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龍麻の掌が背中を撫でる。
親にもほとんど触れられたことのない場所を蹂躙される恥辱は、
彼の手の意外な温かさにやや紛らわされた。
体温よりもわずかに高い、不思議な熱は、葵に嫌悪の念を抱き続けさせるのを難しくさせる。
どうしてこんな二律背反した感情がわき起こるのか、自分でも不可解だったが、
いずれにしても、背中の触診はすぐに終わり、葵を拍子抜けさせた。
「よし、今度は前だ」
しかし安堵したのも束の間、当然のように言ってのける龍麻に、
制服を慌てて直した葵は座ったまま後ずさろうとした。
「い、嫌っ、もういいですからっ」
「仰向けに寝てたんだから、前の方が傷があるに決まってるだろう。いいからおとなしくしてろ」
足首を掴む龍麻から逃れようともがいたが、またも女の無力を思い知らされただけだった。
しかも、早くもストッキングの破れを見つけられ、彼が正しいことが証明されてしまう。
耳朶に熱を感じつつも、安易に彼を受け入れるわけにはいかなかった。
「どうして……酷いことばかりするの?」
「危険な場所に行かなければ、こんなことにはならなかった」
言い終えるや否や、龍麻がパンストを破く。
貞操の危機を感じた葵は、必死に暴れた。
「い、嫌っ、止めてッ……!!」
落ちついた雰囲気の美少女らしからぬ、手足をやみくもに振り回しての抵抗は、
女性であれば当然の振る舞いだ。
それは他人を傷つけようとさえしたことのない葵の、初めての果敢な抵抗だったが、
佐久間達不良をほとんど傷も受けず倒した龍麻には無意味だった。
それでも、スカートがめくれあがるのも構わず暴れる葵にうんざりした表情を浮かべた龍麻は、
彼女の右足首を掴むと立ちあがる。
恐慌状態に陥った葵は、なお自由な左足で龍麻を蹴りつけようとしたが、
その左足も抱えられてしまうと、いよいよ髪を振り乱して狂乱するのだった。
「落ちつけって!」
彼女をそのような状態に追いこんだ張本人でありながら、龍麻は本気で怒鳴りつける。
「毒が入ってたらどうするんだよ。興奮したら回りを早くするだけだぞ」
「い、嫌……嫌ぁッ……!」
葵は泣き叫び、全く要領を得ない。
仕方なく龍麻は掴んでいた足を下ろし、彼女の服装を整えてやった。
とはいえ、パンストは破かれたままだから、かえって扇情的に見えてしまう。
無防備に――龍麻にはそうとしか見えない――顔を両手で覆って泣いている葵に、
苛立ちを抑えて龍麻は言った。
「パンストなら後で買ってやるから」
葵からの返事はなかったので、再び龍麻は彼女の足を診た。
今度は彼女もおとなしく従ったが、これは放心していたからだろう。
それでも幾ばくかは気を使ったのは、意外に傷が多く、早く治療しなければならないと思ったのだ。
脛にある傷の一つに掌を当てた龍麻は、ゆっくり息を吐いて意識を集中させた。
「っ……」
腕の時と同じ、心地よい温かさが葵の患部を満たし、それが消失したとき、傷口も完全に消えていた。
ほどなく次の箇所の治療も始まり、葵は、少なくとも龍麻が今は治療に専念してくれるのだと分った。
涙を拭い、鼻を啜ると、どうにか声を絞りだす。
「ごめ、んな、さい」
「あん?」
「怪我を診てくれようとしたのに、暴れてしまって」
「あー……」
あまりにも素直すぎる葵の性格に、龍麻は呆れていた。
よくもこの容貌と性格で、これまで手つかずでいられたものだ。
警鐘を鳴らす意味で次の怪我を診るために、パンストを大きめに破いてみせたが、
もう信用しているのか、暴れるそぶりは見せなかった。
内心でため息をつき、怪我の治療を行いつつ、龍麻が口にしたのは別の話題だった。
「どうしてあの、アン子だったか? 俺に用があっただけっぽいのに、
わざわざ自分から一緒に行くって言った?」
「それは、緋勇君が」
「俺が?」
「緋勇君が……私にしたことを、アン子ちゃんにもするんじゃないかって……」
一応まだ警戒心は持っているらしい。
遠慮がちに非難する葵に鼻を鳴らしただけで返事はせず、龍麻は治療を続けた。
道場に置いてあった象牙のように滑らかで、染み一つない肌に滲む赤い血は、
治療することにためらいさえ覚えてしまうほど、凄艶な美しさを有している。
その傷口に手を当て、龍麻は練った氣を注ぎこんだ。
ほどなく傷がふさがっていく。
満足感と名残惜しさを同時に抱きながら、次の傷口に手を添えた。
彼の手が新たな傷口に触れる。
不思議な気分だった。
彼は治療を行っているだけのはずなのに、どうにも身体が快さを感じてしまうのだ。
葵は気のせいだと思い、努めて意識しないようにした。
だが、彼が触れ、氣とやらを注いでいる部分が、ほのかに温かくなる。
するとどうしたわけか、腹の奥にむずむずした感覚が起こるのだ。
なんとなく足を開いていてはいけない気がして、葵は閉じようとするが、
足の間には龍麻がいて思うようには閉じられない。
せめてスカートを整えたところで、龍麻に気づかれてしまった。
「ん? 感じてるのか?」
不躾に過ぎる問いは、葵をかっとさせる。
かつて感じたことのない熱が、頬に宿っていた。
「そ、そんなわけありませんっ」
感情を露わにする葵にも、龍麻は動じなかった。
「無理すんな。氣ってのは生命力だからな。他人から注がれりゃ元気にもなるが、
身体が熱くもなる。風邪引いたとき肌が敏感になるだろ? あんな感じだ」
「そ、そんな大事なこと、どうして先に言ってくれなかったの!?」
「別に死ぬわけじゃねえし、一時的なもんだからな。それに嫌って言ったって関係ねえし」
「と、とにかくもう良いですから」
「そういうわけにはいかねえよ。まだ傷は残ってるし、治すまで帰らせるつもりはねえ」
龍麻の口調には凄みがあり、葵の意志など問題にしないのは明らかで、
葵は唇を噛み、彼の思惑に乗らないように意識を強く保つほかなかった。
ところが、これが難題だった。
龍麻の治療は一箇所につき、およそ二十秒ほどかかるのだが、
それだけの間でもくすぐったさの混じった気持ちよさは耐えがたいほど広がっていき、
しかも、新たな傷口を治療するたびごとに少しずつ強くなっていくのだ。
大きくなっていく呼吸を、初めのうちは押し殺していた葵も、
彼の手が膝より上の、腿の内側に触れるに至って我慢できなくなってしまう。
「ふっ……ん……」
自分でも驚くほどの悩ましい声に、慌てて口を塞ぐが、かえって龍麻の注意を惹いてしまった。
顔だけを横に向けた龍麻と、眼が合う。
合う、というよりも彼の黒い瞳から発せられる、柱のごとき眼光に吸い寄せられたといった方が
正しいかもしれなかった。
自分が今、どんな顔をしているかわからなくなって、葵は目を閉じる。
自分の表情をくらませることはできた。
だが、同時に彼の表情も見えなくなる。
せめて龍麻が視線を外してから目を閉じれば良かったと後悔した葵は、
龍麻がずっと自分を、あの黒い瞳で見つめているような気がして頬が熱くなった。
決して見られたいなどと思ってはいないのに。
龍麻は何も言わず、気配も動かない。
葵が焦れ始めたところで、再び治療が始まった。
もうこちらは見ていないだろうと思いつつ、葵は目を開けられない。
治療はいよいよスカートの内側に及び、足の付け根まで剥きだしにされた葵は、
下着を見られないようスカートを束ねて押さえなければならない。
彼の注意を惹かないよう、さりげなくスカートを押さえたつもりだったが、
衣擦れの音は思いの外大きく聞こえた。
聞こえてしまっただろうか――心配する葵の、股間の前に置いた両手に知らず力が篭る。
すると、いきなり龍麻が腿の別の場所に触れた。
「きゃ……ッ……!」
それは予想外であったにしても、あまりに恥ずかしい声だった。
うつむき、声を押し殺しても恥ずかしさまで消えるわけではない。
しかも、確実に聞こえていたはずの龍麻が、何も反応しないのが余計に恥辱だった。
もう、絶対に声は出さないと葵は固く決心した。
なのに。
龍麻の掌が傷口に触れるたび、夏の日焼けした肌を剥いたときのような、
痛みと入り交じった奇妙な気持ちよさが、鼓動に合わせて流れこんでくる。
彼の手から氣という得体の知れない何かが、はっきりと注がれていると判るとき、
春の小川に足を浸したような心地よさを伝えてくる。
「く、ふ……ん……」
意志によらず漏れる声が、いつしか止まらなくなっていた。
足を開き、間に男を迎えいれ、肌を触らせていることが、気にならなくなっていた。
スカートの裾こそ押さえ続けていたものの、そこから手首を数センチ後退させて、
火照りを感じている部分に触れさせたいとすら思う。
龍麻が目前にいる状況で、そんな行為は絶対に許されないと自制しつつも、
ほとんど初めてといって良い性的な欲望は、確実に葵を蝕みつつあった。
どうして友人ですらない男の家にあがりこみ、その男を股の間に座らせているのか、
根本的な問題さえ忘れそうになって、葵は龍麻の頭と、
太股に添えられた彼の手が淡く光るのをぼんやりと眺めていた。
葵の方を向いた龍麻が、唐突に訊ねた。
「お前、オナニーは良くするのか?」
乾いた音が弾けたとき、葵は、自分が生涯で初めて人を叩いたことを知った。
昂ぶった心も、火照った身体のこともいっとき忘れ、自らが発生させた、
彼の頬が赤く染まっていく変化を呆然と見つめた。
壊れたドアのように勢いよく横を向いた龍麻の顔が、ゆっくりと戻ってくる。
半面を赤くした彼の表情は、葵の予想に反して怒ってはいなかった。
むしろ叩いた葵を賞賛するように口元に笑みが浮かんでいる。
馬鹿にされたような気がして、葵はまた怒りかけたが、龍麻が先に喋った。
「その反応じゃしたこともなさそうだな。単に感じやすいだけなのか……いや、まさか」
葵に狙いを定め、撃ちだすばかりの鉄球のような眼の向きを変えた龍麻は、不意に彼女の手を掴んだ。
彼女自身の、まだ傷が残る箇所に当てさせる。
「手に意識を集中させてみろ」
奇しくも龍麻は昨日と同じ、右の手首を掴んでいる。
その事実は葵の集中力を妨げたが、彼の殺気とも取れる真剣さに気圧され、言われたとおりにした。
はじめは何も起こらなかった。
驚いたことに、徒労としか思えない努力を葵が続けている間、龍麻は身じろぎもしなかった。
掴まれた手首は痛くはなかったが、彼の掌の熱が奇妙に意識させる。
ややあって、何の変化も生じないことを葵が告げると、龍麻は答えた。
「手を動かさずに俺の手を振り解こうとしてみろ」
ますます意味不明なことを言う龍麻にひと睨みされて、葵は渋々従った。
自分の手が振動し、龍麻の手を弾きとばすところをイメージしてみる。
変化が訪れたのは突然だった。
右の肩から手の先に、何かが走り抜ける。
一呼吸の間に生じたそれは、触れている足にまで伝わった。
龍麻に触れられていたときほどではなくても、それに近い快感が身体を巡って、葵は思わず身震いする。
何事が起こったのか龍麻を見ると、彼は事もなげに言った。
「それが『氣』だ」
「そんな……だって、今まで私、そんな」
龍麻の使う氣ですら、実際に傷が治ったという現実を見せられてなお信じ切れてはいないのに、
自分自身にそのような力があると聞かされた葵が混乱したのは無理もない。
しかし、龍麻に動かされた手の下からは、確かに血の滲んでいた傷口が、完全に消失していた。
「どうして……ねえ、どういうことなの!?」
「多分、旧校舎だろうな。あの時、気絶したお前を助けて教室を出た直後、
お前の身体がうっすら光ったんだよ。
その直後、俺たちの身体も同じように光って、その後、小さな地震があった。
その時は脱出する方が優先だったから気にしなかったが、あれ以外考えられないな」
「……」
「今までそういう話を聞いたことはないのか? 旧校舎に行った奴がおかしな力を身につけたとか」
「いえ……ないわ……」
葵は呆然と呟く。
たとえばアン子のように、学校内外の噂話に敏感なわけではないが、
葵も生徒会長という立場上多くのトラブルを聞いていた。
その中に、こんな常識外れな話はなかったはずだ。
なぜよりによって自分が、と考えてしまったのは、これまで常識と品行という、
まっすぐに敷かれた二本のレールの上を歩んできた葵には無理からぬことだった。
動揺を隠せぬようすの葵に、龍麻は告げた。
「その力はまだあまり使うな。氣ってのは自分の生命力だからな、慣れないとすぐにへたばっちまう」
言われずとも望みもしない力など使うつもりもない。
葵は黙って頷いた。
視線を葵から外し、しばらく考えこんでいた龍麻は、低い声で独語した。
「てことは、あいつらもそうなった可能性があるな」
「あいつらって……、小蒔も!?」
「あの場に居たんだから、そうだろ。実際、光ってたしな。明日確認する必要があるが」
「ああ……!」
望みもしていない能力など与えられた自分たちの不幸を、葵は嘆かずにいられなかった。
龍麻の代わりに立ち入り禁止の旧校舎などに行ったばかりに、親友まで巻きこんでしまった。
両手で顔を覆い、葵は悲嘆に暮れる。
しかしそれは、数秒も経たないうちに中断させられた。
右足の治療を終えた龍麻が、左足の治療を始めたのだ。
「きゃっ……!」
温かく快い、葵が今抱いている感情には全くそぐわない刺激が足から伝わってくる。
人の気持ちを無視した振る舞いに、葵はこの薄情な男を睨みつけたが、非難を口にはできなかった。
まがりなりにも龍麻の行動は、葵の治療を目的としていたからだ。
それにしても腹立たしいのは、肉体の刺激で心のありようが簡単に変えられてしまうことだ。
どれほど龍麻に否定的な感情を持っていても、じわりじわりと身体を巡る気持ちよさは、
それを持ち続けることを拒もうとする。
彼は昨日、処女を奪おうとした許されざる男であるはずなのに、
彼の掌から伝わる氣が傷口を癒すとき、あろうことかもう少し続けて欲しいと思ってしまうのだ。
そんな願望を口にするほど、葵は恥知らずではない。
しかし、身体の奥から涌き起こる熱はいつしか葵の唇を開かせ、
彼女自身も聞いたことのないような吐息を漏らさせていた。
七割以上が引き裂かれたパンストは、とうの昔に役目を果たさなくなっている。
かろうじて、足首より先だけは無傷なのだが、それは葵にとってせめてもの慰めだった。
龍麻の手よりもたらされる気持ちよさは、いよいよ我慢の限界にまで近づいていて、
足の指先に力を込めることで、どうにか耐えていたからだ。
波が近づくと指を曲げ、どうにかやり過ごすと力を抜く。
その繰り返しを龍麻に見られるのは、耐え難い恥辱だった。
もしも素肌で見られていたら、気を失っていたかもしれない。
治療はその後三十分近くも続き、不自然な姿勢と耐えなければならない快感から
ようやく解放された葵は精根尽き果てていた。
何もかも投げ出して眠ってしまいたかったが、こんなところで眠ればどうなってしまうかわからない。
気力を振り絞って誘惑にあらがった。
治療を終えたはずの左足をまだ掴んだまま、龍麻は言った。
「あとは、その制服だな」
葵は総毛だった。
いかなる理由があろうとも、これを脱ぐわけにはいかない。
これは鎧であり、葵を護る最後の砦だった。
「……」
少しの間考える表情をした龍麻は、電話の置かれた棚に向かうと、
引き出しから名刺を取りだし、電話をかけた。
「遅くにすみませんが、まだ営業は……はい、はい、真神學園のセーラー服が一着欲しいのですが……
友達が転んで破れてしまいまして、明日も学校なので……はい、十分もあれば取りに行けます」
電話を切った龍麻は、今度は別の棚に向かう。
葵の位置からは良く見えなかったが、少なくない額の金を手にするのが見えた。
「それじゃ、買ってくるから待ってろ」
事もなげに言った龍麻は、葵に反論する暇を与えず出て行ってしまった。
他人の家に一人残された葵は、しばらくの間呆けて座っていたが、
彼の家族が帰ってくる可能性に思い至ると慌てて服装を整えた。
とはいっても座りなおして乱れた制服を直す程度で、
パンストはもうどうしようもないので脱いでしまった。
そこまで済ませると、手持ち無沙汰になってしまう。
彼の家族構成は気になるものの、あれこれ調べるわけにもいかず、見える範囲で想像を働かせるしかない。
座ったままで見える範囲を一通り見終えて葵が抱いた感想は、やはり無機質すぎるというものだった。
電話はあってもテレビはないようだし、どれも新品に見える家具や家電製品も、
逆に言えば生活臭が感じられない。
彼の兄弟姉妹はおろか、父母の存在さえ窺うことができないのだ。
それに、制服を買うために龍麻が持っていった金も葵は気になる。
真神の制服は私立のように高価なものではないが、上下で四万円ほどはしたはずで、
立て替えるだけだとしても、龍麻はずいぶん無造作に持っていった。
まさか、家の金に手をつけたのではないか。
彼の第一印象が率直に言って最悪であるだけに、葵の想像は悪い方向へしか広がっていかない。
龍麻に早く帰ってきて欲しい、と願わずにはいられなかった。
時計の長針が四分の一ほど動いた頃、鍵の開く音がする。
葵は緊張したが、入ってきたのは紙袋を持った龍麻だった。
「サイズは多分あってると思うけどな」
「……ありがとう」
どう返事をすればよいか分からず、葵は無難に応じた。
受け取った以上は着替えねばならず、葵は龍麻をそれとなく見るが、彼は動こうとしない。
仕方なく、葵は直接言わねばならなかった。
「あの、着替える場所を……」
「別に、ここで着替えりゃいいだろ」
これが狙いだったのかと、葵は制服を突き返そうとしたが、その前に龍麻が両手を挙げた。
「冗談だよ、洗面所はそこだ。俺が行くかお前が行くか、どっちがいい」
「……私が行きます」
声まで硬くした葵は、足早に洗面所に入った。
洗面所は扉があるといっても鍵がかけられるわけではなく、
龍麻がその気になれば容易に入ってくることができる。
葵は大急ぎで着替えてしまうことにした。
急ぎはしても、下着姿になった際に怪我の痕をチェックしてみたが、
どうやら氣とやらいう怪しい技の効果は本物だったようで、傷跡や痛みは一切なくなっていた。
その点は安堵しつつも、彼にはまだ心を許せないと葵は思わざるをえない。
とにかく、着替えが済んだら口実を作ってすぐにこの家を出なければならない。
そう決心して、葵は新たな制服に袖を通した。
龍麻がドアの前に立っている可能性も警戒したが、予想に反して彼はソファに座っていた。
真新しい制服に身を包んだ葵を、上から下まで無遠慮に眺められるのは覚悟していたが、
パンストを脱いでいたことを忘れていた葵は、下半身で止まった彼の視線でそれに気づくと、
計算ミスで百点を逃した数学のテストの答案を見たときのように赤面した。
「あの、立て替えてもらったお金はすぐに返しますから」
帰る前にこれだけは言っておかなければならない。
うつむいていた顔を上げて一気に言った葵に、龍麻は面倒くさそうに手を振った。
「ああ、いらねえよそんなの」
「そういうわけにはいきません。金額も大きいし」
「お前が払うわけじゃないだろ?」
葵はアルバイトをしていないから、自由になるのは親に貰う小遣いと、わずかばかりの貯金だけだ。
高校生ならむしろ普通なのだが、当てこすられた気がして、葵は再び彼を引っぱたきそうになった。
「私のお金で返せというのなら、貯金を下ろします」
「そうじゃなくて、何て言って親に貰うんだよ。学校で蝙蝠に襲われてボロボロになりましたってか?
蝙蝠の話は出さないにしたって、急に制服がダメになったって言やあ怪しまれるだろうよ。
怪我は治しちまってるんだし」
「……でも」
龍麻の主張は正しく、葵は反論できない。
それでも貴方に借りは作りたくない、とは言えなかった。
「気にすんな、こんなの貸しとも思わねえよ」
心を見透かしたような龍麻の発言に、葵は赤面するほかなかった。
その後も金銭の問題だけはきちんとしたいという葵の説得を、龍麻は頑として聞き入れず、
最後には葵の方があきらめるしかなかった。
葵が帰ると言っても、もう引き留めようとはせず、
「送っていってやろうか?」
とさえ言い、そちらは丁重に断らなければならなかった。
「じゃあな」
「あの……今日は色々ありがとう」
ともかくも助けられたのは確かなので、葵は頭を下げた。
顔を上げたとき、龍麻がじっと見ていたので、昨日の旧校舎裏での記憶が蘇って心臓を揺らす。
幸いなことに、あの表現しがたい眼光は宿っていなかった。
「詳しいことは明日皆を集めて説明するから、今日は余計なことを考えるんじゃねえぞ」
「……はい」
彼に対して思うところはあるが、この忠告は素直に聞き入れようと葵は思った。
今日はあまりにも、多くのことがあった。
帰ったらまずお風呂に入って、夕食を食べたら早く寝てしまおう。
そして願わくば、目覚めたら全てが夢であるように。
努めて何も考えないようにしながら、葵は家路を急ぐのだった。
葵が帰った後、龍麻はソファに身を投げ出す。
葵と同じ、片足をソファに乗せ、片足は床に投げだしながら、視線は天井に向けていた。
葵が見たら慄いたであろう、漆黒の瞳から見る者を貫くような眼光が放たれている。
灯りを消したままの部屋で三十分以上も身じろぎ一つしなかった龍麻は、
やがて頭をさらに上向けると、そのままの姿勢で眠りに落ちていった。
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