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春の風が、通り抜けていく。
悪戯な風の妖精に乱された髪を、葵は軽く直した。
一日ごとに気温や日差しが変化していくこの季節を、葵は嫌いではない。
何かが始まる予感といえば少し白々しくもあるが、
増していく陽気は心身を活性化させるのは間違いなかった。
今年は受験という大きなイベントを控え、浮かれているわけにはいかないとしても、
日々の気分くらいなら、多少弾ませるくらいなら良いはずだった。
だが、今年の葵には気分が高揚しない理由がある。
黒板を見た葵は、前方から左に、視線だけを動かした。
彼女の隣に座っている、緋勇龍麻という男子生徒が、葵の心にぶら下がる重りだ。
黙っていれば今風ではないながらも整った顔立ちが目を惹き、
声を発すれば同世代の男性とは一線を画する、低く落ちついたトーンに魅了され、
しかも勉強にも運動にも隙がないときては、休み時間に女子生徒が居ないときはないのも頷ける。
これまで異性から関心を寄せられることはあっても、寄せたことはない葵ですら、
好ましいと思ったほどの彼には、しかし、重大な瑕疵があった。
女を力づくで手籠めにしようとする、許されざる犯罪者。
彼が真神學園に転校してきた初日に、葵はあろうことか保健室で襲われ、
保健医が来なければ貞操を失うところだったのだ。
その後も、葵に落ち度があったとはいえ馴れ馴れしく肌に触れ、性的な欲望を隠そうともしない彼に、
葵は振り回され、勉強もろくにできないでいる。
進学を目指す高校三年生としては、最悪に近い状況だった。
なんとか、この状況を変えなければならない――それが、四月の半分を過ぎた頃の、葵の決心だった。
この日最後の授業が終り、生徒達は束の間の解放感に身を委ねている。
ざわつく教室の中で、葵も帰り支度を整えていると、隣の席である龍麻の所に蓬莱寺京一がやってきた。
多少軽いところはあってもおおむね好男子であるこの同級生は、
龍麻を気に入ったらしく、最近はほとんどいつも彼の所にいる。
葵は京一を嫌ってはいないだけに、京一が龍麻と一緒にいると、少し残念な気がしてしまうのだった。
生徒が帰って空いた龍麻の前の席に、横向きに座って足を組んだ京一は、さっそく龍麻に話しかけた。
「おう緋勇、背中の怪我はもういいのかよ」
京一が言っているのは、先日、龍麻の歓迎会という名目で新宿中央公園で行われた花見の席で、
日本刀を持った男が暴れた際、龍麻が背中を斬りつけられたことを指している。
傷は深く、龍麻は一時気を失うほどだったが、葵の『力』によって、すぐに歩いて帰れるほどに回復した。
制服は新調しなければならず、服屋の主人とすっかり顔なじみになった、と後日龍麻は笑って話していた。
「ああ、痕も残ってないみたいだ。美里の『力』は凄いな」
二人の話を聞くでもなく聞いていた葵は、自分の名前が出たことでわずかに緊張した。
案の定、京一が葵の方を見やって軽く手を振っている。
傍から見たらお調子者が、クラスどころか学内でも屈指の美人に愛想を振りまいているようにしか
見えないが、そこにはある秘密を共有する者同士であるという意味が含まれていた。
生命力を己の意志で操る『力』。
掌から発現させて破壊に用いたり、他者を癒す超常の力。
蓬莱寺京一、美里葵、それに醍醐雄矢と桜井小蒔、緋勇龍麻。
五人の高校生は、ある日突然、ただその場に居合わせたというだけで、
決して望んではいない『力』を授けられてしまったのだ。
他の四人はこの異常事態にも順応してしまっているらしいが、葵は違う。
まだはっきりとした将来の目標こそ定めていないとしても、大学を目指し、
そこから社会の一員となることを目指す、ありふれた人生を送りたいと望んでいた。
たとえ瀕死の怪我人を一瞬で癒すほどの、奇跡に等しい『力』だとしても、
そんなものを必要とはしていなかったのだ。
京一と目を合わせてしまったので、葵は儀礼的に笑った。
そこに龍麻が顔を動かしたので、内心で緊張したが、彼は何も言わず、
硬い鉄鉱石のような瞳を一瞬向けただけで、すぐに京一に視線を戻した。
「京一と何話してんの? 葵」
安堵したところで突然、背後から小蒔に話しかけられて、葵は慌てた。
「な、何も話してないわ、ねえ京一君」
「ああ、まだ何も話してねえな」
それは完全な事実だったのだが、葵の微妙な動転ぶりに、小蒔は不審を抱いたようだ。
「もしかしてボク抜きで何か面白そうなこと企んでたりしない?」
「してねえよ。大体何だよ面白そうなことってよ」
「え? うーん……ラーメン食べに行くとか」
「面白かねェだろ、んなもん」
「そんなコトないと思うけどな。で、どうすんの? ラーメン食べに行くの?」
「ンな話は一言もしてねェっつーの!」
「京一に訊いてるんじゃないもん、緋勇クンに訊いてるんだもん」
話を振られた龍麻は、人好きのする笑顔で頷いた。
「いいよ、行こう」
「よっしゃッ、おい醍醐ッ、お前も行くだろッ」
京一が醍醐に呼びかけると、どこに居ても目立つ巨漢はすぐに龍麻達の所にやってきた。
京一と小蒔の会話も聞こえていたらしく、前置きなしで同調する。
「俺は構わんが……京一、あまり緋勇を悪の道に誘うなよ」
「ラーメン食いに行くののどこが悪だってんだッ!」
立ちあがって醍醐を睨みつける京一に、小蒔がすまし顔で指摘した。
「醍醐クンはラーメンが悪いんじゃなくて、京一が悪いって言ってるんだよ。ね、醍醐クン」
「くッ……てめェら、人を悪呼ばわりしやがって……おい緋勇、騙されんなよ、
こいつらは俺をダシにしてお前にタカろうって腹なんだからな」
「人聞きの悪いコト言わないでよね、誰がいつ緋勇クンにタカろうとしたのさ」
「お前、この間のラーメン代、緋勇に払ったか?」
京一の指摘は急所を射抜いたらしく、小蒔は顔を引きつらせた。
脇で龍麻が笑いをこらえている。
「そ、それは……まだだけどさ、京一だってどうせ払ってないんでしょ?」
「俺はいいんだよ、なんたってこいつの一番の友人だからな」
言い切った京一に、小蒔と醍醐は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
「緋勇クン、ホントに友達は選んだ方がいいよ」
「桜井の言う通りだ。今ならまだ間に合うぞ、緋勇」
「だから俺一人悪者にするんじゃねェッ!!」
遂に京一は怒鳴りつけたが、醍醐と小蒔はともかく、
龍麻にまで笑われてしまっては威厳も何もなかった。
ふて腐れた顔のまま、京一は木刀を掴む。
「けッ、もういいッ、行こうぜ緋勇ッ、こんな奴らに構ってても腹が減るだけだ」
「それはこっちの台詞だよッ。あ、緋勇クン、今日はちゃんと自分で払うからね」
さりげなく前回の支払いをする意志がないことを告げて、小蒔も鞄を持った。
彼女はさらに、見慣れない長い袋をも手にする。
紺色の袋は京一の木刀よりさらに長く、小蒔の身長を優に超えていた。
立ちあがった龍麻は、好奇心の赴くままに訊ねた。
「それ、何だ?」
「ん? あ、これ? 弓だよ。ちょっと直して欲しいところがあってさ、一旦家に持って帰るの」
「へえ……桜井は弓道部なんだ」
「そうだよ。あれ? 言わなかったっけ?」
「ああ」
「そっか。ボク、部長なんだよ」
この学校に弓道部があると言うのは聞いていたが、小蒔が部長だったとは。
意外な驚きと共に、初めて目にする和弓を、龍麻は興味深げに観察した。
「今度射るところが見たいな」
「え? 別にいいけど……緋勇クン、弓道に興味あるの?」
「そうじゃないけど、俺も古武術やってるからな、そういうの好きなんだ」
「へー……醍醐クンみたいなこと言うんだね」
「醍醐が?」
「うん、前に一回見学しに来たことがあるの。その時は足が痺れて大変だったみたいだけど」
「そうなのか?」
「う、うむ、まあな」
「醍醐クンったらね、結局歩けずに転んじゃったんだよ」
余程その時の光景がおかしかったのか、小蒔は笑いをこらえきれずに頬をにやつかせている。
この巨体の男が足が痺れて狼狽する様は確かに滑稽であると思われ、龍麻も是非見てみたく思った。
「も、もういいだろう桜井。そろそろ行こうじゃないか」
あからさまに話題を避けたがっているのがわかる醍醐が皆を急かした。
といっても異論はなく、四人は連れだって教室を出ようとする。
その輪に、一人だけついてこなかった。
「あれ、葵は行かないの?」
「え、ええ、私は――」
龍麻とあまり行動を共にしたくない葵は、この機を幸いと、なんとか断ろうと口実を考えた。
口ごもりながら、つきなれていない嘘をつこうとする。
しかし、多少動悸が速くなるのを自覚しつつ口にしかけた嘘は、
反対方向からの大声によってあっさりとかき消されてしまった。
「ちょっと待った──ッ!!」
「……この声は」
教室外から聞こえてきた、物理的な塊となって足止めするような声とは対照的に、
小蒔の呟きはあまり好意的なものではなかった。
大きな声にC組の生徒がかなりの数注目するなか、眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせた声の主は、
身体を軸に伸ばした足をコンパスさながらに動かして龍麻達のところにやってきた。
現れたのは、はたして隣のクラスの遠野杏子だ。
眼鏡の奥の瞳を好奇心で輝かし、仁王立ちで扉を塞ぎ、龍麻達を順に見渡した彼女は、
もったいつけるように口を開いた。
「あんた達、ちょっとあたしの頼みを聞いてみる気はない?」
「ボクはいいよ……」
小蒔が率先して答えた。
京一と醍醐も決して気乗りはしていないようだ。
だが、三対一という圧力にも、ジャーナリスト志望であるアン子は屈しなかった。
もともと高めの声を、さらに一オクターブ高めてわざとらしい陽気な声を出す。
「あ、なに、桜井ちゃん、その態度。らしくないなぁ」
「だって……」
「お前の頼みって絶対ロクなことにならねぇ気がするんだよ」
珍しく京一の言葉に小蒔が頷いている。
滅多なことでは見られないその光景に危機感を覚えたアン子は、新しい味方に助けを求めた。
「ひっどーい、何てこと言うのよ。そんな事ないわよ。ね、緋勇君」
「……」
腰を曲げて軽い上目遣いの、絶望的に似合っていない彼女の媚びた態度が、龍麻に頷かせなかった。
その隣では、京一が弟子の進歩を褒める師匠のように頷いた。
「そうそう、こいつを普通の女だと思ってると酷い目にあうぜ。
特ダネの為ならお前だって売られかねねェ」
京一のさらに隣では、小蒔が何回も頷いている。
醍醐は体格に相応しく渋面を作っただけで頷いてはおらず、大中小の順に頭を振っているな、
と一人思った龍麻は笑いを噛み殺さねばならなかった。
「なによッ。あたしの話とラーメンとどっちが大事だっていうのよッ!」
「……」
言わずもがなのことを言ったアン子に、白けた視線が集中する。
圧倒的不利な状況に、彼女は遂に切り札を出さざるを得なくなった。
「もういいわ、わかったわよッ! あたしが皆のラーメン奢ってあげる。それでいいでしょ?」
一行の間を沈黙が包む。
しかしその表情は様々で、醍醐は驚き、葵もわずかながら目を見開いている。
小蒔も驚いてはいたが、どちらかというと京一の表情に近かった。
そしてその京一は、諒解するや否や満面の笑みを浮かべ、
場違いなほど陽気なバカでかい声で杏子の肩を叩いた。
「なんだアン子、そうならそうと早く言えよ、全く水臭ェな。
なァに、任せとけ。どんなモメ事だろうとこの蓬莱寺様が一発で解決してやるからよ」
「ホントッ!? やっぱり京一君は頼りになるわね。よッ、真神一の伊達男ッ!」
「わっはっは。苦しゅうない、良きに計らえ」
とどめとばかりにたたみかける杏子に、京一の機嫌はすっかりメーターを振り切ったようだった。
「ッたく、自分が最初に乗せられてどうすんだよ……」
ぶつぶつ言いながらも、小蒔も異論はないようだ。
彼女の目が空を泳ぎだしたのは、早くもメニューを選んでいるからだろうか。
結局アン子の思惑に乗せられている二人に、龍麻が小さく肩をすくめると、醍醐が話しかけてきた。
「まぁ正直な所、俺も全く気にならない訳じゃないんだ。緋勇、お前はどうだ?」
「そうだな……まずは聞いてみないとな」
「じゃ、決まりだね。行こ、早くしないとあの二人に置いてかれちゃうよ」
二人が話している間に、京一と杏子は遥か先に行ってしまっていた。
三人も後を追って歩きだす。
一人残った葵は、このまま行かなければうやむやにできるかもしれないと考えていたが、
それは早計だった。
教室の扉まで行った龍麻が、思いだしたように立ち止まり、振り向いたのだ。
「行かないのか?」
疑問形でありながら、ほとんど命令しているように葵には聞こえた。
そして、それよりも龍麻の瞳が、いかなる反論も許さない、
ブラックホールめいた負の力で五感を封じたように感じられた。
それは一瞬の出来事、あるいは錯覚にすぎない。
しかし、葵は催眠術にかかったように一歩を踏みだし、
彼の後をついていく足を止めることができなかった。
結局五人にアン子を加えた龍麻達が校門まで来た所で、
先頭を歩いていた小蒔がいきなり手を振り出した。
「あ、犬神センセーッ!」
数メートルほど向こうから、呼ばれた人物が歩いてくる。
白衣を纏った壮年の男性は、彼らの生物の授業を担当している犬神杜人といった。
授業は要点を抑えてはいるものの、何しろその喋り方がやる気のないように聞こえるため、
あまり生徒の評判は良くないようだった。
特に、龍麻の隣にいる木刀を持った男などには。
「なッ、何で呼ぶんだよ、馬鹿小蒔! 俺はあいつがだい──」
「だい──なんだ? 蓬莱寺」
低い、ぶっきらぼうな声が重なる。
まだ龍麻達のところまでは少し距離があるのだが、この生物教師は耳は良いらしかった。
「げッ、いつのまに……い、いやだな、もちろん好きに決まってるじゃないですか」
それに鼻を鳴らしただけで答えた犬神は、じろりと龍麻達を見渡す。
「なんだお前ら、集団でどこかへ行くのか?」
「えっ、ええ、まぁ」
まさかラーメンを食べに行くとも言えず、口を濁す醍醐に犬神はまたも鼻を鳴らしたが、
それ以上詮索してくることもなかった。
「ふん、まぁとやかく言われなきゃならん歳でもないだろうしな」
「あッ、そういえば先生、さっき廊下でミサちゃんと話してませんでしたか?」
空気を変える必要を感じたのか、アン子が明るく話しかける。
アン子も裏密ミサも、犬神が担任を受け持つB組の生徒なのだから話をしても何の不思議もない。
それでも、京一にはひどく不吉に思えたようだった。
「裏密と犬神……世界を破滅させる計画でも練ってんのか?」
「なんか言ったか、蓬莱寺」
「い、いえッ、何も」
「ふん。裏密とは──ただちょっと、面白い話を聞いただけだ」
「面白い?」
「良くは解らんが、未の方角に獣と禽の暗示が出ているそうだ」
暗示と言う言葉を聞いて、一同は顔を引き締める。
先日花見に行く前に聞いたミサの助言は、結果的にせよ見事に的中していたからだ。
それも、「鮮血を求める凶剣」という具体的な形で。
「未……って、南西ね。なるほど。他には何か?」
「今は陰陽系の占星術に凝ってるとか言ってたな」
「獣と禽……ねェ。相変わらずさっぱりだな、あいつの言ってることは」
京一のぼやきは皆同感であるようだった。
ただ、獣と禽という言葉は覚えておいた方が良さそうだ。
彼女の忠告、あるいは警告を聞かずに大怪我を負った龍麻は、二つの言葉を心に留めた。
そんな龍麻を意味ありげに見やった犬神は、ふと思い出したように白衣を探り出した。
「あァ、それから緋勇。裏密がお前にこれを渡してくれだと」
「俺に?」
裏密ミサとはあれ以来接点がない。
なのにどうして自分に、それも教師経由で何かを渡そうとするのか、
不思議というより奇妙に思う龍麻だった。
犬神が渡したのは、奇妙な布切れだった。
ただの鉢巻のようにも見えるが、ほぼ中央に眼のような物が描いてあり、
なんとなく不気味な印象を与える。
受け取った龍麻は当然の質問を発した。
「……これは?」
「さァ……な。確かに渡したぞ。それじゃな」
犬神はさっさと学校に戻っていく。
むしろ、龍麻にミサからの預かり物を渡すためにわざわざ来たのではないかと思われるほど、
無関心な態度だったが、教師を引き留めてまで話をしようという学生は、この六人の中にはいなかった。
「さようなら、先生」
去って行く犬神に一人葵が頭を下げる。
その後姿に向かって、杏子が呟くともなく呟いた。
「なんか……犬神先生ってただものじゃない感じがするのよね。一度取材させてもらうべきかも……」
「何悩んでんだよ。さっさとラーメン食いに行こうぜ」
もはや頭の中はどんぶりとその中身しかないらしい京一に急かされ、
龍麻達は足早に学校を後にした。
赤いのれんをくぐると、威勢の良い店主の声が龍麻達を出迎えた。
「らっしゃいッ」
「しょうゆを六つ……」
「俺味噌の大盛ッ!」
「ボク塩バターにトッピングでコーン乗せて。あ、ボクも大盛がいいな」
アン子の早口に被さるように、京一と小蒔の注文が炸裂する。
入店と同時に最も安いメニューを頼もうとした彼女の目論みは、あっさりと崩されてしまっていた。
「アンタ達……なんでそんなスラスラ頼めるのよ」
「だって来る途中ずっと考えてたもん」
「はぁ……英文もそのくらいすらすら言えたらマリア先生も喜ぶでしょうね」
そう嫌味を言うのが精一杯のアン子に、食の権化と化している二人が耳を貸すことはなかった。
席についた龍麻もメニューを眺めるが、アン子が一心にこちらを見つめているのに気がついてしまった。
眼光が鋭い以外、アン子の顔立ちは悪くなく、写真を見せれば半分以上は美女だと言われるだろう。
ただし、実際に話してみれば機関銃のように繰りだされる会話と、
嘘や言い逃れなどたちまち見破られそうな厳しい洞察力に、
恋人にしたいという男はかなり減るかもしれない。
いずれにしても、アン子の真剣なまなざしに龍麻が動かされたのは、彼の心の一部分だけだった。
「俺はしょうゆで」
「なんだお前、そんな図体で大盛じゃねぇのかよ」
「今日はあんまり腹が減ってない」
見れば醍醐も同じように無言の圧力を受けてたじろいでいた。
「お、俺は……俺もしょうゆを」
「なんだ醍醐、お前までどうしたんだ? カルビの大盛がお前の定番だろ?」
「な、何、たまには違う物を……緋勇と同じ物を食ってみるのも悪くないと思ってな」
「けッ、気持ち悪ィな。食いもんくらい好きなの頼めばいいじゃねぇか」
龍麻と醍醐は期せずして視線を交わす。
二人の視線の先には、目に見えて安堵しているアン子の姿があった。
全員が注文を終えると、さっそくアン子が話しはじめた。
「そういえば醍醐君、知ってる? ……佐久間が入院したって」
「何だとッ!!」
そう切り出したアン子に、醍醐は思わず立ちあがっていた。
店が揺れたような錯覚に、他の客がぎょっとする。
「おい、落ちつけよ」
「あ、あぁ、すまん。遠野、それは本当なのか?」
勢い良く腰を下ろした醍醐に、椅子が悲鳴を上げた。
普段は自分の体重が物体に与える影響を充分に承知している醍醐も、今はそれどころではなかったのだ。
「あたしも今日入手したばかりの情報なんだけどね」
「道理で姿が見えねぇと思ったぜ。けどよ、自主休講じゃねェのか?」
「ううん。本当みたい。なんでも、渋谷にある高校の連中と喧嘩したって。
相手は五、六人いたらしいんだけど、結局佐久間と相手が三人病院行きだって。
……職員室でも問題になってるわ」
最後の情報は、言うべきかどうか迷った末のものだった。
しかし、今更隠したところで状況が好転するはずもない。
醍醐もそれは解っていたが、呻かずにはいられなかった。
「最近のあいつを見ていると、何かに苛立っているようだった。
俺が、もっと早く相談に乗っていれば……」
大柄な身体を縮めて苦悩する醍醐に、京一が励ましともうんざりしたともとれるような声をかけた。
「あいつは相談なんてするタマじゃねぇよ。
ま、殺したって死ぬような奴でもねぇし、大丈夫だろ。それより頼みってなんだよ、アン子。
まさか新聞部に入れってんじゃねェだろうな」
「あら、それもいいわね。……どう? 緋勇君」
テーブルには五人しか座れなかったので、アン子はカウンターに陣取っていた。
回転する椅子を百八十度回転させて龍麻達の方を向いているのだが、
男──それも中年親父のように足を組んでいる。
危なげなくどんぶりを掴んで豪快に食べている様は、これ以上無い程似合っている。
そして、組んだ方の足をぱたぱた振っている為にスカートの裾がはためいていて、
かなりきわどいのだが、アン子は自分の脚線美に全く関心を持っていないようだった。
「悪いが、新聞作りは手伝えそうにないな」
「別にカメラマンだって荷物持ちだって用心棒だっていいんだから。ちょっと考えておいて」
「おい、こいつは嫌っつったってハイって聞こえる女だぞ。
断るなら徹底的に断らねぇとダメだって」
慢性人手不足の新聞部部長は、新しい人材は人間でさえあれば能力は問わないようだった。
はっきり断ったつもりなのに曲解されてしまった龍麻に、京一が蜘蛛の糸を垂らす。
もっともその糸は今食べている麺よりも細く縮れていて、まるで助けにはなりそうもない。
「あら、失礼ね。せっかく緋勇君が前向きに考えてくれてるのに、
水を差すようなことをしないでちょうだい」
「こいつと付き合うなんて命がいくつあっても足んねェぜ。
どうせ今だってくだらねェ事件に首でも突っ込んでんだろ」
「くだらないとは何よ、あんたこそ、少しは新聞くらい読みなさいよね」
そう言ってアン子は、店に置かれていた新聞を広げた。
杏子が指差した先には、「渋谷住民を脅かす謎の猟奇殺人事件、ついに九人目の犠牲者」
と大きな字で見だしが打たれていた。
新聞をひったくった京一は、麺を啜りながら勢い良く紙面を広げる。
「全身の裂傷、眼球の損失、内臓破裂……ひでェな、こりゃ」
「そういえば、その事件って確か──現場に必ず鴉の羽根が散乱してるって」
「そう、さすが美里ちゃんは良く読んでるわね」
改めて龍麻は記事に目を落とした。
記事には確かに鴉の羽根のことが書かれてあり、
読んだ限りでは相手が鴉では警察もお手上げのようにも書いてあった。
「まさに、猟奇的、と言った感じか……」
うそ寒そうに首をすくめる醍醐に、皆頷く。
連続殺人というだけでも縁遠くあって欲しいのに、
得体の知れない何かが絡むなど、たまったものではなかった。
しかし杏子がこんな話題を振ってきたことに、
彼女とつきあいがそこそこ長い小蒔は不吉なものを感じたらしい。
「まさかアン子、この犯人を捕まえるの手伝えって言うんじゃないよね!?」
「うーん、アンタ達なら出来るかもしれないけど、あたしもそこまで無茶じゃないわよ。
それに、犯人を捕まえるのは公僕の仕事。新聞部の仕事は真相の究明よ」
「同じようなモンじゃねェか」
「しかし、遠野が自分で言った通り、これは警察が捜査をしているんだろう?
俺達一介の高校生が首を突っ込むことじゃないだろう」
アン子は一斉に反対する京一達にも動じることなく説得を始める。
「いい、醍醐君。この事件、安易に猟奇的、なんて言葉で片付けて欲しくないわ。
……皆、もうこの前の事件を忘れたの? 旧校舎の化け物。刀を持った殺人鬼。
そんな不可思議な事件を警察に任せておけると思う?」
「おいしいってお前……」
呆れる京一を歯牙にもかけなかった。
「とにかく、あたしが調べたことを教えてあげるから、それを聞いてからにしてよね。
それくらいはラーメン代に入ってるわよ」
何しろここにいる全員、葵までもが彼女の奢りでラーメンを食べているので、
それを持ち出されると弱かった。
アン子はどんぶりを置き、水を飲んでから、胸のポケットから手帳を取りだす。
ずいぶんとくたびれた表紙の手帳は、えんま帳にも優る、
アン子が集めた命よりも大事な情報の集積体だった。
「何年か前に新聞に載った、品川で起きた事件。
巣立ちに失敗して路上に落ちた鴉の雛の近くを主婦が通って親ガラスに襲われてるわ。
あと、北海道の牧場で放牧中に出産された子馬が
生きたまま鴉の集団に食い殺されたって話もあるわね。
いい? 当たり前だけど、鴉は基本的に人を襲うのは雛の養育期の頃、
それも雛を護ろうとする時くらいよね。
でも今回の事件は、鴉の捕食行動との共通点が多すぎるのよ。
例えば──眼球が損失しているところとか」
「それって……カラスが人を──食べてるってコト? まさか、そんなこと」
ねぇ、と顔を向ける小蒔に、龍麻は頷いてみせる。
アン子が上げた二つの事例も、結びつけるにはいささか無理があるように思われた。
馬と人間の違いもあるし、時期もまるで異なる。
しかし、彼女は諭すように首を振った。
「ううん、でも、あたしの導いた結論は──鴉しかないの」
「鴉のやり方を真似した人間の仕業ということは?」
「そう、あたしもそこが引っかかるの。さっきは鴉が人を食べるって言ったけど、
どうも渋谷の事件は明らかに人を殺すことを目的としてる。
食べたのは、その副産物に見えるのよ。でも」
「でも?」
「あり得ない……と思うでしょうけど、もし、もしよ。
鴉が統一された意志の元で動いているとしたら、今東京都内にいる鴉の数は約二万羽。
それが一斉に人間を襲ったら……」
数百人単位で怪我人は出るだろうし、混乱は都内をパニックに陥らせるだろう。
「で、それを確かめるために俺達の力が要るって訳か」
「そういう事。ね、お願い。まずは渋谷に行くのに付きあってくれない?」
両手を合わせて拝むアン子に、龍麻達は顔を見合わせる。
そこにお互いに不安が浮かんでいるのを確認していると、
一人そうではない京一が、急に思いついたように口を開いた。
「なぁアン子。さっきお前、統一された意志っつったよな。
それってよ、統一してんのは鴉自身なのか? それとも……」
「鋭いわね。あたしは──勘だけど、そっちの線の方が濃いと思ってるわ」
「どういう事だ?」
爪楊枝を咥え、京一は醍醐に教えた。
「つまり──誰かが鴉を操ってるんじゃねぇかってこった」
「そんな、人が鴉なんて操れる訳──」
「もしかして──『力』を持った人が?」
否定する小蒔を遮るように言った醍醐に、アン子は慎重に頷いた。
「……そう──ね。美里ちゃん達のは旧校舎で何かがあってからみたいだけど、
もしかしたら──美里ちゃん達の他にもいるかもしれない」
アン子の推論は、龍麻達を調査に赴かせる餌かもしれなかったが、
そうさせるだけの説得力をもまた有していた。
「どうする? 緋勇」
「俺は行く」
あまりにはっきり龍麻が即答したので、アン子を含めた全員が驚いた。
集中する視線を、龍麻は臆せず受けとめる。
「俺が真神に来た理由は前に話したよな。京一達が使えるようになった『力』――
無関係とは思えないし、今回の鴉にも関係しているのならなおさらだ。
小さな手がかりでも、俺は追ってみる」
理想的な答えに顔を輝かせるアン子に、龍麻は一方で厳しい顔を向けた。
「遠野」
「な、何よ」
「お前は新宿に残れ」
強い命令口調にアン子は怯んだが、すぐに反撃してきた。
「な、何言ってるのよッ! これはあたしが追ってる事件なのよッ!!」
「危険過ぎる。大勢の鴉に一度に襲われたら、とても護りきれない。美里と桜井も行かない方がいい」
いみじくもアン子自身が言った通り、鴉の殺傷力は決して侮れないものであるし、
彼女には異能の『力』がない。
とても連れていけるものではなかった。
「ボクは行くよッ!!」
しかし、アン子よりも先に立ちあがって異を唱えたのは小蒔だった。
「ボクだってこの『力』のコトが気になってるんだよ。緋勇クン一人に任せておけるワケないじゃない」
小鼻を膨らませて力説する小蒔は、生まれたての太陽のように生気がみなぎっている。
少し水をかけたくらいでは、彼女の勢いを止めることなどできないどころか、
よけいに焚きつけるだけだろう。
鋭い眼光で小蒔を見つめた龍麻は、彼女の決心が微塵も揺るがないと悟ると、
小さなため息で同行を承諾した。
「美里はどうする」
「私も……行くわ」
ためらいつつ、葵も答えた。
龍麻自身が行かない方がいいと言っているのだから、素直にそうすればいいはずだ。
しかし、親友である小蒔が行くと言った以上、ついていかないわけにはいかなかった。
彼女が万が一鴉に襲われて怪我をしたとき、癒す『力』が必要となるだろうからだ。
本来なら小蒔を止めたかったが、一度定まった彼女の意志をくつがえすのが難しいのは、
高校二年間のつきあいで良く知っていた。
「うんッ。葵のコトはボクが護るし、緋勇クンだって護ってくれるんでしょ?」
「ああ」
「はい決まりッ。んじゃアン子は悪いけど待っててよ。なんかわかったら連絡するから」
「ホントに悪いわよ。いい、ラーメン奢ったんだからちゃんと報告してよねッ。
手抜きだったりしたら許さないから」
水を飲んでようやく気分を落ちつけた杏子が、檄を飛ばす。
それに軽く肩をすくめた京一は、渋谷のどこから調べてみれば良いか訊ねた。
「んでアン子、お前どっから行くつもりだったんだ?」
「代々木公園。あそこはもともと、都心の鴉の半分以上が寝床にしてるの。
最近は更に増えたって話も聞くわ」
「そうか……それじゃ、まずは代々木公園を目指すとするか」
「頼んだわよ」
最後の最後まで未練がましい表情をして見送る杏子に苦笑いで返した龍麻は、
ラーメンの代金にしては高い気もする調査行へと赴くのだった。
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