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 京一達に連れられて龍麻が来たのは、いかにも街の中華料理屋といった風情の店だった。
赤いのれんに二十年は優に経過していると思われる、
お世辞にも綺麗とは言いがたい建物が、逆に味を期待させる。
店内も同様で、歴戦の勇士たる油が染みているような机と、
背もたれさえない丸椅子が、店主と共に長きにわたって真神の生徒や
近隣住民の胃袋を支えてきたのだろう。
「親父、味噌一丁」
「ボクは塩バターラーメンね」
「俺はカルビラーメン大盛りを」
 三人は席に着くなりメニュー表も見ずに注文した。
いささか慌てた龍麻は、適当に頼もうと壁に貼られたメニューに素早く目を走らせるが、
そこにあったのは七夕の竹を独り占めできそうなほどの短冊だった。
どうして街の中華料理屋にこんな豊富なメニューがあるのか目眩を覚えつつ、
とにかくラーメンの島を捜す。
二十種類近くあったラーメンの中から、無難に醤油を選んだところで、さっそく醍醐が話しかけてきた。
「緋勇、さっきの技は一体何だ? 俺は相当鍛えてあるつもりだったんだがな、
まさか一発でのされるとは思っていなかった」
 醍醐は蜂の巣を見つけた小熊のように目を輝かせている。
説明しようと龍麻が口を開きかけると、京一が遮った。
「かーッ、これからラーメン食おうってのに何汗臭い話しやがんだ。ラーメンがマズくなるだろ」
 そこに四人分の水を運んできた小蒔も加わる。
「なに、醍醐クンと緋勇クン……もしかして、会ったばっかりでもうケンカしたの?」
「む、いや、そうではなくてだな……」
 形勢不利を悟ったのか、醍醐は渋々ながらも話題を打ち切った。
そこにタイミング良く、というよりかなり早く四人分のラーメンが運ばれてくる。
あまりの早さに本当に茹でられているのか、半信半疑で龍麻は一口啜ってみたが、
味に問題はなく、美味しかった。
京一が醍醐が目覚めるまで待たせてまで来たのも、これなら頷けた。
 四人ともしばらく若い胃袋を満たすのに夢中で、麺を啜る音だけがテーブルの上を乱舞する。
 三分の一ほど食べたところで、コップの水を飲んで一息ついた小蒔が喋りだした。
「そういえば、知ってる? 旧校舎の話」
「あん? 赤い光がどうとかってヤツか」
「なんだ、知ってたのか」
 小蒔が唇を尖らせる。
目まぐるしく変わる表情は見ていて飽きず、龍麻は、彼女は人気があるだろうなと予想した。
「おう、今日アン子に聞いたばっかりだからな」
「もう何人も見てるらしいよ。赤い光だけじゃなくて、人影も見たとか」
 小蒔が仕入れた噂話を京一は鼻で笑い飛ばした。
「おいおい、まさか幽霊ってんじゃねェだろうな。今時流行らねェぜ、なあ醍醐」
「う、うむ、そうだな……だが、旧校舎は立ち入り禁止になっているんじゃないのか?」
 なぜか醍醐の歯切れが悪い。
食べるのに専念していて聞いていなかったのか、それとも技の話を中断させられて気分を害しているのか、
まだ殴り合いをしただけの関係である醍醐の、人となりを知らない龍麻には判断がつかなかった。
「抜け道があるんだってよ。部のやつが言ってた」
「あ、それアン子も言ってた。そのうち潜りこんで何か見つけてくるって」
「今日行くって言ってたぞ。つきあわされる美里もご苦労なこった」
 言いながら京一が顎を撫でたのは、記憶に痛みを呼び覚まされたのだろうか。
「なにアン子、葵も連れてったの!?」
「ッてより、最初は緋勇を連れてこうとしたみてェなのによ、
美里が自分から行くって言いだして、珍しいこともあるもんだな」
「葵が!? ヘンなの……そういうことはいつもしないのに」
 小蒔は腕を組んだが、答えが出るわけでもない。
大事には至らないだろうと楽観するしかなかった。
 龍麻達が再びラーメンを啜りはじめた直後、突然店の扉が勢いよく開く。
店主と龍麻達が一斉に視線を集中させた先には、真神の制服を着た女子生徒が立っていた。
一時間ほど前に龍麻と初対面を済ませた、遠野杏子だ。
 らっしゃいッ、という店主を無視して龍麻達のテーブルに来た彼女は、
何事かと声も出ない龍麻達の前でコップのひとつを掴むと、一気に飲みほした。
「ど、どしたの、アン子……?」
 小蒔の疑問に答えないまま、さらに別のコップを手にして、反り返る勢いで飲んでから、
ようやくアン子は目的を告げた。
「み、美里ちゃんを探してッ!」
「おッ、おい、どういうことだ?」
 アン子の口から飛び出した剣呑な言葉に、皆の表情が変わる。
軽く胸元を叩いて呼吸を整えたアン子は、手早く事情を説明した。
「旧校舎に入って十五分くらいした頃かしら。
何にもないと思ってたんだけど、奥の方の教室から何か音がして、中に入ったら赤い光が追いかけてきて」
「赤い光?」
 四人が同時に驚きの声をあげる。
いるにしても幽霊だと思っていたものが、人に危害を及ぼすほどの存在だったとは。
言い出した小蒔でさえもが半信半疑だったが、
葵が旧校舎の中に置き去りにされてしまったのは確かだった。
「一緒に逃げたんだけど、気が付いたらはぐれてて……お願い、美里ちゃんを探してッ!」
 小蒔は血相を変えてすでに立ちあがりかけているが、京一は落ちついて、
麺のなくなったスープを啜ってから訊ねた。
「どうするよ、緋勇」
「行くさ」
 その言葉を予想していたように京一は丼を置き、紫の袋を掴んで立ちあがった。
「よっしゃッ、腹ごなしの運動といくかッ。支払いは頼んだぜ、タイショー!」
「よろしくね、醍醐クンッ!」
「こ、こら待て、俺も行くんだぞ……ッ!」
 風のように店を出て行った京一と小蒔に醍醐が頭を抱える。
このようなところで時間を浪費している場合ではなく、龍麻が代わりに全員分の支払いを済ませると、
感謝しきりといった醍醐に軽く手を振って、葵を助けるために来た道を戻り始めた。
 すっかり日が沈んだ新宿の街を、龍麻達は学校に向かって駆ける。
遅い時間とあって生徒達の人影はなく、すんなり旧校舎に到着した。
アン子が呼びに来た時間から計算すると、葵がここに取り残されておよそ三十分ほどが経過している。
一刻も早く救出する必要があった。
「遠野はここで待って、誰か来たら適当なことを言って時間を稼いでくれ」
「あたしも行くわよ、責任があるんだし」
「光ったのが何にせよ、何かがいるわけだろ? 危ない」
 言外に足手まといである、という龍麻の含みを、アン子は理解したようだ。
不満げに唇を尖らせたものの、異は唱えなかった。
「懐中電灯を持っていって。……美里ちゃんのこと、頼んだわよ」
「ああ」
 京一と醍醐に頷いて、龍麻は旧校舎へと突入した。
 暗い木造の校舎は、照明もなく、どこまでも闇が続くかのように暗い。
冷えた空気は物理的な圧迫感すら与えてきて、謂われなく入る者を拒むかのようだった。
 建物に入って数歩進んだところで、龍麻は異変に気づいた。
三人分の足音のはずが、四人分聞こえる。
先頭を歩く龍麻が懐中電灯の光を振り向けると、京一と醍醐の他に、小蒔の姿がそこにあった。
「桜井! なんで……」
「なんでって、親友だもん。葵を放っておけるワケないじゃない」
 旧校舎に入るときに、今日知り合った同級生のことを龍麻が失念していたのは事実だ。
とはいえ余計に気を配らなければならない要素が増えるのは好ましくない。
幸いまだ建物には入って間もなく、灯りがなくても引き返すのは容易だろう。
小蒔を帰らせようとする龍麻に、京一が言った。
「まァ、こいつは男みてェなモンだから平気だろ」
「なんだとォ」
「お前ら、少しは緊張感を持たんか」
 醍醐の感想に龍麻も同感だった。
 念のため、帰るよう促してみたが小蒔は聞く耳を持たず、説得する時間も惜しいので、
龍麻は彼女を連れて四人で先に進むことにした。
 アン子の話では、葵とは一階の一番奥の教室ではぐれたという。
一直線なので迷う心配はないが、木の板の廊下は踏むと年季の入った音を立てるので、
踏み抜いてしまわないよう気をつける必要があった。
さらに、懐中電灯の光が職員室から見えないようにもしなければならない。
龍麻は床を照らしながら、可能な限りの速さで進む。
「……そういえば、聞いた話なんだけど、この校舎もともとは陸軍の訓練学校だったんだって」
 小蒔が言うと、醍醐が応じた。
「ああ、何でも軍の実験用の地下施設があったらしいな。
一階の廊下の一番奥にはしごがあって、そこから行けるそうだ」
「へえ、それは初めて聞いたよ。詳しいね、醍醐クン」
「死んだじいさんが軍人でな、親父からもこの学校の話は良く聞かされたんだ」
 龍麻は聞き耳を立てつつも彼らの話に特に関心を示さなかったが、京一が飛びついた。
「軍の実験施設なんて面白そうじゃねェか。行ってみようぜ」
「アホ。葵はどうすんのさ」
「あ……み、美里がそこにいるかも知れねぇじゃねぇか」
「今『あ』って言ったろ」
 小蒔はかなり怒っているようだ。
二人を取りなすように醍醐が言った。
「残念だが、はしごなんて今は無いだろうよ」
「ちェッ……仕方ねェ、こうなりゃさっさと美里を探して帰ろうぜ」
「最初っからそのために来てるんだっての!」
 どうもこの二人は意図してかそれとも無意識にか、すぐに漫才めいた会話になるようだ。
無言で頭を振った龍麻は、一人で先に進んだ。
「あ、おい、待てったら、灯りは一個しかねェんだぞ」
「京一がアホなことばっかり言ってるから怒ったんだよきっと」
「む……」
 京一も反省したのか、しばらくは静かになった。
 やがて校舎の端に近づき、アン子から聞いた、葵とはぐれたという教室が見えてきた。
「扉が開いてるな……多分あそこだな」
ここまで「赤く光る物」には遭遇しなかったので、教室内にいる可能性が高い。
アン子から借りた懐中電灯で、龍麻は室内を照らしてみた。
「うわッ……!」
 たちまち甲高い鳴き声が乱れ飛び、異様な気配が教室内に満ちた。
急速に何かが近づいてくる気配を感じて、慌てて扉を閉める。
勢い余って扉にぶつかってきた何かは、想像を絶するものだった。
「蝙蝠……?」
 龍麻が断定を避けたのは、それが龍麻が知っている大きさではなかったからだ。
街中で見かける蝙蝠は、羽を広げても三十センチ程度だが、
龍麻がガラス越しに見たのは頭だけでそれくらいはあった。
翼を拡げればニメートルくらいはありそうで、尋常ではない。
京一達もそれぞれ教室を覗き、龍麻が見た物を見て同じように驚いた。
 室内で続く大合唱に、辟易したように京一が頭を振る。
「なんで蝙蝠がこんなトコにいるんだよ」
「それよか、葵は居た?」
 小蒔の問いに龍麻は頷いた。
懐中電灯の光は一瞬しか室内を照らさなかったが、龍麻の眼は床に横たわる人の姿を捉えていた。
「醍醐はここで桜井と待っててくれ。蓬莱寺、援護を頼めるか?」
 不良と違い未知の危険が伴うので、あるいは断られるかもしれないと龍麻は思ったが、
彼はあっさりと頷いた。
「援護は任せとけ。それから、京一でいいぜ。そっちの方が言いやすいだろ」
「解った……頼んだ、京一」
 片方の口の端を釣り上げて京一は笑った。
何が待ち受けているか分からないというのに、微塵も緊張していないのは、ずいぶんと頼もしい。
京一は紫の包みを解いて、中から木刀を取りだした。
竹刀ではなく木刀というのは、何か理由があるのだろうが、今は聞いている場合ではなかった。
 醍醐も龍麻の指示を了解したが、一人だけ、龍麻に反対した少女がいた。
「ボクも入るよ」
 勝ち気に告げる小蒔に、龍麻は諭すように言った。
「蝙蝠を倒すのが目的じゃないし、中は暗いから人数は少ない方がいい」
 彼女の勇気は買うが、二重遭難でもしたら目も当てられない。
それに上手くいけば数分で済む作戦なのだから、不要なリスクは冒すべきではなかった。
 小蒔は唇を尖らせたが、言い争っていられる状況ではないと理解したようだ。
不承不承ではあっても、ここで待つことに同意した。
「……絶対、葵を助けてよ」
「それは保証する」
 京一と視線を交わした龍麻は、扉を開けて教室内に躍りこんだ。
騒ぎだす蝙蝠共には目もくれず、葵が倒れている場所に一直線に走る。
何匹かの蝙蝠がぶつかってきたが、目指す葵に辿りつくと、一瞬の停滞もなく彼女を抱きあげた。
「京一ッ、逃げるぞッ!!」
「おうッ!!」
 木刀を振り回していた京一に背中を任せながら、教室を飛びだす。
龍麻と京一が教室を出ると、数匹の蝙蝠が追ってきたが、醍醐が制服を振って叩き落とした。
教室の扉を閉め、どうにか一息つく。
「葵ッ……大丈夫なの?」
 小蒔の呼びかけにも葵は反応しない。
龍麻が彼女の口に顔を近づけると、息をしているのが伝わってきた。
「大丈夫、気を失っているだけだ……!?」
 龍麻が途中で言葉を呑みこんだのは、腕の中の葵に異変を感じたからだ。
異変は小蒔達にもすぐに察知され、彼女は驚いて叫んだ。
「あッ、葵の身体……光ってない……!?」
 小蒔の言う通り、青白い燐光のような輝きが葵を包んでいる。
教室内では間違いなく光ってはおらず、龍麻も戸惑って京一達を見回した。
「お、おい……光ってるのは、美里だけじゃねェぞ……!」
 動揺する京一に、小蒔と醍醐も級友と、自分の身体を眺める。
龍麻を含めた五人全員が、葵と同じ燐光を身にまとっていた。
眩しくはない――懐中電灯の光の方が明るいくらいで、目は開けたままでいられる。
熱も帯びてはいないようで、何がどうやって光っているのか、皆目見当がつかなかった。
 お互いに起こった異変に、四人が声も出せないでいると、不意に地面が揺れた。
「わッ、地震!?」
「なんだってんだよ、次から次へと」
 揺れはすぐに収まり、同時に五人の身体から輝きも失せていた。
「消えた……ね、何かな、今の」
「俺が知るわけねェだろ」
 蝙蝠達もいつのまにか静かになっており、京一と小蒔の囁きが暗い校舎に響く。
「とにかく、美里は助けたんだから外に出よう」
 葵を抱きあげて立ちあがった龍麻に京一達も倣い、出口に向かった。
幸いに新たな脅威が龍麻達を襲うことはなく、五人は揃って旧校舎を脱出した。
「アン子は……?」
 この辺りに居るはずなのだが、姿が見えない。
校舎の角まで見に行った小蒔が、慌てて戻ってきた。
「ヤバい、犬神センセーに捕まってるよ」
「げッ、マジか」
 彼が見回りに来たのか、それとも偶然なのかは分からないが、アン子は足止めしてくれているのだろう。
葵を背負い直した龍麻は、アン子と犬神がいるのとは反対側を指し示した。
「今のうちに向こうから回って学校を出よう」
「アン子に連絡は?」
「今は無理だろう……明日、学校で話せばいい」
 龍麻の指示に一度は頷いた小蒔は、思いだしたように訊ねた。
「葵はどうするの? まだ目を覚ましてないよね」
「俺が家に送っていくよ」
「えッ!?」
 思わず大声を出した小蒔は、龍麻にたしなめられて慌てて口を押さえた。
けれども納得はしていないようで、目で説明を求める。
「生徒会長が立ち入り禁止の旧校舎に入って怪我をした、なんて公になったらまずいだろ?
大きな怪我もしていないみたいだし、家まで送っていくよ。
多分途中で目を覚ますだろうから、そのとき事情を説明する」
「うーん……」
 小蒔は承伏しがたい様子だったが、龍麻の強い調子と、何より状況が逼迫している。
結局龍麻に葵を委ねることに同意した。
「よし、それじゃ明日また学校で」
 旧校舎を大きく回って校門に出た龍麻は、見つかる危険を避けてそのまま去っていった。
 京一達は龍麻と葵を見送っている。
二人が見えなくなってから、小蒔がふと呟いた。
「緋勇クンてさ……葵の家、知ってるのかな」
 三人は顔を見合わせたが、答えを知っている者はいなかった。
 葵が目を覚ましたのは、龍麻に背負われて五分ほどしてからだった。
間近にあった男の顔に驚き、それが龍麻であると気づいてさらに驚き、混乱を隠せないまま葵は訊ねた。
「ど、どういうことなの……?」
「目を覚ましたか」
 混乱をいっとき放置して、葵は記憶をたどる。
アン子と旧校舎に行き、そこで何かに遭遇し、アン子とはぐれ――
「緋勇君が、助けてくれたの?」
「俺だけじゃないけどな。蓬……京一と醍醐、それに桜井」
 葵は友人達に感謝した。
ただし、今背負われている男に対しては、昨日のこともあり、素直には感謝できない。
複雑な感情を押し殺して、葵は現在の状況を訊ねた。
「それで……今は、どこに向かっているの?」
「俺の家だ」
 簡潔な返答は葵の感情を明快な一本にまとめあげた。
「お、下ろして。もう平気だから」
「もう家に着く」
 葵の抵抗はぴしゃりと封じられた。
 龍麻の言う通り、二人はほどなくして彼の家に着いた。
 まだ新しい雰囲気のマンションは、小洒落た感じだったが、
そんなことで葵の心は慰められはしない。
それよりも昨日の恐怖もまだ生々しく残っており、その警戒心の方が勝るのは当然だった。
 玄関の前まで来てようやく龍麻の背中から下ろされた葵は、
今この瞬間にでも逃げだすべきなのではと真剣に考えた。
だが、鞄を龍麻が持っていて、それを奪い取って逃げるのはあまりに失礼ではないかと迷っているうちに、
鍵を開けた龍麻に連れこまれてしまった。
 外観と同様、内装もまだ新しさが感じられる家の中は、それほど大きくはない――というよりも、
台所と洗面所を除けば大きめの居間だけの間取りは、家族が住むのなら少し狭いかもしれない。
他人の、それも親の経済事情に口を出す非礼さなど葵は持ち合わせていなかったが、
それにしても生活感のなさが気になった。
玄関には龍麻と葵以外の靴さえ置いてなかったのだ。
「傷を見るからこっちに来いよ」
 上着を脱いだ龍麻が、数少ない調度品であるソファを指差して言った。
いよいよ危険を感じた葵は、半歩後ずさって答えた。
「あ、あの、本当に大丈夫だから」
 返ってきたのは怒声に近かった。
「自分の身体を良く見てみろよ」
 剣幕に圧されて言われたとおりにした葵は、初めて自分の惨状に気づいた。
制服とパンストのほとんどの部分に傷と汚れが付着している。
皮肉なことに、傷を認識した途端に痛みが起こり、ほとんど立っていられないほどになった。
だが、ここで隙を見せればまた昨日のように襲われる――葵は意識を集中して、龍麻を睨むように見た。
 龍麻は葵の抵抗など意に介さず、彼女の腕を取った。
「治療してやるから座れって言ってるんだ」
「お、お医者さんに見てもらうからっ」
「蝙蝠の噛み傷なんて医者に見せたら大騒ぎになるぞ。
感染症の危険もあるし、どこで襲われたか必ず訊かれる」
「で、でも」
 正論ではあるが、肌を見られるという嫌悪感はそれを上回る。
まして龍麻が適切な治療を施せるという保証などなく、
単に機会を利用していかがわしい行為に及ぼうとしているだけではないのか。
 葵は危惧したが、力で龍麻に敵うはずがない。
十秒にも満たないうちに葵の抵抗は封じこまれ、いいようにされてしまった。
「まずは……ここか」
 二の腕の傷を見て呟いた龍麻は、傷口に触れる。
乱暴な触り方ではなかったが、直に触られてわずかな痛みが生じた葵は眉をしかめた。
無頓着に見える態度に、声に出して抗議しようとして、思いの外真剣に傷口を凝視している彼に、
思わず言葉を呑んでいると、彼の手のひらが淡く光りはじめた。
冬に潜りこむ羽毛布団さながらの心地よい温かさが浸透する。
ほのかな熱は十秒ほど続き、温もりが消えたとき、傷口は消失していた。
「何を……したの……?」
「氣だよ」
 龍麻は短くそれだけを答えた。
要領を得ない回答は葵を満足させなかったが、龍麻はすでに次の傷を探すのに集中している。
仕方なく、葵は彼が治療するに任せた。
 任せた、とはいっても、彼が無遠慮にセーラー服の裾を捲ろうとしたときは必死で抵抗した。
「そ、そんなところ噛まれたりしてませんからっ」
「どうして言い切れる? 蝙蝠は感染症の危険があるってさっき言ったはずだ。
念のため確認はしておくぞ」
「でも」
 なおも葵は食い下がろうとするが、男の力に敵うはずもない。
前側を必死で押さえて、どうにか背中の上半分を見られるのだけは阻止するのが精一杯だった。
「ひっ……!」
 見るだけだと思っていたのに、いきなり触られたので思わず声を出してしまう。
身体を固くし、決して本意ではないのだと暗に示したつもりが、龍麻にはまるで伝わっていなかった。
それどころか反応してしまっては逆効果で、葵は顔を伏せて赤面するほかなかった。



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