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葵の顔色が優れないのは、彼女自身に理由があるのではなかった。
隣には目下のところ彼女を悩ませる最大の要因である緋勇龍麻がいるが、
彼のせいで滑らかな額に皺が寄っているわけでも、今はなかった。
現在、午前八時三十分。
通常学校が始まるよりも早い時間であり、場所も彼女や龍麻が通う新宿区の真神學園ではない。
葵は今朝何度目かとなる左手首に嵌めた時計に目をやり、父から入学祝いにもらったそれに対してではないため息をついた。
「まだ来ないね」
時計を覗きこむ桜井小蒔の口調は完全に他人事で、清々しいほど無邪気な笑顔だ。
親友に怒るなど考えもしなかったが、笑顔を返す気にもなれず、葵は半ば独り言の口調で呟いた。
「家に電話してみようかしら」
「さすがに家は出てるでしょ。ま、まだ二十分あるから大丈夫でしょ」
小蒔の言う二十分とは集合時間ではなく、京都への新幹線が発車する時間を指している。
人員確認の点呼が今まさに始まったところであり、C組の責任者である葵は担任に報告しなければならなかった。
自身に責任が全くないことであっても、瑕疵を告げなければならない葵は憂鬱になる。
他の生徒は全員揃っており、来ていないのは蓬莱寺京一ただ一人だけだった。
「まさか修学旅行まで遅刻するとはな」
「ああ、俺も奴との付き合いは長いが、ここまで馬鹿だとは思わなかった」
小蒔と反対側の隣では龍麻と醍醐が、やはり他人事で論評している。
どちらかに対策を頼んでおくべきだったと後悔したものの、今更言っても詮無いことだ。
一縷の望みを託して遠方を見やった葵は、そこに大問題児の姿などないことに落胆する。
代わりに目に映ったのは、こちらに向かってくる担任の姿だった。
「おはよう、美里サン。全員揃っているかしら?」
鮮やかな赤いスーツに、それ以上に鮮やかな金色の髪と蒼氷色の瞳。
生徒のみならず通りすがりのサラリーマンの注目まで集めているマリア・アルカードは、
彼女の受け持つクラスの中でも最も信頼の置ける生徒である葵に、気さくに話しかけた。
「それが……その……」
優秀な教え子の歯切れの悪い返答に、マリアは事態を察する。
「まさか……蓬莱寺クンが……?」
大きなため息を吐こうとしたマリアは、自分の過ちのようにうなだれる葵を見て思いとどまった。
とはいえ、これが面倒な事態であることに変わりはない。
「置いてっちゃえばいいってセンセー、修学旅行に遅刻するヤツなんかさ」
小蒔の意見には迎合せず、マリアは安心させるように葵の肩に手を置いた。
「もう時間だから、とにかくホームに移動しましょう。
アナタは皆を連れて新幹線に乗りなさい。ワタシは彼を待ちます」
いくらか血色を失った顔で、それでも葵は頷き、彼女の務めを果たそうとクラスメートに指示を出した。
葵達が新幹線の席に座っても、まだ京一の姿はない。
クラス委員長としてだけではなく、修学旅行の班長としても責任を感じる葵は、気が気でなかった。
生真面目な葵の心配をよそに、小蒔はのんきに話しかける。
「ボク京都に行くの二回目なんだよね。前は中学の修学旅行で。醍醐クンは?」
「俺は初めてだな」
「そうなんだ。んじゃ楽しみだね」
「うむ……そうだな」
醍醐が相好を崩したのは、旅行よりもどちらかというと小蒔が見せた満面の笑みに反応したようだった。
小蒔は続いて龍麻にも訊く。
「緋勇クンは?」
「俺は二回……いや、三回目かな? 全部子供の頃だから、あまり覚えてないけどな」
「そういえば緋勇クンって出身はどこなの?」
それに対して龍麻が答えようとした時、三人の会話を聞き流しながら、小さな窓から外を注視していた葵が声を上げた。
「あっ」
彼女がそのような声を出すのは珍しく、何事かと横から覗きこんだ小蒔は、
友人と同じ驚きを、三割ほど声量を増して発した。
「あッ、京一とマリアせんせーだッ!」
龍麻と醍醐も顔を見合わせ、葵と小蒔の後ろから小さな窓を見る。
そこから見えるホームには、確かに京一と、少し遅れてマリアが走っていた。
「せんせー、早くッ!」
小蒔の声援はもちろん車外の二人には届いていないはずだが、二人は呼応したかのようにスピードを上げた。
そこにテレビドラマさながらに発車を告げるベルが鳴り響く。
いつのまにか葵達だけでなく、車両内の生徒全てが片側に寄って事の成り行きを見守り、囃し立てていた。
「ヒューッ、急げ京一ッ!」
「マリア先生、頑張ってッ!」
一丸となったクラスに応えるかのようにまず京一が新幹線に乗りこむ。
次いでマリアが乗ろうとしたが、ハイヒールでほぼ全力疾走してきた彼女は、
ホームから踏み切ろうと右足に力を込めた瞬間、バランスを崩してしまった。
見ていた生徒達から悲鳴が上がる。
だが、誰もが予想した一秒後の悲劇は訪れなかった。
自分の荷物を放り投げると同時に半回転した京一が、マリアの腕を掴むと力強く引き寄せたのだ。
マリアが教え子の腕に抱かれるのと同時に扉が閉まる。
さらに車内への扉が開き、京一とマリアを大喝采が迎えた。
「へへッ、役得ってモンだなこりゃ」
遅刻はどこへやら、クラスメートに手まで振って答える京一の呟きに、マリアは慌てて身体を離す。
だが、髪は乱れ、いつもの威厳も東京駅に置いてきてしまったような有様で、
しかも教師を救った英雄となりおおせた京一を叱ることなどできるはずもなく、
結局恥ずかしさを表に出さないまま、いさぎよく退場するしかないのだった。
「へへッ、ようッ」
一通り愛嬌を振りまいた京一が、当然のように龍麻達の席に座る。
最悪の事態は免れたものの、マリアの事後処理を思うと同情を禁じ得ない葵だった。
「ようッ、じゃないよ全く。マリアせんせー涙目だったよ」
葵の心境を代弁する小蒔の苦情にも、京一は堪えたようすもない。
「間に合ったんだからイイじゃねぇか。終わりよければ全て良しって言うだろ?」
「終わりじゃなくてこれから始まるんだろッ。京一なんか来なくてもイイけどさ、
マリアせんせーが来れなかったらクラス皆怒ってたよ」
「ああ、ウルセーな。お前こそ初っ端から怒ってて修学旅行が楽しくなると思ってんのかよ」
前提を無視してはいても正論ではあるので、小蒔は言い返せなかった。
名前の通りの桜色をした唇をへの字に曲げ、わざとらしく腕を組む。
もちろんその程度で恐れ入るような京一ではなく、修学旅行にまで持ってきている木刀を、
上の棚ではなく自らの傍らに立てかけると、さらに一同を呆れさせることを言った。
「ところでお前ら、何か食うモン持ってねェか? 急いだから朝メシ抜きでよ」
「……」
全員から白い目で見られてさすがに堪えたようで、
「ね、無えなら仕方ねェ、他所から調達してくるとすっか」
ことさら大きく声を張ると、まだ新横浜にも着いていないのに、席を立ってどこかへ行ってしまった。
「全くあいつは、少しは落ち着いていられんのか」
残された木刀を吹き飛ばしそうな醍醐の嘆息に、すかさず小蒔が応じた。
「ホントだよねッ。グループ行動の時が不安だよ」
醍醐の真似をして腕を組む小蒔に、車両内からお呼びがかかる。
「……えへへッ、ちょっと行ってくるね」
背のびして振り向き、声の主がお菓子を手にしているのを確認した小蒔は、
気まずそうな顔で席を立つと、宴会場のようになっている車内中央へと旅立っていった。
「やれやれ、皆ずいぶんと興奮しているな」
元番長の貫禄を見せる醍醐だが、その顔がなぜか血色が良くない。
龍麻が案じると、彼は頭を掻いて答えた。
「実は電車で長距離移動するのが苦手でな。すまんが眠らせてもらっていいか?」
「ああ、もちろん。京一と桜井は戻って来なさそうだから、こっちの席を全部使っちまえよ」
「いいのか? ……悪いな、そうさせてもらうとするよ」
葵が口を挟む間もなく龍麻が隣に移動してくる。
程なくして醍醐が寝息を立て始めると、六人がけの席で起きているのは龍麻と葵だけになっていた。
この状況は良くない――葵が危惧した直後、膝に龍麻の手が添えられた。
「……!! だ、駄目よ……こんなところで」
とっさに合わせた足にも動じることなく膝を撫で、割って入ろうとする手を止めようとするが、
ひとたび貼りついた掌は、吸盤のように離れなかった。
湧き起こる嫌悪と、もう一つ別の感情のうち、葵はもう一つのほうを封じ込める。
「お願い……お願いだから、ここでは止めて」
「あんまり騒ぐと醍醐が起きるぞ」
龍麻の声は大きくも鋭くもなかったが、葵の心身を縫いつけた。
動きの止まった葵の足を、龍麻の左手が滑る。
ゆっくりとした動きは、戦利品を堪能するものに他ならない。
葵は唇を噛んで恥辱に耐えるしかなかった。
修学旅行とあって生徒達ははしゃいでおり、
貸し切り車両でなければ顰蹙を一ダースは買っていたに違いないくらい車内は騒がしい。
それでも立ったままはしゃぐ生徒はさすがにおらず、
出発直後に幾人か席を移った他はほとんど葵達の横を通過する生徒はいなかった。
とはいえトイレに立つ生徒も皆無ではなく、人の気配を読み取れる龍麻は、
巧みに回避をするのだが、人影が通り過ぎるたびに葵は生きた心地がしなくなる。
誰かが呼んでくれればこの場を離れる理由にもできるのに、小蒔と違って友人が多くなく、
学級委員長でもあって若干煙たい存在でもある葵を招こうという級友もおらず、
京都までのおよそ二時間、耐えなければならないようだった。
龍麻の愛撫は微弱で、感じるというほどではない。
それでもくすぐったさはあるし、何より公共の場で異性と性的な行為に及んでいるという認識は、
生真面目な葵にとって容易に受け容れられるものではなかった。
せめてもの抵抗として、葵は膝を閉じて龍麻の手が深くに入ってくるのを防ごうと試みる。
モデルのようにつま先まで緊張を漲らせる葵に、龍麻は無理強いしてこなかった。
拍子抜けした葵だが、すぐに浅慮を思い知らされた。
パンストの上を往復しているだけの手が、無視できない存在感を示し始める。
『力』は使われていないのに、悪寒に似ているがこちらは昂揚を伴う感覚が、身体を蝕んでいく。
「……」
いつのまにか呼気が熱くなっている。
大きな音にならないよう、唇を薄く開けてゆっくりと吐きだすが、
まるで龍麻の施す摩擦が直接下腹に熱を溜めているかのように、
どれだけ呼吸を繰り返しても醒めることがない。
遅い、遅すぎるほどの愛撫が、かえって葵を支配していく。
「あッ、富士山が見えるッ!」
東京を出て小一時間が過ぎた頃のそんな声も、葵には届いていない。
断続的に行われた愛撫で、葵の身体は熾火のように芯まで火照らされていた。
固く閉じていた足もとうに崩れ、龍麻の掌は内腿まで潜りこんでいる。
柔らかな肉を崩すことなく、繊細とまでいえる手つきで撫でる手が、
スカートの内側へと入ってきても、自分の手を重ねるのがやっとで、払いのける気力はもうなかった。
ストッキングの繊維の凹凸を確かめるかのような指先が、腿のもっとも柔らかな部分をなぞる。
上から下へ、そして前後に、行きつ戻りつする愛撫を、葵は目を閉じて耐える。
だが、他のことを考えて気を紛らわせるにはすでに刺激は無視できないレベルに達しており、
どうしても指の動きを追ってしまうのだ。
一ミリ、あるいはもっと短い距離を、緩慢に進む指を、葵は思う。
目的地は決まっているというのに、なぜこんなに焦らすのか。
いっそ――そこまで思って葵は慌ててその先を打ち消す。
暗いトンネルの出口に待っているのは光ばかりではない。
嵐や吹雪かもしれないのだ。
葵は背筋を伸ばして気を持ち直し、龍麻の魔手から耐え抜こうと決意した。
聖者は悪魔の誘惑に打ち克つが、それは破れた者の多さをも意味する。
耐えるのみの聖者に対し、誘惑は星の数ほどもあるのだ。
新幹線は名古屋を過ぎ、あと三十分もすれば京都に着く。
ここまでずっと龍麻に触られ続けていた葵は、驚異的な忍耐力で良く耐えていたが、
それも限界に近づきつつあった。
上体を背もたれに預け、膝は揃えて曲げている。
だが、良く見れば膝は心持ち開いているし、ともすればずり落ちてしまいそうなほど、上体にも力がなかった。
かろうじて何事もないように見せている外見の内側では、重めのクリームのような火照りが充満していた。
下腹部を好き勝手に這い回る龍麻の指は、葵にほとんど何も考えられなくしている。
そのくせ刺激はあくまで微弱で、熱は溜まるばかりで解放することもできず、
不本意ながらもどかしさが募ってしまう葵だった。
少し――ほんの少しだけ腰を前に出せば、もっと強い快感が得られる。
ぼんやりする頭でそんなことも考えてしまい、
センターシームを執拗になぞる薬指に、龍麻に気取られないように腰をよじる。
これは劣情に屈したのではなく、不快な刺激から逃れているだけだと自分に言い訳をし、
あと少し我慢すればいいのだと白々しく考えてみても、
繊細ですらある愛撫に弱い所を責められると、彼の腕にしがみつきたくなってしまうのだ。
もう少しだけでいいから、刺激を――
口にはできない願いを、眼差しに乗せて葵が龍麻に伝えようとしたとき、
音もなく股をまさぐっていた手が、巻き戻るリールのように瞬時に股間を離れ、元の場所に帰っていった。
龍麻がそうした理由はすぐに判った。
小蒔が戻ってきたのだ。
葵は慌ててスカートの乱れを直し、座りなおした。
「いやー、ゴメンゴメン。話が盛り上がっちゃってさ」
悪びれない顔で謝った小蒔は、葵が答えるより早く語を継いだ。
「あれ? なんで並んで座ってんの?」
窮地に立たされた葵を救ったのは、隣に座っている男だった。
「醍醐が寝るスペースを確保しようとすると、三席分要るからな」
「あははッ、ホントだ。それでも窮屈そうだね、醍醐クン」
龍麻と反対側の葵の隣に座った小蒔が快活に笑う。
どうやらその説明で納得したようで、葵は安堵した。
ほどなく醍醐が目を覚まし、京一も戻ってくる。
皆降りる支度を始めたことで、葵の存在は良い意味で埋もれた。
だが、火照らされた肉体は未だくすぶっており、幾らかの恨めしさめいたものも抱いてしまうのだった。
京都に到着した真神學園の修学旅行生は、以後、班ごとに分かれての行動となる。
事前に班ごとに定めたテーマに沿って行動するわけで、実質的には自由行動と言ってよく、
時間までに旅館に着けば、後は制約らしいものもなかった。
「どこから回るんだっけ?」
「東寺からね」
「東寺って、五重の塔があるトコだっけ」
「ええ、そうよ」
小蒔と葵の会話に、京一が割りこむ。
「なんかベタな処だな。池田屋とか行かねェのかよ」
「へーッ、京一が歴史のコト知ってるなんて珍しいじゃない。何があった場所なの」
「何ッてお前、新選組が維新志士を襲った事件があったんだよ。なァ美里」
訊かれた葵だけでなく、周りにいる全員が同じ顔で京一を見た。
「なんだお前らッ、俺が歴史を知ってるのがそんなにおかしいのかッ!」
「おかしかないけどさ、ヘンだよね」
「同じじゃねェかッ!」
京一と小蒔の寸劇に、今度は三人が等しく笑った。
京一が池田屋事件を知っているのは、幕末の剣士集団である新選組が絡んでいるからだろう。
もう少し興味の範囲を拡げれば、赤点も回避できるだろうに――とも、
やはり三人がそれぞれ思ったことだった。
「でも、池田屋はもう取り壊されてないのよ」
「なにィッ! 本当かそりゃ」
「ええ、今は何のお店かはわからないけれど」
葵の知識を龍麻が引き取る。
「パチンコ屋だな、確か」
「なんてこった……仕方ねェ、新選組を偲んでパチンコを打つとするか」
「ダメに決まってるだろッ! ほら、さっさと東寺に行こうッ」
すでにクラスの他の班は移動を始めている。
龍麻達も話を止め、バス停に向かうのだった。
腿の裏側を何かが撫でる。
偶然かと思った刺激は、数秒の間を置いて繰り返され、その後も断続的に続いた。
市内をバスや電車で移動する際にも、龍麻は痴漢行為をしてきたのだ。
渋滞が激しくなかなか進まず、そして車内も混み合うバスは格好の場所であり、葵はいいように身体を触られ続けた。
龍麻の痴漢は狡猾だった。
新幹線の時のような、局部を触り続ける執拗さこそないものの、
葵が無視できない程度には尻や腿を触り、我慢できなくなる寸前には手を引いてしまう。
心では耐えられても、健康な肉体はそうはいかず、名刹を回り、古刹を巡るごとに、
葵は満たされない疼きに苛まれるのだった。
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