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 文京区は大聖山南谷寺。
江戸五色不動のひとつ、目赤不動が奉られている名刹を龍麻達は訪れていた。
目的はもちろん、鬼道衆が奪った、本来不動が守護すべき摩尼を再び奉納する為だ。
「これが祠なんだ」
 初めて摩尼を安置する祠を目の当たりにした小蒔は、物珍しげに横から覗きこんだりしていた。
それを押しのけ、もう三度にわたって封印を行い、作業自体には何の興味も持っていない京一が扉を開ける。
「ね、ボクにやらせてよ」
 龍麻が摩尼を取り出すと、顔を好奇心で一杯にした小蒔が頼んできた。
珠を置くだけなのだから、誰が置いても封印はできるはずなので、龍麻は素直に摩尼を渡した。
「エヘヘ、ありがと」
 大事に受け取った小蒔は、そのまま丁寧に赤色の布団の上に宝珠を置いた。
龍麻達にとっては拍子抜けすることしきりだった封印も、
小蒔はそうでもなかったらしく、輝きが失せた摩尼に向かって拝んだりなどしている。
 やがて満足した小蒔が扉を閉め、龍麻達の方に向き直ると、京一が肩に担いだ木刀の先端を揺らして言った。
「これで残りはあと一つだな」
「ああ」
 龍麻の重い返事に、京一は別の友人に向けて肩をすくめてみせた。
「なんだよシケた顔しやがって。
あとは雷角の野郎から手に入れた黄色の珠を目黄不動に納めりゃ全て解決……そうだろ?」
「だといいんだがな」
 龍麻の代わりに答えた醍醐の返事も、重く短い。
彼のみならず、龍麻や葵までもが似たような表情をしていて、京一は殊更に声を張り上げた。
「相変わらず心配性だな。龍山ジジイが言ってたじゃねェか。
鬼道衆を斃して珠を封印すりゃいいってよ」
「ほんっとお気楽だね。まだ鬼道衆は全滅したワケじゃないし、九角ってヤツがまだいるだろッ」
 小蒔に痛いところを突かれて京一は黙ってしまう。
彼女の言う通り、鬼道衆の一員である雷角や水角は倒してきた龍麻達だが、
彼らを束ねる首魁である九角はまだ姿を見せさえしていない。
彼を倒してこそ戦いが終わるはずで、それまでは片時たりとも油断してはならないのだ。
 重苦しい空気を振り払うように、醍醐が首を振る。
「まぁ、今はとにかく俺達にできることをやっていこう。
差し当たっては京一の言う通り、最後の珠を目黄不動に納めないとな」
 できれば今日中に目黄不動にも行ってしまいところではあるが、
もう秋も本格的な時期に入りつつあるこの季節は、つるべ落としとは良く言ったもので、
夕方があっという間に夜になってしまう。
今から江戸川区まで行くのは、諦めた方が良さそうだった。
「面倒くせぇな、江戸川まで行くのかよ。俺の青春が……」
 このところすっかり青春から縁遠くなっている京一がぼやく。
彼の求める青春とはある方向おねェちゃんに著しく傾斜しているのはこの場にいる全員が知るところで、
どうでもいい愁嘆に同調する気など毛頭ない小蒔と醍醐は、冷たく吹く秋風を捕まえ、
京一に向ける自分達の視線を乗せて放った。
「なッ、なんだお前らッ、若人が色恋を求めて何が悪いッてんだ」
「京一の色恋なんて江戸川どころか世界の果てまで行ったって見つからないよーだ。ねッ、醍醐クン」
「うむ、そうだな」
「即答してんじゃねェッ!! 色恋のイの字も知りゃしねェくせしやがって」
 頭に血を上らせた京一が小蒔に掴みかかるが、小蒔はひらりと身を躱して醍醐の後ろに隠れてしまう。
そびえ立つ醍醐越しに、とどめとばかりに舌を出した小蒔は、
京一などよりよほど大切な友人である葵の表情が優れないことに気づいた。
「ね、葵……大丈夫? 元気ないみたいだけど」
「え、ええ、大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」
「ううん、謝られるようなコトじゃないけどさ。もし調子悪いんなら、遠慮せずに言ってよ」
「そうするわ」
 そう答えたものの、葵はそれ以上話題を続けようとはせず、小蒔も深く立ち入ることはできなかった。
 だが、小蒔がもう一歩踏みこんだとしても、葵が胸の内を打ち明けることは決してなかっただろう。
 京一も醍醐も龍麻も、そして小蒔も少なからず怪我を負い、時には死の可能性すらある鬼道衆との戦い。
その原因が春に転校してきた龍麻ではなく、葵にこそあるのだと、どうして告白できようか。
小蒔は間違いなく葵のせいではないと言ってくれるだろうし、他の三人も葵の責任を追及などしないだろう。
それでも、自分のせいで小蒔が傷つくなど耐えられるものではなかった。
 葵が口を閉ざしたことで、気まずい沈黙が流れる。
ちょうどその時、この季節にしては冷たい風が吹き、五人の中で唯一腕を出している男が寒そうに腕をさすった。
「まッ、寒くなってきたことだし、今日は帰ろうぜ」
「京一はいつまでそんなカッコしてるの?」
「うるせェな、短ランがどっかいっちまってるんだよ」
「えッ、あんなのどっかいっちゃうモンなの!?」
 心の底から驚く小蒔に龍麻達は笑い、一人憮然とする京一と共に駅へと歩き始めた。

 新宿駅に着いたのは、ちょうど会社帰りのサラリーマンが増え始める時間であり、
龍麻達はどうにか話ができる場所に辿りつくまでに散々人の波に揉まれなければならなかった。
 頭髪を乱れさせた京一が、自分より酷い頭の龍麻に話しかける。
「明日は江戸川か……そういや江戸川つったらあの外人、なんだっけ、ほれ、HAHAHAって笑う奴」
「アランか」
「そう、そいつだ。あいつどうしてんだろうな。緋勇、なんか知ってるか」
「いや」
 氣を弾丸として発射する霊銃使いのアラン・蔵人。
数奇な縁から龍麻は彼と共闘し、彼の村を滅ぼした仇となる盲目者を斃した。
その後、一応連絡先は交換したものの、他者をなるべく巻きこみたくないという龍麻の意向により、
未だ連絡はとっていなかった。
「アランクンか……うるさかったけど、結構面白かったよね」
「あれが面白いって、どういう感性してんだお前は」
「えー、確かにちょっと葵にはしつこかったけどさ……」
 どうやら京一は本当にアランが嫌いらしく、まだ話題を続けたいような小蒔を無視して龍麻の肩を叩いた。
「止め止めッ、男の話をするヤツなんざ放っといて飯でも食ってこうぜ」
「あッ、ずるいぞ京一ッ、ボクも行く」
 ほとんどの場合に天秤が傾く、食という名の重りを持っている小蒔は、迷うことなく新たな話題に飛び乗った。
何しろ龍麻と食べに行くとなれば、食事代を気にしなくて良いのだ。
育ち盛りの小蒔にとって、逃すわけにはいかない機会だった。
 小蒔に笑って頷いた龍麻が醍醐に訊ね、さらにもう一人にも訊ねようとすると、その前に葵が申し訳なさそうに言った。
「あの、ごめんなさい、私……今日は家族と一緒に外でご飯を食べる約束なの」
「そっか……」
「それじゃ、皆は楽しんできてね」
 約束があるなら仕方ない。
残念さを声に出さないように気をつけて言った小蒔は、葵の顔色がまだすぐれないのに気づいた。
とはいえあまり何度も心配を口に出すと、余計に葵に気を使わせてしまう。
帰ろうとする葵に中途半端に肩の高さまで手を挙げ、振ろうとした小蒔は、
名案を思いついて龍麻に眼差しを向けた。
「あ、うん、バイバイ……そうだ緋勇クン、葵送ってってあげなよ。ボク達お店探しとくから」
「えッ!? わ、悪いわ、ここからなら一人で帰れるから大丈夫よ」
 親友の、悪意のないが迷惑なおせっかいに、龍麻よりも先に葵が反応した。
龍麻と今二人きりになるのは、どうしても避けたかったのだ。
 しかし真剣な表情で小蒔を見た龍麻は、葵の望まない返事をした。
「そうだな、その方がいいだろう。行こう、美里」
 朝の通学途中に教師のマリア共々拐われてしまった葵だから、
それ以上龍麻と小蒔に反対することはできなかった。
「じゃ、後でな。三十分以上遅れたらトッピング全部乗せになるから覚悟しとけよ」
「三十分はキツくねえか」
 ぼやく龍麻に優位を確信したのか、京一の口調はいかにも軽やかだ。
「お前が美里にヘンなコトしねえためにだよ。んじゃなッ」
「後でね、緋勇クンッ」
「美里のことを頼んだぞ」
 醍醐も不公平な賭けを咎めようとはせず、小蒔に至っては良い提案をしたとばかりに京一の腰を軽く叩く。
 よってたかって外堀を埋められてしまい、葵は龍麻と帰らざるを得なくなってしまったのだった。
 賑やかに去っていく三人を見送ってから、龍麻に促されて葵は彼らとは反対方向に歩きだす。
しばらく龍麻は無言だったが、人通りの少ない路地に入ると話しかけてきた。
「今日は何か祝い事なのか? 誰かの誕生日とか」
「そうじゃないけれど、マリィの手続きが一段落したから、そういう意味も少しはあるかもしれないわね」
 複雑な事情を抱えたマリィを養子とするには、ひとかたならぬ苦労と覚悟が要るだろうに、
娘からマリィについて告げられた葵の両親は、悩むどころか喜んで彼女を受けいれ、
煩雑な手続きの数々を葵も驚く手際の良さで処理していったのだ。
「ああ……それは良かった」
 嬉しそうに応じてから、龍麻は腕を組んだ。
「俺も勢いでマリィを引き取るなんて言っちまったが、法的な手続きとかは全然考えてなかったからな」
「私も話だけ聞いたのだけれど、とても大変そうだったわ」
「美里のご両親には感謝しねえとな」
 マリィを親身に案じている龍麻は微笑ましく、葵はいくらか緊張を解く。
まったく、こうして葵と関係のないことを話すだけならば、龍麻は頼れる知人なのだ。
だが、この初対面の人間であってもさほど時間がかからず打ち解けられる、
人好きのする男は、葵に対してのみ悪魔ともいえるほどの卑劣漢に変貌する。
すんでのところで貞操だけは奪われずにいるが、常に警戒を怠ってはならないのだ。
 龍麻の半歩後ろから、葵は彼の横顔を伺う。
暗くて良くは見えない表情には、一体何が浮かんでいるのか――そして、その皮膚の奥には。
嫌悪しながらも龍麻のことを考えざるを得ない状況に、葵は小さく息を吐く。
開いた唇を閉じたとき、龍麻の足が急に止まった。
何か良からぬことをするつもりではないかと警戒する葵をよそに、龍麻はじっと暗がりを見ている。
「どうしたの?」
 疑問を投げかける葵に答えたのは龍麻ではなく、鬼の面を被り、時代錯誤な装束を着た集団だった。
怯えて龍麻の後ろに隠れる葵に、先頭の人物が静かに告げる。
「緋勇龍麻と美里葵に相違ないな。その命……我ら鬼道衆が貰い受ける」
 人数は五人。
衣装だけでなく台詞回しも時代錯誤だったが、彼らがふざけてなどいないのは、
葵ですら感じ取った殺気からも明らかだった。
五人は全く同じ動きで腰を落とし、武器を構える。
制服のボタンを外しながら葵の前に出た龍麻が、葵に脱いだ制服を後ろ手に渡した。
「持っててくれ……買い直さずに済むなら、その方がいいに決まってるからな」
 冗談だったのか、顔の左側を葵に向けて龍麻は小さく笑う。
極小の隙だが暗殺集団である鬼道衆が見逃すはずがなく、一斉に飛びかかってきた。
「緋勇くんッ」
 思わず叫んだ葵が見たのは、苦無に串刺しにされた龍麻ではなく、
旋風のように位置を変え、鬼道衆の一人に拳を打ち込む彼だった。
新宿区とはいっても路地を入れば街灯は一気に少なくなり、
上着を脱いでシャツで戦う龍麻の白い輪郭はまだしも、
闇に紛れることを目的とした忍び装束はかなり見づらくなっている。
そんな状況下で時折淡い光が浮かぶのは、龍麻が拳に氣を乗せて放っているからだ。
鬼道衆は龍麻を囲んで攻撃しようとするが、龍麻は先手を仕掛け、
新たな輝きが生まれると、小さな呻き声と倒れこむ音が葵の聴覚を刺激した。
 何ら有効打を与えられないまま二人を失った鬼道衆は、作戦を変更する。
三人で龍麻を囲んで同じように仕掛けると見せかけ、一人が葵を狙ったのだ。
 彼らの意図に気づいた龍麻は葵を助けようとするが、鬼道衆が立ちはだかる。
背後にも一人が回りこみ、一人を犠牲にして二人で勝利を得ようという捨て身だった。
 挟まれた龍麻だが、突進の速度は緩めない。
前方の敵に正面から突っこみ、相手の攻撃を躱さずに拳を放った。
腕と背中に激しい痛みが走る。
 身体に深々と突き刺さった苦無には目もくれず、正面の下忍を氣による一撃で昏倒させた龍麻は、
今まさに葵と彼女に襲いかかろうとしている下忍との間に身体を割りこませた。
「……ッ!」
 龍麻の身体に三本目の苦無が突き刺さり、空気が帯電する。
よろけ、倒れそうになるところを踏みとどまった龍麻は、自らの呼吸で帯電した空気を打ち破ると、
生じた一瞬の隙を衝いて下忍の腹を氣を溜めた拳で打った。
さらに間髪入れず、走り寄ってくる最後の一人である下忍の攻撃を、
今倒した下忍の身体を使って防ぎ、死角からの一撃で打ち倒した。
 静寂が再び訪れる。
倒れた五人の鬼道衆が動かないことを確かめた龍麻は、刺さった二本の苦無を無造作に引き抜いた。
思ったよりも深く刺さっていた苦無に、痛みが再び炸裂する。
乱れる呼吸を意地で整え、背中に刺さる残りの一本も抜こうとするが、わずかに手が届かない。
一度息をつき、姿勢を変えてどうにか抜き終えると、大きくよろけ、遂には膝をついてしまった。
「緋勇君っ……!」
 さすがに見ていられず、葵は癒やしの『力』を使おうとする。
それを押しとどめたのは、他ならぬ龍麻だった。
「俺は……いい」
「でも」
「これから食事に行くんだろう? 血なんか付けていったら説明が大変だぞ」
 そんなことを気にしていられるほど軽い怪我ではないのは明らかで、なお詰め寄ろうとする葵から、
制服の上着を受け取った龍麻は何事もないのだと誇示するように肩にかけると、自分から距離を置いた。
「お前は怪我はしていないよな?」
「え……ええ」
「時間に遅れるだろう。自分で治すから、お前は行けよ」
「でも」
「大丈夫だ」
 重ねて強く言われれば、それ以上はどうしようもない。
血なまぐさい場を離れたいという願望に後押しもされ、葵はそそくさと立ち去った。
「そ、それじゃ、私行くわね。護ってくれてありがとう」
「ああ、また明日な」
 駆けていく葵の足音が聞こえなくなってから、龍麻はよろよろと歩き始める。
暗闇へと去っていく彼の後ろには、赤色の染みが転々と続いていた。

 翌朝、義妹のマリィと一緒に家を出た葵が最初に出会ったのは、
幼い頃から知っている近所の老人ではなく、数ヶ月前に知りあったばかりの龍麻だった。
「オハヨウ、タツマ」
「お早う、マリィ」
 親しげに挨拶を交わす二人に、やや消極的に葵も混ざる。
「イイナ、マリィもタツマとアオイオネエチャンと一緒に学校行きたい」
 昨日の一件を知らないとはいえ、無邪気に龍麻を歓迎するマリィの顔がふと曇った。
「タツマ、元気ナイ」
 義妹の指摘に初めて葵は龍麻の顔色が優れないことに気づいた。
昨日からずっとこんな顔色だったのだろうか。
葵の心配をよそに、龍麻は葵の義妹となった異国の少女に片目をつぶってみせた。
「せっかくマリィに会えたのに、すぐにバイバイしないといけないからさ」
「マリィも寂シイ」
 年端もいかない少女に対してさえ軽口を叩く龍麻と、
色恋ではないとしても嬉しそうなマリィに、葵はわずかながら苛立ちを覚えた。
「そうだな、今度家に遊びに来な。約束してからまだ一回も来てないだろ」
「……ウンッ!」
 いよいよ喜色満面の義妹に、葵はたまりかねて口を挟んだ。
「ほら、そろそろ戻らないとお母さんが呼んでいるわよ」
 名残り惜しそうにはしたものの、マリィは素直に言うことを聞き、二人に手を振って家へと戻っていった。
 マリィの姿が見えなくなると二人も真神に向かって歩き始める。
「随分明るくなったな」
「そうね、家に来たばかりの時は少し戸惑っていたけれど、
今ではすっかり馴染んで、両親も喜んでいるわ」
「俺が引き取ったんじゃ、ああはならなかっただろうしな。良かったよ」
 葵は横目で龍麻の真意を伺ったが、言葉以上の意味は無いようだ。
どう応じれば良いか、葵が言葉を選んでいると、不意に龍麻の頭が揺れた。
倒れはしなかったものの、明らかに普通ではない。
「やっぱり、どこか悪いんじゃ」
 葵が訊ねると、マリィの時とは異なり、龍麻は今度はあっさり頷いた。
「昨日の背中に受けた傷が、手の届かない場所だった。悪いが学校に着いたら治してくれないか」
 葵はほんのわずかでも龍麻と登校したくないと思った自分を恥じた。
龍麻は自分を護ってくれたばかりか、怪我を負い、
その怪我を放置してまで葵の日常を脅かすまいとしてくれたというのに。
マリィにも心配をかけまいとわざと軽口を叩いたのだろう。 
彼の度量の大きさに葵は感じ入るのだった。
 教室に入った葵と龍麻は、鞄を置くとすぐに校舎の人目につかない所に向かった。
まだ登校している生徒も多くないとはいえ、見られて良いものでもない。
階段の陰で龍麻は上着を脱いで後ろを向いた。
葵が背中に触れるとシャツ越しでも肌が荒れているのが判る。
葵が意識を集中させて『力』を使うと、龍麻はすぐに調子を取り戻したようだった。
「助かった」
「あ、あの」
 すぐに上着を着ようとする龍麻に、葵は迷った末にではあったが声をかけた。
「どうした」
「他の怪我をしたところも、一応診た方が良いと思うの」
 龍麻は一瞬考える素振りを見せただけですぐに頷いた。
「そうだな、頼む」
 他に傷を受けたのは左腕と右の脇腹だという。
シャツの上から触れてみても背中のような怪我はなかったが、念の為に葵は『力』を用いた。
「身体が軽くなったような気がするな。ありがとう」
「ううん、私の方こそ」
 穏やかに応じる葵の前で、龍麻が顔をしかめる。
まだ全快していないのかという葵の心配は、最悪の形で裏切られた。
「お前の『力』は少し強すぎるみたいだな」
 龍麻の発言の意味がすぐには解らず、葵は困惑する。
するとにやりと笑った龍麻は、いきなり葵の手を掴み、自分の股間に押しつけた。
「……!! い、嫌っ!」
 葵が思わず叫ぶと、意外にも龍麻はすぐに手を解放した。
「言っただろう……『力』を悪用するのは嫌だってな」
 どうやら状態を確認させたかっただけらしく、葵にもその意味はすぐに解った。
 葵や龍麻が有する癒やしの『力』は、かなりの傷でも治してしまう強力なものだが、
過剰に『力』を使ったり注がれたりすると肉体の活性化が行き過ぎ、敏感になってしまうのだ。
興奮は一時的なものでいずれ収まるとはいっても、特に若く健康的な肉体で一度生じた欲望を制御するのは難しい。
 『力』の加減を間違えて龍麻の性欲を惹起してしまった葵にも責任の一端はあるとしても、
いきなり股間を触らせる龍麻も充分に非礼であり、葵は怒るべきかどうかとっさに判断しかねた。
すると、龍麻が再び笑う。
「お前が鎮めてくれりゃ助かるが、その気はなさそうだな。
いいから先に戻ってくれ、俺は屋上で冷ましてから戻る」
 もはや怒る余裕もなく、葵は駆け足でこの場を逃げだした。
 廊下を走り、階段を駆け下りた葵は、教室に入る前に洗面所に寄って呼吸を整えた。
小走りで戻ってきたことよりも、龍麻に受けた恥辱の方が心身に負担をかけている。
手を念入りに洗い、頬が赤くなっていないことを鏡で確かめた。
 龍麻は一体何を考えているのか、まるで分からない。
他人の好感を拒むかのように善意と悪意を気紛れに表出させる彼は、
他者が戸惑い、怒るのを楽しんでいるかのようにさえ見える。
関わらなくて良いのなら極力そうしたいところだが、
鬼道衆が狙っているのが葵当人であるのなら、彼の『力』は必要だった。
いくつもの状況が、葵にかつてない感情――苛立ちを芽生えさせていた。
 できれば顔を洗いたかったが、そういうわけにもいかず、
深呼吸と黙想でできるだけ平静を取り戻してから葵は教室に戻った。
すでに小蒔と醍醐が登校していて、何事か話している。
二人の仲の良さを羨みながら葵が自分の席に向かうと、すぐに小蒔か気づいて手を上げた。
「おはよッ」
「おはよう、小蒔、それに醍醐君も」
 葵が席につくと、小蒔が前の席に陣取る。
まだ教室に生徒は十人も来ていなかったが、小蒔は声を潜めて話しかけてきた。
「昨日ボク達鬼道衆に襲われたんだ」
「えッ、小蒔達も!?」
 驚く葵に醍醐が重々しく頷き、小蒔は彼を真似るように腕を組んだ。
「やっぱり、葵達もなんだ。見たところ大丈夫そうだけど、怪我とかしてない?」
「緋勇君が護ってくれたから。小蒔達はどうだったの?」
「うん。ボク達の方はほら、京一と醍醐クンだからなんともなかったんだけどね。
なんか鬼道衆が気の毒になっちゃうくらいあっという間に倒しちゃったし」
 龍麻が怪我をしたことを、葵は言いだしにくくなってしまった。
元はと言えば自分が単独行動をしようとしたのが良くないのだ。
皆も龍麻も決して指摘はしないだろうが、固まって行動していれば龍麻は怪我をしなかったかもしれない。
そして今回は治せたが、怪我は致命傷となる可能性もあるのだ。
「そうか、そっちも襲われたのか。とにかく無事で良かった」
「あッ、緋勇クン、おはよ」
「おはよう」
 いつのまにか戻ってきた龍麻が話に加わっている。
先程の出来事などなかったかのように振る舞っている龍麻の顔を、葵は気恥ずかしくて直視できなかった。
「桜井が言ってくれなかったら、美里を一人で帰らせていた。良かったよ」
「ううん、ボクの方こそ葵を護ってくれてありがと。
それにしても、あんな風にいきなり襲ってくるなんて今までなかったよね」
 しかめ面の小蒔に応じたのは龍麻ではなく、ようやく登校してきた京一だった。
「呑気なヤツだな」
「あ、京一……何が呑気なのさ」
 頬を膨らませる小蒔に、京一は肩をすくめて答える。
「あの後よ、家に帰るまでに二回、襲ってきやがった」
「えッ……?」
「家に着いてからもしばらく辺りを彷徨いてやがった。
下手に気を抜くと寝首を掻かれちまいそうだ。お前はどうだった?」
「襲われはしなかったが、気配はあったな」
「チッ、やっぱりか」
 明らかな人の気配は葵と別れてからもずっとつきまとい、家に帰ってもそれは消えなかった。
早くに電気を消し、闇の中でしばらく様子を窺ってみたが、
どうやらこれ以上の人的損耗は避けるつもりらしく、何もしてこなかったので肚を決めて寝た。
そう龍麻が話すと、うそ寒そうに小蒔が両肩を抱いた。
「うそ……全然気がつかなかったよ」
 慰めるように醍醐が応じる。
「無理もないさ。奴ら、相当巧妙に気配を消している。
姿は見えんが、俺も昨日から尾けられているようだ」
「ちっとばかし厄介だな……なりふり構わずに来られると、こっちも防ぎようがなくなる」
 特に自分達は良いが、小蒔と美里に関しては。
言外にそう言った京一に、龍麻と醍醐は大きく頷いていた。
「とにかく、摩尼をさっさと返しちまおうぜ。そうすりゃ奴らも何か仕掛けてくるだろうし、
こっちも五人固まってりゃ対策が取りやすいってもんだ」
「京一の言うとおりだな。桜井と美里も、辛いかもしれんが辛抱してくれ」
 醍醐が言うと、小蒔と葵は顔を見合わせて頷いた。
「うんッ、ここまで来たんだから何が起こるか、最後まで見届けないとねッ。
大丈夫、みんな一緒なら、どんなヤツが来たって勝てるよ」
 無邪気とも取れる小蒔の態度に、葵は不安が表に出ないよう抑えつけねばならない。
勝つためには戦いが必要で、自分達と鬼道衆が戦う理由は葵にあるかもしれないのだ。
もしも自分のせいで近しい人が喪われるようなことにでもなったら。
深く葵の心を蝕んだその想像は、予鈴がなっても消え去ることがなかった。



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