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同じ時間、龍麻達も入浴していた。
手早く身体を洗った龍麻は、手ぬぐいを頭に乗せて夜空など見上げている。
京都の中心部から外れたところにあるこの旅館は、交通の便の悪さと引き換えに、
風情を有しているらしく、小さな林に囲まれている露天風呂から月夜を仰げば、
まださほど人生に感傷などなくても、しんみりした気分にもなるというものだった。
「よう、緋勇」
自分を呼ぶ声に、龍麻は漂いかけていた意識を引き戻す。
見れば少し離れた隣に醍醐が居た。
改めて見る彼の肉体は見るからに頑強で、岩盤と呼ぶにふさわしい逞しさだ。
月と温泉という風情とは似つかわしくないほどだが、龍麻は月のことは一旦忘れることにした。
明らかに何か話したいことがある様子の醍醐に、あえて龍麻は話題を振らなかった。
醍醐は三十秒ほども渋面を続けた後、その巨躯から発せられるとは思えない、か細い声を出した、
「……桜井の、ことなんだがな」
それだけ言ってまた口をつぐんでしまう。
龍麻はそう気の短い方ではないが、この時は忍耐心を試されている気がした。
「……前に、桜井を救ってくれただろう。あの時の礼が言いたくてな。
本当はもっと早く言うつもりだったが、中々機会がなくてな」
具体的にどの件を指しているのか、醍醐は言わない。
だが龍麻には無論解った。
醍醐を目の上のこぶとしていた佐久間猪三が、卑劣にも小蒔を拐って醍醐をおびき寄せた夜。
傷ついた小蒔を見て、護れなかった自分への怒りから、醍醐は体内に宿る膨大な氣を爆発させ、佐久間を死へと追いやった。
その後自失した彼は、小蒔を置いて失踪したのだ。
残された小蒔は龍麻に助けを求め、龍麻は彼女にできる限りの手当をしてやった。
その辺りの事情を龍麻は醍醐に話してはいない。
小蒔から話したか、醍醐が訊いたか、いずれにしても小蒔を放置したことを、深く悔いているのは間違いなかった。
龍麻は少し考えてから、湯面を見つつ話す。
「俺は、巻きこんじまった仲間は、誰一人怪我させたくないと思っていた。
護るのは、俺の義務だと。だからあの件は、俺にとっても痛恨だった」
雨の夜、雨と泥と血に汚れた姿で突然訪れた小蒔に、龍麻は言葉を失った。
シャワーを浴びさせ、着替えを用意し、一時間以上も経ってから出てきた彼女の傷の手当をしながら、
なんとか聞きだせた事情。
佐久間の暴走が醍醐との確執に原因があったとしても、
醍醐も佐久間も小蒔が異形と見紛うほどに『力』を暴走させていたというのなら、
龍麻が責任を感じないわけにはいかなかった。
「幸い、桜井の身体は跡が残らなかった。でも心までは、俺には治せない」
露天風呂の中で石像の如く動かない龍麻と醍醐を、他の生徒が不思議そうに見る。
だが話しかけるどころか彼らの会話を聞くのも憚られるような修羅場めいた雰囲気に、
そそくさとその場を離れていった。
龍麻と醍醐は他者の視線に気づきもせず、低い声で話を続ける。
「だから桜井が戦いから抜けても仕方がないと思っていた。……いや、抜けて欲しいと思っていたかもしれない。
抜けてくれれば、護るべき対象が減るわけだからな」
『力』など必要としない普通の生活に戻るのなら、その方が良いに決まっている。
この異常な『力』を失くすことができたら、結果だけを彼女に伝えれば良い。
龍麻はそう考えた。
「でも、桜井は抜けなかった。俺やお前を責めもせず、また俺達と共に往く道を選んでくれた。
驚いたよ。危険ばかりで見返りもないのに」
そこで一度言葉を切り、醍醐を直視して続けた。
「それで少し考えが変わった。護るって気持ちに変わりはないが、
もう少し任せても良いのかなって。もっとも、もう戦いは終わったけどな」
龍麻が話を終えると、醍醐は深く感銘を受けたらしく、大きく頷いた。
「ああ、そうだな。戦いは終わったんだ。正直言ってもう少し力を試したいという気持ちも無くはないが、
桜井や美里を危険に巻きこむよりは、戦いなんて無いほうが良い」
醍醐は月を見上げ、龍麻も倣う。
満月からわずかに欠けた月は、同じ輝きを投げかけていたが、
その光を浴びた二人が思ったことは、微妙に異なっていたかもしれなかった。
視線を月から地上へと戻した醍醐が、口調を変えて言った。
「そうだ、近い内にもう一度手合わせをしてくれないか?
春は負けてしまったが、あれから少しは強くなっていると思うんだ」
「俺も強くなっているとは考えないのか?」
「それなら尚の事腕試しをさせてもらわないとな」
笑って頷いた龍麻は、珍しく醍醐と話しこんだと思い、その理由に思い至った。
「ところで、京一はいないのか?」
「そういえば見ていないな。食堂を出るところは見たが」
「もう入浴の時間も終わるぞ……まさかあいつ、入らないつもりか?」
二人は揃って首を捻ったが、長い時間のことではなかった。
京都市中ならともかく、旅館で迷子になっても大事にはならないだろうし、
食事の後の風呂で気分が鷹揚になっていて、真剣に案じる気になれなかったのだ。
故に彼らは風呂から出て部屋に戻った時、部屋の前で正座させられている京一の姿に愕然とする。
彼の前で面倒くさそうに腕を組んでいる生物教師の犬神に、二人は訊ねずにいられなかった。
「京一が何かしたんですか?」
「風呂覗きだ」
簡潔な返答だが、二人には充分伝わった。
呆れた醍醐が首を振る。
「お前……馬鹿だとは思っていたが……」
「くそッ、せっかくマリア先生のナイスバディを拝む絶好のチャンスだったってのに、
なんであんな所に居やがるんだ……まさか犬神も……」
友人の嘆きも耳に届いてはいないようで、京一は何やらブツブツと呟いている。
犬神はそれを聞き咎めた風もなく、狼が牽制する時のような低い声で一喝した。
「何か言ったか?」
「いえッ、言ってませんですッ」
不逞な生徒を黙らせた教師は、刃のような眼光で龍麻と醍醐を一睨みした。
怪物や化物にも臆することなどなかった二人も、この視線には背筋が伸びた。
「こいつは消灯まで正座だ。お前達は共犯ではないようだが、部屋に入れたら同罪とみなすからな」
とばっちりを食うつもりもない二人は、京一を置いて部屋に入る。
「あッ、おい、話し相手になれよお前らッ! この薄情者ッ!」
罵声とも哀願ともつかない男の声が、廊下に空しく響き渡った。
同じ班の男達が一騒動起こしているとは露知らない葵と小蒔は、入浴も済み、
イベントとしてはあとは消灯時間を残すのみとなっていた。
部屋から出るのは禁止されているので、一部屋に割り振られた同級生同士で過ごすしかない。
葵の部屋では六人の女性がかしましく話していた。
内容はやはり大半が異性のことで、身近な知人から芸能人に至るまで、
行ったり来たりを繰り返しながらとめどなく話し続けている。
葵も輪の中にはいるが、積極的に話題に参加はせず、また、同級生達も強いて話を振ってはこない。
葵はその方がありがたかったが、同じく恋愛経験などないはずの小蒔は、
あれこれ聞いたりしてきちんと会話の輪に入っており、葵をいささか呆れさせた。
口を挟む機会もないまま、退屈な会話を葵は聞き続ける。
次第に会話は際どい方向に進みはじめ、ほどなくして大人も顔を赤らめるようなものへと変わっていき、
そこまでくるとさすがに小蒔も黙ってしまったか、残る少女達は自らの性知識や実体験を競うように披露しあっていた。
もはや生真面目な優等生など一顧だにしない彼女達に、葵も寝てしまおうかと考え始める。
黙って寝てしまうか、それとも一応一言断るか迷う葵の耳に、少女の会話が飛びこんできた。
「でね、彼氏がちょっとエス入っててさあ、縛りたいとか言いだすの」
「えッ、それで許したの!?」
「そりゃね、彼氏のこと好きだし、実はちょっと興味もあったしね」
「きゃーッ、過激ィ! ね、どんなコトしたの!?」
「初めてだからって簡単めの、手と足を手錠で繋ぐヤツ。あと、目隠しも」
「で、どうだった?」
鼻息荒く訊ねる同級生達に一歩先んじた少女は、顎を軽く上向かせて得意気に語った。
「最初に手で、次に足だったんだけど、
だんだん逆らえなくなってくって気分だけでたまんなくなったし、
彼氏も普段触んないようなところ触ってきてね、それもすんごく焦らしてきて、
もう最後の方ワケわかんなくなっちゃった」
恍惚とした表情で語る少女を、他の少女達が尊敬の眼差しで見ている。
この年頃は男女問わず友人よりも一歩でも、半歩でも大人に近づきたいと願うものだから、
セックスよりも先のことを経験した少女が羨ましくてたまらないのだろう。
この場の女王となりおおせた、SMプレイをした少女が、
さらに自分の体験を語ろうとした時、横合いから割って入る声があった。
「あ、あの」
熱気に水を差した葵は、もつれる舌をどうにか動かした。
「皆興奮するものなの? その……縛られたり、拘束されたりすると」
葵の顔に小蒔も含めて五人の視線が集中する。
それらは程度の差はあっても一様に不審感が浮かんでいて、
葵は龍麻に見られる時とは別の意味で落ちつかない気分になった。
少女達は視線を葵から自分達に移し、無言で会話する。
やがて実体験を話したリーダー格の少女が口を開いた。
「そりゃ人それぞれってもんでしょ」
少女の返答は冷たかったが、突き放すものではなく、
軽く口を歪めると、相好を崩した。
「何? もしかしてあんたもマゾっ気あるの?」
マゾという、性に関する語句を平然と口にする少女に驚きつつ、葵は必死に答える。
「そ、そういうのかどうかはわからないけれど、本で見て凄いって思って……」
まさか彼女達にとっても同級生である龍麻に手首を掴まれると興奮するなどとは言えず、
嘘をつくしかなかった。
積もっていく嘘は葵の心を針で刺したが、自分がおかしいのではという不安はそれに勝った。
「真面目ちゃんかと思ってたけど、ちゃんと興味あるんだね、こういうのも」
少女は葵の振った話題に乗り、他の少女にも訊いた。
「あんたは?」
「あたしは結構興味あるかな。相手にもよるけど、叩かれたりしてみたいかも」
「私は嫌だー。そんなのしたいって言われたら別れちゃう」
「えーッ、それだけで!?」
「それだけじゃないよ。エッチの相性って大事だよ。ねー」
意見を求められたリーダー格の少女は大仰に頷いてみせた。
「そりゃ大事だけど、試してみるのもアリよ。自分でも知らなかった性癖に気づくかもしれないし。
とにかくやたら挿れたがったり、そもそもヘタなヤツは論外だけど」
そこで葵はつい考えてしまう。
彼は強引であり、葵を思いやっているようには見えない。
やたら挿れたがりはしないが、下手かどうかは比較対象がいないのでわからない
――そこまで考えて葵は頬に火が灯るのを感じた。
恋人でもない龍麻のことを思うなど、いったい自分は何を考えているのだろうか。
これはもしかしたら、彼との行為で快感を得てしまったからではないか。
自問自答するうち、葵はクラスメートとの会話も忘れて自己嫌悪の沼に嵌まりこんでしまっていた。
少女達は黙ってしまった葵に関心を払うこともなく、さらに過激な話を始めていた。
言葉だけでなく生々しく舌や手を動かしての話にはさすがについていけず、
我に返った葵が「私は休ませてもらうわね」と告げても適当な相槌が返ってきただけだ。
その方がありがたくもあるし、返事が返ってきただけ以前よりはましだと思い、
腹を立てることもなく葵は布団に潜りこんだ。
話を聞いただけではあるが、多少は興奮しているようで、
すぐには眠れそうにないと目を瞑ったところで、近くから声がした。
「皆スゴいね。ついていけないからボクも抜けちゃった」
声の主は小蒔だった。
葵は目を開け、頭の反対側でうつぶせになってやはり布団をかぶっている彼女を確かめると、
自分もうつぶせになる。
「ええ、皆進んでいるのね」
無難な感想のつもりだったが、小蒔は目を丸くした。
「葵がそんなコト言うなんて、ちょっとビックリ。こういう話は全然興味ナイと思ってたから」
龍麻のせいで興味を持ったのか、彼とは関係なく実は以前から興味があったのか。
小蒔の一言は曖昧にしていた自分の心を刺し貫いた気がして、
葵はよろめいた心を気取られないように取り繕った。
「嫌ね、私だって年頃の女の子よ」
「エヘヘッ、ゴメン。いやーでもさ、そんな本まで読んでるなんて」
「今どきは普通の本屋でも手に入るもの。小蒔は読んだことないの?」
若干早口になったことに、小蒔は気づかなかったようだ。
やむを得ないし、罪深いものでもないが、嘘は嘘だ。
また一つ嘘を重ねてしまった。
しかも、真実を語れるときはおそらく来ない。
親友を欺く自責の念が、重く葵にのしかかった。
「ウチはほら、兄妹多いし自分の部屋もないからさ、絶対見つかっちゃうんだよね」
残念そうに上方を見上げた小蒔は、急に視線を葵に固定させて言った。
「そうだ、今度葵の家で見せてよ」
「えッ!?」
「葵がどんなエッチに興味あるのか知りたいしさ」
自分が撒いた種とはいえ、とんでもない方向に話が進んでしまい、葵は動揺した。
電灯を消してあるから良かったものの、顔を見られたらまた一つ小蒔にからかわれるネタになったに違いない。
「あ、あんまりそういうのって人に教えるものではないと思うの」
「ボクと葵の仲じゃない」
葵にとつてそれは世界で三番目くらいの殺し文句だった。
それでも事が事だけに葵は抵抗したが、普段はさっぱりした気性の小蒔が妙に粘り腰で、
何度かのやり取りの末、とうとう日時未指定ながらも小蒔の提案を受諾させられてしまった。
「やったッ、約束だよッ!」
最初からそれが目的であったかのように小蒔は上機嫌で身体を反転させ、
巣穴に飛びこむウサギのような俊敏さで布団に肩まで入りこむと、
「おやすみ葵ッ。明日もいっぱい京都見て回ろうねッ」
高らかに就寝を告げて葵の返事も待たずに眠ってしまうのだった。
親友の明るさに救われた気分になった葵は、自分も布団に入りなおす。
眠る前にクラスメートとの会話を反芻しておきたかった。
縛られたり拘束されたりして興奮するのが、そこまで特殊な癖でもないらしいというのは、大きな慰めだった。
とはいえ「好きな相手に」という前提があるのも当然であり、手放しでは安心できない。
何度確認しても龍麻が好きという答えは出てこないのに、彼に手首を掴まれ、
さらに瞳を見てしまうと、逆らえない気持ちになってしまうのだ。
そのためせっかくの修学旅行でも身体を触られ続け、あげくセックスまで許してしまった。
テレビや雑誌で目にする、金のために簡単に身体を売る少女達と変わらないと自嘲しながらも、
龍麻に暗闇に引っ張りこまれての情事に、深く溺れてしまったのも確かだ。
「従いたい性」と龍麻は言った――そんな戯言を信じてはいないが、
自分自身でも知らなかった何かがこの身体には秘められているのだろうか。
あるとしたらそれは、春に異能の『力』に目醒めた時に、同時に引き出されたのではないのか。
その考えは葵の気分を楽にした。
つまり、それは本来表に出ないものであり、自分がおかしいのではないし、
龍麻がこの事象を解決すれば、消えるかもしれないのだ。
横を向いた葵は布団を引き上げ、顔の半ばまで被りなおす。
耳を澄ませてみると、クラスメートの話し声に交じって軽やかな寝息が聞こえてきた。
もう小蒔は夢を見ているのだろう。
親友をほんの少し羨ましく思いながら、いつしか葵も眠りに落ちていった。
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