<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>

(3/4ページ)

 代々木公園についた一行は、その荒涼たる光景に言葉を失っていた。
都内でも有数の面積を持ち、「都心で一番広い空が見られる」が謳い文句であるはずのこの場所が、
まるで人々が死に絶えた街に公園だけが残っているかのように人の気配がなかった。
単に誰も居ない、というだけでない、もっとそれ以上の、
瘴気めいたものさえ感じさせる場所と成り果てていたのだ。
それは誰でも容易に感じ取れるほどで、特に氣の流れに敏感になっている龍麻達にとっては、
生理的な嫌悪感さえもよおさせるものだった。
「さすがに人気は無いな」
「あァ。オレ様も出来るだけ人が近づかないようにはしてきたんだけどな、
それでも面白半分や胆試し気分で入るヤツはたくさんいるし、入ったヤツが何人か出て来てないらしい。
おかげで昼間は誰も寄りつかなくなっちまってる」
 半ば独語する龍麻に、雨紋が幾分声を低めて答える。
そのすぐ後ろを歩いていた京一が、不機嫌そうに辺りを見渡した。
「あの野郎……どっかで見てやがるな」
「あの野郎って、さっきの人のこと? そんなの分かるの、京一?」
 小蒔の問いに、やはり不機嫌そうに京一は頷いた。
「あァ、はっきり気配を感じるぜ。なあ緋勇」
 京一の視線を受けた龍麻は、そのまま醍醐に視線を転じる。
醍醐は重々しく頷き、彼も唐栖の気配を感じ取っていることを伝えた。
「それって氣のおかげなんでしょ? いいなあ、ボクも使えるようになりたいなあ」
「のんきなコト言ってんじゃねェ」
「えーッ、だって急に敵が襲ってきたらボクだけわかんないじゃない」
「そんときゃ醍醐が護んだろ。なあタイショー」
 突然話を振られた醍醐は、どもりながら答えた。
「む、そ、そうだな、うむ、任せておけ、桜井」
「ありがと。でもさ、やっぱり自分でなんとかしたいじゃない。
あ、醍醐クンが頼りないとかそういう意味じゃないよ」
「ッたりめーだ。こいつが頼りになんなかったら、誰も役に立たねェよ」
 京一に頷いた小蒔は、隣にいる葵の顔色が悪いのに気がついた。
「葵、大丈夫?」
「ええ」
 あきらかに大丈夫ではなさそうな彼女に、全員が立ち止まった。
上空を見上げた京一が顔をしかめる。
「もしかして、ここの空気のせいか」
「空気?」
「あァ。鴉のせいかどうかはわからねェが、相当空気が淀んでやがる」
「ボクはあんまり感じないけど……そうなの、葵?」
 気遣う小蒔に、葵は笑顔を浮かべた。
無理なのがありありと判り、誰も応じない。
かといってここまで来て帰らせるというのも危険だ。
「こうなったら、早く気配の元を断つしかないな」
「オレ様もそう思うぜ。急ごう」
 五人は葵を中心にした円陣を組み、公園の中心部へと急いだ。
「ところでお前、あいつとは知り合いだって」
 京一の質問に雨紋は一瞬返答を詰まらせたが、もはや避けて通れない話題だった。
幾分声を低めると、彼は唐栖との因縁を語りはじめた。
「あいつは──二ヶ月前にオレ様のクラスに転校してきたンだ。
もちろん初めからああだったワケじゃない。
転校してきたンだから友達もほとんどいなかったみてぇだが、オレ様とは席が近いから良く話をした。
変わり始めたのはここ一月前からだな」
「急にか?」
「あァ──あの日、この公園にオレ様は呼び出された」
 雨紋の脳裏に記憶が甦る。
その映像には、苦い色のフィルターがかかっていた。
「こっちだよ、雨紋。随分遅かったね。まぁ、僕は待つのは嫌いじゃないけれど。
……どうしたのかって? ……ククク、雨紋、君は神の存在を信じるかい?」
「神──だと? ンなもん、いるわきゃねぇだろうが」
「いいかい、雨紋。神は二種類の人間を創り出した。『力』を持つ者と持たざる者。
そして僕は選ばれた。『力』持つ者として──」
「『力』だと? 雨紋、さっきもそうだが、唐栖は本当にそう言ったのか?」
 雨紋がそう言ったところで、醍醐が鋭い声で遮った。
もちろん龍麻達も聞き過ごすことなどできない。
龍麻たちが共に行動するようになったきっかけである事象。
それが今日会ったばかりの雨紋の口から語られ、
また連続猟奇殺人事件の犯人とおぼしき人物も口にしたとなれば、平静でいられるはずもなかった。
「あァ」
 簡潔に頷く雨紋。
その態度は、彼もまた『力』について知悉していることを物語っていた。
「じゃあ、雨紋の槍から見えたのも……」
 龍麻がそれを口にすると、またもあっさりと雨紋は頷いた。
「あァ。オレ様も気づいたのはほぼ奴と同じ頃だった。
さっきの天野サンと同じように鴉に襲われていたレディを助けた時にな。あンたらもか?」
「あぁ。俺達も……四月の頭か。俺達は四人まとめて気づいたがな」
「四人? あんたらは五人いるだろう?」
「ああ……緋勇は違うんだ。緋勇は最初から……俺達の高校に転校してきた時から『力』を持っていた」
「そうか……道理でな。渋谷ん時も、あンただけ氣の大きさが違ったからな」
 得心したように首を振る雨紋の後ろで、京一が軽く肩をすくめた。
「全く、今年になってから訳のわからねェことばっかり起こりやがる。
人間をカラスの餌にしたがる奴はいるわ、旧校舎でおかしなコトに巻きこまれるわ、
変な技を持った男は転校してくるわ……なぁ緋勇」
「本当だな」
「お前のコトだよッ! ッたく、他人事みたいにしてんじゃねェよ」
「……」
 素で他人のことだと思っていた龍麻は、空の色に劣らないくらい顔を赤くする。
すると雨紋が、いかにも愉しそうに笑いだした。
「はははッ、あンたら本当に面白いな。……オレ様も、唐栖とあンたらくらい仲良くできていたらな」
「……雨紋」
「あァ、解ってる。今のあいつに──同情は禁物だ」
 自らに言い聞かせるように呟いた雨紋が、足を止める。
彼の前方は広場のようで、大きく視界が開け、その中央には、巨大な人工物があった。
「あそこだ。あそこに唐栖が居る」
 雨紋の声が鴉の鳴き声に消されていく。
そこに火を継ぐように、京一が言った。
「よし……んじゃ、野郎をブチのめしに行くか」
 滲んだ血の色をした空に、漆黒の使者が群れなしていた。
出発する前に杏子が言ったように、まさしく東京中の鴉がこの一箇所に集まっているかのようだった。
彼らに罪はないとしても、その鳴声は一行にどうしようもなく寂寥と恐怖感を与える。
 木刀の入った袋で肩を叩いた京一が、わざとらしく驚いてみせた。
「しかし、こりゃすげェ数のカラスだな」
「ちょっと……怖いね。前来た時はこんなじゃなかったのに」
「あァ……奴がここに来るまではな」
 生まれた土地をけなされたと思った訳ではないだろうが、雨紋はやや語尾を強めて小蒔に答えた。
その語勢のまま、今度は全員を見渡して告げる。
「あンたらも気を引き締めていけよ。──これ以上、関係ねェ人間が死ぬのを見ンのはごめんだ」
「あァ、とっとと終わらせちまおうぜ」
 雨紋に案内された一行は鉄骨が組まれた広場に到着した。
 赤茶けた色の足場はまだ組み立て途中にも関わらず、妙に朽ちた印象だった。
その足場のほとんどに、隙間無く鴉が止まっている。
このただなかに唐栖が居ると判っていても、足を踏み入れるのにためらってしまうのは仕方がなかった。
それほどまでにこの人工の止まり木は異界めいた印象だったのだ。
「ここは?」
「塔が立つらしいな。今はカラスの騒ぎで工事が止まっちまってるけどよ」
「うわ……また一段とカラスが増えたね。これなら人間の一人や二人食べちゃうかも……」
 縁起でもないことを言う小蒔に、京一が顔をしかめる。
それをフォローするように醍醐が黒鳥の大群を見渡して言った。
「しかし、今の所は襲ってくる気配はなさそうだな。……唐栖が命令しているのか?」
「……多分な。ヤツはこの上にいる。高みから偉そうに地上を見下ろしてンのさ」
 憐憫の細片が混じった口調で、雨紋が答える。
彼を横目で見ながら、龍麻は素早く作戦を立てた。
「美里と桜井はここに残ってくれ」
「そんなあッ、ここまで来て」
「足場は横に並んでは歩けない。大勢で行っても詰まったらどうしようもない」
「それはそうだけどさ……」
 口を尖らせる小蒔だが、龍麻は構わずに続けた。
「それから、その弓は使えるか?」
「うん……一応」
「用意しておいてくれ」
 自分と葵の安全が、この弓にかかっているのだ。
龍麻は戦いから自分たちを遠ざけるつもりではなく、
より勝率の高い戦法を採用しただけなのだと理解した小蒔は、一転、緊張した面持ちで頷いた。
 さらに龍麻は、もう一人に残ってもらうよう頼んだ。
「醍醐、残って二人を護ってくれるか?」
「承知した」
 足場がよいとはいえない鉄骨の上より、地面の上で守備に専念する方が向いている。
醍醐はすぐに立場を納得した。
 唐栖を目指すのは龍麻と京一、それに雨紋となる。
「作りかけだからはしごがあるな……まずあれを目指そう。
最初に俺が上るから、二人はフォローしてくれ。上ったら今度は二人が上るのを俺がフォローする」
「よっしゃッ」
「手際がいいじゃねェか。気に入ったぜ」
 槍を構えて雨紋が言う。
彼の槍の腕前は先刻確認済みだから安心できる。
そして京一の木刀は言わずもがなだ。
二人に頷いた龍麻は、一気に疾走した。
「野郎、あいかわらず突っ走りやがる」
 ぼやきながら京一が後を追う。
「お嬢さン達、危ないと思ったらすぐに逃げるンだぜッ」
 ほとんど遅れずに雨紋も続いた。
「お嬢さんって、ボク達の方が年上だよねえ」
 文句を言いつつ小蒔は弓を取りだし、弦を張る。
彼女の傍では醍醐が油断なく周囲を見渡し、鴉を警戒していた。
 先陣を切って鉄塔に到着した龍麻は、はしごを使うような手間をかけず、
跳躍して鉄骨の一本に両手をかけると、逆上がりの要領で回転し、一気に身体を持ちあげた。
今まで手で掴んでいた鉄骨の上に危なげなく立つと、京一と雨紋を待つ。
「ずいぶん派手だな、あンたのところの大将は」
「ッたくッ、派手すぎんだよあの野郎はッ!」
 雨紋がはしごを上り、京一が殿を務める。
京一が上ってきたときには、すでに龍麻は次の階を目指しており、再び垂直に移動した。
二人も運動能力には自信があるが、龍麻のそれは規格外だ。
ようやく追いついた京一は、息も切らしていない龍麻に、嫌味ともつかぬ口調で言った。
「氣を使うとそんなサーカスみてェなこともできるのかよ」
「身体に無理させるわけだから、鍛えてないと後が大変だけどな」
 体内で氣を生成――練ることができるようになったら、次段階では外に放出する術を学ぶ。
身体の一箇所に集中させるこの術を会得すれば、一時的に脚力や腕力を高めることもできる。
ただし肉体が無意識にかけているリミッターを外すわけだから、反動は後で帰ってくる。
筋肉痛なら可愛いもので、最悪の場合一生使い物にならなくなると、
龍麻は彼の師から口を極めて忠告されたものだった。
 鉄骨のあらゆる場所には鴉がひしめきあって止まっているが、
完成途中の塔を上る龍麻達を襲ってはこなかったのは、
おそらく、唐栖が攻撃を控えさせているのだろう。
三人は難なく最上層まで辿りつくことができた。
 一番奥に、唐栖はいた。
手すりも何もない足場の上に危なげなく立ち、龍麻達をじっと見つめている。
その周りには何羽かの鴉が旋回していて、主人を護っているようであった。
「ククク……待っていたよ。ここから君達を観察しながらね」
「悪趣味な野郎だな。人を見下ろすのがそんなに楽しいか?」
 うんざりするように吐き捨てた京一の台詞も、唐栖は意に介さない。
「もちろんだよ。ここからは、この汚れた世界が良く見渡せる。
神の地を冒涜せんと高く伸びる高層ビル、汚染された水と大気、
そしてその中を蛆虫の如く醜く蠢く人間たち。もはや人間という生き物に、この地で生きる価値はない」
「そういうてめェだって人間じゃねェか。勝手なことばっか言ってんじゃねェよ」
「僕が? 君達と同じ人間? ククク……全く笑わせないでほしいね。
僕は、神に選ばれた存在なんだ。そして僕はもうすぐここから飛び立つ。
堕天使たちを率いて、人間を狩るためにね」
 狂信的な響きを含んだ声は、ただ嫌悪だけを三人に与える。
たまりかねたように叫んだのは、この中で最も唐栖に近かった雨紋だった。
「いい加減にしとけよ、唐栖。この世に選ばれた人間なんていやしねェ。
テメェだってわかってンだろ。この街が腐ってンなら、これからオレ達で変えていけばいいじゃねェか」
「ククク……相変わらず甘い事を言うんだね、雨紋。
──この東京で、一体何を信じろって言うんだい。
日々起こる殺人、恐喝、強盗。犯罪の芽はもはや摘んでも摘みきれないほど溢れている。
……粛清が必要なんだよ、この東京には」
「唐栖……」
「黒い水に一滴澄んだ水を垂らしたところで色が変わるはずもない。
……雨紋。君こそどうして僕に従わない? せっかく神に選ばれた『力』があるというのに。
そして君達もだ。特に彼女──美里葵」
 下にいる当人には聞こえなかったようだが、唐突に葵の名前が出たことで、
龍麻たちは一気に警戒を強めた。
「てめェ……どうして美里の名前を知ってる?」
 木刀を突きつける京一に、嘲るように唐栖が答える。
「鴉達が教えてくれたのさ。僕の可愛い鴉達がね。僕達の『力』は、
東京を浄化するために神から与えられたものだ。そして、美里葵――彼女の美しい姿は、
この不浄の街に降りたつ救世主たる僕の傍らにこそ相応しい。そう思わないか? そこの君も」
 唐栖の挑発に、龍麻は薄ら笑いを浮かべただけだった。
京一や葵に向けるのとは異なる、純然たる侮蔑で歪んだ口元に、
先に挑発を仕掛けた唐栖の方が余裕を失っていた。
「ククク……強気でいられるのも今のうちだけさ。
すぐに全身をむごたらしく僕のこども達に食われて、惨めたらしく命乞いをするようになる。
もっとも、緋勇龍麻――君だけは、肉の一欠片まで食い尽くさせるとしよう」
「やれるものならやってみろッ――!」
 言うと同時に龍麻は鉄骨を蹴った。
地上から五メートル以上もある上、肩幅よりも狭い足場を全速力で駆ける。
地上とほぼ変わらない速さに、京一と雨紋も追いつくことができない。
「おい緋勇ッ、一人で突っこむなッつッてんだろうがッ!!」
「凄ェな、緋勇サン――だったか、気に入ったぜッ!!」
 怒鳴りあいながら、少しでも唐栖及び龍麻との間合いを詰めようと二人は走る。
そこに、鋭い金属の音が響き渡った。
人の耳にはかすかに聞こえる程度の高い周波数の音色に、鴉たちが反応する。
この最上層だけでも優に百羽以上はいた鴉は、一斉に飛びあがり、龍麻達に襲いかかった。
「くッ、邪魔するなこの野郎ッ!!」
 京一が木刀を振るい、数羽の鴉を落とす。
無造作に振るわれているような木刀が一閃する都度、古来神の使者ともされてきた漆黒の禽が、
悲鳴と共に落下していった。
 その向こうでは、穂先を白く輝かせた雨紋の槍が、やはり襲いくる鴉を撃退していた。
前方の鴉を突いたかと思うと、右に払い、左に薙ぎ、さらには後方の鴉を振り向きもせずに刺殺して、
降ってくる羽毛を避ける余裕すらみせながら、着実に鴉の数を減らしていく。
二人の勇猛ぶりは、統率された鴉たちでさえ怯ませるほどだったが、
いかんせんあまりにも数が多く、龍麻との距離を離されてしまった。
「緋勇サンッ!!」
 雨紋の叫びを背に受けた龍麻は、一度だけ彼らの方を振り向くと、
助けには戻らず唐栖を倒すために直進した。
鴉達を操っているのが唐栖である以上、彼を倒せば鴉達もコントロールを失うだろうし、
京一と雨紋は容易にやられはしないだろうという判断からだ。
深く息を吸い、体内で氣を練った龍麻は、群がる鴉に向かって氣を叩きつけた。
 龍麻達が唐栖達に苦戦している時、地上でも小蒔達が鴉に襲われていた。
醍醐が小蒔と葵を護っているが、素手であるためになかなか攻勢に出ることができない。
頼みの綱である小蒔は、今のところ鴉を一匹も倒せないでいた。
 放った矢が空しく空を切る。
小蒔がこれまで放った矢は四本で、その全てが鴉に命中することなく外れていた。
「……ッ」
 無言で吐いた息には、もう少しで舌打ちになる焦りが含まれていた。
弓道部に所属する小蒔は、日々弓を修めている。
弓道は獲物を射るために修めるのではないにせよ、肝心なときに当てられないのでは意味がない。
唇を強く引き結び、小蒔は更なる矢をつがえた。
 だが、飛び回る烏に当てるのは容易ではない。
いきなりの実戦による緊張と、当たらない焦りで全身は知らず強ばっている。
そのような状態で矢が当たるはずがなく、五本目も弧を描いただけで何物にも触れず落ちた。
「ああ、もうッ!!」
 部活で弓を射るときには、決して口にしない悪態をつかずにいられない。
どうしてこんなにも当たらないのか、すでに冷静さを欠いている小蒔には、思い至ることもできなかった。
乱暴に六本目の矢を番え、狙点を定める。
すると、前方にいて二人を護る醍醐の横を、数羽の烏がすり抜けた。
鴉達は醍醐でも小蒔でもなく、無防備な葵に襲いかかる。
「きゃあッ!!」
「葵ッ!!」
 しゃがみこむ葵に小蒔は肝を冷やしたが、どうやら間一髪で避けたようだ。
葵の無事を確認した途端、小蒔の感情は氷点下近くから沸騰寸前まで、一気に跳ねあがった。
 葵を危険に晒したのは、ボクだ。
ボクが当てられないから、ボクが不甲斐ないから、いけないんだ。
怒りに震える小蒔の全身が、青白く輝く。
「小蒔……?」
 葵の呼びかけも届かない小蒔は、ほとんど自動的に弓を構えた。
全身が灼けるように熱いのに、鏃を見つめる眼だけはカメラのレンズのように冷たく目標を捉えている。
確実に当たる――予想や期待ではなく、結果を知った小蒔は、吸った息を一瞬止めて矢を放った。
鋭い矢音が響いたとき、すでに矢は鴉に命中している。
それを確かめもせず、さらに小蒔は二の矢、三の矢を続けて射た。
「ほう……!」
 醍醐が思わず唸るほど、小蒔の弓勢は衰えを知らない。
立て続けに鴉が落ちていくのを見て、醍醐もまた気合いを入れ直した。
 鴉は知能が高く、警戒心も強い。
小蒔が数羽倒したことで、次第に距離を取りはじめ、さらに醍醐が追撃をかけると、ついに逃げていった。
「ふう……もう大丈夫みたいだね」
「ああ、見事なものだったな、桜井の氣は」
「えへへッ、自分でもビックリしてるよ。ホントにこんな『力』が使えるなんて……あ、そうだ、葵!」
 心の底から褒める醍醐に、照れた笑いで応えた小蒔は、親友のことを思いだして身を翻した。
「ケガはしてない?」
「ええ、大丈夫よ。小蒔こそ怪我はしていないかしら?」
 小蒔が自分の身体を確認すると、何ヶ所かに血が滲んでいた。
集中していて気がつかなかったのだろうが、大した怪我でもなさそうだった。
「ちょっとだけ、でも平気だよ」
「駄目よ、ばい菌でも感染したら大変だわ」
 言うなり葵は精神を集中する。
身体にあふれる強い力――氣を、怪我をしている小蒔の左足に添えている手から、患部へと伝えた。
白い輝きが掌から消えると、小蒔の怪我も完治していた。
「ひゃーッ、凄いね、葵の『力』は」
「ううん、そんな……治って良かったわ。跡が残ったら大変だものね」
「えへへッ、ありがと」
 さらに葵は醍醐の顔にも傷があるのを見つけた。
「醍醐君も、怪我をしているわ」
「ん? ははッ、俺は身体が大きいからな。全てを避けるというわけにはいかんのさ。
何、この程度なら大した傷じゃない、すぐに治るさ」
「いけないわ」
 葵は彼の頬に掌を当て、意識を集中させる。
照れくさそうにしていた醍醐も、傷が完全に癒えたと知ると、再び感嘆した。
「礼を言うよ。それにしても、見事なものだな」
 儀礼的に頷いて、葵は視線を移した。
その先には、唐栖と戦っている龍麻達がいる。
「大丈夫……だよね」
「うむ。緋勇と京一は強いし、あの雨紋という男もかなり出来るようだからな。
後れを取ることはないだろう」
 葵と同じ方向を見つめる小蒔と醍醐の会話を聞きながら、葵は別のことを考えていた。
 怪我を一瞬で直してしまうような強力な『力』など、やはり必要ない。
普通の高校生――いや、普通の人間には過ぎた力だ。
今日は小蒔の怪我を治すことができたが、もしまた、
彼女が今日のような危険に首を突っこもうとしたら、その時は絶対に止めなくてはならない。
それこそが自分の役割なのだ。
この望まぬ『力』も、放っておけばそのうち消えるだろう。
緋勇龍麻とも距離を置き、受験生らしく勉強に専念するのだ。
けたたましい鴉の鳴き声に抗うように、葵は強く心に誓った。
 醍醐の予想は的中し、龍麻達は唐栖を追い詰めていた。
雨紋と京一は唐栖のもくろみ通り、上空からの鴉達の攻撃に足止めされていたが、
龍麻は鴉に襲われつつも足を止めずに向かってきた。
彼が指示を与えた鴉が、龍麻に触れてすらいないのに、
遠間から打ち落とされるのを見た唐栖は危険を感じ、全ての鴉を龍麻に向かわせようと笛を吹こうとする。
その寸前、龍麻の拳から練った氣が放たれた。
「く……ッ……!」
 不可視のエネルギーが唐栖の手を打つ。
それは羽虫を潰す程度の威力しかなかったが、唐栖の手から笛を落とさせるには充分だった。
 床に落ちた笛を、唐栖は慌てて拾いあげる。
戦いに慣れていない彼が、敵から目を逸らし、再び視界に捉えたとき、
すでに龍麻は拳の届く距離にいた。
「がは……ッ!!」
 鴉を操る『力』は得ていても、肉体そのものは鍛えてもおらず、
普通の人間となんら変わるところのない唐栖には氣を練った打撃でなくとも充分だった。
たちまち悶絶し、鉄骨から落ちそうになる身体を龍麻が支える。
その手から再び笛が滑り落ち、地面と衝突して最後の音色を奏でた。
「見て……カラスが皆飛んでく」
 小蒔の言った通り、響き渡った澄んだ音を合図にしたかのようにして、
公園中にいた鴉が一斉に飛び立つ。
その激しい羽音に、龍麻達は振動で落ちないよう鉄骨にしがみつかねばならないほどだった。
 渋谷の街を震撼させていた事件の首魁を倒した龍麻達は、広場へと戻ってきていた。
渋谷の空を覆いつくすほどだった鴉達は一羽たりともおらず、
初めて足を踏み入れた時に感じた、瘴気めいたものも消えうせている。
いずれ鴉達は戻ってくるにしても、もう唐栖に操られるようなこともないだろう。
その唐栖は、龍麻に担がれて鉄骨を組んだ足場から降ろされ、地面に横たえられていた。
「うっ……うぅ……」
「唐栖……」
「さっきまでの邪氣が嘘のようだな」
 醍醐にすぐには応えず、雨紋は唐栖の傍らに膝をついた。
「あァ……もうあの『力』を使う事も出来ねェだろう。……唐栖よ、人間もカラスも同じさ。
薄汚れて堕ちていくのは簡単さ。でもよ、心まで堕ちなきゃ、幾らでも飛びあがれる翼を持っている」
 雨紋の独語めいた台詞にも、唐栖は反応しなかった。
気を失ってはいないようなので、雨紋の頼みもあり、
ここは彼に後を任せ、龍麻達は引き上げることにした。
無論、彼が間接的にせよ、九人もの人間を殺害したという事実は消えないが、
警察に言っても相手にされる訳もなく、後は彼の良心に委ねるしかない、
というのが彼らの出した結論だった。
強大な『力』を持っていても、精神的には未だ高校生でしかない彼らには
人生を積み重ねることでしか得られないものが欠けていたし、
やや中途半端な処置でも、他に取れる手だてはなかった。
 唐栖の様子が安定しており、これ以上事件を引き起こせなくなっていることを確かめた龍麻は、
立ちあがり、誰に言うともなく呟いた。
「他にも、唐栖や俺達のような──人間がいるんだろうか」
「さァな。けどよ、何が原因か知らねェが、俺達だけとは思えねェな」
「うむ……」
 龍麻達三人の会話を聞いていた雨紋は、努めて明るい声を出した。
「んじゃ、オレ様も帰るとすっか」
「もう行っちゃうの?」
 小蒔の言葉に、雨紋は寂しそうに首を振る。
「……唐栖の後始末も付けねェといけねェしな」
「その後は?」
 重ねての質問に、雨紋は彼女ではなく、龍麻の方を向いた。
「あンたには世話になったよ、緋勇サン。あンた達はどうするんだ?」
「俺はこの『力』が急に、それも大勢の人間が使えるようになったのには理由があると思ってる。
それを突き止めたい」
「そういうことなら、俺様も力を貸すぜ。なンかあったらいつでも呼んでくれ」
「ああ、その時は頼む」
 差し出された手と顔を等分に見た雨紋は、やがて照れくさそうに手を握った。
龍麻はそれを力強く握り返し、自分達の街、新宿へと戻るのだった。



<<話選択へ
<<前のページへ 次のページへ>>