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行き以上に混雑している電車内は、身動きもままならない。
混雑する電車に乗り慣れていない葵は、四方から受ける力のいなし方に慣れておらず、
辟易しているところに強く押され、前に立っている人にぶつかってしまった。
「あ、すみません……!」
顔を上げた男と目が合った葵の、顔が青ざめる。
彼女がぶつかったのは、同じ学校に通う、緋勇龍麻だった。
乗った時には確かに前にはいなかったはずなのに、いつの間に、どうやって移動したのだろうか。
疑問を抱く葵の足に、何かが触れる。
迷いもなく、当然のように足の間をまさぐるその感触を、葵が忘れるはずがなかった。
つい数時間前に、反対方向に進む電車の中で受けた忌まわしい刺激は、
目の前の同級生によってもたらされたものだ。
まさかと思って葵は龍麻を見る。
そこにあったのは、あの、彼が転校してきた日に校舎裏で見せた、強い圧力を内包する黒瞳だった。
あの時よりも間近で見てしまった葵は、その凄まじい威に、ほとんど瞬間的に屈してしまった。
全身の血管にコンクリートを流しこまれたように、指一本動かせなくなる。
龍麻のことなど全く好いていないのに、なぜこれほどの影響下に置かれてしまうのか。
怖れる葵をよそに、龍麻は大胆極まりない手つきで葵の下腹をまさぐっていく。
両の太股へ蜘蛛の巣のように四本の指を貼りつかせると、中指で秘裂を刺激する。
「……」
葵は止めて、と言おうとしたが声が全く出ない。
顔色ひとつ変えずに痴漢を働く龍麻に、ならばと身をよじって逃れようとすると、
微弱な電流のような刺激が下腹部を襲った。
「……っ……!」
声を上げてしまうほど強くなく、無視できるほど弱くもない快感に、葵の動きは急停止した。
恐怖さえ一瞬忘れた葵は、心を操られたように感じて愕然とする。
そこに二度目の刺激がもたらされて、性的なことに疎かったはずの少女はたまらず腰を折った。
「おっと」
力強い腕が、葵を支える。
「大丈夫か?」
龍麻はこともあろうに彼女を気遣いながら、さらに指先を通じて氣を送りこんだ。
「え、ええ……っ……」
他の乗客の関心を惹いてしまわぬよう、葵は小声で答える。
彼を振り解くこともできず、彼の胸に頭を預けるようにして、愛撫を受け続けるしかなかった。
数度、擦られただけで、行きに受けた快感を肉体が思いだす。
昂ぶらされた挙句に寸前で止められた快感は、その後治まったと思っていたのに、
ほんのわずかな刺激で蘇り、続きを与えられて葵の意志とは無関係に悦んでしまう。
とくに股間のある一点に指腹が触れると、膝から力が抜けるほどの気持ちよさが全身を走るのだ。
「あ……や……っ……」
弱々しい拒絶は吐息と混じり、どちらが本意なのか葵自身にも判らなくなっている。
判っているのは、何を言っても龍麻が手を止めることはなく、
新宿に着くまでは耐えなければならないということだけだ。
火照りを感じる頬を他人に見られたくなくて、葵は龍麻の胸に顔を埋めた。
指先は葵の弱い場所を的確に捉え、集中的に責めたてる。
行きと同じような円の動きに、ときおり縦の動きが加わると、葵は口を閉じていることができず、
熱い呼気を漏らしてしまうのだ。
電車の走行音に紛れて消えたはずのそれを、龍麻だけは聞いている。
葵にそう確信させるのは、葵が吐息を漏らすと必ず、
龍麻はそれに応えるように少しだけ強めた刺激を与えるからだ。
それが何回か繰り返されるうち、電車は新宿に到着した。
龍麻は何事もなかったかのように、葵を庇いつつ電車から降りる。
ようやく解放されたと思いながら葵は、無意識に彼の指を目で追っていた。
そのことに気づいて、慌てて意識を引き戻した。
新宿駅を出ると、もう外は夕方から夜へと移ろう時間だった。
「葵さ、緋勇クンにもたれかかってたけど、大丈夫? また調子悪くなっちゃったの?」
「え、ええ、でも大丈夫よ」
もしや痴漢されているところまで見られていたのかと動揺したが、
頭が龍麻に被さっているのが見えただけのようで、葵は安心した。
「なんだ、役得だったじゃねェか」
「こらッ、京一! 葵は調子悪いんだぞッ」
京一を一喝した小蒔に、葵の不調の原因である龍麻が、そ知らぬ顔で言った。
「桜井、悪いが美里を家まで送ってくれるか?」
「うん、もちろんだよ。それじゃね、皆。今日はおつかれッ! また明日ね」
女性陣を見送ると、京一が残る二人に向き直る。
「さて、一働きしたら腹が減ったぜ、ラーメン食ってこうぜ」
「さっき食ったばかりじゃないか」
呆れる醍醐に京一は、噛みつかんばかりの勢いで食ってかかった。
「うるせえッ、お前だって腹減ってんだろ、その図体なんだからよ」
「やれやれ……どうする、緋勇? 無理にとは言わんが」
「行こう」
「ほれ見ろッ、緋勇はやっぱりわかッてんじゃねェか。お前こそ帰れ、この野郎」
「そういう訳にはいかん。ここで緋勇とお前を二人にしたら、
緋勇を歌舞伎町にでも連れて行きかねんからな」
「くッ……行きてェなら行きてェって素直に言いやがれッ!!」
三人は大声で話しながら、夜の新宿へと消えていくのだった。
葵と小蒔の女性二人は、もちろんまっすぐに家に向かっている。
所属している部活動が違うのもあって、小蒔と一緒に帰るのはそれほど多くはなかったが、
今日はできれば一人で帰りたい葵だった。
とはいえ、案じてくれる親友の好意を無下にできるはずがないので、葵は肩を並べて小蒔と歩く。
複雑な葵の心境をよそに、小蒔は明るく話しかけた。
「今日はありがとね、葵。葵は『力』を使うの嫌だったかもしれないけど、
ボクの怪我を治してくれてホントに助かったよ」
「ううん、いいのよ。小蒔だって私を護ってくれたんだから、治すのは当然だわ」
「エヘヘッ」
小蒔の笑顔を見ると、葵の『力』を使った嫌悪感も薄らいでいく。
だが、やはり小蒔にもできれば『力』に関わる事象からは手を引いて欲しいと願うのだ。
「でも、怖くなかった?」
「最初はね、ちょっと。でも葵が鴉に襲われたら、そんな気持ちどっか行っちゃった」
葵が行かなければ小蒔は怯え、次から行こうとは思わなかったかもしれない。
もっときっぱりと龍麻達との同行を断るべきなのか。
それでも小蒔が一人で行くと言ったら、どうすればよいのか。
答えをすぐには出せない難問に、葵は沈思した。
無言のまま信号を渡り、道を一本曲がって人通りが少なくなると、再び小蒔が口を開いた。
「実際さ、緋勇クンのことどう思う?」
「えっ? べ、別に……」
葵の反応を勘違いしたのか、小蒔の口調がからかいを含んだものに変わった。
「真神の聖女もさ、そろそろカレシの一人くらい居てもイイと思うんだよね。
緋勇クンは転校してきたばっかりだけどさ、つきあいの長さが愛情の深さにカンケイするわけじゃないし」
どこかで拾ってきたような言葉は、けしかけるような響きもあって、
葵は少しだけ、この三年来の親友に疎ましさを覚えた。
それは小蒔のせいではなく、それが龍麻に対する嫌悪に拍車をかける。
電車内で騒いで、彼を警察なり鉄道会社なりに突きだせばよかった――
無邪気な小蒔を見ていると、そんなことも脳裏をよぎった。
自分の性格的にできるはずがないのは、よく解っているのだが。
「緋勇クン、女のコの人気も高そうだし、早くしないと取られちゃうかもよ?」
なお煽る小蒔に、葵は矛先を逸らす必要を感じた。
「そうね、小蒔が取るのなら諦めもつくわ」
この反撃は意表を突いたようで、小蒔は大きな唐揚げを一口で呑みこんだときのような顔をした。
葵がこらえきれずに笑いだすと、小蒔も釣られて笑った。
「葵も言うようになったねえ。高一の頃なんか、お姫様みたいだったのに」
「二年も朱に交わっていれば、赤くもなるわ」
「あ、ヒドいなあ、知らない男子生徒にしつこく話しかけられて困ってたのを助けてあげたの、
誰だったか忘れちゃったの?」
「……もちろん忘れてなんかいないわよ。あの時は本当に助かったわ」
「えへへッ、よろしい」
もう一度噴きだして二人は和解した。
もとよりこの二年間、葵と小蒔は喧嘩などしたことがない。
性格も趣味思考も全然違うのに、実の姉妹よりも仲が良かった。
葵は一人娘だが、小蒔には下に五人弟妹がいて、小蒔曰く常に小競り合いが絶えないそうで、
葵と居ると本当に気が楽だと言ったことがあった。
それは葵の方がより強く思っていて、高校で得た最大の宝物は小蒔だと本気で思っている。
だからこそ、親友が危険に晒されるのは、なんとか回避したいと思う葵だった。
今の雰囲気なら深刻には受け取られないだろうと考えて、葵は龍麻について訊ねてみることにした。
「小蒔こそ緋勇君のこと、どう思っているの? その、友達としてよ」
「ボク? ボクは、そうだね、悪くないと思ってるよ」
小蒔が異性についてこんな見解を表わすのは初めてかもしれない。
葵は本意をうかがうように親友の顔を見たが、表情の陰影は夜に紛れてわからなかった。
葵としては龍麻の関心が他者に向いてくれれば嬉しいが、小蒔が龍麻に関心を持つのも困るのだ。
「ただ、ちょっと何考えてるかわからないところはあるかな。
他の女のコと話してるときも、女のコ達は喜んでるけど、なんか緋勇クンは本気じゃないっていうか。
その割に葵には結経積極的だしね。まあ、葵は可愛いからしょうがないけど」
小蒔が意外と人を鑑ていることに、葵は驚いた。
龍麻の自分に対する態度はともかくとして、何を考えているかわからないというのは、
彼のあの眼差しそのものではないか。
この分なら、もう少し龍麻の本性が露になったなら、小蒔を説得することもできるかもしれない。
「でも、今はこの『力』かな。どうして使えるようになったのか、知りたいもんね」
「……」
開きかけた口を葵は閉じた。
今龍麻が卑劣な男だと告げても、信じてもらえる根拠に乏しい。
証拠が無くても小蒔なら信じてくれるだろうが、自分が受けた辱めを告白するのはできれば避けたい。
もう少しすれば龍麻もぼろを出すだろうから、それまでは自分と小蒔を護ることに務め、
その時が来たら彼の本性を白日の下にさらけだせば良いのだ。
葵は焦らずに待つことにした。
「もう家はそこだから、ここまででいいわ、小蒔」
「うん、顔色も良くなったみたいだし、大丈夫だね」
「ええ、送ってくれてありがとう」
「ううん、ボクも久しぶりに葵とゆっくり話せて楽しかったよ。それじゃね」
手を振って去っていく小蒔の姿が見えなくなるまで見送っていた葵は、不意に顔をしかめる。
湿った下着が肌に触れ、不快な感触をもたらしたのだ。
行きと帰りと、一日に二度も痴漢行為を働いた、龍麻という男を許すことは絶対にできない。
だが、行きはともかく、帰りはなぜみすみす許してしまったのか、葵は自分でも解らなかった。
彼の眼――いみじくも小蒔が言った、何を考えているか解らないという瞳。
もしかしたら龍麻は瞳にも、氣とかいう怪しい『力』を持っているのかもしれない。
だとしたら小蒔が毒牙にかかってしまうかもしれず、なんとしても確かめる必要があった。
四月の夜風はまだ肌寒いというほどではなかったが、葵は身震いすると、
両腕をかき抱いて家へと向かう。
それは武者震いのようでもあり、未だ収まらぬ火照りを、押さえつけるかのようでもあった。
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