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山手線はこの時間でも空いているということはなく、ほぼ満車だ。
五人は固まって乗りこんだが、やはり多少は離れてしまう。
混んでいるのは東京で電車に乗るなら日常的なことであるし、渋谷までは大した距離でもないので、
その点については誰も文句を言わなかった。
混んでいる電車内で会話をするのもなんとなく憚られ、それぞれが渋谷まで電車に揺られる。
電車が動きだしてすぐに、葵は異変に気づいた。
身体を触られている。
それが偶然でないのは、そこ以外には触れられていないのだから確実だった。
葵は満員電車に乗った経験が少なく、痴漢という存在に遭遇したのも初めてで、
いきなり尻を触られて、すくんでしまったのは無理からぬことだが、
声も出せないほど衝撃を受けたのはそれだけではなかった。
葵の尻を触れる位置にいるのは、龍麻しかいない。
押しこまれるようにして乗った電車だから、位置取りなどままならないはずなのに、
龍麻は巧みに背後に立ち、電車が動きだし、葵の注意が逸れたときを逃さず尻を触り始めたのだ。
龍麻は掌を尻全体に押し当ててじわりと圧力をかけつつ、
スカートの裾からわずかに出ている指先で、太股を左右になぞる。
それはこれから触れる場所を予告しているようであり、葵がどのような態度を取るのか、
反応をうかがっているようでもあった。
葵は龍麻に好意など持っておらず、彼を庇う義理はない。
だが、嫌悪を抱いている相手とはいえ、警察に突きだすにはためらいがあったし、
女性として痴漢を訴えでるのには当然の恥じらいもあった。
新宿から渋谷まではわずか十分足らずなのだから、その間だけ我慢すれば済むことだ。
葵は下唇を噛んで不愉快な気持ちを押し殺しながら、
恥知らずな同級生に十分だけ好きにさせることにした。
葵が抵抗しないと見るや、龍麻の手はすぐに増長した。
一通りスカートの上から尻を撫でまわしたかと思うと、あろうことかスカートをまくり、
中へと入りこんできたのだ。
あまりの図々しさに葵は一瞬自失する。
その一瞬が、葵の敗北を決定づけた。
尻だけなら我慢できると思っていた葵をあざ笑うように、破廉恥な指先は足の間をまさぐり始めた。
「……!」
自分でさえほとんど触れたことのない秘裂を、他人の指が這いまわる。
その恐ろしさに葵は気を失いかけたが、おぞましい指先は穢れなき聖女が慈悲にすがることを許さない。
大胆なくせに繊細な動きをする指は、ほどなく葵に、気持ち悪さ以外の感覚をもたらしはじめた。
嘘だ、と否定する間にも、新たな刺激が次々と送りこまれてくる。
それは身体の内側からの火照りをもたらす、不思議な感覚だった。
おかしい、と葵は考えた。
葵は自分の身体の性的な反応について良く知っているわけではないが、
こんなにも感じてしまうのは明らかに変だ。
すぐに葵はこの異変が、龍麻の使う氣によってもたらされていると気づいた。
それは先日、旧校舎に入って蝙蝠に襲われた日。
龍麻は治療という名目で葵に氣による治療を施し、傷は確かに治った。
ただし氣という怪しげな力は葵をただ治療しただけではなく、快感という副作用も伴っていたのだ。
聞かされていなかった副作用のせいで、葵は龍麻にあられもない声を聞かせてしまったことを
今も恥じている。
その時龍麻は、氣とは生命力であり、それを注がれれば一時的に身体が火照ったようになるなどと
言っていたが、その効用を悪用しているに違いない。
『力』を悪用する卑劣なふるまいに葵は憤った。
だが、原因がわかったからといって、どうすることもできない。
彼の手を掴んで痴漢だと叫ぶことができない以上、堪え忍ぶしかない。
それに電車は目的地まで半分を過ぎ、あと少し我慢すればこの恥辱は終わるのだ。
唇を強く引き結び、葵は耐え抜いてみせると覚悟を決めた。
そんな葵の覚悟をあざ笑うかのように、龍麻の指先は大胆さを増していく。
秘裂の上を指の腹でなぞったかと思うと、指を立て、
下着の上からお構いなしに裂け目の奥をまさぐろうとする。
パンストと下着があるから挿入される危険はないとしても、
そこに何があるかを強く意識させる指の動きは、否が応でも葵の羞恥を煽りたてるのだ。
加えて不定期に訪れる、龍麻の氣による刺激はどれほど備えていても無視はできず、
不本意な甘い痺れが下半身に広がる都度、葵は足を締め、
口から漏れそうになる吐息をこらえねばならなかった。
だが、葵の必死の努力も、気まぐれな電車の揺れで水泡に帰してしまう。
わずかな揺れが葵の意識を逸らし、バランスを保とうと力のいれ具合を変えた瞬間、
狙いすましたかのように龍麻の指がもっとも敏感な箇所に触れた。
「……ッ……!」
息を呑んだ葵は、その音の大きさに戦慄する。
他の乗客に聞こえていたら、羞恥の海で溺れ死ぬところだ。
周りを確かめる勇気さえなく、ひたすらに眼を閉じ、
この悪夢が早く終わってくれるよう願うしかなかった。
しかし、気づかれれば共に身の破滅だというのに、龍麻は痴漢を止めない。
それどころか繊細な愛撫と不規則な氣による刺激を組みあわせ、ますます増長するばかりだ。
「……は、ぁ……」
昂ぶる熱を抑えきれず、葵は小さく息を吐く。
誰にも気取られないように、小分けにしてなんとか吐いたというのに、
すぐに次の熱が下腹から葵を炙るのだ。
逃しきれない熱は、身体に溜まっていく。
頬に、胸に、そして下腹に。
その源となる龍麻の指先のイメージが、脳裏に焼きついて離れない。
自分を苦しめているものを、なぜ強く意識しなければならないのか、不合理な事態に葵は葛藤する。
だが、そんな葛藤すら嘲笑するように、龍麻の指は快感を送りこみ続けた。
弦楽器を演奏するように前後する指は、絶妙な加減の愛撫を施す。
湿り気を帯びた沼地へと変貌しつつある葵の秘裂に、一往復ごとに確実に快感の痕を残していき、
経験したことのない昂ぶりを覚える葵は、唇をわななかせて耐えねばならない。
すでに電車は原宿を過ぎ、渋谷まではあと三分を切っているが、
そのことにも気づかないほど、龍麻の魔指に翻弄されていた。
「っ……ん……」
何度目のことか、数える気にもならない波が葵を包む。
まったく不本意ながら、わずか十分ほどの間に慣らされてしまった葵の肉体は、
次の波を予測し、無意識に待ち望むようになっていた。
指の腹が五回、小さな円を描くと、擦りあげる動きに変わる。
その動きの頂点でもたらされる強い刺激、おそらくは氣による刺激が、どうしようもなく気持ちいい。
一回、二回、頭の中で円を数える。
三回、四回、いよいよ次の円で痺れるような快感が訪れる。
葵は声を出してしまわぬように軽く下唇を噛んで、その瞬間を待ちうけた。
だが、五回目の円は描かれなかった。
龍麻の指は四つの円を描くと、敵に見つかった小動物のように、
あっという間にスカートの中から逃げていったのだ。
呆然とする葵をよそに、電車は渋谷駅に到着し、葵は人の流れに半ば強制的にホームへと押し流された。
何が何だかわからないうちに、気がつけば、渋谷駅の外に立っていた。
人混みを外れて立つ葵の身体には疼きが残っていて、
太股を擦りあわせたい欲求をこらえなければならなかった。
「葵、どうしたの? 顔赤いけど、調子悪くなっちゃった?」
心配する親友に、葵は笑顔を作ってみせる。
「久しぶりにこんなに混んでいる電車に乗って、少し酔ってしまったみたい」
親友に嘘をつく心苦しさを隠さねばならず、その原因である男に対する憤りは増すばかりだった。
とはいえ、いいように触られ、まだ昂ぶっている身体は、気を抜くと吐息が漏れてしまいそうで、
もうしばらくは調子が悪いふりを続けなければならない。
葵はうつむいたまま、彼らと共に渋谷の街を進んだ。
渋谷の街は、普段と変わる所はなかった。
短期間に九人もの死人が出ているというのに、人の流れは全く減ることもなく街を埋め尽くしている。
立ち止まっているだけで邪魔者扱いされそうな人混みの中、辟易したように京一は首を振った。
「ここも相変わらずうるせェ街だな。けど、特に変わった様子もねぇみてぇだけどよ」
「鴉も見あたらないな……取りあえず、公園に行ってみよう」
応じる龍麻は痴漢をしたことなど気にも留めない風だった。
あまりに堂々とした態度に、本当に痴漢の主は彼だったのかと訝りもする葵だったが、
あの指は明らかにただの痴漢ではなく、氣を使っていた。
京一や醍醐が痴漢などするはずがないから、龍麻にやはり間違いはない。
依頼されたとはいえ、自分にほとんど関わりのない事象に積極的に関与する彼の態度と、
レイプ紛いのことまでする卑劣な態度の、どちらが本当の彼なのか分からなくなる葵だった。
駅と反対方向へ、流れに逆らって龍麻達は歩く。
すると、急に京一が走り出した。
「──ッと、信号が変わる。走ろうぜ」
別に信号一回くらい待っても大した時間ではないだろうに、と一行は思いながらも彼に続く。
後を追う龍麻の目の前に、急に少女が現れた。
実際はもちろん龍麻がよそ見をしていただけなのだろう。
それにしても突然で、決して悪くはない龍麻の反射神経をもってしてもかわしきることは出来なかった。
少女が全くよけようとしなかったこともあり、身体の三分の一ほどがぶつかってしまう。
「痛ッ」
「──すまない、大丈夫か?」
少女はよろけたものの、何とか倒れずにすんでいた。
腰をさすりながら、加害者を見つめる。
その瞳は被害者に似つかわしいものではなく、信号が変わりかけている横断歩道で宿すには、
少し情熱的に過ぎた。
それも、燃えさかる炎のような情熱ではなく、降り止まない雨のような――
情念と呼んだ方がいいかもしれない、陽よりは陰を感じさせるものだった。
瞳以外は印象の薄い、別れた直後に忘れてしまいそうな顔立ちの少女は、
その瞳だけで龍麻を繋ぎ止め、交差点で立ち止まらせた。
「いえ──わたしもよそ見してたから。あなたこそ、怪我はないですか?」
「……ああ、俺は大丈夫」
「本当にごめんなさい。わたし、少しぼんやりしてて……」
お互いなんともなかったのだから、この話はこれでお終いだ。
横断歩道の反対方向にそれぞれ歩み、以後の人生で邂逅する可能性はゼロに等しいはずだ。
それなのに少女は立ち去ろうとせず、龍麻も、なぜかその場に立ち尽くしていた。
「あの、名前を……聞いてもいいですか?」
初めてあった、しかも通りすがりに肩が触れただけの少女に名乗るなど、
警戒心が足りないと言われても仕方がない。
しかし、問われるがままに龍麻は名乗った。
「緋勇……龍麻さん……」
少女がゆっくりと自分の名前を呟く。
それは、そうされるべき韻律を伴っているかのようだった。
少女はなお龍麻に話しかけようとする。
そこに、クラクションが割って入った。
催眠術から醒めたようにまばたきをした龍麻は、周りを見渡して状況を確認する。
横断歩道に残っているのは龍麻達二人だけで、このままでは中央に取り残されてしまう。
「あ……引き止めちゃってごめんなさい。それじゃ……また逢えるといいですね」
ぶつかった相手にする挨拶にしては、鉛色の雨のような重さを伴った別れを告げた少女は、
言うが早いか龍麻が来た方向へと走りだし、龍麻も、困惑しつつ彼女が来た方向へと走り出した。
横断歩道を渡り終えたところで、何かに衝き動かされるように龍麻は振り向く。
そこにもう、彼女はいなかった。
白昼夢でも見たのかと己を疑う龍麻を、前方から京一が呼んだ。
「おい緋勇、何してんだ、こっちだッ」
頭を一つ振った龍麻は、京一のところに走った。
彼らと合流したとき、龍麻は安堵のため息をついた。
自分でもなぜ、そんなため息をついたのかわからない。
だが先ほどの少女は、昂揚以外の何かを龍麻にもたらしたのは事実だった。
「なんだよ、何やってたんだよ。まさかおネェちゃんをナンパしてたとかじゃねぇだろうな」
「ああ、いや、違う。ただ、ちょっと」
それは龍麻らしくない受け答えだったのかもしれない。
京一は木刀を小脇に抱えなおして彼を追及した。
「ちょっと、なんだよ」
「……ちょっと、人とぶつかって謝ってた」
「それがお前のナンパのやり方か? あんまり上手いやり方にゃ思えねえがな」
「もうッ、京一じゃないんだから、緋勇クンがナンパなんてするワケないだろッ」
「いやいや小蒔、こいつは案外こう見えて」
「えーッ、そうなの!?」
目を丸くする小蒔に、龍麻は苦笑いで応じた。
「ナンパはしたことないな、もちろん今も」
「だよねッ、こら京一ッ、適当なコト言ってんじゃないよッ」
「馬鹿野郎ッ、男たるものナンパのひとつくらいしねえでどうすんだッ、
お前もオトコならわかんだろうが」
「誰がオトコだッ!!」
軽妙な、軽妙なだけの会話に、今度は本当に龍麻は笑った。
心底楽しそうな龍麻に、小蒔と京一が顔を見合わせる。
「……そんなに面白かったかな、今の?」
「そりゃあお前、オトコがスカート履いてたら面白ェだろ」
「まだ言うかッ!!」
思い切り京一の足を踏みつけた小蒔は、怒り心頭で先に行ってしまった。
醍醐と葵が慌てて後を追うが、京一は悶絶している。
「畜生あの野郎ッ、思いッきり踏んでいきやがったッ」
木刀を抱えたまま、器用に片足を抱えて飛び跳ねる京一に、龍麻はますます笑いが止まらなくなった。
「面白いな、お前ら」
「……誰も笑わせようとやってんじゃねェよ」
憮然とする京一をなだめ、龍麻は彼らを追う。
そのやり取りにどれほど龍麻が救われたか、彼らは知る由もなかった。
十分ほど歩き続け、ようやく人の気配も少なくなってきた頃。
少し前から無言だった小蒔が、もう我慢できないというように口を開いた。
「ねぇ、ボク考えたんだけどさ」
「あん? なんだよ」
「犬神せんせが言ってた、ミサちゃんが言ってたことってあったじゃない」
「あァ、犬と猿と雉だっけ」
「そりゃ桃太郎だろッ! 未の方角に獣と禽の暗示ってやつ」
どうやら素で言っていたらしい京一は、小蒔の突っ込みに沈黙したままだ。
後を継いだ醍醐は、口の中でミサの言葉を呟き、何かに気付いたように顔を上げた。
「禽……か。もしかして桜井」
「うん。鴉のコトじゃないかなって」
「でもよ、んじゃ獣ってなんだ?」
小蒔の、というよりもミサの言う事に反論したい京一が、もうひとつの動物への疑問を呈する。
「それは──まだわかんないけど……」
良い思いつきだと思ったのに、あっさりと不備を見つけられてしまって小蒔はうなだれた。
その小蒔に、左手を顔の下半分に当てながら龍麻が訊ねる。
「裏密の占いは当たるのか?」
「あ、うん、去年の文化祭なんか凄かったよ。当たるって評判を聞いてよその学校の子達も来て、
教室の外まで順番待ちができてたから」
雑誌に載っているような星座や血液型の占いは馬鹿馬鹿しいと思うが、
占い自体はありえるものだと龍麻は考えている。
龍麻達の持つ『力』とまではいかなくても、何か特殊な感覚を持った人間というのは確実に居て、
その中には未来を視る能力を持っている者もいるかもしれないのだ。
ただし彼らが視る未来とは、個人の可能性の延長線であり、
可能性のひとつでしかないともいうのが、龍麻の考えだった。
裏密の話題が出たことで、龍麻は犬神を通じて渡された布きれを思いだし、
ポケットから取りだした。
「さっさと捨てた方がいいんじゃねェのか、呪われるかもしれねえぞ」
案外本気で言っているような京一に形だけ頷いて、観察してみる。
眼のような模様と、それを囲むように描かれた幾つかの幾何学模様以外は、
特に何かを感じさせるものではない。
ただし眼の影響か、何となく不気味さはあって、とてもではないがこれを頭に巻く気にはなれなかった。
まさか額に接触させなければ効果が出ないわけでもないだろうし、
ポケットに入れておいても構わないだろう。
布きれを一応畳んでポケットにしまった龍麻の、聴覚を何かが刺激する。
不審に思い、意識を集中させると、女性の悲鳴が渋谷の街を切り裂いた。
「きゃああァッ!」
「おい、なんだ今のは!?」
「あっちだッ! あっちでおネェちゃんが俺に助けを求めているぜッ!」
女性に対する感覚は通常の五割程鋭い京一が、声のした方向をしっかり聞き分けて走り出す。
まるで迷いもなく路地を曲がる京一に、
運動神経が決して悪い訳ではない四人が完全に遅れを取ってしまった。
「あ、ちょっと、京一ッ!」
「俺達も行こう、緋勇」
「ああ」
ぼんやりとしていたのはわずかな間のことで、すぐに龍麻達も京一の後を追いかけた。
悲鳴の主を見付けた龍麻達は、しばらく女性を助ける事も忘れて呆けていた。
十羽以上の鴉が一斉に襲い掛かっている。
その黒い雲のような集団に、異様な気配を感じて立ちすくんでしまったのだ。
もちろん助けるつもりはあるにしても、どう手を出して良いかわからない。
困惑する龍麻達に、横合いの路地から呼びかける声があった。
「おい、あンたらッ!! レディが助けを求めてンだ、その気があンなら手ェ貸しなッ!!」
男は京一と同じ位の身長だったが、その顔立ちは幾分幼く見える。
髪の色は派手な金で、それが全て逆立っているために、見た目のインパクトは相当なものだった。
その気障な物言いに呪縛を解かれた京一が、木刀を取り出して鴉の群れに歩み寄る。
「ヘッ、お前に言われなくたって」
「フン、男が三人か。まぁ足しにはなンだろ。お嬢さんたちは下がってな」
大見得を切った男は、京一と同じような細長い袋から何かを取り出した。
中から出てきたほぼ同じ長さの二本の木の棒を繋ぎ合わせ、
更にその先に尖った金属製の穂先を着ける。
「槍か……」
「そうさ。オレ様の槍さばき、良く見ておくンだなッ!」
具合を試すように槍を回転させた男は、いきなりやや上方、鴉の群れの中心に向かって突き出した。
無造作に見える突きだったが、刺し貫かれた鴉が悲鳴を上げて群れから永遠に離脱する。
見事な槍術の腕前を見せつけられた龍麻達は、遅れをとらじと散開して鴉に相対した。
鴉の群れはその知性の高さを証明するように統率された動きで襲ってきたが、
以前動きだけならもっと速い蝙蝠とも闘ったことのある龍麻達は、
飛行する類に対する闘い方を学んでいた。
京一と龍麻が遠間から牽制し、鴉を女性から遠ざける。
次に小蒔と葵が醍醐に護られながら素早く女性を助け、安全な所まで下がれば、
後はもう思う存分にやるだけだった。
いくら鴉に鋭い嘴があっても、氣を纏った龍麻達にはいかほどの攻撃も与えられない。
顔面めがけて飛びかかってくる所を逆に狙い打ち、叩き落とす。
鴉達は自分達の爪と嘴が届く数十センチ先で激しい衝撃を受け、成す術無くやられていくしかなかった。
四人それぞれが一羽ずつ屠り、雨紋が更に一羽死に導いたところで、
遂に、一時的に夜になったかと言う程の羽根を散らしながら逃げていく。
鳴声が遠ざかっていき、静寂が訪れたところで龍麻達は肩の力を抜いた。
「どうやら片付いたようだな」
「あンたらも中々やるじゃねぇか。見なおしたぜ」
なれなれしい言葉に、龍麻達は改めて男を見た。
怪我はない。
それどころか、息さえ切らしていない。
初めと同じ、瓢々とした態度を崩さない男に、京一がうさんくさそうに訊ねた。
「お前──、一体何モンだ?」
「オレ様か? オレ様は通りすがりの正義の味方さ」
「オレ様なんて言う人初めて見たよ……ね、緋勇クン」
袖を引っ張りながら囁く小蒔に龍麻は頷いたが、それよりも彼が見せた技の方に心を奪われていた。
槍術自体は珍しくはあるものの、見ない訳ではない。
しかし、彼の操る槍の先端からは、はっきりと氣が流れていた。
それも黄色の、まるで雷光のような氣が。
彼も、『力』持つ者なのか──
好奇と、いささかの警戒を含んだ口調を、龍麻は完全には消せなかった。
「名前を教えてくれないか。俺は緋勇龍麻」
穂先に付いた禽の血を丁寧に拭った男は、名乗りを上げた龍麻に口の端を吊り上げる。
それは嫌味なものではなく、どちらかと言うと照れ隠しに見えた。
「あンた──そんなナリして、意外と丁寧なンだな。へッ、気にいったぜ。
オレ様は雨紋雷人。よろしくな」
「あぁ、よろしく。それで──その」
『力』についてどう切り出したものか、龍麻は言葉を選ぶ。
しかし、そこに彼らが救った女性が近づいてきたために質問は中断せざるを得なくなってしまった。
「ありがとう──あなたに助けてもらうのは、これで二度目ね」
「またあンたか? 全く懲りねェ人だな、いい根性してるぜ」
どうやら雨紋と女性は知り合いであるようだった。
女性は二十歳は優に過ぎているようだったが、話ぶりからすると、
以前もこのように襲われていたのだろうか。
肩をすくめる雨紋に笑顔を返した女性は、龍麻達の方に向き直った。
すっきりと通った眉と、その下で軽い三日月を描いている目は理知的な印象を見る者に与え、
あまり濃くはない、しかし要点は抑えている化粧は、彼女の第一印象をさらに引き立てた。
「あなた達もありがとう。これ、渡しておくわ」
「天野……絵莉さん」
「ルポライターって……アン子の親分みてぇだな。あんたも何かを調べてる途中かい?」
「まァ、そんなところね」
名刺を覗きこんだ京一が訊ねても、絵莉はごく当然のように質問をはぐらかす。
それは、女性でフリーのルポライターとしてやって行くためには、しなければならない処世術だった。
生き馬の目を抜くこの業界では、
ほんの少しの情報漏れによって飯の種を奪われることなど日常茶飯事だ。
目の前の子供達がこれから自分と関わるとも思えないが、用心はしくに越した事はなかった。
それにしても、雨紋という少年といい、今の彼らといい、
大人でも難しいと思われる鴉の群れをあっけないほど簡単に撃退している。
それも雨紋の槍ともう一人の木刀はともかく、残る二人は素手でだ。
用心がルポライターになったことで身につけた能力なら、
貪欲なまでの好奇心はルポライターになるために必要な才能だった。
それが絵莉の中で目覚める。
「あなた達……なにか武術でもやっているの? 素手で鴉と闘うなんて普通の人は出来ない事よ」
狙いを目の前の少年に定め、質問責めにする。
「……まあ」
「空手? それともボクシングか何か? 随分特訓してるんでしょう?」
龍麻の消極的な反応に構わず、絵莉は矢継ぎ早に訊ねた。
考える暇を与えず、こちらから次々と選択肢を提示していけば、
その中に答えがあった場合に答えるか、そうでなくとも必ず何らかの反応がある。
しかし、そんな絵莉の目論みは、金髪の少年によって邪魔されてしまった。
「やれやれ……いい加減この事件からは手を引いた方がいいぜ。
こないだも今も、オレ様がたまたま近くにいたからいいようなモンの」
襲われていたことなど何とも思っていないような──事実そうなのだが──絵莉に、
辟易したように雨紋が口を挟んだ。
そんな妨害ごときで取材を止めてしまったら到底ルポライターなど名乗れない。
構わず質問を続けようとする絵莉を、今度は短髪の少女が妨害する。
彼女は雨紋に向かって訊ねた。
「この事件って……もしかしてカラスのこと?」
開きかけていた口を閉じた絵莉は、素早く全身を耳に切り換えて二人の会話に集中した。
「……」
「ボク達もこの事件を調べはじめたところでね、
今から代々木公園に行こうと思っていたところだったんだ」
外見通りに活発な言葉遣いの少女は、訊ねもしないのに彼らの目的を教えてくれた。
周りの男達、特にこの中でも一番大きな身体つきをした少年が失策を嘆くように顔を手で覆っている。
むしろその態度が、それが彼らにとって重要な情報であることを示していた。
「桜井!」
「あ……」
代々木公園……確かに鴉が多い公園ではあるけれど、あそこに何かがあるのだろうか。
眼光を鋭くした絵莉は、しかし注意深くそれを消し、少年達の会話を引き続き見守ることにした。
「あンたら代々木公園って……あそこが今どういう状況かわかって言ってンのかッ!?」
「フン──」
不敵な笑みを浮かべるだけの京一に、雨紋は警戒を強めて訊ねる。
「あンたら──渋谷に何しにきた」
「お調子者が喋っちまったから仕方ねェ。俺達ゃ人食いカラスを退治しに来たのさ」
もはや探り合いはこれまで、とばかりに京一は自分達がここに来た目的を雨紋に教えた。
こういう駆け引きが苦手な醍醐も顎に手を当てて考え深げに同意する。
「正直言って遠野の言うことだけでは今一つ信用出来なかったが──今は信じざるをえないな。
何しろ、こうして目の前で襲われていたんだから」
「おいおい、あンたら気は確かか? カラスが人を襲って殺すなンてありえないぜ」
手にした槍を弄びながらおどけて否定する雨紋だったが、誰も乗ってこなかった。
もっとも、それは雨紋自身にも責任があるかもしれない。
何しろ、つい今しがた絵莉と同じ内容の会話をしたばかりなのだ。
それにあれほど殺気だっていた鴉と直接闘った龍麻達にしてみれば、
雨紋の台詞は白々しいほどだった。
「さっきの鴉は明らかに統一された意志の元で襲っていた。
それにもう一つ、鴉以外に気配を感じた。なぁ緋勇」
同意を求める醍醐に、龍麻は頷いた。
自分達三人とこの雨紋の氣、それらが一箇所に集中していた為にはっきりとは解らなかったが、
確かにもう一人の氣がさっきはあったのだ。
「あぁ。何か……禍々しい氣だった」
「氣──だと?」
「あぁ、お前に言ったってわかりゃしねェだろうけどよ」
馬鹿にしたようにも聞こえる京一の言葉にも、雨紋は反発しなかった。
それどころか表情を改め、探るような目つきで龍麻達を見やる。
「……どうやら伊達や酔狂で言ってる訳じゃなさそうだな。
──もう一度聞くぜ。本気で代々木公園に行くつもりなのか?」
「あぁ」
「代々木公園は今、スゲェ数の鴉に占領されてて入るどころじゃない。
ハンパな気持ちじゃ──死ぬぜ」
「ヘッ、誰がハンパな気持ちだって?」
雨紋は決して脅している訳ではなかった。
それは低く抑制された口調からも明らかだったが、それだからこそ、京一は余計に反発した。
「よせ、京一。雨紋──とか言ったな。俺達の話も聞いてくれ」
「あンたは?」
「俺は醍醐だ。新宿の真神の」
短くそう名乗っただけの醍醐に、雨紋は感銘を受けたように大きく頷いた。
やや斜に構えていた姿勢さえただし、醍醐に敬意めいたものを含んだ眼差しを向ける。
「……あンたが醍醐か。話にゃ聞いてるぜ。
っつーか渋谷で真神の名前を知らねェヤツはいねェけどよ」
「光栄だな」
「そういやこの前もあンたんトコのヤツとウチのが揉めたとか聞いたな」
思い当たる節がある醍醐は、その巨体に似合わない渋面を作った。
「佐久間か……迷惑をかけたようだな。すまん」
「別に怒ってる訳じゃねェさ。喧嘩なンてお互い様だしな」
「そう言ってもらえると助かるよ。……渋谷には詳しいのか?」
「渋谷はオレ様の生まれ育った街だからな。知らねェところはねェよ。
──オレ様はここの神代高校ニ年だ」
「よろしくな、雨紋。──で、どうだ。俺達に力を貸してくれんか?」
「なッ、あンたいきなり何言ってンだ」
「どうも──お前も代々木公園に用があるように見えたんだが、俺の気のせいだったか?」
陰口でも真神の総番長と呼ばれるだけのことはあり、醍醐は人の心を掴むのが上手かった。
今も強引に結論から入ったように見せかけて、巧みに雨紋に頷かせるように仕向けている。
恐らく表情を隠す為だろう、手で顔を覆う雨紋に脈ありと感じた醍醐がたたみかけようとした時だった。
「その通りだろう? 雨紋」
この場にいる誰のものでもない声が、雨紋の名を呼んだ。
驚く一同の中、雨紋だけが素早く反応する。
「唐栖──ッ!!」
「僕や奴の他にも『力』を持った人間が居たとは……少し計算外だったよ」
静かな口調。
しかし、そこには何者をも寄せつけない昏さを感じさせる響きがあった。
「なッ、なに……この……音……ッ」
小蒔が耳を押さえる。
謎の声と同時に、高い金属音のような物が辺りの空気を震わせていた。
脳に直接不快な周波数となって注ぎ込まれるような感覚に、たまらず女性三人がしゃがみこんだ。
一秒ごとにいや増していくその音は、やがて最高潮を迎え、そして唐突に消えた。
まだ頭の中で反響している金属音に対する不快感が、その音と共に現れた人物に対して注がれる。
「てめェが鴉を──」
京一の声もいつもほど張りがない。
それでも現れた男に向かって木刀を突きつけ、激しい感情を叩きつけた。
「そう……僕の名は、唐栖 亮一」
男は学生服の上に黒いコートを羽織っていると言うだけに留まらない、
まるで身体の内側から発しているような黒さを纏っていた。
かなり長い、女性で言えばセミロングにあたるほどの髪は鴉の羽根のような濡れた光沢を持ち、
闇から産まれたかのような彼の出で立ちで唯一色がある部分だ。
殺気こそ発してはいないが、粘性の不快感を見る者に与える、そんな人物だった。
「あなたは一体……」
「ククク……無事だったんですか。……残念だ。十人目の犠牲者にしてあげようと思っていたのに」
「あなたが──鴉を使ってやったの?」
「だとしたらどうします? 記事にしますか?」
嘲りを込めた口調に、絵莉は唇を噛む。
確かに、人が鴉を操り、九人もの連続殺人を行なったなどと、常識ある人間なら信じはしないだろう。
黙ってしまった絵莉に代わって、指の関節を鳴らしながら詰問したのは醍醐だった。
「貴様……目的は何だッ!」
「ククク……地上を這いずる虫けらに、神の意志が理解できようはずもない」
「神の意志……だと?」
「そう……僕にこの素晴らしい……鴉の王たる『力』を授けてくれた神さ」
唐栖が言った『力』という単語に、全員に緊張が走る。
目の前の男が犯人だとするなら、
やはり渋谷で起こっていた連続猟奇殺人事件は『力』によって引き起こされたものだったのだ。
立ち尽くす一行に、唐栖は口調に嘲弄をはっきりと含ませて話しかける。
それは、特に雨紋に対して向けられたものだった。
「雨紋も仲間が出来て良かったじゃないか。それだけいれば、もしかしたら僕を倒せるかもしれないよ」
「唐栖……」
「僕は逃げも隠れもしない。待って居るよ──代々木公園で」
「てめェッ、待ちやがれッ!」
言いたいことを言って、唐栖は踵を返す。
後を追おうとした京一を、どこに隠れていたのか、大量の鴉が阻む。
黒い壁が消えたとき、もう彼の姿はなかった。
忌々しげに鴉を睨んでいた京一だったが、相手が空を飛ぶ生き物ではどうしようもなく、
憤まんやる方ないといった顔で戻ってくる。
「どうやら、かなり普通じゃないのが出てきたな。これからどうするか」
「ンなの決まってんだろ。あんなイカレタ野郎、野放しにしておけるはずがねェ。
代々木公園に乗り込んでブチのめすッ! なぁ緋勇」
龍麻はすぐには答えず、槍を持ったまま苦い顔をしている雨紋の方を向いた。
「雨紋……お前、あいつのことを知っているのか?」
「あァ……まァな」
そう頷いただけで雨紋はそれ以上話そうとしなかった。
軽く思案する龍麻の背中を、誰かが小突く。
「放っとくと、十人目の犠牲者が出ちゃうかも知れないしね」
小蒔の言う通りだった。
そして、『力』を知っているあの男に対することができるのは、恐らく龍麻達だけだろう。
「よし、行こう」
短く、そして力強く頷く龍麻に、全員が同意する。
あれだけの危険に晒されておきながらなお事件に首を突っ込み、
あまつさえ解決出来ると思っている彼らが、絵莉には信じられなかった。
「あなた達、本気で代々木公園に行くつもりなの?
危険すぎるわ、そういうのは警察や大人達に任せるべきよ」
陳腐だが常識的な意見は、木刀を肩に乗せた学生に一蹴されてしまった。
「さっきアイツが言ってただろ? 人が鴉を操ってるなんて誰も信じねェよ。
それに警察だって、鴉相手じゃ勝手が違うだろうよ」
「あなた達なら……違わないって言うの?」
「へへッ、ま、やってみなけりゃ判らねぇけどな」
本当ならば厳しく止めるか、さっさと警察に連絡して行動を封じるべきだった。
しかし絵莉は、普段は重きを置くことのない直感をこの時は信じる気になっていた。
特に、彼らの中心格と思われる少年が放っている、只ならぬものを。
「……大法螺吹きには見えないわね。それに、さっき私を助けてくれたのは本当だし」
彼らを黙認することにした絵莉は、表情を改めて無謀とも思える少年達に忠告した。
「あの唐栖って子が何を考えているかはわからないけど、あの口振りからして、
単なる快楽殺人ではないのは確かね。彼は彼なりの──どんなに曲がっているとしても──
正義で行動しているんだと思うわ」
「そんな……だからって人を殺していい理由なんかにはなんないよッ」
「そうだな。桜井の言う通りだ。……だからこそ、俺達が止めなくては」
憤る小蒔に醍醐が同調し、龍麻達は代々木公園に向かおうと気勢を上げた。
その輪から少し離れた所に立つ絵莉に、葵が声をかけた。
「天野さんは……これからどうするんですか?」
「……ごめんなさい。私がつきあってあげられるのはここまでなの」
絵莉の言葉を耳ざとく聞きつけた京一が、木刀を袋にしまいながら近づいてきた。
「取材はいいのかよ」
「酷いことを言うようだけど、ルポライターって仕事は、私にとってビジネスなの。
記事に出来ない事件をいつまでも追うわけにはいかないわ」
いささか冷たくも聞こえる台詞が、建前であることは次の言葉で解った。
「それに──悔しいけど、私の手に負える事件でもなさそうだし」
「……そうだよね。慈善事業してるわけじゃないもんね」
「……ま、大人の仕事も大変だねェ」
「……そうね。それじゃ、私はもう行くわね」
利いた風な口を聞く少年たちに大人の苦笑で応えた絵莉は、軽く手を上げて去って行った。
背筋を真っ直ぐに伸ばして遠ざかる後姿に、妙に格好をつけて京一が呟く。
「天野絵莉ちゃん……か」
「こいつは……ちょっと綺麗な女の人だとすぐ鼻の下伸ばして」
「ばッ、馬鹿野郎ッ。俺は……そうだ、緋勇だってそう思っただろうが」
呆れる小蒔に気色ばんだ京一は、なぜか龍麻に話を振る。
しかし、龍麻がよこしたのは、小蒔以上に冷たい、霊峰富士の氷柱のような視線だった。
「そう思ったって、どう思ったってんだ」
「うッ……どうってそりゃあお前、オトナの匂いがするなとか、いい尻してんなとか……」
龍麻どころか今日会ったばかりの雨紋を含めた全員から無言の軽蔑を受けて、
どんな魑魅魍魎でも怖れることなどない京一もこれは効いたらしく、
意味も無く龍麻を指差して大声を上げた。
「んなコトはどうでもいいだろッ。さっさと代々木公園に行こうぜ。お前も行くんだろ、雨紋」
「どうする、雨紋? 俺達は行くが」
雨紋は考える格好をしたが、それがポーズであることは明白だった。
「……そうだな。どっちにしろ鴉は放っておけねぇし、
渋谷の街が汚されンのも許せねえしな。あンたらにつきあおう」
やや素直でない物言いながら、雨紋も龍麻達に同行することを承諾した。
こうして、龍麻達五人に雨紋を加えた一行は、唐栖が待つ代々木公園へとその足をむけたのだった。
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