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保健室に到着した一同だが、あいにく保健医は席を外しているようで、
室内には誰もいなかった。
「もうッ、なんで肝心なときにいないのさ」
肩をいからせながら、それでも小蒔は葵のために手早くベッドを整える。
龍麻が葵を下ろし、寝かせてやると、葵の髪を整え、布団をかけてやった。
「葵……大丈夫だよね、すぐに良くなるよね」
独語ともつかぬ小蒔の問いに、男たちは答えない。
ただの疲労ならば良いが、先ほどの墨田区の話がどうしても脳裏をよぎってしまうのだ。
原因は不明であるにせよ、眠っているうちに衰弱してしまうなどという症状には、
三人とも手のうちようがなかった。
「こっちよッ!!」
保健室の扉が勢い良く開き、アン子が飛びこんでくる。
彼女の後ろから、裏密ミサが続いて現れた。
水晶玉を手にしたミサは、龍馬たちに開口一番告げた。
「うふふふふ〜。精神的緊張のアスペクトが天蠍宮と双魚宮を結ぶとき〜、
囚われの精神は悲しみの闇に沈む〜。決して醒めぬ、夢の迷宮〜」
「ミサちゃん……まさか」
「あたし達の言いたいこと、解ってるのッ!?」
小蒔とアン子が異口同音に叫んだ。
相変わらずオカルトがかった──実の所、
オカルトがかっているかどうかさえ解らない──
ミサの言いまわしは難解ではあったが、はっきりと今の状況を言い表していた。
やや時間差はあったものの驚く一行に、ミサは妖しい光を放つ水晶を指し示す。
「うふふ〜。この前インターネットで買った、このウァッサゴの水晶〜、
これでみんなのこと覗いてたんだ〜。また今度〜、
緋勇く〜んの未来も覗いてあげようか〜?」
「俺のことより美里を視てくれ」
「うふふ〜、緋勇くんは意外とせっかちなのね〜」
冷淡な龍麻にも機嫌を損ねることなく、葵の前に座ったミサは、
水晶玉と共に持ってきた人形の中から何か、レンズのようなものを取りだすと、
それで葵を覗く。
全員が息を呑む中、古今東西の霊的現象に通じた少女は、やがて厳かに告げた。
「う〜ん、キルリアン反応が弱まってるね〜」
「キル……なに?」
全く聞いたことのない単語を、小蒔は戸惑いつつ訊ねる。
「人の体から放射される、放射光のことよ〜」
「それが弱まると何かマズいの?」
「要するに〜生命エネルギーのことだから〜、それが弱くなるってことは〜」
即ち衰弱を意味していた。
肉体が病気になればもちろんこの反応は弱まるし、
逆に、何らかの理由で精神の方からこの反応が弱められると、
それが身体にも影響を及ぼす。
そして今の葵は、後者の方であるらしかった。
小蒔とアン子には良く解らないようだったが、
生命力と密接に関係する、氣を操る武術を使う龍麻、
そして醍醐には何となくであっても理解できた。
京一も氣は操るのだが、理論を全く学ぼうとしないのと、
ミサの話は最初から縁遠いものと考えているため、小蒔達と同じく解っていなかった。
とにかく、やはり普通の病気ではないらしい、ということだけは解った小蒔は、
今度はその原因をミサに訊ねる。
「でも一体なんで?」
「ちょっと待ってて〜」
レンズをしまったミサは、先ほどのウァッサゴの水晶とやらを葵の前に置いた。
そして、更に怪しい道具を並べ、はるかにいかがわしい手つきで何かの型を作っている。
それはまさしく呪術的と呼べるもので、一同の中には一抹の不安を覚えた者もいた。
その不安を先取りするように、水晶玉を見つめたままミサが呟く。
「これからするのはね、いわゆる水晶を媒介にした透視術のひとつなの〜」
「は……?」
「まず、あたしの霊魂を二分化して、その片方を葵ちゃんの意識に同化させるの〜。
上手くいくと、あたしの視たものがこの水晶に映し出されるの〜」
「……」
「……」
「それじゃ、始めるよ〜」
もはや誰も何も言おうとはしなかったが、直前になって、
小蒔がごく基本的なことを問いただした。
「ちょ、ちょっと待って。葵に危険はないんだよね?」
「うん〜、安心して〜。説明書によると〜、この術で廃人になった被術者は〜、
世界中合わせても〜、過去に六人しかいないから〜」
「六人──!? 待って、ミサち──」
「邪魔しないで〜、精神集中が乱れると〜、危険だから〜。
……ケペリ・ケペル・ケペルゥ……我生まれし時、生成りき……
ケペル=クイ・ム・ケペルゥ・ヌ、我、始源の時に成りませる……」
日本語ではない、ということしか解らない、謎の言語をミサが発する。
すると、龍麻は微かな耳鳴りを感じた。
それと共に、水晶に変化が訪れる。
「お、おい、水晶に……」
「美里ちゃんだわ。でも、これって……」
水晶に映し出された葵は頭が下がっていて、気を失っているようだった。
それよりも異様だったのは、彼女の両腕は、
ほぼ肩と同じ位置で真横になっていることだった。
水晶の縁の方は像がぼやけてしまってはっきりとは判らなかったが、
それはまるで──磔にされているようだった。
これが葵の意識だとしたら、一体どういうことなのだろうか。
「一体……」
立ちこめた重苦しい空気を払うように小蒔が口を開く。
その途端、部屋を圧する大きな音が響き渡った。
目の前の小さな水晶が砕けた音だと判ったのは、しばらく経ってからだった。
それほどに大きな音だったのだ。
「あららら〜」
「ミサちゃん! 大丈夫?」
「す……凄い力〜」
ミサが驚いているところを見ると、これは彼女にも予期せぬ出来事だったようだ。
見た所破片も刺さってはおらず、何も起こっていないように見えるが、
それはもちろん事態が好転してもいない、ということでもあった。
「一体、何が起こったんだ? いきなり水晶が割れて……」
「う〜ん、どうやら、覗いてたのが見つかっちゃったみたい〜」
「見つかったって……誰に?」
「そこまでは〜、わかんない〜。葵ちゃんの深層意識に、誰かが侵入しているみたい〜」
「深層意識に……侵入してる?」
「まさか……新しい……敵?」
今葵の身に起こっているらしい事態は、もはや理解出来る限界を遥かに超えていたが、
この四月からその手の脅威に立て続けに遭遇している龍麻達は、
等しく思い浮かべる物があった。
『力』。
人知を超えた異能が、また関わっているのだろうか。
しかし、その答えはミサでさえも持っていないようだった。
「とにかく〜、あたしの力じゃこれが精一杯なの〜、ごめんね〜。
でも、その代わりに〜、良い所を紹介してあげる〜」
「良い所?」
「うん〜、誰か、桜ヶ丘中央病院って知ってる〜?」
「桜ヶ丘……?」
「聞いたことないわね」
まだ新宿に来て日が浅い龍麻はもちろん知らなかったし、
醍醐や小蒔、それに杏子もお互いに顔を見合わせている。
どうやら誰も知らないらしいその病院の名前に反応したのは、意外な人物だった。
「さッ、桜ヶ丘だとォッ!!」
「京一くん〜、知ってるならそこの院長を訪ねてみて〜」
「い、院長ッ! 冗談じゃねェ、死んでも嫌だぜ」
唾を飛ばして拒絶する京一に、皆あっけに取られている。
風邪はもちろん、病気が避けて通りそうなこの男が病院の、
しかも院長とどうやら見識があるらしい。
「京一……知り合いなの?」
「知り合いだとォ! そんなケガラワしい」
「なにそれ?」
「そこの先生なら〜、きっと葵ちゃんを治してくれるはずよ〜。
桜ヶ丘中央病院は〜、霊的治療と言って〜、普通の医学では解明できないような〜、
魂と氣に影響する病気を治療してくれる病院だから〜」
「霊的治療?」
「京一くんが〜、詳しいみたいだから〜、連れてってもらうといいよ〜」
「な、なあ裏密。他はないのかよ。
何もその霊的治療ってのが出来るのはそこだけじゃねェんだろ?」
食い下がる京一に対するミサの答えはすげないものだった。
「うふふふふ〜、でもあそこの院長先生は〜、世界的にも有名なのよ〜」
「……なんだか良く解らんが、美里が助かると言うのなら行かない訳にはいかんだろう」
「そういうこと〜。急いだ方がいいよ〜。
あと、役に立てなかったお詫びに、これあげる〜」
やや狐につままれた様子ながら結論をまとめた醍醐に頷いたミサは、
再び人形から何やら取りだして龍麻に手渡す。
それは古ぼけた一枚の札で、表には朱墨で何か書いてあり、
手にするとひんやりとした感触がした。
「……札?」
「持ってるだけで〜、呪いから身を護ってくれるの〜。それじゃ、気をつけてね〜」
「とりあえず、礼は言っておく」
もう少し役に立つ、せめて解決の糸口くらいは掴めるものと思っていた龍麻は
落胆を押し殺しつつ、それでも手間をかけてくれたことには感謝した。
ミサの水晶玉がいきなり割れた事例からしても、
何者かが『力』で葵に干渉しているのだけは確実となった。
「うふふ〜、そんな改まって言われると〜、ミサちゃん照れちゃう〜」
「緋勇クン、行こう」
「ああ、それじゃ裏密、また」
「じゃ〜ね〜」
わざわざ廊下まで出て手を振ってくれるミサに頷いた龍麻は、
葵を抱きかかえる自分に向けられる奇異の視線をものともせず、
可能な限りの速さで病院に向かって歩き始めた。
桜ヶ丘中央病院の前に龍麻達は来ていた。
ミサの地図は正確で、迷いもせずに着くことができたのだが、
正直言って、誰もが不審と不安の色を隠せなかった。
「ここが……桜ヶ丘中央病院か」
「新宿に、こんな病院があったなんて」
小蒔の言葉に、全員が同意していた。
表から見える建物はさほど小さな物ではなく、前を通れば簡単に気づきそうなのだが、
奇妙に存在感を感じないのだ。
古びている訳でもなく、看板もちゃんと出ている。
それなのに、まるでその病院を探している者にしか見えないというような印象だった。
珍しく先頭に立っていない京一が、気のない声で告げる。
「こんなトコに来るヤツは正気じゃねぇからな。
ここは化け物の棲み家なんだからよ。お前らみんな、食われちまうぜ」
「京一さっきから何言ってるの? もともとおかしいけど、もっとおかしいよ」
「うむ……京一が馬鹿なのは今更だが」
顔も声も不吉なものにして脅す京一を、一行は集中攻撃する。
なかでも天敵とも言えるアン子の舌鋒ときたら、
うかつに触れたら切り刻まれた挙句に海の藻屑と消えてしまいそうなほどだ。
「なんかビビってるみたいよね。あんた、その院長先生とやらに会ったことがあるの?」
「……前に一度だけ」
絞りきった雑巾をさらに絞ったような苦渋の返事にも、アン子は容赦しなかった。
「だったらとっとと案内しなさいよッ!」
「馬鹿野郎! お前らみんな、解ってねェんだ。ここの院長の恐ろしさをよ。
なぁ緋勇、お前だけは信じてくれるよな」
「いいからさっさと入れよ」
龍麻の言葉は冷たく短い。
仮にも葵の生命がかかっている問題なのだから、
与太話につきあっている場合ではないのだ。
一方、唯一の味方に見放された京一は、ついに激昂した。
「あぁそうかよッ。だったら一人で行きやがれッ。
一度捕まったら最後、お前も餌食になるんだからよ」
「なんだ、お前はそのバケモンに襲われでもしたのか?」
「うッ……」
「図星か……」
それでもなお病院に入ろうとしない京一に、小蒔までもが怒りはじめた。
「いい加減にしなよ京一ッ! キミの泣き言に付き合ってるヒマはないんだよッ!
その院長センセがどんな人だか知らないけど、
キミが犠牲になって葵が回復するんならボクは迷わずそっちを選ぶよッ!」
「はい、決まりね。さ、入りましょ」
「くそォ、てめぇら、この鬼がッ!」
なお喚く京一に、もはや誰も一顧だにすることなく建物の中へと入っていったのだった。
あまり大きくもない病院の中は、静まりかえっていた。
患者どころか、受付の看護婦さえもいない。
灯りだけが点っているその様は、有名な消失事件、
マリーセレスト号を思わせるものだった。
それにしても、人気の無い病院や学校というものは、
どうしてこんなに不安をそそるのだろうか。
なんとなくうそ寒いものを感じた一行は、積極的に奥に入ろうとはしなかった。
「あら? ちょっと、誰もいないじゃない。ほんとに営業してるの?」
「とにかく、呼んでみよう。──すいません、誰かいませんか?」
「返事がないね……」
「それにしても、なんで誰もいないのよ。──ごめんくださーいッ、急患ですよーッ」
あまり病院には似つかわしくない声で、アン子が奥に向かって呼びかけている。
アン子の言う通り、患者はおろか、受付さえも誰もいないのは明らかに奇妙だった。
本当にミサが言ったのはここだったのか、不安になりながらもアン子は声を張り上げた。
かすかな反響音を残して建物全体に声が染みわたり、再び静寂が訪れようとする寸前、
かん高い声が奥の方から返ってきた。
「は〜い、今行きま〜す」
「あッ……良かった、いるみたい」
とにかく人がいたことにほっとした一行だったが、
それも一時のことで、すぐに不安に取って替わられてしまった。
パタパタという、音だけは小気味良いスリッパの音を立てて奥からのんびり現れたのは、
およそ看護婦というイメージからは程遠い女性だったからだ。
明るい茶色の髪は長く、しかも巻き毛になっている。
やや目尻の下がった眼には泣きぼくろがあり、
厚い唇は口紅など引いていないのに鮮やかな紅をしていた。
しかもその派手な顔立ちを支える身体も、
京一などが思わず視線を釘付けにしてしまうほど突き出た胸に、
やはり大きく丸みを帯びた尻。
そしてそれらを包む看護婦の制服はやけに丈が短く、太腿が露出してしまっていた。
目のやり場に困る彼女が本当にここの看護婦なのか、
咄嗟には判断できず固まる龍麻達に向かって、少女は屈託の無い笑顔で出迎えた。
「いらっしゃいませ〜ッ、ご用はなんですか〜」
「いらっしゃいませ……? 最近は病院もそう言うのか?」
「さ……さぁ」
なるべく彼女の方を見ないようにしている醍醐に聞かれたアン子も、
そう答えるのがやっとだ。
「あの、ボクたちは……」
「あはァ、お友達がたくさん。舞子、うッれしい〜」
「急患なんだが、至急院長に取り次いでもらえないか?」
「わあ、どこの制服かな〜? とってもオシャレ〜。
久しぶりのお客様だから、ゆっくり遊んでいってね」
全くマイペースで話す少女に、すっかり毒気を抜かれた一同、
特に京一などは危うく頷きかけてしまう。
「お、おい。緊急の患者なんだが」
「えッ? うふッ、わかってま〜す」
醍醐にそう答えた看護婦は、明らかに解っていなかった。
「……! 落ちつけ、緋勇」
笑顔を浮かべ、心から楽しそうにしている目の前の女性に、
龍麻の拳がひとりでに固まる。
それに気づいた醍醐が、慌てて龍麻の腕を抑えた。
制服の内側で張り詰めている筋肉に驚き、抑える力を強める。
それをも弾き飛ばそうとするかのように龍麻の腕は震えていたが、突然、
その揺れが大きなものになった。
「……!? な、なんだ、この音は」
「じッ、地震!?」
「……とうとう来やがったか」
地震というには規則的な振動に驚く一同の中、
京一だけがこれから現れるものを知っているのか、ぽつりと呟く。
その語尾を叩き潰すように、辺りの空気を鳴動させる大声が五人の鼓膜を撃った。
「うるさいぞ、このガキ共ッ!! ここは病院だ、静かにしろッ!!」
「なッ──」
「すごい声……」
(桜井ちゃん、声だけじゃないわよ、すごいのは)
思わず声に出していた小蒔に、アン子が囁く。
それももっともなことで、龍麻達の前に現れたのは怪人、と呼ぶに相応しい人物だった。
分類するなら女性ということになるのだろう。
豊満をはるかに通り越して、巨漢と形容するしかない肉体は、
京一と同じか、もしかしたらわずかに高いかも知れない身長に、
醍醐を遥かに凌駕する肉が付いている。
身体と同じく脂肪に囲まれた顔には不釣合いなほど優しげな瞳があったが、
この中で一番小さい小蒔など、片手でひねり潰されてしまいそうな迫力だった。
「なんだ、お前達は。わしはここの院長の岩山たか子だ」
腹の底から響く声で面白くもなさそうに問いかけられ、
怒っていた龍麻も圧倒されて黙ったままだ。
互いに誰が最初に名乗りをあげるか役目を押しつけあっていると、
場に全くそぐわないかん高い声が辺りに響いた。
「ちなみにわたしは看護婦見習いの高見沢舞子で〜す。
まだ看護学生なので半人前で〜ッす」
「看護学生?」
「そうで〜す。二丁目にある鈴蘭看護学校に通ってま〜す」
訊ね返した京一に、舞子と名乗った女性は嬉しそうに答えた。
すると、彼女の上司がぶっきらぼうに会話を遮る。
「高見沢、お前は黙ってな。話が進まん」
「は〜い」
「……で、何の用だ。ここは産婦人科なんだが、お前らの誰かが妊娠でもしたのか?」
「産婦人科?」
龍麻達は揃って首を傾げる。
何しろミサに紹介されたほどなので、普通の、
しかも産婦人科などとは思ってもいなかったのだ。
「表に書いてあっただろうが。まぁ多少なら急患も診るがな」
「この人を診て欲しい」
龍麻が一歩前に出ると、横幅なら醍醐を優に超える巨体の院長は、
ソファに横たわっている葵には一瞥をくれただけで後は龍麻をじろりと見た。
「その制服……真神か?」
予想外の質問に、龍麻は返事ができない。
すると、龍麻のそれとほぼ等しい位置にある口から、
いやにねっとりとした声が流れてきた。
「名前は?」
「……は?」
「名前だよ、名前。何て名前なんだい、ボーヤ」
矢継ぎ早に出される質問に、龍麻の困惑は深まっていく。
医者ならそんな質問よりも先にやることがあるだろうと怒鳴りたいのを堪え、
龍麻は答えた。
「緋勇龍麻」
「緋勇……龍麻ねぇ。あんた、何か武道をやってるね。わしには解るよ。
その鍛えた上腕ニ頭筋や三角筋を見ればねぇ。
後で是非他の場所も見せて欲しいもんだねぇ」
たか子は何とも形容しがたい笑みを浮かべ、遠慮なく龍麻の身体を視姦する。
絡みつく好色そうな視線に、龍麻は眉を跳ね上げることで応えた。
葵を診てもらう、という目的がなければ、実力行使も辞さないつもりだった。
だが、並の不良などでは眼光だけで恐れをなして逃げだすであろう眼光にも、
たか子は怯むどころか、肉の旨さを吟味する美食家のような目で応じる。
これには龍麻も怖気を覚えるほかなかった。
「や〜ん。院長先生のえっちィ〜」
「お黙りッ。……おや? そこのデカいのも良く引き締まっていて
美味しそうな身体じゃないか。名前は?」
「だッ、醍醐雄矢と言います」
「わぁ、醍醐くん!? 強そうな名前。ねェ、院長先生」
「……その身体、見せかけじゃないんだろう? お前も何か武道をやっているな?」
新たな犠牲者も上体を軽く仰け反らせている。
不幸な仲間が出来たという後ろ向きの連帯感が龍麻に芽生えたが、
とにかくこの場は完全にたか子のペースに支配されてしまっていた。
真神が誇る番長格の男と、いずれそれに劣らない名声を確立するだろう男が、
逃げださないのは隣の奴が逃げないからだ、という所まで追い詰められている。
その、真神学園を一人で壊滅に追い込んだ強者は、
醍醐の制服の向こうに、更に新たな標的を見つけたようだった。
「……おや? その後ろに隠れてるのは京一じゃないかい?」
「ひッ、人違いですッ」
うわずった京一の声に、真神學園の生徒全員が驚く。
ヤクザに囲まれても絶対にそんな声など出さないであろう無頼漢が、
悪戯を見つかった犬のように萎縮していた。
「ヒヒッ、隠れてないでその愛らしい顔を見せておくれ」
釈迦に対する孫悟空──とでも言うべきか、傍若無人な京一も、
たか子に対しては為す術がないようだった。
京一は龍麻に視線で助けを求めたが、
まだつきあいは浅くても、その人となりは信頼できるはずの友人は、
庇うどころか犠牲は免れたと露骨に安堵していた。
「うッ……」
「久しぶりだねェ。ヒヒッ、男ぶりが一段と上がって。
ほれ、もっとこっちに来ておくれ」
「い、いえッ、僕はここで結構ですッ」
題醐までもが身体をずらして前に押し出そうとするので、
京一は必死に巨躯の陰に隠れなければならなかった。
三人は互いに身体を押し合い、
これほど真剣さと滑稽さを兼ね備えたものはないだろうおしくらまんじゅうをする。
「僕だって……どうしちゃったの、京一」
「良くわかんないけど、面白くなってきたわね」
歩く馬鹿の豹変ぶりに、小蒔とアン子は部外者としての好奇を隠そうともせずに囁きあう。
その間にもたか子は一歩を踏み出し、京一をその射程距離に収める一歩手前まで来ていた。
「昔のようにたか子センセーと呼んでおくれよ」
「め、滅相もないです」
「全く、お前もお前の師匠もつれないねェ。
昔は二人まとめてあんなに可愛がってやったのに」
たか子の口から放たれた意外な言葉に、醍醐は声をひきつらせながらも、
初めて聞く悪友の過去に興味を抱いて訊ねた。
「師匠って……お前、そんな人いたのか」
「ん? ……あぁ、まあな」
京一の返事には、明らかにその話題に触れて欲しくないという微成分が混じっていた。
それを醍醐は察したが、たか子は一向に構わず続ける。
「そういや、あいつは元気にしているのかい?」
「さ、さぁ……もう何年も会ってませんから」
「そうかい、残念だねェ。あれもいい男だったのに」
たか子は過去を懐かしむように宙を見上げ、小さく頭を振った。
そこには今しがたまでの退廃した態度ではなく、
たいそう真摯な雰囲気がまとわりついており、龍麻達はなんとなく押し黙ってしまった。
その空気を振り払うように、ここに何をしに来たか思い出した醍醐が口を開く。
「そ、そんなことより先生、今日は友達を診てもらいにきたんです」
「ふん、わかっておる。そっちの女だろう?」
「そうなんで──」
「お黙りッ! わしは京一に聞いとるんじゃ」
「は、はい……」
言いかけたアン子はぴしゃりと遮られて、
しゃっくりを無理やり止められたように目をぱちくりとさせた。
有史以来初めて他人に黙らされたアン子に、小蒔も一緒になって目をぱちくりとさせる。
「ごめんね〜。院長先生って女の子にはきびし〜から」
「そ、そうみたい……ね」
(ボク達、名前も聞かれてないもんね)
小蒔が耳打ちしても、アン子は頷くのがやっとだ。
そんな二人をじろりと、吠えかかる相手を見つけたブルドッグのような眼で見た
たか子は、その視線をソファに横たえられている葵に移し、
最後にもう一度京一、醍醐、そして龍麻の順番で移動させるとぶっきらぼうに言った。
「ごちゃごちゃうるさいッ。……まあいい。ほれ、さっさとこっちに連れてきな」
「それじゃ、診察室にごあ〜んな〜い」
旗でも持って先導しそうな調子で告げた舞子は、
葵を抱き上げて先頭に立った龍麻の顔をまじまじと見つめた。
鼻先がつきそうなくらい顔を近づけて、砂糖づけのお菓子を想起させる声で訊ねる。
「あらぁ? あなたって、良く見ると格好いいのね。ね〜、その子、あなたの彼女〜?」
「違う」
短い龍麻の返事にも、気を悪くした風もなく、舞子は、龍麻を探るように
下から見上げると全く邪気のない、そのくせ妙に色気の漂う笑顔で誘惑した。
「そうなんだ〜ッ。今度は一人で遊びに来てね〜」
「高見沢、早くせんかッ」
「は〜い。それじゃね〜」
たか子に呼ばれ、舞子はふわりと龍麻から離れる。
蝶が舞うような軽やかな足取りは病院にはまるで似つかわしくなく、
一同は、濃度の異なる不安をそれぞれ浮かべて、
先に診察室へと入っていく彼女を見送ったのだった。
五人は診察室の前に置かれた長椅子に座り、葵の回復を待っている。
京一は壁にもたれて腕を組み、指で腕を叩いている。
小蒔は十秒おきに診察室の扉を見て、何も変化が起こらないことに落胆していた。
龍麻は組んだ足を一切動かさず、何事か考えに没頭していた。
「ふぅ……美里ちゃん、大丈夫よね」
「今は、先生を信じて待つしかないな」
アン子と題醐の会話は、小声で行われているにも関わらず、病院全体に反響する。
思いのほか大きく響いた声に、醍醐は大きな肩をすぼめたが、
アン子は萎縮などせず、むしろ自分の声をきっかけにするかのように再度口を開いた。
「……そういえば京一、あんたさっき、師匠がどうとか言っていたわよね。
いい機会だから詳しく教えてよ」
思い出さなくても良い物を、と京一は眉を曇らせる。
過去に──特に、その過去に触れられるのは、
この悩みなどないように見える男の好む所ではなかった。
「何がいい機会だってんだッ! 冗談じゃねぇ、
お前なんかに話したらあっと言う間に大事だ。
それに、ンなこたァべらべらと話すことじゃねぇよ。
……大喧嘩して別れてから、もう五年も会ってねぇんだ。今頃どこで野垂れ死んでるか」
「何よ、ケチね」
「へッ、何と言われようとお前だけには絶対教えねぇよ」
反撃しようとしたアン子は、意外に硬い壁の存在を感じて、
不覚にも口をつぐんでしまった。
自分の過去を語るのは好まない京一であるが、龍麻の過去に関しては興味がある。
むろん、アン子のように強引に聞き出そうとは思わない。
だが、波乱を起こすためにやって来たような男の過去に何もないはずがなく、
いずれ語らう機会もあるだろう。
……その時には、旨い酒とつまみでもあればなお良い。
「何笑ってんのよ、気持ち悪い」
そう遠くない未来に思いを馳せていた京一は、アン子に指摘されて我に返った。
見れば龍麻を除く全員が、葵の治療中であるのに不謹慎だという顔をしている。
顔の下半分を手で隠して表情をくらませて、京一はただ一人無表情な男に話しかけた。
「……にしても、鮮やかな手並みだったな」
「何がだ」
「ん? いやァ、美里が気を失うとき、抱きとめてその上、
お姫様ダッコでここまで来たろ? ずいぶん役得だなァと思ってよ」
話にならない、と頭を振る龍麻を、すぐに小蒔が援護した。
「あのね、緋勇クンは葵を助けてくれたんだよ?
京一なんかに抱きあげられたら、余計容態が悪化しちゃうよ」
「そうよッ、アンタみたいなのが真神の聖女に触るなんて、畏れ多いにもほどがあるわ」
「くそッ、人を病原菌扱いしやがって」
小蒔とアン子に手厳しく反撃された京一は、憮然として壁に背中をぶつけるのだった。
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