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葵をこの世界に連れこんだ、嵯峨野という少年のところまでは、
すぐそこだと龍麻は言った。
しかし葵を背負い、歩きにくい砂地の上を進む龍麻の歩みは、
一歩ごとに足首まで埋まってしまうために遅々として進まず、
出発してからすでに十分以上が経っていた。
龍麻が足をよろめかせるたびに、下りて歩くと葵は言おうとしたのだが、
龍麻は不満のため息一つつかずに体勢を整え、再び歩きはじめるので、
言う機会を失ってしまっていた。
しばらく無言だった龍麻が、何度めか、葵を背負い直してから口を開いた。
「嵯峨野って奴はずいぶんといい趣味してるな。パンストも靴も履かせねえとは」
かすかに混じった好色そうな響きに、葵は心持ち上体を反らした。
彼の背中の上では、それくらいしか意思表示ができないのが残念だった。
もちろん、龍麻はその程度では小揺るぎもしなかった。
「この砂漠は、もしかしたらあいつの心理が反映されているのかもな」
「どういうこと?」
葵はこれまでの経緯を簡単に聞いている。
ここが彼の精神世界だという話は、にわかには信じられなかったが、
最後の記憶である真神学園の教室から、次はいきなり砂漠に居たのだから、
どれほど出鱈目な事実だとしても、信じざるをえなかった。
「あいつはお前を、護るという名目はあっても独占しようとした。
だが、完全に支配しても、好き放題するってのは出来なかったんだろうよ。
良心がとがめたとかじゃなく、単に臆病で」
「……」
龍麻に同調するのも、嵯峨野をかばうのもおかしい気がして葵は黙っていた。
代わりに、この場にいない仲間たちのことを訊ねた。
「皆は……?」
「嵯峨野とあの女の本体を探しに行った。あいつらの会話を聞いた限りだと、
罠にかかって眠らされたみたいだが」
「……!!」
「多分、眠らされただけで大丈夫だと思うぜ。
眠らされてこの王国とやらに連れてこられたらどう足掻いても勝ち目はねえ。
あいつらも狙いはお前だけだったみたいだからな」
「緋勇君は、どうして無事にこの世界に入ってこれたの?」
「結跏趺坐って知ってるか? 座禅を組むときの座り方。
お前の傍であれをやって、精神を限りなく薄くして嵯峨野達が来るのを待ち構えた。
で、お前の意識が連れていかれるときに一緒に潜りこんだ。
上手くいくかどうかは賭けだったけどな」
「危なくなかったの……?」
「さあな、寝てる間に精神を誘拐するなんて話は聞いたことがねえし、
俺のやり方で上手くいくのかなんて話も聞いたことがねえ。
駄目だったら寝たまま永遠に起きない高校生が新たに二人できたんだろうよ」
事もなげに言う龍麻の表情は、葵からは見えない。
将来を誓う仲でもないのに、容易に命を賭ける龍麻の心情が葵には解らなかった。
「あの……」
「ん?」
言いかけて葵は一度口を閉ざした。
再び口を開いたのは、砂が踏みしめられる、場違いに心地の良い音を四度聞いてからだった。
「ありがとう」
とにかくも、彼は助けに来てくれた。
自分も精神の囚われ人となる危険を顧みず、身体に傷を負ってまで。
そのことに対する礼は、言うべきだと思った。
「それはこの世界を無事に出られてからにしてくれ」
「……ええ、そうね」
答えてから葵は、反らせていた背中を彼の方に丸めた。
一瞬だけ龍麻の背中が硬直したが、彼は何も言わず歩を進めた。
やがて龍麻の足が止まり、膝を落とす。
彼の背中から下りた葵の前に、二人の男女が倒れていた。
男の方に近づいた龍麻が、彼の顔を指し示す。
「見覚えがあるか」
「ええ……以前墨田区の公園で、彼が倒れているのを救けたことがあるわ。
救けたといっても、救急道具なんて持っていなかったから、
ハンカチで傷口を拭いてあげただけだけれど」
葵の声には困惑の響きがあった。
おそらく彼女は純粋な善意で嵯峨野を救けただけに違いない。
その嵯峨野が、ほとんど唯一と言って良い、
彼に親切にしてくれた女性に執着したというのは、全く理解できないだろう。
せめて龍麻は悪意を――たとえ主観的には善意だったとしても――
彼女に向ける人間がいる、という事実を理解させようと、
嵯峨野に対する敵意をあえて隠さずに言った。
「決まりだな。それでこいつは舞い上がって、
お前を自分のものにしようとしたんだろう。
怪我してたってのも、大方誰かにやられたんだろうよ」
「どうして解るの?」
「佐久間がこいつを見たら、どうすると思う?」
葵は答えられなかった。
人の悪口を言いたくないという生来の性格がそうさせたのだが、
佐久間が弱者に暴力を振るうだろうという想像まで打ち消すことはできなかった。
葵の顔を見た龍麻は、彼女の意を汲んだように続けた。
「どこの学校にだって佐久間みたいなのは居るだろうさ。
あそこまで程度の悪い奴じゃなくても、こいつは……」
小さなため息を葵は聞いた。
ほんとうに微かに、この砂漠の砂の一粒ほどに、
憐憫が含まれているように感じられたのが、気のせいかどうか彼女には解らなかった。
「こいつは、少しでも性質の悪い奴に狙われちまうタイプだ。
ほんの少し勇気があれば、そうならないように立ち回れるのに」
語を切った龍麻は、いつもの口調に戻して言った。
「とにかく、お前を永遠に目覚めない眠り姫にするわけにはいかねえ。
この夢の世界から出よう」
龍麻がそう言った時、彼らの背後で女性のうめき声がした。
昏倒していた亜里沙が目を覚ましたのだ。
葵に下がっているように命じた龍麻は、
亜里沙が敵対行動を取ったらすぐに叩きのめせるよう構える。
気だるげに頭を振った彼女は、龍麻と葵を見て状況を把握したらしく、
座り直しただけで敵意は見せなかった。
「負けちゃったのね、あたし達」
彼女が油断させようとしているのか、慎重に出方をうかがう龍麻に、
亜里沙は悪びれない笑みを浮かべて両手を上げた。
「あんた、強いのね。この麗司の王国で、あたし達を倒すなんて、
よっぽど精神力が強くないと無理だわ」
「まだ闘ってもいいんだぜ」
「しつこい男は嫌われるけど、しつこい女もウザがられるのよ。
あんたをペットにできなかったのは残念だけど、負けた以上はなんでも言うことを聞くわ」
立ちあがって砂を払った亜里沙は、殊更葵を無視して龍麻を媚びた目で見た。
本来他の女性に龍麻の興味が向くのは、歓迎すべきことであるはずなのに、
亜里沙の振る舞いを瞬間的に汚らわしい、と葵は感じ、そして、
彼女に寸毫も興味を示さなかった龍麻に安堵すら覚えた。
もちろん、それは一瞬の後に跡形もなく消え去った、心の小さな泡だったのだが。
「別に言うことなんて聞いてくれなくていい。俺と美里を解放すること、
美里には二度と手を出さないことだけ約束してくれりゃ、それでいい。
奴には少し話を聞きたいけどな」
「あらそう? まあ、仕方ないわね。麗司を起こしましょう」
茶色の髪をかき上げた亜里沙は、麗司の傍らにしゃがみこむと、
気を失っている彼を揺すった。
目を覚ました麗司は、身体を起こすなり咳きこんだが、
亜里沙に背中をさすられて落ち着きを取り戻す。
「麗司、ごめん。あたし達負けちゃった」
亜里沙は龍麻に対して過剰なまでに女を見せつけたのとは、
別人のように優しく話しかける。
しかし、足を前方に投げ出したままの麗司はもはや亜里沙を見ておらず、
砂を握り、地面を茫洋と見つめているだけだった。
「どうして……ここは、ボクの世界なのに……
やっぱり、ダメなんだ、ボクなんか……生きていても……」
負の響きに満ちた慟哭が、砂に落ちる。
するとにわかに地面が揺れだし、龍麻はとっさに葵を支えた。
葵も龍麻を振り払えず、むしろ支えあうように身体を寄せる。
それほど揺れは激しく、時が停滞したようなこの仮りそめの世界に訪れた変化は、
世界の崩壊を告げるものだった。
揺れは刻一刻と大きさを増し、立っているのも難しいほどになっている。
倒れないようにバランスを保つのがやっとの中、亜里沙が叫んだ。
「ダメ……麗司、止めてッ!!」
「いいんだよ、亜里沙……ボクはもう、疲れたんだ……生きることに」
「待って、そんなこと言わないで! 生きて……
生きて、あんたを苛めたやつらを見返してやるのッ!
そのための『力』じゃない、自信を持って!」
麗司を励ます亜里沙の声は、ついさっきまでの彼女からは想像も出来ない、
優しさと哀しみに満ちていて、まるで弟を励ます姉のようだった。
「生きるのに疲れたなんて……そんな──あの子みたいなこと、言わないで……」
しかし、そんな亜里沙の必死の呼びかけにも麗司は答えない。
膝を引き寄せ、その間に顔を埋める彼の、輪郭がぼやけ始めた。
「身体が……消えていく……」
葵が呆然と呟く。
三人が見守るなか、麗司は最後まで誰とも目を合わせようとせず、
その姿を薄れさせていき、遂に完全に消えてしまった。
葵は呆然と彼がいた場所を見つめる。
彼こそが自分を死に至らしめようとした犯人であるにも関わらず、
後味の悪さを覚えずにはいられなかった。
しかし事態は、急速に深刻さを増していた。
いなくなってしまった彼の背後に広がっていた砂漠に、
葵は小さな染みのような黒い点を見つけた。
「何かしら、あれ……?」
葵の呟きに、龍麻と亜里沙が同じ方を見る。
事態に気がついたのは亜里沙で、龍麻たちの方を向いた彼女は顔色を変えていた。
「まずいわ、麗司の王国が消えていく――!」
小さな点はみるみる大きくなり、線となる。
一度線となったそれはたちまち面となり、空間となって砂漠を呑み込みはじめた。
王を失った王国に、存在する理由はない。
既に三分の一ほどが黒に塗り替えられた麗司の精神世界は、
その勢いを止めることなく、現実に近い記憶から徐々に虚無へと還っていく。
龍麻達がいる、彼の唯一幸せだった頃の記憶の部分も、
失われてしまうのは時間の問題だった。
「ここから出る方法を教えろ!」
龍麻が珍しく冷静さを欠いている。
応じる亜里沙はすでにパニックに陥りかけていた。
「わかんないわよッ、出入りはいつも、麗司がしてたんだからッ」
龍麻にしても、この精神世界に来た直後のことは覚えていない。
肉体から精神だけで抜け出し、葵のものとおぼしき光を追っていたら強い光に包まれて、
次に気がついた時はこの砂漠にいたのだ。
「参ったな……こんな展開になるとは」
「どうするの……?」
訊ねる葵の語尾に被さるように、犬の鳴き声が聞こえる。
なぜ突然、と顔を見合わせる龍麻と葵の前で、亜里沙の姿が薄れはじめた。
「エル……? エルなのね……!?」
別人のように声をはずませる亜里沙に、龍麻は手を伸ばす。
それは怒りではなく、より深刻な理由からだった。
「待てッ、俺達も連れて行けッ……!!」
だが、龍麻の手は空を切り、亜里沙は完全に消失した。
振り向いた龍麻は、頭髪をかき回す。
「くそッ、閉じこめられちまった」
龍麻が目を合わせようとしない、その事実によって葵は絶望した。
「もう……駄目なの……?」
膝に力が入らなくなり、葵はその場にへたりこむ。
すると、龍麻に無理やり立たされた。
「はっ……離してっ、もう駄目なんでしょう!?」
痛む二の腕を、葵は振り払おうとするが、龍麻の手は強力な磁石のように離れなかった。
「何もしないで終わるってのは性に合わないんでな。来た時と逆のことを試してみる」
自分が自分でない、全てのものと一体であるかのように意識を拡散することで、
肉体という軛を離れることができた。
ならばその逆、己の肉体こそが唯一無二であると強く念じることで、
精神と肉体は再び一となるのではないか。
それは何の根拠も理屈もない、ただの思いつきにすぎない。
しかし、他のやり方を検討する時間はなかった。
暗黒はもうすぐ近くまで迫っている。
問題は、龍麻は自分の肉体がある場所を明確にイメージできるが、
学校で意識を失って病院で寝ている葵には無理であるのと、
もうひとつ、精神の集中を葵は修行したことがなく、自己を保てるか危うい。
二つをクリアするために、龍麻が採るべき手はひとつだった。
「きゃッ……!!」
この期に及んで狼藉を働くつもりなのかと、葵は必死に龍麻から逃れようとする。
だが龍麻の抱擁は狼藉どころか拘束でしかなく、時ならぬ痛みが全身を駆け巡った。
「い、痛い、痛いわ……!」
自分の叫び声が、急速に聞こえなくなっていく。
耳も、目も、迫りくる暗黒に塗りつぶされていく中で、
ただ龍麻の身体がもたらす痛みだけが、葵の感覚となった。
葵が目を覚ますと、見知らぬ天井があった。
家とも保健室とも異なる景色に戸惑い、意識が完全に目覚める数秒の間、
状況を把握しようと努める。
砂漠で磔にされ、どうしようもないところを、龍麻が助けに来てくれた――
夢か現か分からない記憶をそこまで思いだしたところで、葵は身体を起こす。
傍らに、記憶に出てきた、多めの髪を持つ男性の頭があった。
気持ちを落ちつかせるために深く息を吐くと、それに感応したように龍麻が振り向いた。
二人は言葉もなく、見つめあう。
龍麻の瞳に強い圧力は今はなかったが、間近で見られる気恥ずかしさに、
葵が顔を逸らそうとすると、龍麻がおもむろに言った。
「やっぱり、生足の方がいいな」
シーツで足を隠しながら、人を引っぱたきたくなるのはこのような時なのだと葵は悟った。
実行に移さなかったのは理性が邪魔をしたのではなく、位置的に無理だったからにすぎない。
実力行使に移れなかった葵が、精一杯不愉快な顔をすると、
龍麻は堪えた風もなく笑い、立ちあがった。
襲われかけた過去の記憶が蘇り、シーツをさらに上へと引きあげながら
身体を固くする葵に、龍麻は一歩下がって顎に手をやった。
「なんとか助かったみたいだな。さすがに駄目かと思ったが、なんでもやってみるもんだ」
「助かった……?」
何か恐ろしい夢だった気がするが、詳しくは思いだせなかった。
龍麻の外見に変化はなく、助けた、というのも彼の嘘かもしれない。
生足などと言っているが、いつ見たというのだろうか。
仮に助けられたのが本当だとしても、その間に何があったのか、知れたものではなかった。
猜疑心を強くする葵に構わず、龍麻はシーツに浮きでた葵の足を眺めている。
「助けに来ただけじゃ意味がないからな。帰ってこそ、冗談も言えるってもんだ」
冗談というのは生足云々のことだろうか。
命を救ってもらったのが本当だとしても、どうしても礼を言う気にはなれず、
葵はシーツを弄ぶことでごまかした。
幸いにも龍麻は礼を求めてはこず、自分の制服をあちこち調べて言った。
「また制服を買わなきゃならないと覚悟してたが、
夢の中で破れても、現実には及ばなかったみたいだな」
これも表情からして冗談のようだが、葵は笑う気になれない。
険悪な表情を崩さない葵に、肩をすくめた龍麻は、あらぬ方を見て呟いた。
「さてと……問題はこれからだな」
それが何を意味しているのか、葵には分からなかったが、
珍しく本当に困っているような表情が印象的だった。
龍麻が言う『問題』が発生したのは、葵が目覚めてからおよそ一時間後だった。
龍麻と葵のいる桜ヶ丘中央病院に、京一たちが戻ってきたのだ。
診察室に入ってきた京一は、龍麻を見るなり木刀を突きつけた。
ふざけているのではなく、本当に怒っているようだ。
「やいてめェッ!! どういうことか説明しやがれッ!!」
「敵が美里の精神を拐おうとしてるってんなら、
俺も精神だけ分離させて敵のところに行ったんだよ」
「そんな都合のいい話があるかッ!!」
「あるかッ、たってあったんだから仕方ないだろ。
精神分離中は身体が無防備になるから、絶対安全なところでやらないといけなかったしな」
「ふむ……筋は通っているが」
「醍醐は黙ってろッ!! いいか緋勇ッ、
てめェが俺達をダシにして抜け駆けしようってんなら
こっちにも考えがあるぜ、そこんとこはっきりしやがれッ!!」
突然の仲間割れに動揺する葵のところに、小蒔が忍び寄る。
「葵ッ、大丈夫だった?」
「私……どうしていたの?」
「えっとね」
葵が学校で意識を失ってからのことを、小蒔は説明する。
聞いているうちに、おぼろげながら夢の中でのことを葵は思いだした。
十字架に縛られていたことを、助けに来た龍麻に激昂したことを、
そして――彼に唇を奪われたことを。
助けられたとはいっても、あまり思いだしたくはなかった記憶に、葵の顔は曇る。
だが確かに、彼の献身がなければ、永遠に目を覚まさなかったかもしれないのだ。
「それで、どうして京一くんは怒っているの?」
複雑な心境を整理するのは一旦止めて、葵は訊いた。
眉間にしわを寄せ、唇を尖らせた小蒔は、彼女たちが不満を抱いている理由を話した。
「緋勇クンの別行動さ、聞かされてなかったんだよね」
「え?」
「葵に悪いコトしようとしてる奴が墨田区にいるって話でね、
すぐに行こうとしたら緋勇クン、お腹が痛いって言いだしてさ、
それは結局ウソだったんだけど、いつまで待っても来ないから置いていっちゃったんだよね。
で、墨田区の公園に着いたら、藤崎サンって女の人がいて、
『葵を助けたければついてきな』って言われて、
ついていったら廃ビルに閉じこめられてね、ボク達皆眠らされちゃったんだ」
葵は親友の危機に顔を曇らせるが、それ以上の危機には陥らなかったようで、
小蒔の話しぶりに深刻さはない。
「起きたらすっかり暗くなってるし、葵をヒドい目に遭わせたヤツは見つかんないしで
困ってたら、また藤崎サンが来て、『もう葵は目を覚ました』って言うんだよ。
ワケがわかんないからもっと話を聞こうとしたんだけど、
なんかおっかない犬に邪魔されてね、逃げられちゃったんだ。
そこに高見沢サンの携帯電話が鳴って、『院長先生が戻ってこい』って言ってるって。
もうどうしたらいいかわかんなくなっちゃったから、とにかく戻ってきたんだけど、
京一がすっごい怒っててね。まあそりゃ、騙されたんだから無理もないけど」
はじめは声を潜めて話していた小蒔は、京一が怒鳴り続けているので、
その必要もないと判断したのか、途中からは普通の大きさになっていた。
「小蒔は怒っていないの?」
「うーん、気分は良くないけど、話聞いたら緋勇クンも逃げたワケじゃないし、
葵が無事だったからまあいいやって」
小蒔の笑顔に葵は癒やされる思いがする。
その一方で京一は怒りを募らせているようで、いつの間に小蒔の話を聞いていたのか、
「良くねェッ!! お前が一言言ってきゃ、俺達にもやりようがあっただろうがッ!!」
小蒔と龍麻を順に見てなお尽きぬ怒りを龍麻にぶつけた。
忙しいことだ、と思いつつ、龍麻は彼が単独行動した理由を説明した。
「上手く行くか自信がなかったし、失敗したら京一たちが頼みの綱だった」
精神の集中は一人で行ったほうが良いとは言わず、
あくまでもリスクを避けるためだと説明しても、京一は納得しない。
おそらく振り上げた拳の下ろしどころを失っているのだろう、
と彼の仲間たちはうすうす推察していた。
要するに、飽きてきたのだ。
「敵を騙すなら味方からって言うわよね。
特に、京一みたいなアホには何も教えないほうが確かにいいわよね」
「そうだよね、京一なら絶対言っちゃうよね、緋勇クンのコト」
アン子が風向きを変え、小蒔がそれに乗る。
にわかに二対一になっても、京一は引き下がらなかった。
「うッ……うるせェッ!! 俺はチームワークが大事だっつってんだろうがッ!!」
「そんなもん、持ってないくせに……」
「はぁッ、もういいわよ。緋勇君、ここはラーメンで手打ちと行きましょ。
それできれいさっぱり、後腐れなし」
どさくさに紛れて図々しい要求をするアン子には呆れる龍麻だったが、
彼女の提案を受けることにした。
龍麻もいい加減うんざりしていたのだ。
「てめえらッ、勝手に話を進めてんじゃ……」
「はい決まりねッ! さっさと行きましょ、詳しい話を聞かせてもらわなくっちゃ」
「ボクも行くッ!」
あっという間に話がまとまり、もはや誰も京一を顧みなかった。
「くそッ……どいつもこいつも簡単に寝返りやがって……」
「京一は行かないのか?」
「行くに決まってんだろうがッ!! こうなったら全部乗せ大盛り頼んでやる、
覚悟しとけよ緋勇」
足を踏み鳴らして京一は出ていき、醍醐が続く。
彼らを追おうとした小蒔は、ベッドから下りた葵を見た。
「葵も行くよね?」
「私は……ごめんなさい、やめておくわ。今日は休みたいの」
「あっ……送っていった方がいい?」
軽い後悔で顔を曇らせる親友を、安心させるように葵は笑いかけた。
「ううん、平気。小蒔は楽しんできて」
「でも」
「本当に、大丈夫だから」
「おい何やってんだッ、早く行くぞッ」
催促する京一の語尾に、地響きが重なる。
たちまち足音が遠ざかったのは、京一が逃げたのだろう。
「うふふ、行ってあげて」
「う、うん……それじゃね」
最後まで葵を気にしながら、小蒔は出ていく。
足音が完全に消え去ったのを確かめてから、葵も帰り支度を始めた。
葵が皆に同行しなかったのは、小蒔に言ったとおり体調が万全でなかったからだが、
それ以外にも理由があった。
ラーメンを食べに行く龍麻たちと別れ、家路についた葵は、
道すがら、そっと唇をなぞる。
そこに龍麻の感触はない――だが、確かに龍麻の唇は、そこに触れた。
すっかり鮮明に甦った記憶は、夢の世界というには生々しく、
特に、あの熱は忘れることなどできそうになかった。
はじめての口づけを予想もしなかった形で奪われて、当然悔しさはある。
取り乱したのは確かに自分だが、何もあのようなやり方で止めることはなかっただろうに、
と非難したい気持ちがあるのは、少女として当然だった。
龍麻の方は、精神世界から帰還してから別れるまで、
キスについてはおくびにも出さなかった。
そこに至った事情を思えば、気を利かせてくれたのかもしれない。
それにしても、彼が少女には永遠に残る記憶となりうるあの行為を、
手を洗った程度にしか考えていないのであれば、それも悔しくはあった。
それにもう一つ、あの空間から脱出する際のことも、葵は思いだしていた。
あの時龍麻は、渾身の力で葵を抱きしめた。
おそらくは精神が肉体に戻るために必要だったのだとは思うが、
あれほど強く他人に抱きしめられたのは初めてだった。
嬉しいわけはない――キスの次くらいには、好きな異性に抱きしめてもらうのが
少女にとっての憧れであり、そうでない異性に対しては手厳しく断罪するのが、
女というものなのだから。
なのに、龍麻の肉体の固さが、彼の両腕の強さが、葵は不愉快ではなかった。
骨が折れるかというほど抱かれたのに、あろうことか記憶を反芻してしまっていた。
それは不思議な、葵がかつて抱いたことのない感情だった。
黴の生えたチーズのような、苦味と旨味が同居する感情。
もちろん苦味のほうがはるかに強く、忘れてしまえるのであれば忘れてしまいたい。
なのに一方では、葵の意向などお構いなしのあの強い抱擁を、
もう一度味わいたいと思っている自分もいることに愕然としていた。
深く息を吸いこんで、葵は考え直す。
緋勇龍麻を好いていないのは間違いない。
彼が真神に来てから行った蛮行の数々は、どれひとつとっても許しがたいものであり、
目下のところ、異性としての好悪で見るなら、悪、それも好から最も遠いところにいた。
だが同時に、葵以外に対しては、龍麻はまぎれもなく勇敢で、
自らを危険に晒すことも厭わずに、様々な問題を解決してきた。
全身に傷を負いながらなお困難に立ち向かう姿は、葵の胸を打ったのも確かなのだ
ではなぜ、自分にだけあのような態度を取るのか、葵は考えざるをえない。
彼に失礼な言動をしたか――否。
そもそも最初に彼に襲われたのは転校初日であり、ろくに会話もしていなかったのだから、
嫌われようがない。
では、その逆、つまり彼が邪な好意を抱いている可能性はあるのか。
生まれてから今まで、特定の恋人がいたことはない葵だが、
告白やそれに類するものは何度となく受けてきていたから、
自分がまったく魅力がないとは思わない。
中には強引に迫ってきた男もいる――佐久間猪三のように。
彼らの一方的な欲望を、時には友人に助けられつつも退けてきた葵は、
龍麻にだけいいように接近され、弄ばれていることに困惑していた。
そして、より困惑させられるのは、彼を嫌う心に変わりはなくても、
肉体の方は必ずしもそうとは言いきれなくなっている点だった。
旧校舎で蝙蝠に襲われた際の治療。
渋谷に行った際の痴漢。
そして、今日の口づけと抱擁。
どれも吐き気を催すほど嫌なはずなのに、肉体は反応してしまっている。
自分に性的な欲望は多くはないと思っていたのに、そうではなかったのだろうか。
それを暴かれるのは、葵にとって大いなる恐怖だった。
そんなはずはない、と葵は頭を振り、どこにあるかも判らない、
自分の心のあってはならない領域に閂をかける。
これ以上、彼に身体を許してはならない――
声に出さず、葵は呟く。
だが、決意を新たにする葵の脳裏に浮かんだのは、かけたはずの閂ではなく、
龍麻の、どこまでも黒い瞳だった。
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