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素肌に冷たさを感じて、葵は目を覚ました。
どこまでも果てしなく広がる、空と砂漠。
目の前に広がる、二等分された二色の世界に、言葉を失う。
息を呑んだ拍子に、小さな金属音と、目覚めたきっかけとなった冷たさを感じて、
葵は初めて自分の置かれている状況に気がついた。
砂漠に立つ十字架。
人どころか生命の気配さえない、砂粒のみが支配する世界で、
葵は一人、十字架に縛りつけられていた。
異常な事態に驚いた葵は、四肢を動かしてみる。
だが、全身を取り巻く鎖が、葵が十字架から離れるのを許さない。
どこから始まり、どこで終わっているのかも判らない鈍色の戒めは、
生物のように葵の肢体にまとわりつき、苦しくない代わりに身動きも許さなかった。
首から上だけがかろうじて動かせはしても、左右に頭を振ってみたところで、
目に映るのは砂と空以外何もなかった。
「誰か……居ないの……?」
怯えた葵の声は、虚しく砂の海に消えていく。
時間を置いてもう一度、葵は呼びかけてみたが、やはり、風さえも鳴らなかった。
「緋勇君なの……?」
このような異常な状況を創りだせるのは、彼しかいない。
何らの証拠もないことながら、彼がまた拐かそうとしているのだと、確信に近く
考えた葵は、彼のあの、極めて威圧的な眼光に抗するために意識を集中させた。
しかし、龍麻は姿を現さない。
もしかしたら、こんな風に拘束して、苦悶する姿をどこかで見ているのかもしれない。
不安を怒りに転化させて、葵は再び叫んだ。
「どうしてこんなことをするの……!?」
どれほど叫んでも、砂の一粒さえ動かすことはできない。
葵は恥辱と怒りに形の良い唇を噛みしめた。
不意に気配を感じた。
紛れもなく生物の気配だ。
だが、見渡す限り動くものはなく、気配も、遠いのか、それとも近いのか、
奇妙にぼやけて判然としない。
ようやく得た小さな手がかりを失うまいと、葵は声を限りに叫んだ。
「誰か、誰か居るの……? お願い、私を助けて……!」
痛切な訴えに応えるものはない。
不思議なことに、何がしかの気配は葵を無視したにも関わらず、
消えさるでもなく、どこかにいるようだ。
かといって、さらに何度か助けを求めてみても、気配の主が姿を現すことはない。
じわじわと侵食してくる恐怖に耐える全身に、生ぬるい声が聞こえてきた。
美里……葵……
「!? 誰?」
奇妙に活力のない、そのくせねめついた声。
聞いて快い声では正直なかったが、この非現実的な状況の中で、
唯一現実へと繋がるかもしれない他者を、好悪だけで拒むわけにはいかなかった。
どこにいるかも判らない声の主に、葵は懇願した。
「お願い、姿を見せて。私をここから出して」
しばらく間を置いてからあった返事は、葵の期待したものではなかった。
「……ダメだよ。そこが一番安全なんだから。
だって、ボクが……このボクが見守ってるんだから。
安心してよ。ボクが君を護ってあげる。誰にも君を汚させやしない」
ただ不気味に、一方的に告げる声に、
葵はこの忌まわしい世界からの脱出の糸口を求めようとしたが、
来た時と同様、突然気配はなくなってしまった。
それと同時に、葵の意識にも昏い膜がかかっていく。
残されたわずかな自我の中で、葵は助けを求めて叫び続けた。
この日、三年C組の最後となる6時限目の授業は、生物だった。
C組担当である犬神杜人は、終業を告げるチャイムに被せるように、
今ひとつやる気の感じられない、そのくせはっきりと聞こえるトーンで告げた。
「それじゃあ、今日はここまでにしよう。レポートを忘れた奴は、
明日必ず俺の所へ持ってくること。いいな。──特に蓬莱寺」
「へーい」
「じゃあな」
犬神が教室から出ていった途端、教室を横切るように京一が歩いてきた。
その歩き方と表情から、不満以外のものは読み取れない。
真神學園の近くにある、日本有数の繁華街である歌舞伎町をこんな顔で歩いたら、
たちまちチンピラに囲まれるのは確実だったが、彼の向かった先で、
まだ何事かノートに書きつけていた龍麻は、京一が勢い良く前の席に座っても、
平然と彼を迎えた。
京一は座るなり腕を組んで、彼の不満を披露した。
「……ッたく、冗談じゃねぇぜ。犬神の野郎、絶対俺を目の敵にしてやがる。
今の時間だけで四回も当てやがって」
それに答えたのは龍麻ではなく、反対側から弾むように歩いてきた桜井小蒔だった。
「そんなの、あんだけ熟睡してたら当たり前だろッ。自業自得じゃないか」
「しょうがねェだろ? 飯食った後の授業なんて眠いに決まってンだからよ。
大体昼下がりなんてのはな、こう、ボーッとお空を眺めてお姉ちゃんのことを
考えてだな、のーんびりしたいもんなんだよ。なぁ緋勇」
「もう昼はとっくに下がって、もうじき夕方だぞ」
龍麻の支持を得られなかった京一は、忌々しげに龍麻を睨みつけた。
すると小蒔が龍麻を庇うように、京一に向けて指を突きつける。
「そうだそうだ、だいたい京一なんてお腹いっぱいじゃなくたって寝てるじゃないかッ」
「くそッ、少し勉強ができるからって調子に乗りやがって」
「えッ、緋勇クンって勉強できるの?」
いかにも意外というように驚く小蒔に、龍麻は心外だというジェスチャーで応えた。
「ふーん、人は見かけによらないんだね」
「どういう意味だ」
「え、だってさ、緋勇クン何か格闘技やってるんでしょ?」
ひどい偏見もあったものだが、小蒔は本気で言ったわけではなさそうで、
龍麻も追及するつもりはなかった。
「ンなこたァいいから、さっさとラーメン食いに行こうぜ」
「今日はそんな予定だったか?」
「ラーメン食いに行くのにいちいち予定なんざ要らねェだろッ。
食いたくなったら食う。寝たくなったら寝る。
これこそが正しい男子高校生の生き様ってもんだ」
「めちゃくちゃ言ってるよ……」
呆れた小蒔が同意を求めるように龍麻を見る。
それに龍麻が答えようとしたとき、彼の顔に影がさした。
見上げると、醍醐雄矢が立っていた。
クラス一の大男の顔には、どこか笑いを押し殺しているような節があり、
三人のやり取りを始めから見ていたのは明らかだった。
「京一……またお前は緋勇を悪の道に引きずり込もうとしているな」
「あ、醍醐クン」
「余計なお世話だ」
悪、と決めつけられた京一は鼻を鳴らす。
実は龍麻は京一の誘いを断ったことはなく、ナンパの手伝いこそしないものの、
夜はかなり遅くまで遊ぶこともある。
しかし仲間達の中で龍麻が悪いと言う者は誰一人としておらず、特にこの醍醐などは、
京一のせいで龍麻が悪の道に転落するのを防ぐのは、
自分の役目だと信じてさえいるようだった。
「大体お前は今日は遊びに行くどころじゃないんじゃないか?
レポート、どうせまだ一枚も書いて無いんだろう」
「うるせェな、ンなの夜やりゃいいんだよッ」
夜にも全くやる気のない京一が力強く断言すると、
小蒔は微妙な判定に抗議する選手を諭す審判のように首を振った。
「にしてもさ、なんで京一ってそんなに犬神センセのコト嫌がるの?」
「なんでって……別に俺だけじゃねェだろ。なぁ緋勇」
龍麻は彼の意見に賛同しなかった。
「別に授業がわかりづらい訳でもないし、要点は押さえてくれてるからな」
確かに犬神は解らないところを親身に教えてくれたり、
要点はここだと連呼するタイプの教師ではない。
だから予習をしない人間には嫌な教師にみえるだろうが、
きちんと予習を行っていけば、彼の授業は的確で理解しやすかった。
だが、予習も復習も補習時以外はしたことがない京一には、
残念ながら犬神は、ソリの合わない教師の一人でしかないようだった。
「もういいや、こいつは当てになんねぇ。とにかく、
好きってヤツの方が少ねェのは間違いねぇだろ」
「うーん……」
力強く断言する京一に、龍麻だけでなく、小蒔も首をひねる。
確かに雰囲気が暗いという声はあるものの、そこまで嫌われているとも思えないのだ。
それに龍麻の言う通り、予習復習をして来ない生徒には少し難しい授業内容も、
いよいよあと一年を切った受験のことを考えれば当然であり、
むしろ早くから目標を定めている生徒にとっては歓迎すべきものだろう。
その証拠に、最近は授業後に彼の許に行って質問をする者もいて、
いささか迷惑そうな顔をしながらも答える彼の姿が見られるようになっていた。
しかし、生物はもちろん、およそ全ての勉強というものから縁遠い京一は、
そんな事実を認めようとはしない。
「なんだ、女には人気あンのか?」
「うーん……そりゃ、人気あるとは言えないかも知れないけど……」
やや防御的な姿勢になった小蒔に、すかさず京一は攻めこんだ。
「ほれ見ろ。あいつは格好からしてだらしねェし、大体陰気なんだよ。
マリアせんせのケツばっか追っかけ回しやがって」
「そうなの? ボクにはマリアせんせが犬神せんせを気にかけてるように見えるんだけど」
「ンなことある訳ねーだろッ」
「そーかなァ……」
「とにかく、俺は虫が好かねェんだよ」
一向に賛同を得られない会話に嫌気がさしたのか、
京一は自分から始めた犬神についての話題を勝手に打ちきった。
ふてくされる京一に苦笑を向けた醍醐の口調は、どこかなだめるような響きがあった。
「随分嫌われたもんだな、犬神先生も。──ま、あと半年ちょっとの付き合いだ。
辛抱するんだな。……ところで、美里の姿が見えないが、どうしたんだ?」
「葵なら生徒会の広報がどうとかって新聞部へ行ったよ」
「新聞部ゥ? あんなところへ一人で行ったらアン子にヤられちまうぞ」
「何をヤるんだよ……」
「なんだ、聞きたいのか? 小蒔」
「誰が聞くか、このバカッ!」
下品な会話に醍醐は眉をしかめ、龍麻は笑うのを我慢する。
そこに、おそらくこの仲間達の中で最も良識派であろう人物が姿を見せた。
「あっ、葵」
「どうしたの? 皆揃って」
「エへへッ、生徒会も大変だな、って話してたトコ。
……あれ、葵、顔色悪くない? 調子悪いの?」
小蒔が指摘するまでもなく、葵の顔色は誰が見ても判るほど悪かった。
もともと小蒔のように活力に溢れるタイプではないが、
それにしても今の白さは病的な程だ。
血色というものがまるで見当たらず、雪女郎さながらの様相だった。
「ううん、大丈夫。もうすぐアン子ちゃんが来るから、そうしたら皆で帰りましょう」
「……ホントに大丈夫?」
なおも心配する小蒔だったが、自分を呼ぶ声に中断せざるを得なくなってしまった。
「桜井ちゃん、いる? 如月君が探してるんだけど」
威勢の良い声と共に入ってきたアン子の後ろには、
龍麻の知らない男がついてきていた。
もっとも龍麻が知らないのも当然で、その人物が着ているのは真神の制服ではなかった。
男の外見は、一言で言ってしまえば優男だった。
真ん中で綺麗に分けた髪は、癖がなく、男のものとは思えない程艶やかに輝いている。
眉は細く、瞳には意志が満ちていて、さぞ女生徒に人気があるのだろう。
それでも、自分には縁がないと考えた龍麻は大して関心を払わなかったが、
彼の持っている長い包みには見覚えがあった。
その包みの本来の持ち主が、龍麻の横で驚いた顔をしている。
「え? ……あ、弓、わざわざ持って来てくれたの?」
「いや、ついでがあったからね」
「そッ。広告費の打ち合せをね」
「広告……って真神新聞の?」
広告、ということは店なり商売なりを行なっている訳で、
途端に好奇心も露に口を挟んだ龍麻に、杏子はどことなく嬉しそうに説明した。
「そっか、皆は初めてだったわね。こちら王蘭学院高校の如月翡翠クン。
新聞部の広告主なのよ」
「如月って、如月骨董品店か!?」
龍麻の驚きは演技ではなかった。
アン子に売りつけられた真神新聞に、ラーメン屋の王華と共に毎号広告を出しているのが
如月骨董品店で、高校生とは縁のなさそうな商売がなぜ、と疑問に思っていたのだ。
「あァ。祖父の店だが、今は僕がひとりでやっているんだ」
「凄いな」
「大したことじゃないさ」
謙遜してみせる如月だったが、龍麻の尊敬の眼差しを受けて
まんざらでもないようだった。
彼と出会ってから一度もそんな視線を貰ったことなどない京一が、
面白くなさそうに呟く。
「しっかしよ、なんでよその高校の新聞に広告なんぞ出してるんだ?」
「ははッ、真神学園はお得意様なんだよ。弓道部がある高校は少ないからね」
「うンッ、如月クンとこは腕がいいって、もう皆調整お願いしてるんだよ」
アン子と同じく嬉しそうに説明する小蒔に、ますます京一が渋面を作る。
すると、その渋面が伝染したかのように如月までもが同じ顔をした。
「ところで桜井さん……今回は直ったけれど、あまり無茶な使い方をしないでくれよ」
「あっ、うん……ごめんね」
「いや、僕がこんな事を言えた義理でもないんだが、
あれは普段から大切に使われているのが良く解る弓だからね。
壊したら勿体無いと思ってね」
さすがに骨董品を扱うだけあって、物に対する愛着が強いようだ。
しかし如月は店の切り盛りだけでなく弓の修理まで出来るらしい。
恐らく同じ歳なのに自分にないものを多く持っている男に、
龍麻は改めて感心していた。
そんなことを考えて如月を見ていると、視線の先にいた人物と目が合った。
眼光がどこか値踏みしているように見えるのは、
今聞いた彼の職業が影響を与えているのだろうか。
「君が……緋勇龍麻君だね」
「ああ……どうして俺の名前を?」
「真神新聞は僕も愛読していてね。君の特集を読ませて貰ったよ」
「……そうか。改めて、よろしく」
龍麻は転校直後からアン子に執拗に迫られて、ついに不覚にも取材されてしまい、
自分の顔写真が一面を飾った真神新聞を見て頭を抱えた記憶が蘇った。
たった四ページほどしかない新聞といえど、真神學園内での影響力は絶大で、
しばらくの間、廊下を歩くだけで騒がれるという、
ほとんど珍獣のような扱いを受けたのは、一生の不覚といってよかった。
如月には何の罪もないことながら、嫌な記憶を蒸し返されて、
龍麻はやや憮然としている。
そんな龍麻を値踏みするように見ていた如月は、龍麻が真っ向から見つめると、
さりげなく視線を外した。
「あァ。……君とはまた、近い内に会うかもしれないな」
「……?」
「いや、こっちの話さ。用事も済んだし、それじゃ僕はこれで」
最後は何故か龍麻が聞きとれないほどの小さな声で呟いた如月は、
不思議そうな顔をする龍麻に軽く手を上げると、
奇妙に足音を立てない足取りで去って行った。
「如月……ね。なんかちょっとスカした感じがする野郎だな」
「あら京一、僻んでるの?」
「なんで俺が僻まなきゃならねぇんだよ」
「だって、如月君はアンタと違ってモテるし」
杏子の言葉は中心を射抜きこそしなかったものの、かなり近い所に刺さったらしく、
京一は露骨に嫌そうな顔をした。
「ケッ、勝手に言ってやがれッ。あーあ、ッたく、うるさいのが来ちまった」
「何よ、辛気くさい顔して。あんたはのーてん気さだけが取り柄なんだから」
「俺はお前と違って悩み多き高校生なんだよ」
京一の悩みなど、食べ物か、女か、金か──
少なくとも深刻なものはそこにはないだろう。
冷ややかな視線で友人を見た龍麻は、同じ種類の視線があと二本
向けられているのを見つけ、その視線を放った二人と顔を見交わし、
京一に気づかれないよう静かに笑った。
放っていない二人のうち、眼鏡をかけた方は、今回は視線だけでは飽き足らず、
論戦を張ることにしたようだ。
「あら、失礼ね。あたしだって悩みくらいあるわよ。
たまには目覚ましや原稿から離れて思いっきり寝たい時だってあるんだから」
「勝手に寝りゃいいじゃねェか」
「だからあんたはのーてん気だって言われんのよ。
あたしには、記事を待ってる読者がいる。
そう考えたらとてものんびり寝てなんかいられないでしょ」
アン子の理屈は傍で聞いていても勝手なものに聞こえたので、
龍麻はしばらくあらぬ方を向いていることにした。
嵐が来るのが判っているのに、船を出す必要はない。
案の定、二人の会話はあっと言う間に小学生のレベルにまで落ちている。
「じゃあ寝なきゃいいだろ」
「死んじゃうでしょッ! あんた、あたしのこと何だと思ってんのよッ。
……もう、バカと話してたら眠くなってきちゃったじゃない。
昨日だって一晩中原稿書いてたから眠くてしょうがないのに。
……緋勇君だって一日中寝てたい時だってあるでしょ?」
「まあ、あるな」
アン子に逆らうのは愚かしいと学んでいる龍麻は、適当に合わせた。
機関砲のごとき反論を浴びるのは、精神的にかなり辛い。
「でしょ。寝て起きたら次の日だったとか、憧れちゃうわよね」
「お前の憧れってそんなんなのかよ……」
京一は器が小さい、とでも言うように吐き捨てたが、
これはこの男が幾度となく「寝て起きたら次の日」を体験していて、
そんなものに特にありがたみを感じていないからだった。
「でも、夢も見ないでゆっくり寝たいって、ボクも思うなぁ。
昨日の夜変な夢見ちゃって、寝不足気味なんだ」
小蒔が自分の言葉に誘われるように目をこする。
「ふーん。変ってどんな風に?」
「えっとね。……目の前に道があって、ボクはどこかへ行こうとその道を歩くの。
しばらく行くと道がふたつに分かれてるんだけど、
もうちょっと行くと開けた場所があって、目の前には乗り物が一杯あるんだ。
列車と飛行機……バイクもあったかな。
それで、どれに乗ろうかすごく迷ってて、えっと……そっから思い出せないや」
「なんだソレ? また適当な夢だな」
いかにも興味なさそうな京一を無視して考えこんでいた小蒔は、
上に向けた掌を拳で叩くという古風な動作をして、話を続けた。
「あ、そうそう、それで結局何にも乗らずに歩いて行ったんだ。
でもその道が長くてね、途中で疲れて目が覚めちゃった」
「疲れて……か。桜井、何か悩みごとでもあるのか? ストレスが溜まっているとか」
「へ? ううん、別に。考えすぎだよ、醍醐クンは」
たまたま昨日見ただけの夢で、妙に皆の関心を誘ってしまい、
小蒔は慌てて手を振った。
それまでじっと聞き入っていたアン子が、重々しく語りかける。
ただしそれはあくまでもアン子本人が重々しいと信じているだけであって、
他の人間はまたやっかいな展開になりそうだ、と感じただけだった。
「あら、そうとも言いきれないわよ。
夢って心の奥にしまわれた意識の象徴だって言うし」
「相変わらず大げさだな、アン子は。夢なんてガラクタの寄せ集めだろ?
ンなもん気にしてたらおちおち眠ってもいられねぇ」
「そりゃのーてん気なあんたは夢ものーてん気なんでしょうけどね。
いい? 昔から夢は神のお告げ、魂の働きって言われてたのよ」
「夢占いってやつ?」
口を挟んだ小蒔にアン子は頷いた。
「そう、そういうのをひっくるめて幻象心理学って呼んだりもするんだけど、
誰でも簡単に判断できるようになってる本も結構あるわよ。
例えば、桜井ちゃんの夢だと」
「なになに? アン子ってそんなんも出来るの!?」
小蒔も女の子のご多分に漏れず、占いだの心理学だのが好きなようだ。
目を輝かせて食いついてきた小蒔に、アン子はわずかに小鼻を膨らませて講釈を始めた。
「かじった程度だけどね。まず、出かけるって言うのは旅立ちとか、
人生の漠然とした予告なの」
「ふーん……乗り物は?」
「乗り物は、確か……その人の人生の過ごし方や、
行動の仕方を表わしていたと思ったわ。列車はレールに乗った無難な人生。
バイクは機動性と自由、危険。飛行機は解放」
「歩きは?」
「そこが桜井ちゃんらしいって言えばらしいんだけど、
歩くってのはまさに、何にも頼らずに自分の力で人生を切り開くってこと」
「へへッ、ちょっと照れるね」
「でも、途中で目が覚めたってことは、人生に迷いがあるのかも」
迷い、と言われて小蒔には思い当たる節があったようだ。
腕組みをして、気乗りしない口調で呟く。
「うーん……言われてみれば、進路指導がもうすぐ始まるしね。
でも自分が何したいか、まだ良くわかんなくて」
「まぁ……そうよね。普通は漠然と大学行こう、とかそんな感じよね」
「進路……か。確かに、考えなきゃならんことだな。美里は進学だろう?」
小蒔から醍醐へと伝染した表情が、今度は葵のところに行く。
「えぇ。でも……正直言ってアン子ちゃんが言った通り、
漠然と大学に行こう、としか考えてないわ」
「そうだよねぇ。アン子も進学だっけ?」
「まァね」
「緋勇、お前はどうなんだよ」
「進学だな」
短く答えて龍麻は隣の醍醐に視線を移した。
「俺か? 俺は多分進学はしないな。もう勉強はこりごり、というのが本音だよ。
京一は……聞くまでもないか」
「ったり前ェだ。誰がこれ以上勉強なんぞするかッ」
「別に威張って言うことじゃないぞ、京一」
「夢……か。皆イロイロだよね。でもそういうのってさ、なんか……いいよね」
あと何ヶ月か後には、皆バラバラの人生を歩み始めるのだ。
それは奇妙な感慨を一同に与え、友人達の将来の姿を想像してみたりして、
少しの間沈黙が輪の中心に舞いおりていた。
その沈黙を破ったのは、アン子だった。
「……夢は、いつか醒めるから夢なのよね。それがもし……醒めなかったら」
「なんだよアン子、急に不吉なこと言い出して」
わざとらしく声を潜めるアン子に、京一がうんざりしたように応じる。
京一は彼女が持ちこんでくる話は大抵がロクでもないものだと信じており、
また、それは八割方において事実であった。
「最近墨田区周辺で起こってる事件、知ってる?」
「……原因不明の突然死や謎の自殺ってやつか?」
「ええ」
「それが夢と何の関係があるんだよ」
「まさか、また──」
「まだ判らないわ。でも、この一週間で六人……普通じゃないでしょ?
警察もハッキリと公表はしてないけど、あたしの仕入れた情報によれば、
死んだ人間には奇妙な符合があってね」
アン子が言葉を切ったのは、喋り続けて疲れたというだけではなかった。
軽く唇を舐め回しながら上目遣いで一行を見渡したのは、
何かを待っているようにも見える。
気づきはしたが自分で言う気はない京一が、肘で龍麻をつついた。
「ほれ緋勇、お前の出番だよ」
「……符合って?」
他人の思惑に乗るのは嫌な龍麻だったが、ここは仕方がない。
アン子が持っているであろう情報には、龍麻も興味があった。
龍麻が訊くと同時に、アン子は語りだした。
「一見何の関係も無い彼らを繋ぐキーワード……それは、夢」
「夢?」
「そう。夢を見ながら死んでいく人。夢を残して自ら命を絶つ人。
全ての人が夢に関わってその命を落としているわ」
「どういうことだ?」
「前の日の夜まで何にも変わりなかった人が、
朝布団の中で冷たくなって発見されたこと。
自殺者の中に、夢に悩まされていた人が多かったこと。
中には夢見のせいで、気が狂って自殺に及んだ人もいるわ。
──そして、その全ての事件は墨田区とその周辺で起きている」
どこで調べてくるのか、アン子の取材能力に一同は感嘆するばかりだった。
よほど強力な人脈を持っているとしても、
一介の高校生が調べられる範囲は超えている。
アン子はジャーナリスト志望だと言うが、
今すぐにでもなれそうだと龍麻などは思うのだった。
話を終えたアン子に、小蒔が小難しい顔をして腕を組んでみせる。
「謎の多い事件だね」
「犠牲者は墨田区に住む者。そして真実は夢の中に隠されている……か」
小蒔の後を引きとって醍醐が言うと、京一が肩をすくめた。
「馬鹿言うなよ。ンなもん、証明のしようがねえじゃねェか」
「そうね。警察も今の段階ではお手上げみたい」
そもそも死因がそれぞれ異なっており、共通点が見出せない。
夢というキーワードも、捜査に関しては素人である杏子だから気づいたのであって、
警察がそんなところに着目するとも思えないし、
したとしてもそんなあやふやなものを捜査の起点にするはずもないだろう。
眉をひそめて考えこんでいた小蒔が、何かを思い出したように目を見開いた。
「そういえば……犠牲者って学校関係者や、ボク達と同い年の子が多いよね」
「そう。……他人ごとじゃないでしょ」
「渋谷の時みたいに、また誰かがやってるんだとしたら──ん? 葵、どうしたの!?」
小蒔の声が終わらないうちに、葵の身体がゆっくりと崩れ落ちた。
そこだけ時間の流れが違っているかのように、長い黒髪の一本一本がふわりと舞う。
あまりに幻想的な光景に立ち尽くすだけの一行の中、
龍麻だけが支えることができたのは、弱まっていく彼女の氣に気づき、
ずっと気配をうかがっていたからに他ならなかった。
「葵ッ!」
小蒔の叫びで現実へと舞い戻ったかのように、
抱きとめた龍麻の腕に、ずしりとした重みが加わる。
それは、葵の身体に全く意志が宿っていないことを意味していた。
龍麻の腕の中で、葵は完全に気を失っている。
「やはり、よほど調子が悪かったんだな。無理にでも帰しておくべきだったか」
「ボクが……ボクが調子に乗って夢の話なんてしたから……」
冷静な醍醐と対照的に、小蒔はうろたえていた。
「桜井のせいじゃない」
強い調子で否定する龍麻に頷きはしたものの、
彼女は心ここにあらずといったように気を失っている葵を見ていた。
「そうだ、大体んなコト言ってる場合じゃねぇだろ。とりあえず保健室に運ぼうぜ。
緋勇……っと」
京一が言い切る前に、龍麻は葵を抱きあげていた。
微塵も恥ずかしさを見せない龍麻に、軽い口笛を吹きかけた京一は、
さすがにそのような場合ではないと思ったのか、
木刀を担ぐと保健室へと先陣を切って走りだした。
先頭の京一に葵を抱きあげた龍麻が続き、両横を小蒔とアン子が挟む。
醍醐が後衛となって進む、異様な迫力で廊下を走る六人は、
近くにいる生徒たちの騒ぎを波のように引き起こしながら走っていた。
龍麻の横から小蒔の声が聞こえてくる。
そこには親友の言葉を信じてやれなかった後悔が、苦いスパイスとなって含まれていた。
「……葵、笑って言ってたから、その時は気にしなかったんだけど、
最近、よく怖い夢を見るって言ってたんだ。起きた時にはもう覚えてないんだけど、
でも時々眠るのが怖いくらい……って言ってた」
「……桜井ちゃん、それって……いつ頃から?」
「確か──墨田区にあるおじいさんの家に遊びに行った頃からだって」
「墨田区だと? まさか……」
墨田区、という単語に醍醐が顔色を変える。
まさにたった今、その場所で起こっている怪奇な事件について話し合ったばかりなのだ。
「その可能性もあるわね。
……もしそうなら、保健室よりも霊研でミサちゃんに診てもらうのはどう?」
「何言ってんだアン子! 美里は突然倒れて意識が無いんだぜッ!?
まず医者に診せるのが筋だろうが」
ミサ、と言う名前を聞いて、反射的に京一が反発する。
しかし、アン子は落ち着き払って答えた。
「馬鹿ね。こういう時だから当てになるんでしょ」
「でも……もし大変な病気だったりしたら……ね、緋勇クンはどう思う?」
「どっちにしても寝かせる必要はある。遠野、裏密を保健室へ連れてきてくれ」
素早い決断にアン子は感銘を受けたように頷いた。
「待っててッ、すぐ連れてくるわッ」
「──ッたく、知らねぇぜ俺は」
医者は嫌いだが裏密も苦手である京一は、はっきりとうさんくさそうにしていたが、
龍麻に異は唱えなかった。
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