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 治療が始まってから、一時間が過ぎようとしていた。
一度は治まっていた不安も、隙間からこぼれ出した微粒子が小さな雲を作りはじめている。
その存在に最初に感化されたのは、葵の一番の親友と自らを任じている少女だった。
親指を口にあて、静かな、しかし重い息を吐き出す。
彼女のため息に反応したのは、彼女から最も離れた位置に立っていた巨漢だった。
「……ん? どうした、桜井。美里のことなら先生に任せよう」
「……うん。どうしようもないって解ってるんだけどね。
もし、もしこのまま葵が目を覚まさなかったら……ボク、怖いんだ」
 訴えるように醍醐を見た小蒔は、視線を龍麻に転じる。
「ね、緋勇クン。どうしてこんなことになっちゃったの?
葵が何をしたって言うの!? ……ボク、絶対に許さない。
葵をこんな目に合わせた奴を、絶対に許さないッ!!」
 ブラックホールめいた暗黒色をした龍麻の眼に、
裡に秘めていた彼女の感情が引きずり出されたかのようだった。
小さな身体を全て使い、満ちてなお尽きることのない怒りを露にする。
 波濤となった彼女の豊かな感情の防波堤となったのは、
彼女の隣に立つ大男だった。
「落ち着け、桜井! 今、俺達が弱気になってどうする。今は……待とう」
 自分の焦りを封じこめて醍醐が叱り飛ばす。
小蒔がすぐに収まったのは、醍醐の気持ちが伝わったからでもあったが、
無表情を崩さない龍麻に、怖さを感じたからでもあった。
 龍麻は葵のことをどうでもいいと思っているのではない。
その逆の執着が彼を静まり返らせているような気がして、一気に醒めたのだ。
 緋勇クンもきっと、葵をこんな目に合わせた奴を許さない。
そして、ボクよりも徹底的に実行するに違いない。
その感情が正しくないと心のどこかで思っていたからこそ、
小蒔は醒めることができ、同時に龍麻に怯えたのだ。
「うん……ごめんね」
 小蒔が謝ったのは、直接には醍醐に対してだったが、
むしろ成分としては龍麻に対しての気持ちの方が多かったかもしれなかった。
「それにしても……結構時間がかかるものだな」
「そうね……あれからもう二時間近くは経っているかしら」
 醍醐にアン子が応じる。
彼女は腕時計をしているにも関わらず、病院の柱に掛けられた時計をしきりに見ていた。
そのうち、見る度に位置を変える針にまで悪態をつきそうな様子だったが、
どうやら龍麻達はそれを聞かされる羽目にはならずに済んだようだった。
扉の向こうから、ようやく舞子とたか子が姿を見せたのだ。
「みなさぁ〜ん。院長先生からお話があるので聞いてくださ〜い」
 舞子ののんびりした口調も、龍麻達の焦慮を和らげる効果はなかった。
たか子の姿が見えるや否や、一斉に立ち上がって彼女の許に駆け寄る。
たか子の表情は顔の周りについた脂肪のせいで窺いにくく、
治療が上手く行ったかどうかは彼女の言葉に頼るしかなかった。
「せんせー、葵は!?」
 真っ先に訊ねた小蒔に、たか子は眠たげな目を向けた。
「そんな必死な顔をするな。……とりあえず、治療は済んだ。
だが──意識が、戻らん」
「──!!」
 ひと息に言い放ったたか子に、周りの空気が凍りつく。
「氣の回復は上手く行った。しかし、覚醒の段階で障害が出ておる。
何かが娘の深層意識を繋ぎとめている」
「そんな……」
「娘の意識は徐波睡眠と呼ばれる眠りの最も深い段階で留まっている。
本来なら同じ段階に意識が留まる事などあり得ないのだがな」
「じゃ……じゃあ、先生、葵は……」
 自分の言った台詞の先にあるものを想像してしまい、小蒔の声は震えていた。
龍麻たちも声には出さないものの、等しく衝撃を受けていた。
 彼らを痛ましげな目で見たたか子は、一瞬のためらいを見せた後、
彼らの最も聞きたくない未来を告げた。
「このまま目を覚まさないか、あるいは──衰弱して死ぬこともあり得る」
「そんな……ッ」
 杏子の悲鳴に疎ましげな視線を向けたものの、口に出しては何も言わず、
たか子は若者達にもう一つの未来を示唆した。
「だが、娘の意識を拐かしている者を探し、それを止めさせれば話は別だがな」
「間違いねェな……そいつも、唐栖や雨紋と同じように『力』を持った奴だ」
「うむ」
 短く頷くに留まったが、たか子は内心で驚きを押し殺していた。
……やはり、京一の身体から溢れている氣は、
京一がその力の使い方に目覚めたことを示していたのだ。
それに、この龍麻という少年。
彼が放つ氣は、尋常なものではない。
もしかしたら──
たか子はこの少年が背負っているものを思い、
誰にも気づかれないよう厚い唇の間から息をついた。
自分がこの道を選んだのと同様、誰にも替わることのできない宿命。
当人は未だ気づいてはいないようだが、それは恐らく、
自分が歩んでいる宿命よりも遥かに苛酷なものだろう。
道を、誤るんじゃないよ──
たか子はわずかな同情と、それよりは多くの共感をその瞳に浮かべた。
「で……でもさ、なんで葵が」
「そんなもの、本人に直接聞けばいい」
 そっけなく言い放った龍麻は、たか子に訊ねた。
「どんな小さなことでもいい、何か手がかりは」
 強い圧力を有する眼光を伴った、言い放った時とさほど変わらぬ冷たい口調を、
たか子は動ずることもなくその巨体で受け止めた。
「まぁ落ち着け。いいか、送られてくる氣の放射幅と方向を測定した結果、高見沢、地図を」
「はァ〜い。地図地図〜」
「この地図は墨田区の北から北西に位置する地域の地図だが、
氣の送られて来ている方角はこの辺りだ。ここを中心にした半径五百メートルほどに
氣の乱れが測定されておる」
「ここ、白髭……公園っていうのかな?」
「墨田か……地理が解んねぇな。まァ、行ってみるしかねェか」
 京一が提案し、頷いた一同が、さっそく墨田区に向かおうとすると、
間延びした声がかけられた。
「良かったら〜、わたしィ、案内しましょうかァ? その辺りは詳しいし〜」
「あァッ!?……そりゃ、駄目ってこたァねェけどよ……」
 京一は言葉を濁したものの、明らかに彼女の同行を歓迎していなかった。
これから始まるのはおそらく戦いであり、それも『力』を持っている相手とだ。
ただの看護婦である彼女が役に立つとも思えず、それに、
この脱力してしまう声は、気勢を削ぐことはなはだしかったのだ。
 すると、眉をくっきりと八の字にしている舞子の横に立ったたか子が、
彼女の肩に肉の厚い手を置いて言った。
「連れて行ってやってくれんか」
「え……?」
「高見沢は、こう見えても普通の人間にはないものを持っている。
他人とすぐ仲良くなれるというかなんというか──、まァ、
一種のコミュニケーション能力だな。どの道情報を集めなければならないんだろう?
足手まといにはならんから、連れていってやってくれ」
「……しょうがねェな……いいか、緋勇?」
 龍麻は小さく頷き、舞子を喜ばせた。
「よろしくねェ〜。舞子でいいよォ〜」
 舞子は今すげなくあしらわれたことも忘れているようで、
嬉しそうに龍麻の手を取って飛び跳ねた。
「よっしゃッ、さっさと行こうぜッ」
「うんッ!!」
 京一達は気勢を上げる。
そこに、水を差す声が彼らの中心から放たれた。
「悪い、先に行っててくれ。さっきから腹の調子が良くないんだ」
「なんだァッ!? ……しょうがねえな、さっさと追いついてこいよ」
 京一はいかにもやる気を削がれたような顔をして、
小蒔などは半ば怒りかけている。
あるいは失望したのかもしれず、無言で身を翻すと、先頭に立って病院を出ていった。
京一も後を追い、最後に残った醍醐は、気遣うように龍麻を見ながらも、
二人に続いて去っていった。
 全員の姿が見えなくなるまで見送った龍麻は、
病院の入口とは反対の方向に身を翻す。
トイレの前を通り過ぎると、葵が眠っている診察室に素早く入っていった。

 砂漠というものは元来生命に厳しい。
環境に適応したいくばくかの植物、あるいは動物は存在するものの、
それらは例外的な存在であり、砂と熱、そして死こそが砂漠の本質ともいえた。
 ゆえに、この何者かが生みだした、精神世界の中にある砂漠も、
砂漠としては正しいのかもしれない。
だが、この砂漠には何もなかった。
地下を流れるわずかな水脈を頼りにたくましく生きる花も、
その花に集う虫も、その虫を狙う小動物も、一切の生命がここにはなかった。
造物主が手を抜いたのか、それとも、意に染まぬ何物をも必要としなかったのか。
その問いには風すらも答えなかった。
 誰もいない砂漠に、突如として二つの人影が現れた。
長身の少女と、彼女の肩ほどまでしか身長のない、小柄な少年だ。
制服に着られているような印象も受ける、
生気に乏しく内向的であるのが一目で解る少年と、
上着もスカートも裾を詰めた改造セーラー服は、
着こなすというよりもその下に収まる抜群の肢体をかろうじて隠すに過ぎず、
茶色の髪に紫色の唇も、おとなしく家と学校を往復するだけの青春など
送ってたまるものかという意思表示が明らかな少女は、しかし、紛れもなく
墨田区覚羅高校に通う同級生であり、男の方は嵯峨野麗司、
女の方は藤咲亜里沙といった。
 磔にされている葵のところにやってきた二人は、気を失っている少女の前に立つ。
葵を見る亜里沙の目に友好的な色はなく、彼女の境遇に同情している気配もない。
豊かな胸の前で、腕を組んだ亜里沙が言った。
「ふうん。あんたが執着するのも分かるわ。
いいオンナじゃない、あたしには及ばないけど」
 冗談ともつかぬ亜里沙の感想に麗司は応じなかったが、
気を悪くした風もなく亜里沙は続けた。
「ねえ、この女あたしに任せてみない?
あんたに絶対服従する奴隷に躾けてあげるわよ」
 紫色のルージュが引かれた唇を舐めあげる亜里沙に、麗司が初めて反論した。
抑揚が定まっていないのは、反論することに慣れていないのかもしれない。
「あ、葵は……そんな女(ひと)じゃないんだ」
「女なんて一皮むけば何が出てくるか、分かったもんじゃないわよ」
 舌なめずりを続ける亜里沙に、気弱そうに見える麗司は頷かない。
亜里沙は女であっても力づくで麗司を屈服させることも可能だろうが、
わずかに肩をすくめただけで自らの欲望を実行に移そうとはしなかった。
「こいつを追いかけてきた奴らはどうする?
のこのこやって来て罠にかかった間抜けな奴らよ」
 亜里沙が指しているのは、京一と醍醐、それに小蒔とアン子の四人だった。
彼らは霊的治療の第一人者である岩山たか子の助言に従って、
葵を捉えようとする霊的波動の発信地である、墨田区へと向かった。
だが、罠を張って待ち構えていた麗司と亜里沙によって睡眠ガスを嗅がされ、
葵と同じく精神の虜囚となってしまったのだ。
「あんな奴ら、どうでもいい」
 玩具に飽きた子供のような口調で麗司は答えた。
彼が執着するのは葵のみで、その他のあらゆる人間が彼の興味の対象外なのだ。
「じゃあ、あたしがもらってもいい? あの大きいのとメガネは要らないけど、
男と女は下僕にしたらちょっとは楽しめそうなのよね」
「好きにすればいい」
 答える麗司は葵から片時も目を離さない。
葵を見る彼の目には、神を崇拝する狂信者の趣があった。
一歩ずつを味わうような足取りで、葵に近づく。
手を伸ばせば葵に触れられるというところまで来た時、突然声がした。
「そう簡単に一皮剥かれちゃ困るんだがな」
「誰ッ!?」
 麗司と亜里沙は同時に叫んだ。
砂を踏みしめる音が、二人に答える。
十字架の背後から姿を現したのは、一人別行動を取っていた龍麻だった。
「なっ、なんでお前が……招かれていない人間が僕の王国に入れるんだ……!」
「悪いがこの女は俺のものなんでな。返してもらいに来たぜ」
 たか子の話を聞いた龍麻は、夢の世界から葵に干渉している相手を
探しにいくのではなく、敵は必ず近いうちに現れると踏んで、
眠っている葵の傍で座禅を組み、彼らが現れるのを待ち受けたのだ。
結跏趺坐という特殊な足の組み方で瞑想し、意識を限りなく薄くしていく。
自我すら失いそうになるほど没入し、一転、己以外何も認識できないほどに集中する。
そうやって己の身体に眠るチャクラを目醒めさせ、氣を練り、操る修行を
行ってきた龍麻は、自己の気配を限りなく断って、
麗司が葵の精神を彼の王国に連れて行くときに後を追ったのだった。
「ふっ、ふざけるなっ、ボクの王国で逆らうやつは許さない……!」
「フン、国王だろうと大統領だろうと知ったこっちゃねえ」
 指を鳴らし、実力行使に及ぼうとする龍麻に、嵯峨野は早くも腰を抜かしかけている。
だが彼の見かけの弱さに、龍麻は騙されなかった。
「要は女の取り合いだ。お前も美里が欲しいってんなら、どっちかが引くしかねえ。
俺は引く気はねえぜ」
「ぼ、ボクだって引かない……!」
「いい度胸だ」
 龍麻は身構え、集中する。
肉体という枷を離れた今、龍麻の精神は集中するほどに研ぎ澄まされていき、
嵯峨野を圧倒した。
 口では強がっても、暴力の気配に怯える嵯峨野の前に、亜里沙が立ちはだかった。
嵯峨野を庇う彼女は、腰にぶら下げている鞭を手にして妖艶に笑う。
「オトコ同士で盛り上がってるところ悪いけど、そうはいかないのよね。
あんた中々いいオトコだし、あたしのペットにしてあげてもいいわよ」
 こぼれ落ちそうなほどの媚を含んだ声は、
敵と解っていても抗いがたい、男にとっての猛毒だったが、
龍麻は冷淡に答えるのみだった。
「そういう趣味はないんでな」
「自分のことって案外わからないものよ。新しい自分を見つけさせてあげるわ」
「その鞭でか? 悪いが遠慮させてもらう」
「ふふッ、無理矢理にでも跪かせてあげる……ッ!」
 語尾に重なるように、鞭が空を断つ音が龍麻を襲った。
充分に予測していたにも関わらず、鞭の速度は龍麻の想像を超え、
避けようとした身体に鞭が直撃した。
視界に閃光が瞬き、片膝をついてしまうほどの威力だった。
「ああッ、いい音ッ……! 音だけでイッちゃいそうよ」
 豊満な肢体をくねらせる亜里沙に、龍麻は唾を吐いて応じる。
薄い笑みを絶やさぬまま、亜里沙は再び腕を振り上げ、二撃目を振るった。
両腕を前方に立てて上半身をブロックしようとした龍麻だが、
鞭の先端は猛禽のように急降下し、足首を狙ってきた。
反応が遅れた龍麻は、なすすべなく引き倒される。
そこに三度鞭が襲いかかり、立ち上がることができないまま鞭打を浴びた。
肉が裂け、骨にまで達するような激痛が全身に回り、
身体を縮めて亜里沙の攻撃が勢いを弱めるまで耐えるほかなかった。
「あーはッはッ、不様ねェッ、芋虫みたいでさッ!!」
 転がりながら距離を取り、どうにか立ち上がったときには
全身砂まみれで、制服は切り裂かれてボロボロだった。
身体に血が滲んでいない場所はなく、何箇所かはすぐに手当が必要なほど
多量に出血している。
戦ってまだ一分も経っていないのに、すでに趨勢は見えはじめていた。
「まだやろうっていうの? しつこい男は嫌われるわよ」
 足元のおぼつかない龍麻に、亜里沙は嘲るように手の甲を口に当てる。
龍麻の顔は、砂と血に汚れていたが、眼は力を失っていなかった。
制服のボタンを外しながら彼女を睨みつける黒い瞳の輪郭が、日食のように輝いている。
「……死んでも言うことを聞く気はないって顔ね。
ならいいわ、お望みどおり殺してあげるッ!!」
 最速の鞭が龍麻めがけて振り下ろされる。
その寸前、素早く制服を脱いだ龍麻は、飛び退くと同時に制服を宙に投げた。
制服程度では鞭の勢いを減ずることもできず、紙同然に切り裂かれる。
「みっともないよッ、悪あがきなんてさッ!!」
 勝利を確信した亜里沙が叫ぶ。
だが、龍麻は悪あがきするために制服を投げたのではなかった。
 広げて投げた制服が、突如として空中に生みだした黒い空間に、
一瞬、亜里沙の視線が逸れる。
その隙に龍麻は練った氣を、彼女の足元に放った。
上から下に、急激に移動した視界に、亜里沙はついていけない。
しかも龍麻は彼女自身を狙ったのではなく、
足元の砂を舞い上げるために氣を放ったのだ。
「きゃあッ!!」
 頭にまで舞い上がった砂を、亜里沙はまともに浴びてしまう。
慌てて顔についた砂を払い、龍麻を探したとき、すでに龍麻は目の前にいた。
「――ッ!!」
 腹に熱を感じたと同時に、亜里沙は吹き飛ばされていた。
数メートルは吹き飛ばされ、背中から砂に叩きつけられる。
身体を打った痛みは少なかったが、どうにか上体を起こした直後、
彼女を内側から凄まじい衝撃が襲った。
「く……ッ……」
 体内で爆ぜる氣による激痛に目を見開き、空を仰ぎながら、
なお龍麻を睨みつける。
しかし、亜里沙の抵抗もそれまでで、龍麻の渾身の一撃を受けた彼女は、
そのまま昏倒した。
 彼女が起き上がらないのを確かめた龍麻は、残った嵯峨野麗司に向き直る。
彼は亜里沙を置いて逃げだしたりはしなかったが、しなかったのではなく、
単にできなかっただけなのかもしれなかった。
「くッ、来るな、来るなッ……!!」
 亜里沙を倒したとはいえ、満身創痍でゆっくりとしか近づけない龍麻に、
すでに威圧されている彼は尻餅をついたまま必死に後ずさりする。
戦意など微塵もない、ぶざまな姿だったが、龍麻は容赦しなかった。
嵯峨野の胸ぐらをつかんで強引に立ちあがらせると、練った氣を彼の腹部に叩きこむ。
亜里沙が受けたものとさほど変わらぬ一撃を、虚弱な肉体に受けた嵯峨野は、
蛙の断末魔に似た悲鳴を一度放ったきり動かなくなった。
「……」
 嵯峨野が死んではいないことを確かめた龍麻は、亜里沙が持っていた鞭を取りあげると、
葵が磔にされている十字架に向かって歩きはじめた。

 目を覚ました葵の前に居たのは、見知った男だった。
何故か上着を脱ぎ、白いシャツと黒いズボンのコントラストが眩しい彼に、
声をかけるべきか、葵は判断に迷った。
彼が助けに来てくれたのか、それとも、彼こそがこの非現実の首謀者で、
あの保健室の続きを行うためについに現れたのか。
希望と恐怖は交錯し、容易に結論を出させない。
 結局、葵が龍麻に話しかけたのは、五分ほどが過ぎ、彼が目の前に立ってからだった。
「助けに……来てくれたの?」
「他に何があるってんだ」
 投げやりな返答に、葵は彼の左手を見ることで応じた。
 怯えた視線に気づいた龍麻は、無言で手にした鞭を数秒眺め、訊ねた。
「まさかお前、縛られたまま鞭で打たれるのが好きなのか」
「ち、違うわ!」
 彼ならやりかねないと思ったからこその、恐怖混じりの問いだったのに、
あらぬ方向に逸らされて、たまらず葵は叫んでいた。
「もしそうなら、あまりそういうのは趣味じゃないが、練習しないといけないからな」
 面白くもなさそうに鼻を鳴らし、鞭を捨てた龍麻は、足先から頭頂まで葵を眺めた。
無遠慮に過ぎる観察は、それが最善の方法なのだと解っていても、
葵を落ちつかなくさせた。
何しろ葵は今、四肢を拘束されて身動きできないのだ。
鞭を捨てたとはいえ、龍麻がその気になれば、どのようにでも辱めることができるのだ。
しかも、どれほど叫んでも、別の助けが来る可能性はほとんどない。
葵の危機は、未だ剥がれてはいなかった。
 怖気を態度に出さないようにするのが精一杯の葵は、
龍麻の挙動を息を殺して見守っている。
彼の視線の正面にある、太腿を凝視していた龍麻は、前触れもなしに手を伸ばし、
葵の素肌に触れた。
「……い、嫌っ……!」
 瞬時に保健室の記憶が蘇り、葵は恐慌寸前に陥る。
 一瞬でも救いが来たと思った自分が愚かだった。
やはり、龍麻など信用してはならなかったのだ。
手足の一切を動かせない葵は、至近に迫った絶望に抗おうと声を出そうとしたが、
いかなる罵声も悲鳴も、すでに固形物と化していて、
呼吸の妨げとしてしか意味をなさなかった。
 純血を穢される前に舌を噛んで死ぬべきかとすら思う葵に、龍麻は静かに告げる。
「この鎖、端がないな」
 螺旋状に絡みついた鎖を、無骨な手でなぞっていく。
あるときは指で、あるいは手のひらで、葵の肌に触れるのをためらわない動きは、
葵に不快感をもたらしたが、為す術がない。
「は、早く助けて……」
「この鎖がどうなってるかを確かめるほうが先だ」
 にべもなく答えた龍麻は、葵の身体をまさぐっていく。
太腿から腰へ、そして胸へ、肩へ。
無遠慮に女の身体を蹂躙していく男の手を、葵は唇を強く噛んで耐えた。
いつまでこの拷問のような時間が続くのか、全能の存在に祈らずにいられない。
せめて鎖が、指先が微弱な刺激をもたらすとき、
嫌悪以外のものを感じないように、強く、強く願った。
 しかし、葵が祈る神が実在するならば、そもそもこのような苦難をもたらしはしない。
龍麻による鎖の調査は、葵が思っているよりは短時間で終わったが、
それでも、胸や素足を遠慮なく撫でられて、若く健康的な肉体は刺激を無視できなかった。
 身体に熱が溜まっていくのが自覚できる。
特に龍麻の手が肌に直接触れたとき、甘い痺れめいたものを感じてしまって葵は、
彼に気づかれないようにするのに必死だった。
「やっぱり端はなかったな。どうなってやがるのか、輪の構造になってるみたいだな」
 調査を終えた龍麻が顔を上げる。
薄く唇を開け、篭った熱を体外に逃していた葵は、
しばらくの間見られていることに気づかず、慌てて呆けていた口を閉じた。
「なんだ、感じてたのか? もう少し続けたほうが良かったか?」
 死にたくなるようなことを言う龍麻を睨みつける。
これ以上彼に辱められるようなら舌を噛んでしまおうと、
少女の気高さを未だ心に残す葵は決心した。
「ま、それよりもとりあえず、こいつを引っ張ってみるか」
 だが、憎らしくも決心を鈍らせるようなことを言った龍麻は、
宣言どおりに両手で鎖を掴むと、力任せに引っ張った。
すると、あれほど葵を縛めていた鎖が、紙紐のように引きちぎられていく。
嵯峨野麗司の精神力によって創りだされていた鎖は、
彼が戦意を喪失したことによってその力を失っていた。
 一気に縛めから解かれ、支えを失って落ちた葵は、
龍麻が抱きとめたので、怪我もなく地上に下りることができた。
 だが、自失から我に返った葵は、礼を言うより早く彼から離れようとする。
足の裏に砂を感じた瞬間、それまで溜まっていた感情が膨れ、爆発した。
「貴方のせいよ……! 貴方のせいで、こんな目に……っ……!」
 駄々をこねる子供のように葵は暴れ、目の前の男にすべての感情を炸裂させた。
視界が滲むのも構わず、両肩を吊りあげる黒い感情に衝き動かされるまま彼を殴る。
一打は次の一打を呼び、葵は生まれて初めて他人を、理性が及ばないまま殴り続けた。
 泣き叫ぶ葵を、龍麻はなだめようとはしなかった。
身体から針を生やしたように、他者が触れるのを拒んで一方的に龍麻を叩いていた
葵の、両肩を掴んで容赦なく引き剥がす。
力づくでの乱暴な仕打ちに、目に涙をためたまま葵が顔を上げると、
今度はいきなり引き寄せられた。
「――!!」
 この砂漠で磔にされていたときには全く感じなかった熱を、葵は感じた。
灼けるような熱さに呆然とし、意識のすべてを身体の一点に奪われた。
 どれほどの時間が過ぎたのか、ようやく理性を取り戻した葵が見たのは、
あの、宇宙の始まりからそこにあったかのような、ただひたすらに黒い瞳だった。
あらゆる熱を呑みこむ暗黒に、葵は喉を引きつらせる。
自分を見据える小揺るぎもしていない瞳に、一時の狂奔も醒めていた。
「旧校舎で『力』を使えるようになった四人は、
お前の言うとおり俺に責任があるのかもしれない」
 葵の腰を抱いたまま告げる龍麻の自戒は、彼女の心に直接刻むかのように響いた。
「だが、渋谷の件や今日の件は、俺が真神に来ようと来まいと起こっていたことだ」
 葵にもそれは解っていた。龍麻が来てくれなければ、
この謎の世界に一生囚われていたかもしれないということも。
結局、葵は龍麻に対する個人的な嫌悪から、
すべての原因を彼に押しつけようとしたにすぎない。
新宿中央公園の日本刀騒ぎのときも、渋谷の鴉のときも、そして今回も、
龍麻は自分に全く関係がないのに、事件の渦中に飛びこみ、
身を挺して人々を救ったのだ。
「俺達のこの『力』は、不自然なくらい同じ時期に発生している。
前からこんな力を持ってる奴がいるなら、もっと早くから騒ぎになってるはずだからな。
この力には原因か理由か、とにかく何かがある。俺はそれを探さなきゃならない」
 龍麻の決意は正しく、葵はすっかり恥じ入る。
だが同時に、やはり彼の狼藉を許すわけにもいかないのだ。
二面性と言うには深刻な龍麻の所業に、葵の困惑は深まるばかりだった。
 龍麻への好悪はどうあれ、とにかく、今はこの奇怪な世界を脱出するのが先決だ。
それは龍麻も認識しているらしく、葵の腰を離すと話題を変えた。
「お前、状況は理解しているか」
 葵は声を出さずに頭だけを振った。
いろいろな事情を鑑みても、今、彼と口を聞く気にはなれなかったのだ。
 好意的とはとてもいえない葵の態度にも、龍麻は気分を害したようすはなく、
葵から見て右手前方を指差した。 
「ここはどうやら、あっちで伸びてる野郎の夢の中らしい。
俺やお前は精神体として招待されたって筋書きらしいな」
 龍麻の言っていることは全く理解できなかったが、
これが異常な状況というのは良くわかった。
ではどうやって脱出するか、肝心な質問を葵がしようとすると、突然、
龍麻の身体が大きく傾いた。
砂に足を取られたのではなく、疲労が蓄積して片膝をついてしまったようだ。
「緋勇君……!?」
 見れば龍麻のシャツはそこかしこが切り裂かれ、そこから見える肌は血に塗れていた。
しかめている顔も、演技などではなさそうだ。
かなりの深い怪我は、自分を助けるために負ったものであるのは間違いなく、
それを治療しないのは、道義にもとると考えた葵は、彼のために『力』を用いた。
彼の怪我の程度から見て、かなりの回数『力』を使わなければならないと思っていたが、
意外にも数回で龍麻は元気を取り戻したようだった。
「助かるな。いくらここが夢の世界とは言っても、痛えものは痛えしな」
 具合を確かめるように手足を数回動かした龍麻は、広大な砂漠を見渡した。
「さてと、現実に戻る方法を探さねえとな。本人に聞くのが一番早そうだが」
 そう言った龍麻は葵に背を向けてしゃがみこんだ。
おぶされと言うのだ。
以前に学校から彼の家まで、気を失っている間に背負われて運ばれた記憶が甦り、
葵は思わず後ずさった。
「あ、歩けますから」
「ここの砂はかなり柔らかくて裸足じゃたぶん歩けねえぞ。止めておいたほうがいい」
 それでも、背負ってもらうというのにはかなりためらいがあって、
葵は自分で歩いてみたが、数歩進んだだけでよろけ、
龍麻が正しいことが解ってしまった。
不本意であったが、彼の背中を借りるしかなかった。



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