お逃げくださいッ」
「離せっ」
 龍麻に暴力に恃む趣味はないが、闘わざるを得なくなったら、女性だろうと子供だろうと容赦はしない。
しかし今、腰にすがりついている少女はおそらく盲いており、しかも攻撃手段を持ってはいない。
ただジルに対する敬慕の想いのみで、彼を逃がそうと龍麻の前に立ちはだかったのだ。
彼女を倒すことは、龍麻にはできなかった。
 華奢な身体を引き離し、十分に手加減して首を打つ。
昏倒した少女を通路に寝かせ、ジルが逃げていった先を見ると、
彼は部下を見捨てて逃亡した後だった。
「逃げられたか……」
 少女に対しては憐憫の想いもあるものの、葵を誘拐し、
歪んだ野心の実験材料としたジルは絶対に許せない。
彼が逃げた扉から追いかけようとした龍麻は、小蒔の緊迫した声に止められた。
「緋勇クンッ、今はそれより」
「そうだったな」
 一時とはいえ闘いの陰氣に溺れ、救けるべき人間のことを失念してしまって、
羞恥に頬を赤らめた龍麻は、彼女が閉じ込められているシリンダーの前にある操作盤へと走った。
 操作盤上にはいくつものボタンが並び、素人には何が何やら見当もつかない。
どれかが水を抜き、装置から葵を開放するボタンなのは間違いなかったが、
下手に手を出す訳にはいかなかった。
「どれを操作すればいいんだろ? 適当に押したらダメかな?」
 小蒔が困惑しつつも考えを実行に移さないのは、やはりかかっているのが親友の安全だからだろう。
とはいえ、ここで時間を消費するわけにもいかない。
 覚悟を決めた龍麻は、シリンダーの前に立った。
「皆は下がってろ」
「どうする気だよ」
 京一の疑問に、龍麻はシリンダーを見たまま答えた。
「割るしかないだろう」
「割るってどうやッ――」
 京一が言い切るより早く、龍麻は上着を脱いで放り投げる。
反射的に受け取った京一が、さらに文句を言おうとした時、龍麻の身体は金色に光り始めていた。
それが膨大な氣を練っているのだと気づいた三人は止めようとしたが、
それよりも早く龍麻の手がシリンダーに添えられた。
 マリィを含めた四人が目を開けていられないほど龍麻の発光が強くなる。
部屋を覆った光は、程なく収束した。
音もなく、爆発もなく、失敗したのかと訝る京一達の耳に、小さな破損音が聞こえた。
ガラスにひびが入った音だ、と理解すると同時にガラスが割れ、勢い良く液体があふれ出す。
巨大なシリンダーはほぼ満杯に液体で満たされていたため、シリンダーの周りは一時的に水浸しになり、
京一達は更に下がる必要があった。
 その中で龍麻一人が水を浴びることも厭わずに立っている。
支えを失い、糸が切れた人形のようにふわりと倒れてきた葵の身体を、
両腕でしっかり抱きとめ、水とガラスの洪水から庇い、安全な場所に寝かせた。
呆然とする京一の手から制服を取り返すと葵の裸身にかけてやり、彼女の腹部に手をかざす。
一連の動作はあまりに滑らかだったので、芝居めいて見えたほどで、
びしょ濡れになるのをかろうじて回避した京一も、龍麻が葵に氣を注ぐに至ってようやく、
「くそッ、とんだ役得じゃねェか」
 そう毒づくのがやっとで、しかも聞きとがめた小蒔に思い切り足を踏まれる始末だった。
 背後でのやり取りになど一顧だにくれぬまま、龍麻は氣を注ぎ終える。
一同は固唾を呑んで葵が目を覚ますのを待った。
「緋勇……君……?」
 朧な視界が像を結ぶ。
思考よりも先に眼が捉えたものの情報をそのまま脳に送ってきて、葵はやや混乱した。
なぜ龍麻の顔がこんなに近くにあるのか。
疑問は龍麻の発した声で一層深まった。
「落ち着け、もう大丈夫だ。気分はどうだ?」
「え……ええ……少し、頭がぼうっとするけど……大丈夫……」
 一体何が起こっているのか把握しようと葵は辺りを見渡す。
そこには春からずっと一緒に行動している龍麻を含めた四人と、
数時間前に知り合ったばかりのマリィという少女がいた。
「葵、良かった……無事で」
 安堵する小蒔を見て、蘇った記憶が波濤のように押し寄せる。
龍麻を押しのけなくて良かったと、葵は内心で安堵した。
若干落ち着いたところで、龍麻がびしょ濡れなのに気づき、
他の仲間達は濡れていない点を訊ねようとしたところで、小さくくしゃみが出る。
その拍子に龍麻の制服がずれ、葵は自分が裸であることを知って赤面した。
「あ、あの……向こうを向いて……」
 葵に背を向けたまま、龍麻が話す。
「マリア先生がどこにいるか、心当たりはないか?」
 葵はしばらく記憶を辿ってみたが、彼の望む答えは得られなかった。
「ごめんなさい……牢屋を出されてここに連れてこられるまで、
ずっと目隠しをされていたからわからないの」
「ワタシ、知ッテル」
 片言の日本語が、その場にいる全員を振り向かせる。
一斉に集まった視線に少女は怯えたようで、彼女の抱える子猫が威嚇するように鳴いた。
「マリィ……本当?」
「ウンッ、階段ノ裏ニ隠シ扉ガアッテ、降リテイクノ」
 マリィの情報は、確かに有用であったが、すぐには信じられない者もいた。
「信じていいのかよ? こいつ、この学校のヤツだろ?」
 当然ではあっても容赦ない指摘に葵が反論しようとすると、先に龍麻が手を上げた。
「大丈夫だ。俺と彼女……マリィでマリア先生を助けに行く。
京一と醍醐は逃げた奴を追って、桜井は美里の着るものを探してくれ」
「美里だけじゃなくてマリア先生にもいいトコ見せようって腹か?
ま、しょうがねェけどよ。行こうぜ、大将」
 龍麻の胸を軽く叩いた京一は、醍醐と部屋を出ていく。
龍麻もマリィを伴って後に続いた。
「よし、マリィ、案内してくれ」
「ウンッ」
 信頼された嬉しさからか、マリィの声は弾んでいる。
子猫もおとなしくしているところを見ると、とりあえず龍麻は敵でないと受け入れたようだった。
 四人が研究室から外に出ると、轟音が響いた。
研究室が防音だったのだろうが、それを差し引いても振動を伴うほどの音だ。
「なんだこりゃ、爆発するんじゃねェだろうな」
「いや……爆発音じゃなさそうだ。規則正しい……これはヘリの音じゃないか?」
 龍麻が言うと、マリィを除く三人は顔を見合わせた。
「ッてこたァ、屋上か」
「急ぐぞ京一、飛ばれたらどうしようもない」
「マリア先生を見つけたら俺も行くッ!」
「よっしゃッ!」
 龍麻達は二手に分かれて走りだした。



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