<<話選択へ
<<前のページへ
(6/6ページ)
龍麻と葵の関係は、周囲が思っているよりはずっと深刻だった。
何しろ葵は初対面の龍麻に襲われ、あろうことか学校で貞操を喪うところだったのだ。
その後も性的な嫌がらせを受け、更には葵の持つ癒しの『力』を利用するために戦いに駆りだされている。
幾度かは彼に危機を救われているとはいえ、女性として彼に好意を持つのは極めて難しいはずだった。
その葵が、龍麻と二人きりになっている。
龍麻の家に入るまで、葵は無言だった。
タクシーから降りると羽織っている龍麻の制服をしっかりと握りしめ、うつむいて歩く。
龍麻も話しかけてはこず、手早く鍵を開けると葵を招き入れた。
居間に通された葵は、部屋の中央に立つ。
龍麻が座るよう促したが、黙ったまま動かない。
「何か飲むか」
「……」
再度の提案も無視された龍麻は気にした風もなく、台所に向かって一気に水を飲み干すと、
新たなコップに水を注いでテーブルに置いた。
「さてと、まずは制服を一着注文しねえといけねえな。
服屋の親父、俺のことをすっかり上得意として見てやがって、俺だと判るなり猫なで声になりやがる」
軽口を叩いて電話機に向かった龍麻が覚えてしまった電話番号を押そうとすると、背中に軽い衝撃を感じた。
わずかに背を反らせ、同時に傾げた首で葵を見やる。
葵は龍麻を見ていなかった。
シャツを掴む己の手を見つめたまま、意思を絞りだそうとするかのように身体を震わせ、
それが手を通して彼に伝わる前に口を開いた。
「……緋勇君、私……わかったの」
葵の囁きが部屋に響く。
無言で受話器を戻した龍麻が、静かに葵の方を向いた。
二人の視線が真っ向から重なる。
龍麻の黒い瞳は、いささかも揺るぐことなく葵を見ていた。
「緋勇君の言う通りだったわ。私は……私は、緋勇君に……」
覚悟は定まっていても、口にするのはためらいがあった。
あるいは、それが最後の防波堤なのかもしれなかった。
龍麻が防波堤を乗り越えてくる。
壊すでもなく、勢いをつけてでもなく、防波堤をなぞるように静かに。
龍麻の手が手首ではなく腰に回された時、葵は抗わず彼に寄り添った。
龍麻を受け入れるという告白を終えて緊張が緩んだからか、葵の全身から力が抜ける。
けれども少女の肢体が床に触れることはなかった。
「あ……」
葵が気づいた時、身体は龍麻の腕の中にあった。
誰にも許したことのない近さに怯え、小さく喘ぐ。
だが同時に、自分の体重が喪失したかのような不思議な昂揚をも感じていた。
肩から龍麻の制服が落ちる。
彼が落としたのか、それとも自分で脱いだのか――
判然としないまま、葵は龍麻に包まれていた。
布団を敷いた龍麻が服を脱ぎはじめる。
今更羞恥を覚えて慌てて布団に入った葵は、一人用の布団のどこに居ればよいか、
彼女らしくもなく混乱していた。
友人達のその手の話にもう少し耳を傾けておけば良かったと後悔し、
親友の小蒔ともそんな話は俎上に上ったこともなかったと後悔を積み重ねる。
埒もないことを考えるのは、明らかに現実逃避の一種だったが、
龍麻が布団に入ってきた音で、葵は容赦なく現実に引き戻された。
「布団は二セット用意しておくべきだったな」
至近で顔を合わせた龍麻の第一声が冗談なのかどうか、葵には判断がつかなかった。
龍麻の声は普段どおりで、薄暗い部屋では表情も見えなかったからだ。
どう答えてよいか分からない葵が沈黙していると、龍麻が指を絡めてくる。
彼の体温は幾らか緊張をほぐし、葵は自分から話題をふった
「あの人に……九角さんに服を斬られて裸にされた時、手首を掴まれたの。
でも、緋勇君の時とは違って、ただ冷たくて……怖いだけだったわ」
九角の瞳にあったのは、強い欲望と際限のない怒り。
それは見る者を灼かずにおかない、紅蓮の炎であったのに。
葵は顔を上げ、龍麻の瞳を見る。
あるのは暗黒――宇宙の始原のような無だ。
その奥に一体何があるのか、想像もつかない。
葵はこれまで、その瞳に呑まれるのを怖れていた。
だがそれは龍麻の怖ろしさではなく、自分自身がどう変質してしまうかという怖れだったのだ。
そのことを、九角天童との邂逅で葵は知った。
龍麻には何も告げず、自身の裡に怖れを封じこめてしまうこともできただろう。
こんな変質などしても嬉しくはないし、まして他人に知られたくなど絶対にない。
しかし今、葵の心は冷えていた。
九角天童に奥底まで冷やされた心は、温もりを欲していた。
たとえ表層的なものでも、たとえ偽りのものだとしても。
「実のところ、俺は少し腹が立っている」
口唇が触れる寸前、龍麻が告げた。
「あれだけ俺に従うのを嫌がっていたくせに、九角のところへはあっさり行った」
それは子供じみた嫉妬に聞こえたけれども、葵は笑わなかった。
「それは……九角さんの狙いは私だと思ったから」
「どんな理由があるにせよ、残された俺達がお前を放っておくわけがない。それくらい想像がつくだろう?」
「……」
龍麻の言う通り、京一に醍醐、それに小蒔は葵を取り戻そうと万難を排して九角の元にやってきたに違いない。
落ち着いて考えれば想像できただろうが、自分こそが仲間を危険に晒していたという衝撃は、
冷静な思考力を奪ってしまっていたようだった。
軽率な判断を悔いる葵の、頬に龍麻の手が触れる。
その手は怒っているわけでも、慰めようともしていない。
ただ触れただけ――寝室で男が女を宥めようとしているにすぎなかった。
あるいは、キスの前ぶれ。
だがその温かさは、真実だった。
自分の吐息で葵は我に返った。
唇を合わせただけで、それほど深く没頭したことに赤面する。
そしてこれが龍麻との初めてのキスではないことを思いだし、さらに顔が熱くなった。
一度目で怒らなかったのだから、二度目で怒る筋はないとしても、
これではあまりにも――
葵の思考などお構いなしに、龍麻が三度目のキスをする。
触れた唇の熱さは、まとまりのない思考などたやすく溶かしてしまうのに充分だったが、
突如もたらされた異様な刺激は、定まらない思考さえ粉々に砕いた。
「あ……ッ、んッ……!」
ぬらりとした何かが唇を這う。
未知の感触に葵が固まっていると、それはためらうことなく葵の口腔に入ってきた。
「うッ……ん……」
唇に続いて口内までもが侵食され、おぞましさが全身の毛穴から泥のように吹きでて、
龍麻の舌が自分のそれに触れた時、葵は半ば気を失いかけた。
「はッ……はッ、は……ッ……」
いっそ気を失っていたほうがましだったのかもしれない。
犬のように喘ぐ自分の声と、口の中を無尽に蠢く粘質の塊は、
葵をこれまで彼女が存在さえ知らなかった奈落へと堕としていった。
歯を、舌を、意識させられる。
本人も知らなかった美里葵を、龍麻にまさぐられてゆく。
乱暴にではないが、抵抗は許さない圧力で、口の中の隅々までを龍麻の舌は侵食していった。
服従を、強いられる。
逃げ場を失った舌を絡め取られた葵は、彼のしたいようにさせるしかなかった。
息がつまり、悲鳴さえも封じられる。
根源的な恐怖が脳をおびやかす中で、不思議な感覚が彼方の星のように瞬いた。
湯舟に浸かった直後に似た、全身の緊張が解れる心地よさ。
単なる快感ではない、もっと深いところからの法悦。
一瞬で消えてしまったそれを、名残惜しいと葵は思ってしまった。
離れていく漆黒の瞳を、葵は見つめる。
あれだけ蹂躪しておきながら、瞳の色は何も変わっていなかった。
優しくも、冷たくも、怒りも狂熱もない。
龍麻に揺るぎがないことが今の葵には嬉しく、呼吸を整える間、ずっと彼の瞳を見ていた。
「怖いか?」
「ううん、怖くはないわ……少し緊張はしているけれど」
葵の返答に龍麻は薄く笑い、彼女の手首を掴んだ。
ゆっくりと、状況を認識できるだけの時間を与えながら、頭上に掲げる。
途端にこの数カ月て馴染みとなった、細胞が燃えるような火照りが葵を灼きはじめた。
この情動をどう処理すれば良いのか決断できないまま、葵は左手で胸を隠す。
龍麻はその手を払いのけようとはせず、葵が意外に思っていると、龍麻が低く囁いた。
「お前、オナニーはどんな風にするんだ」
「……ッ!!」
恥知らずにも程がある、想定外の問いに葵は絶句する。
たまらず左手で龍麻を平手打ちしようとしたが、その前に龍麻に手首を掴まれてしまった。
そのまま左手も掲げられ、束ねられた両手首は龍麻の左手ひとつで固定されてしまう。
剥きだしの胸に視線を感じて、白い肌が恥辱に燃えた。
「は、離して……ッ!」
「質問に答えるのが先じゃないか?」
薄く笑った龍麻は、葵の痴情を煽るように右手で腕をなぞった。
肘から二の腕の内側を、脇にかけてゆっくりと。
恥ずかしさに身悶えした葵は、龍麻から逃れようともがくが、
体重をかけられるとどうしようもなかった。
「落ち着けよ」
冷静な声が葵を一層興奮させる。
自分から龍麻に従うと決めたにも関わらず、赤子のように暴れた。
葵を鎮めようとした龍麻は、それが不可能であることを悟ると、
辟易したように頭を振って彼女が落ちつくのを待った。
「そんなに性的嗜好をバラすのが嫌なのか?」
「あ……当たり前でしょうッ!」
「もうお前はこうやって最初に襲われた時のことを思いだしてオナニーするって白状してるのにか?」
「そ、それとこれとは……」
激情が急速にトーンダウンするのを葵は感じた。
まだ冷却が間にあわない耳朶に、低い声が流れこんでくる。
「皆に告白しろって言ってるわけじゃねえ」
例え誰であろうと告白できるものではない。
だが、龍麻の暗黒の瞳を見ると、あの闇の向こうからは、
いかなるものも出てくることはないのではないかという気もするのだ。
考えをまとめきれないまま葵が浅く二度呼吸すると、唇を龍麻に塞がれた。
「……っ……!」
頭の中に漂っていたもの全てが塗り変えられてしまう。
変化は永続的なものではなかったが、生命活動に必要なものも含まれていて、
唇を塞がれていたのはそう長くはない時間であったのに、
龍麻から解放された途端、葵は大きく息をつかねばならなかった。
呼吸の合間を縫うように、龍麻が囁く。
「言ってみろよ……どんな風に俺にされると想像してオナニーしてるのかを」
オナニーという聞き間違いようのない卑猥な語句が耳朶をなぶる。
それが頭に到達したとき、汚らわしいという考えが浮かんだが、同時に、
夜毎慰める自分の恥態も浮かんでいた。
口外するべきではないことなのに、龍麻にどう言えば上手く伝わるか、などと考えてしまう。
頭を振って邪な思考を追い出そうとする葵を邪魔するのは、龍麻の愛撫だった。
脇腹から臍へ、そこから上に戻って胸の中央を、梳くように撫でる。
鎖骨を滑り、首筋から耳の下を爪の甲で辿る男の指先が、葵には不愉快だった。
想像の龍麻は、そんな風には触らない。
想像と現実、あるいは精神と肉体の乖離が、葵を苛立たせる。
それを正すには、どうすれば――
答えはひとつしかなかった。
「あ、足は少しだけ開いて……」
「パジャマは着たままか? 下着は?」
「着たまま……よ……」
裸で自慰を告白させられるという異常が、鼓動を速くする。
身体が火照り、乾いた唇を舐めると、溜まっていた言葉がひとりでに口を衝いた。
「始めはゆっくり……強く触らないようにして……」
「こんな感じか?」
耳朶を弄んでいた龍麻の手が、股間に触れる。
ただ触れられただけで、目眩がするような快感がほとばしった。
「はぁ……っ……」
打てば響くように喘いでしまうのも、初めて男に、
それも恋愛関係にはない男に触られて感じてしまうのも、おかしいとは思わない。
そんなことを考える余裕もないほど、葵は龍麻の愛撫に溺れた。
これまで拒んでいたのが馬鹿らしく、これほどの快楽を知らなかったのが悔しく、
葵は潤んだ瞳で懺悔するように龍麻を見た。
「……」
龍麻は何も言わず、ただ手首を握る力をごく僅か強める。
「ああ……」
痛みはない。
あったのは、理解。
龍麻に従うという意味。
葵は足の指先に至るまで、それを理解した。
龍麻が触れている手首と股が、同じ熱を持つ。
後はどこまでも高まっていくだけだった。
龍麻の指が女に設けられた溝を往復する。
すでに豊かな蜜を湛えている秘密の渓谷は、自分で訪れる時とはまるで異なる悦びを絶えず葵にもたらしていた。
刺激は自分でする時よりも弱く、物足りないくらいだったが、
そんなことを言えるはずもなく、目を閉じてごまかした。
龍麻は追及してこない代わりに、愛撫を止めない。
ほどなく葵は龍麻の罠にかかってしまったことを悟った。
一定のリズムで繰り返される刺激は、いつまでも欲求を満たしてくれない。
くすぶる熾火は燃えあがるための風を必要としているのに吹かず、
自分で風を起こすこともできないのだ。
「あ……ぁ……」
もどかしい刺激に葵は腰を浮かせる。
精一杯の主張だったが、龍麻の愛撫に変化はなかった。
色のついた息を漏らしてしまうほど、更なる快楽を求めているというのに、
龍麻は揺らして赤子を寝かしつけるかのように快い、快いだけの愛撫しかしないのだ。
渇望に耐えかねて葵は目を開ける。
その途端龍麻が持つ暗黒が視界を覆った。
呑まれる――龍麻さえ居ない暗黒に。
欲望も快楽も、自分一人のものだ。
そう思った時、唇はひとりでに動いた。
「もっと……乱暴に……足を、押し開いて……」
イメージ通りに足が開かれる。
自慰をする時ではなく、自慰をする時に空想するとおりに。
ほとんど毎日寝る前に空想の中で葵の足を開くのは他の誰でもない、龍麻だった。
「指は挿れるのか?」
「クリ……クリトリス、だけで……あうッ……!」
円を描くように刺激し、時折強く押したり引っ掻いたりする。
求めるあらゆる動きが違うことなく再現されて、葵の意識と現実は混然としていった。
「何度も……何度も擦って……たまに、動きを変えて……っ」
気持ちいい。
たまらない。
漆黒の瞳に自分を沈めながら、葵は大きく開いた股をくねらせる。
逃れるように、求めるように、昂る心を隠さずに晒けだす。
「あ、ああッ……! う、ンッ……!」
喘ぎが大きくなりすぎて唇を噛む。
少しずつ、龍麻の愛撫が自慰と乖離していく――だが、それは望まぬ方向にではなく、無意識に欲していた方へだ。
激しさを増す手の動きに、身体が浅ましいほどに反応する。
「あ、あぁ、緋勇……君っ……!」
跳ね上げようとした右手が動かせないことに気づき、そして求める以上の快感がもたらされた時、
葵はあっけなく絶頂を迎えた。
「あ、ぁ……わた、し……?」
自慰を上回る快感の波に浚われ、茫洋とする葵の顔を、龍麻が覗きこむ。
「おい、大丈夫か?」
「え、ええ……」
「いつもこんな派手にイクのか?」
龍麻が心配する理由を知った葵は目を合わせられなかった。
「まあいいさ。これから判ることだろうしな」
押さえつけられた手首が、発車を告げるベルのように鳴る。
無意識に動いた指先が、何かを掴もうとしたことには気づかなかった。
足の間に龍麻が陣取る。
離れた位置から見下ろす男と目が合ってようやく、葵は手首が解放されていることに気づいた。
元より痛みはなかったが、自由になった右手には奇妙なしこりが残っていて、動かそうかどうか迷う。
結局そのままの姿勢を維持すると決めてシーツを掴むと、龍麻が面白そうに見下ろしていた。
「掴まれてないと落ち着かないか? 余程強い印象を受けたんだな」
「そう……なのかしら」
「『お前は俺に従いたがっている』とは言ったが、手首の話はお前から聞かされるまで知らなかったからな」
龍麻の言う通りかもしれない。
それまで異性と手を繋いだこともなかった葵にとって、
押し倒されて身体をまさぐられたというのはあまりに強烈な体験だった。
それが葵の性的嗜好を捻じ曲げてしまった可能性は大いにある。
ただ、普通は心的外傷になるくらいの出来事のはずなのに、
龍麻を嫌いはしてもついにはこうやって彼を受け入れるというのは、
あるいは彼と共にやって来た、尋常ならざる非日常が影響したのだろうか。
だが、奇妙な間のあいだに湧きおこったその疑問の答えを、
葵は知りたいとは思わなかった――少なくとも、今は。
「それで、次はどうするんだ?」
龍麻は物慣れぬ男として聞いているのではない。
女の望みを叶えるために聞いているのだ。
唇を湿らせて葵は答えた。
「胸を……揉んだり……」
晒けだした欲望は、間を置かずに叶えられる。
「んっ……」
一杯に広がった手が乳房全体を掴んだ。
彼の手を模した自分の手とは、大きさも力強さも違う。
もちろん快感も異なり、熱い掌の中で形を変える乳房と、
その最中に巧みに弄ばれる乳首がもたらす悦びは、自慰の際には押し殺せた声を漏らさせた。
「っ、ん……あ……」
心持ち胸を反らせて葵は喘ぐ。
乳房に沈む指の熱さが快い。
荒っぽい手つきは、正に葵の望んでいたものだ。
逃れたくても押さえつけられた両手はびくともしない。
股を割られ、なすすべもなく犯される。
「い、や……っ……」
掠れた悲鳴にも凌辱は止まらない。
止まるはずがない。
求めているのだから。
従っているのだから。
形が変わりそうなほどに乳房を揉みしだかれる葵の、いつしか息が上がっている。
何度か荒い呼気を吐きだすと、腹に何かが当たっていることに気がついた。
直接は見えないそれが、男性器であることを葵は瞬時に理解した。
勃起という興奮状態にあることも。
顎を引いて龍麻を見ると、手の拘束が解かれ、彼の上体が離れた。
仰ぎ見た黒い瞳はなお揺らいでおらず、九角のような冷たい怒りを孕んでもいない。
黒い双眸は、ただ葵を見据えているだけだった。
それなのに葵の肉体は、狂おしいほどに灼かれている。
初めての愛撫に蕩け、受け入れる準備を整えている。
保健室で襲われかけた春の日から数ヶ月、葵は己の変わりように慄きつつも、
もはや省みようとは思わなかった。
「挿れるぞ」
身勝手な宣言と裏腹に、龍麻のそれは葵に恐怖と痛みを与えなかった。
腹を押し拡げられている異物感はあるが、それがもたらしているのは若干の息苦しさと奇妙な昂揚だった。
「あの……?」
一般的な知識として初めては痛いと思っていた葵は、思わず何かを聞こうとしてしまった。
戸惑い気味の葵に、龍麻の口の端が全てを察したように吊りあがる。
「痛くねえんなら、それに越したことはねえ。それとも、痛い方が好きなのか?」
「ち、違うわ、そんなこと……ないわ」
自分も知らない何かを見透かされた気がして、葵は慌てた。
そして、望んでいない――少なくとも好きではない男に抱かれて処女を喪失したというのに、
当然持つべき恨みや憎しみといった負の感情がほとんどないことに、心情の整理がつけられなかった。
どう答えたら良いか判らないでいる葵の顔を、龍麻が覗きこむ。
黒い瞳は相変わらずどんな感情も浮かんでいないように見える。
しかし葵は、この瞳は深淵までも何もないのではなく、膨大すぎる感情が圧縮されているがために
容易には他人に窺い知ることができないのではと不意に思った。
それは知らないうちに虫に刺された箇所がいつの間にか腫れていることに気づいたような驚きをもたらしたが、
痒みを覚えるよりも先に、下腹に鈍い衝撃が訪れた。
「あッ……!」
動いている。
龍麻が、腹の中で。
初めての快感を葵は戸惑いもなく受け入れていた。
恐れも感激もなく、それが当然のように肉体に悦びが満ちていく。
龍麻の律動はかなりゆっくりとしたもので、葵が毎夜想像していたものとは違ったが、
男性器がもたらす快感もまた、想像とはかけ離れていた。
「あ、あぁ……は、うっ……ぅ、ん……っ」
肉茎が腹を抉る都度、声が漏れる。
およそ自分のものとも思えない甘い咽びが、幾重にも重なって部屋を満たす。
それらはひとつ生まれる都度、葵から快楽以外のものを消し去っていくのだ。
たとえ一時の逃避に過ぎず、後にはより深い悩みや後悔が戻ってくるのだとしても、
この強烈な悦びを手放すことはできなかった。
腹の横に、ギリシャの神殿の柱のようにそびえる龍麻の腕を夢中で掴む。
太く、硬く、血管が浮きでたそれは、身体の中にあるものを瞬間的に想起させた。
「う、んッ、はぁッ、緋勇……君ッ……」
龍麻から伝わる熱に浮かされてうわ言のように名前を呼ぶ。
返事はない――ただ胎の中で律動が繰り返されるのみだ。
だがその律動に、胎を満たし、肉体を満たす律動こそに葵は支配され、縋っていた。
「あ、う、うッ、んッ」
少しずつ早くなっていく律動に合わせて声も忙しくなっていく。
そして押し上げられていく感覚も、葵の中で徐々に膨れていた。
何処へ行くとも分からぬまま、葵は突かれる。
「ひ、緋勇君っ……わた、し……ッ……!」
訪れるものへの怯えで爪を立てんばかりに二本の腕を握りしめる。
すると、暗黒の双眸が葵を捕らえた。
「それがイクって感覚だ……覚えておけ」
「イ、ク……? あッ……!」
言葉と意味を結びつけるかのように、力強く龍麻が挿ってくる。
腹を裂かんばかりに、脳まで貫かんばかりに。
加速度的に膨れる快感に呼吸が追いつかず、助けを求めて龍麻を見た。
果ての見えない暗黒が、一切を呑む。
夜、部屋の灯りを消したときなどとは比較にならない、五感が喪失するような暗黒。
身体を満たしていた快感さえも消えた葵の中で、何かが動く。
熱く、激しいそれが、胎の深くに挿さった龍麻の男性器の脈動だと悟った瞬間、一気に快感が爆発した。
「あッ、あああッ……!」
龍麻の手首に爪を食いこませて葵は果てる。
処女とは思えぬほど腰をひくつかせ、花火のように髪を乱し、
自慰とは違う、身体の内側から炸裂する絶頂に肉体と精神を浚われた。
「あ……あぁ……」
閉じあわせる力さえ失った唇から、最後の色が漏れる。
それを吐きだし終えても、虚脱した肉体には、
もう消し去ることのできない悦びが染みついてしまったのだと痛感する葵だった。
「これで『力』も消えてくれればいいんだが」
ややまどろんでいた葵が、いつの間にか隣に寝ていた龍麻の呟きの意味を理解するまでには十秒ほど要した。
「緋勇君は……まだ終わらないと思うの?」
「お前の『力』は失くなっていないだろう?」
訊き返されて葵は軽く念じてみる。
掌に感じる『力』は、確かに何も変わっていなかった。
仮初めの充足感が引き、代わりに怖れが満ちていく。
かけられていたシーツを胸元で掴み、葵は声を震わせた。
「まだ……戦いは続くの?」
「それはわからねえな。九角が『力』の源って訳じゃなさそうだが」
全てが終わると思ったからこそ九角に降ったのに、無意味だったという龍麻の推測は、葵をひどく疲れさせた。
「お願い、緋勇君」
掠れた声を整えようともせず、葵は言った。
「貴方に従うから、小蒔を――皆を護って」
龍麻が何か言ったような気がしたが、急速に眠りに落ちていく葵の聴覚は、
その意味までも捉えることはできないまま、機能を一時停止させたのだった。
<<話選択へ
<<前のページへ