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 緋勇龍麻という転校生に強姦されかけた、翌日。
葵は普段通りに登校した。
学校内で襲われたという衝撃は、心に未だ深く傷を残していたが、
これで休んでは悪意に負けたことになると思ったのだ。
 それでも、完全に普段と同じというわけにはいかず、毎朝、
一人目か二人目のタイミングで教室に入っていたのを、少し遅れて入った。
 机に向かっていた男子生徒が葵を見て、再び顔を机に戻す。
こんな時間に来るだけあって、予習かあるいは受験に向けた勉強をしているのだろう。
挨拶こそ交わさなかったものの、彼の真面目さは好感が持てた。
 別の女子生徒が、こちらは声をかけてきた。
「おはよう、美里さん」
「おはよう」
 彼女ともそれほど親しいわけではないが、最低限の礼儀はお互い守る。
その礼儀が、今日の葵には嬉しかった。
もたらされた非日常が、儀礼的な一言で日常に戻ってきたと実感させてくれる、
大げさに言えばそれくらい、何気ない朝の一言は心に沁みた。
 少し遅れて来たとはいえ、始業までにはまだかなりの時間がある。
葵も参考書を取りだし、勉強を始めた。
 だが、ページを開いても、文章がまるで頭に入ってこない。
小さな足音が聞こえるたび、扉の方を向いてしまい、誰が登校してきたのか確認せずにはいられないのだ。
もっと、始業ぎりぎりに来れば良かったと悔やんだが、後の祭りだった。
 告げる時間を忘れた鳩時計のような動きを、葵は何度も繰り返す。
教室の椅子が半分ほど埋まった頃、彼女の反復運動は報われるときが来た。
 龍麻が教室に入ってきたのだ。
教室の入り口に彼の姿を認めた途端、葵は慌てて前を向いて座りなおした。
わずかに上がった呼吸を、口を閉じたまま平静に戻す。
それでも、彼が後ろを通り過ぎる瞬間は、彼に聞こえてしまうのではないかというほど
鼓動が大きくなった。
 当たり前の――しかし、心底葵が安堵したことに、龍麻は何もせずに着席した。
葵は席を外したくなったが、彼が来た途端に席を立つのは、いかにも礼儀が悪いように思えた。
ならば他ごとに集中しようと、開いたままの参考書に視線を落とす。
こうしていれば、たとえ中身が頭に入ってこなくても、誰にせよ声をかけてくることは少ない。
しかし、葵の常識的な思考は、わずか五秒ほどで崩壊させられてしまった。
「おはよう」
「……おはよう」
 音声だけを切りだして聞けば、いかにも爽やかな朝の一場面でしかないと、
不本意ながら認めざるをえないような爽やかな挨拶を、ぬけぬけと寄越してきた龍麻に、
葵はとっさに対応ができず、つっかえた喉をなんとか動かしての返事だった。
彼がこれ以上話しかけてきたら、引っぱたいてしまうかもしれない――
葵は自分の内心を危惧したが、龍麻は礼儀を守っただけ――
そんなものが彼に存在するのならば――のようで、鞄を置いて教科書を机に移しはじめた。
安堵しつつ、これから卒業までこんな緊張感が続くのかと思うと、気が滅入る葵だった。
 葵の気持ちをよそに、龍麻は昨日に続いて休み時間のたび、
同級生たちからあれこれとなく話しかけられていた。
昨日の放課後の、佐久間達との一件が、詳細は不明ながらも伝わっているらしく、
特に女子生徒はやたらとお菓子をプレゼントしている。
帰り支度をしながらそれとなく隣の机を見ている葵は、彼の正体を教えてやりたい衝動に駆られた。
もちろん、そんなことをしても意味はない。
葵は生徒会長で、信用は一定数あるが、それだけで彼女たちが信じてくれる保証はない。
むしろ上辺だけとはいえ龍麻の魅力に夢中になっている彼女たちは、
余計なことを言う葵を疎ましく思うかもしれなかった。
 不興を承知で彼女たちに忠告するか、葛藤する葵の横で、小さな歓声が上がる。
「よう、緋勇」
「蓬莱寺か」
 少女達に歓声を上げさせたのは、蓬莱寺京一だった。
彼もまた真神學園での人気者で、教室移動などで低学年の廊下を歩くと一、二年生が騒いだりもする。
龍麻と違って裏表はないようで、それも人気の理由だと思われるが、
彼らは昨日、この學園の不良である佐久間猪三とその一派と喧嘩をし、
おそらくはそれが縁で友人となったようだった。
 タイプの異なる美男子が二人揃ったことで、女生徒たちは無邪気に喜んだようだ。
京一は愛想良く手など振り、さりげなく龍麻と女生徒の輪に入った。
たちまち軽い会話が始まり、笑い声が幾度も弾ける。
それらを聞くでもなく聞いていた葵は、自分が馬鹿馬鹿しい時間の使い方をしていると気づいて、
帰ることにした。
龍麻も京一と一緒では彼女たちに手を出す隙はないだろう。
 立ちあがろうとする葵に、影が差す。
思わず振り向いた葵の、視線を遮るように巨大な黒い壁が佇立していた。
「緋勇」
 軽やかな談話に突如として割って入ってきた野太い声に、龍麻は身体の向きを変える。
そこから視線を上方に修正すると、昨日知り合った――教室内の全員が、龍麻にとっては
昨日知り合ったのだが――男がいた。
龍麻を凌駕する身長の持ち主は、醍醐雄矢だった。
 龍麻と京一との会話を邪魔された女子生徒たちは、不満げに醍醐を見る。
だが少女達の視線に醍醐は気づかぬ様子で、龍麻を厳しく見据えた。
無視された格好の少女達は、抗議する気にまではなれなかったようで、白けた表情になりつつ解散した。
 華やかだが意味のない会話に飽き気味だった龍麻は、闖入者をむしろ歓迎していた。
佐久間のような悪意に凝り固まった気配ではないが、強い圧力を彼から感じる。
教室内で乱闘はないとしても、密かに龍麻は呼吸を整えはじめた。
「いきなりですまんが、今から、少しつきあってくれんか」
「今から? どこに?」
「む、それはだな……レスリング部の部室はどうだ」
 どうだ、と言われても、レスリング部の部室などで語りあうものではないだろう――
少なくとも龍麻にはそんな意志はなく、彼の意図を読んだ龍麻は軽く顔をしかめた。
さすがに佐久間のボスと言うべきか、強引なのは同様で、言い方が丁寧な分性質が悪いともいえた。
 醍醐は大柄な身体に似合わず申し訳なさそうな顔をしている。
そのくせ龍麻を黙って帰すつもりはないらしく、龍麻の進行方向にその巨躯を立ちはだからせていた。
 龍麻が醍醐と反対の側を見ると、少女達と一緒に解散していなかった京一が、
人の悪い笑みを浮かべていた。
「せっかくだから受けてやれよ。後でラーメン奢ってくれるって話だしよ」
「む、それは……まあ、それくらいなら構わんが」
 止めるどころかけしかける京一に、龍麻は今度は態度に出して肩をすくめた。
「しょうがないな、行こう」
「すまんな」
 一応は話がまとまったので、龍麻と醍醐は連れだって部室に向かおうとする。
すると、京一を含めた三人が出ようとする扉から、一人の少女が入ってきた。
 眼鏡をかけた気の強そうな少女は、龍麻を見るとまっすぐ彼の前で、
新品のコンパスのように全身で二等辺三角形を作って立ち止まる。
値踏みするように下から上に視線を移動させると、早口で喋りはじめた。
「あなたが緋勇龍麻ね」
「そうだけど」
「あたしは隣のクラスの遠野杏子。呼ぶときはアン子でいいわ、皆そう呼んでるから。
真神の新聞部部長をやってるんだけど、まだこの学校のことほとんど知らないでしょ?
案内がてら、こんな時期に転校してきた、風変わりな転校生のことを取材させて欲しいんだけど」
 口調がややキツく感じるのもあって有無を言わさぬ感がある。
風変わりと評されたことに腹は立たないが、どちらにしても龍麻は彼女の提案を呑めなかった。
「ああ……悪いな。たった今先約ができたところなんだ」
 気の進まぬ約束であっても、一度交わした以上は果たさねばならないだろう。
 断る龍麻の肩に、なれなれしく腕を乗せて京一が続けた。
「ヘヘッ、そういうこった。悪いなアン子」
「何よ、アンタの用事なら、後に回したってどうってことないでしょ」
「俺じゃねェよ。こっちのタイショーの用事だ」
 どうやらアン子の中で醍醐の序列は京一に勝るらしい。
忌々しげに醍醐を見たが、龍麻を譲るよう言ったりはしなかった。
「ねえ、それじゃ明日は空いてる? 旧校舎を案内してあげるから」
 なおも食い下がるアン子に、反応したのは京一だった。
「旧校舎ってアレか? なんか光るとかいう。止めとけ、なんにもねェよあそこにゃ」
「うっさいわね、ネタがないのよ。今週中に一本記事書かないと新聞が出せなくなるのよ。
そうしたらあんた責任取ってくれるの?」
「なんでお前の暇つぶしの責任を俺が取る――ごッ!」
 京一が最後まで言い終える前に、アン子の右拳から放たれたストレートが彼の顎を捉える。
龍麻と醍醐が思わず感心するほど、見事な一撃だった。
「いきなり何しやがんだ手前ェッ!」
「いい、のーたりんなアンタにもわかるように説明してあげるけど、
あたしの新聞は暇つぶしなんかじゃない、真神學園全生徒、
五百五十八人が求める真実と娯楽を提供するマスコミュニケーションなのよッ!!」
 京一は反論しようとしたが、アン子の一撃が顎をぐらつかせたらしく、上手く喋れないようだ。
実質的な勝利を収めたアン子は、勝ち誇ったように顎を軽く突きだした。
「まあそういうワケで、緋勇君も興味あるでしょ?」
 ないと言えば嘘になるが、それは彼女が作成した新聞で読みたいという意味で、
自分で体験したいという訳ではない。
しかしそう説明したところで、とにかく強引というジャーナリストの片鱗を確かに見せているアン子を
引き下がらせることはできそうになく、どうしたものかと思案する龍麻の、横合いから声がした。
「アン子ちゃん」
「何? 美里ちゃん」
 それまで会話に参加していなかった葵が突然入ってきたので、アン子も少し驚いているようだ。
そして葵の提案は、アン子をさらに驚かせるものだった。
「旧校舎なら、私が行ってあげるわ」
「へ? そりゃ、美里ちゃんが行ってくれるんなら心強いけど」
「締め切りまであまり時間がないのでしょう? 記事をまとめる時間も必要でしょうし」
 アン子は腕を組んで思案したが、すぐに解いて決断した。
「そうね……うん、それじゃお願いするわ。緋勇君、取材はまた後日改めてよろしくね」
 葵の気が変わらないうちに、と思ったのかもしれない。
アン子は葵を連れていそいそと教室を出て行った。
 彼女たちの後ろ姿を見送った京一が、まだ顎を左右に揺すりながら毒づく。
「くそッ、あの女、ちったァ加減しやがれってんだ」
「はははッ、形無しだな。……それじゃ緋勇、俺たちも行くとするか」
 こちらはこちらで醍醐に急きたてられるように、龍麻はレスリング部の部室へと向かうのだった。
 レスリング部の部室、という言葉から龍麻が抱いたイメージと、
醍醐が連れてきた実際の部室とはそれほど差異はなかった。
ダンベルやバーベルなどのトレーニング器具が乱雑に置かれた、男臭い部屋。
想定と違ったのは、部屋の半分以上を占めている、プロレス用のリングだった。
てっきりアマチュアレスリングだと思っていた龍麻は、
間近に見る四角い闘場にまず目を奪われた。
手入れが行き届いていないというよりも、相当に年季の入ったものと思われるリングは、
しかし、男心をくすぐってやまない。
渋々来たことも忘れ、早くリングに上ってみたいと思った。
 早くも制服の上着を脱ぎ始める醍醐に、京一が訊ねた。
「なんだ、誰も居ねェじゃねェか」
「うむ……」
 醍醐はなぜか龍麻を見て、言い辛そうにしている。
口ごもる醍醐に、京一は重ねて訊ねた。
「なんだ、昨日の件が漏れたのか?」
「いや、そうではなくてだな……」
「はっきり言えよ、でけェ図体してんだからよ」
 関係があるようで全くない京一の煽りに、醍醐は諦めて口を割った。
「昨日、あれから佐久間達が歌舞伎町で他校の生徒と喧嘩したらしくてな。
向こうから抗議が来て、正式な処分はまだだが、自主謹慎の意味もこめてしばらく休部さ」
「……ケッ。佐久間もバカだがよ、その他校生とやらもだらしねぇな。喧嘩に負けて親頼みかよ」
「まぁ、出来が悪いとはいえ、部員の不祥事だからな。仕方ないさ。
──それよりも、別にお前にまでつきあえとは言ってないんだがな」
 昨日の龍麻の喧嘩の、醍醐は結果しか見ていないが、かなりの手練れであると予想できる。
手加減できるかどうかわからず、そのような激しいスパーリング――あくまでも、これは
私闘ではなく部活動だ――を行うときに、観客は無用だった。
 京一の返答は簡潔だった。
「バカ野郎、俺がいなけりゃ誰がゴングを鳴らすんだ」
 京一とのつきあいが長い醍醐は、これ以上の説得が無意味と悟ると頭を振り、準備を続けた。
 数分後、リングに上がった龍麻と醍醐はコーナーポスト上で向き合った。
「それじゃ、始めるか。いいな、緋勇」
「ああ、いつでもどうぞ」
 余裕をうかがわせる龍麻に、醍醐は笑みを浮かべる。
一生を格闘に捧げた男でも何回もは浮かべられない、好敵手を見いだした格闘家の笑みだ。
敵意や闘争心といったものを未だ浮かべず、それでいて只者ではない凄みを感じさせる龍麻に、
醍醐の心は沸騰していた。
 両腕を肩よりやや開いて前に出し、重心は心持ち落として、龍麻がどのような攻めをしてきても
即応できる構えを取った醍醐は、龍麻から視線を一瞬たりとも離さないまま、
リング下の京一に向かって叫んだ。
「鳴らせッ」
 醍醐が言うとほぼ同時にゴングが鳴った。
彼の構えとプロレスというスタイルから、まずはじっくり、リング中央で牽制しあうと思っていた龍麻は、
赤い布を振られた闘牛のように一目散に突っこんでくる醍醐に機先を制された。
避けるか、それとも下がるか、視界の端に伸びるロープが瞬間の判断を迷わせる。
 その一瞬で醍醐は龍麻の選択肢をほとんど奪った。
攻撃を封じ、回避もほぼ封じ、彼にできるのは防御だけだ。
ゴングが鳴るまではじっくりリング中央で応戦しようと考えていたが、
龍麻が未だリングそのものに気を取られていると見るや、先制攻撃に切り替えたのだ。
 半身で構える龍麻の腹側に、醍醐は蹴りを放つ。
充分にスピードと体重の乗った蹴りは、龍麻をブロックごと側方に吹き飛ばした。
「くッ……!」
 間髪入れずに密着の間合いまで詰め、ボディーブローで頭を下げさせると、
逆側からフックで側頭部にパンチを叩きこむ。
「おいおい、本気かよタイショー」
 思わず京一が唸るほど、醍醐の攻撃は激しく、龍麻は身体を丸めて防御するしかない。
鈍い音が部室に響くたび、龍麻の身体は木の葉のように揺れた。
右手、左足、ナックル、ニー、四肢のあらゆる部位でさながらトレーニングのように醍醐は殴り続ける。
一方的に見える闘いだが、龍麻にはさほどダメージが通っていないと当事者には解っていた。
醍醐としてもこの程度で倒せるとは思っておらず、打撃は布石に過ぎない。
嵐のような激しい打撃を続けていた醍醐は、頃合いと見て攻撃を止めた。
龍麻の防御が緩んだと見ると、彼の腋に腕を通し、背中で両手をクラッチする。
その体勢で後ろに下がると、引っ張られる龍麻は上体をより低くせざるをえず、
それこそが醍醐の狙いだった。
龍麻自身の体勢を利用して、彼の身体を一気に逆さまに持ちあげる。
そして醍醐は跳躍しつつ、前方に足を投げ出し、龍麻を頭からマットに叩きつける――
以前プロレスで見て衝撃を受けた技を、醍醐は繰りだそうとしていた。
 七十キロはあるだろう龍麻の身体を持ちあげるため、全身の筋肉を賦活化させる。
数多のトレーニングで鍛えられた筋肉たちは醍醐の要請に応え、龍麻の肉体を宙に浮かせようとした。
 突然、龍麻の背中に電撃のような痺れが走った。
全く予想外の事態に、醍醐は思わず組んでいた手を解いてしまう。
痺れはダメージとはならなかったが、龍麻はホールドから脱し、再び醍醐と正対した。
「おおおッ――!!」
 自身を鼓舞するように咆吼を放った醍醐は、再び組みつこうと両腕を伸ばす。
今度は背中ではなく腰にクラッチを極め、そのまま締めあげようというもくろみだ。
 よろけながらも醍醐の想定する間合いよりも半歩だけ深く踏みこんだ龍麻は、
彼の両腕が胴を挟み、丸太もへし折らんばかりに締めあげる寸前、彼の鳩尾に掌を当てた。
 さほどの勢いもなく、急所ではあってもどれほどのこともない。
龍麻の攻撃を無視し、一気に決着をつけるべく醍醐は両腕に力を込めた。
 かつてない衝撃が醍醐を襲う。
龍麻が触れた鳩尾から、手足の指先に至るまで全身に、大きな波がうねった。
身体の内側から揺れと爆発が同時に来たような一撃に、極めていた手は外れ、
酩酊したように大きくよろめく。
それでも醍醐はなお龍麻に向かって一歩を踏みだしたが、それが限界だった。
膝から崩れおち、マットに伏せる。
三カウントを待つまでもなく、勝敗は決した。
 醍醐が目を覚ましたのは、およそ三十分後だった。
「む、む……」
 仰向けの状態で目を開けた醍醐は、二人の男が自分を囲んで座っていることに気がついた。
「おう、やっと目ェ覚ましやがったか」
 悪友の声が遠い。
初めて酒を呑んだときのように頭が揺れ、思考が定まらなかったが、次第に状況を思いだした。
「俺は負けて……気を失っていたのか」
「おうよ、うつぶせに気絶したお前ェを仰向けにしてやったんだ、感謝しやがれ」
「そうか、それは……すまなかったな」
 礼を求めておきながら、いざ返ってくると気に入らないようで、京一はわざとらしく鼻を鳴らした。
彼の態度はいつものことなので、醍醐は苦笑い未満のものを浮かべつつ、身体を起こす。
すると、ややあいまいな表情をした転校生が顔を覗きこんだ。
「気分はどうだ」
「ああ……大丈夫だ。すまないな、待たせたみたいで」
「けッ、俺は帰ろうッつったんだけどよ、緋勇がどうしてもラーメンを食いてェって言うから
しょうがねェ、こんなムサい場所で待ってやったんだ」
 龍麻の表情を見れば、京一が嘘を言っているのが丸わかりだ。
今度は声に出して笑った醍醐は、改めて座りなおした。
「ああ、約束だからな。さっそく行くとするか」
「よっしゃッ!! 善は急げって言うからな」
「言っておくが京一、俺が奢るのは緋勇だけだからな」
「ケチくさいこと言うなよタイショー」
 醍醐と京一の会話に、今度は龍麻が笑いだす。
部室を出た三人は、旧来の友人のように肩を並べてラーメン屋へと歩きだした。
 京一が連れていきたいというラーメン屋は学校から数分という話だった。
 三人が歩いていると、背後から女性の声がする。
「そこの三人組! 寄り道しないでまっすぐ帰りなさい!」
 良く通る若い女性の声は、自分たちに向けられているのではないかと龍麻は思ったが、
京一も醍醐も気に留めないのでそのまま歩いた。
「そこの高校生! 聞こえないのか!」
 激しさを増す声に、醍醐の歩みが若干鈍ったものの、京一はなお無視して進む。
すると、声はいよいよ勢いと指向性を増した。
「そこの木刀担いだアホ!」
「誰がアホだッ!!」
 ついに京一が振り向いた。
龍麻も倣って振り向くと、真神の制服を着た小柄な少女がそこには居た。
ショートカットと勝ち気な眼が印象的な、全身から活力があふれている少女だ。
少女は京一の前まで来ると、彼に指を突きつけた。
「人の話を聞かないんだから、アホ呼ばわりされてもしょうがないだろッ」
「お前の話なんて聞いたってしょうがねェだろうがッ」
 京一に向かって思い切り舌を出した少女は、龍麻に向き直った。
「緋勇クンだよね。ボクは桜井小蒔。同じC組だよ」
「ああ、ごめん、まだ全然覚えられなくて」
「ううん、しょうがないよね、一対三九だもん。それに昨日は緋勇クンの人気が凄かったからさ、
ボクも話しかけなかったし。一年間、よろしくね」
 人懐っこい笑みに龍麻が応じると、小蒔は大きく頷いた。
「んじゃ行こっか」
「行くってどこへだよ」
「ラーメン食べに行こうとしてたんでしょ?」
 ぐうの音も出ない指摘に、京一は一旦は声を詰まらせつつもすぐに反撃した。
「俺たちゃ友情を温めようとしてんだよッ。食うコトしか考えてねェお前なんざ連れていけるかッ」
 京一の大義名分を完全に無視した小蒔は、龍麻の手を握って真剣な眼差しで言った。
「ねえ、緋勇クン。ボクね、友達は選んだ方が良いと思うんだ。今ならまだ取り返しがつくから」
「どういう意味だコラァッ!」
 凄む京一に平然と笑みを浮かべた小蒔は、おもむろにあらぬ方を向いて叫んだ。
「こういうコトだよ。いぬがみせんせーッ! ほうらいじがですねーッ!!」
「!!! バ、バカ野郎、なんてコト口走りやがんだお前ッ!!」
 動転した京一が小蒔の口を塞ぐ。
教師を呼ばれて喜ぶ高校生も少ないだろうが、京一の動転ぶりはかなり怪しい。
龍麻の疑問に答えたのは醍醐だった。
「京一は、こともあろうに先月の卒業式の時暴れてな、
それ以来生活指導の犬神から目を付けられているんだ」
「醍醐、てめェ何よけいなことしゃべって……大体ありゃあいつらの逆恨みだ。
俺はれっきとした被害者だぞッ」
 詳しい事情は分からないが、京一には結局喧嘩をする素性があるということなのだろう。
昨日も嬉々としていたし、巻きこんだという後ろめたさを龍麻が感じる必要は、どうやらなさそうだった。
「京一、いいかげん桜井から離れろッ」
 突然怒りだした醍醐に、何事かと見てみれば、京一の腕の中で小蒔が顔を赤くしている。
恥ずかしいのではなく、口を塞がれて息ができないのだ。
「ん? あぁ、忘れてた」
 京一が手を離すと、小蒔は両膝に手をついて呼吸を整えた。
「はァ、はァ……ボクのこと殺す気?」
「お前が余計なこと言うのが悪いんだろうがッ」
「いぬがみ――」
「わ、わかったッ、一緒に行きゃあいいんだろッ」
「最初ッからそう言えばいいんだよ」
 京一は喧嘩の腕前は相当だが、女には頭が上がらないらしい。
意外な弱点を知って、龍麻は小さく吹き出してしまった。
「なんだよ」
「いや、なんでもない……行こうぜ、俺も腹減った」
 憮然とする京一の肩を叩いた龍麻は、これから先何度も通うことになるラーメン屋への、
初めの一歩を踏み出したのだった。



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