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黒板の内容を写し終え、手持ち無沙汰になった葵は、半ば無意識に自分の唇を撫でた。
そこは未だ誰も触れたことのない、いずれ捧げるにふさわしい男性が葵の前に現れるまで、
天国に至る門扉よりも厳重に護られなければならない聖なる場所だ。
だが、そこは確かに、他者の――男の、感触を覚えていた。
物理的には間違いなく誰にも触れられたことはない。
十八年間気配さえなかったことが良かったのかどうか、判断がつかないとしても、
とにかく、戯れでも事故でもなんでも、誰かの唇が触れたことはなかった。
けれども葵ははっきりと覚えている。
夢の中で、とても好きとは言えない男に、あっけないくらいたやすく唇を奪われたことを。
夢の中というのは比喩ではない。
嵯峨野麗司という、一度言葉をかわしただけの少年に執着された葵は、
彼の持つ、他者を彼が支配する夢の王国に引きずりこむという異能の力に囚われた。
彼の歪んだ愛情によって精神が陵辱されつつあった葵を助けたのは、
葵の同級生である緋勇龍麻だった。
同じく異能の力を持つ彼は、嵯峨野の精神世界に侵入して彼を倒し、葵を助けたのだ。
その時、常識を遥かに超えた出来事に葵は取り乱し、それを鎮めたのが、龍麻の口づけだった。
唇に触れる指先を通して記憶が蘇る。
涙が伝う頬、掴まれた手首、抱き寄せられた腰。
五感が受けた衝撃は全て、脳の中の出来事でしかないのに、あるいはそれだからこそなのか、
実際の記憶と同じ鮮明さを有していた。
わずかに開いた唇から、葵は吐息を漏らす。
春の薫風に混ざるそれに、どんな感情があるのか、葵にも分からない。
愛、あるいは喜といった感情でないのは確かだ。
なぜなら葵は、まだ出会って数ヶ月も経っていない龍麻に、何度も辱めを受けており、
彼に好意的な感情など持てるはずがないからだ。
命を救われたとはいえ、全く望まぬ形で奪われた唇も、
それらに連なる黒い山脈のひとつでしかないはずなのだ。
それなのに。
記憶を辿る時、確かに不愉快であるのに、不愉快さの奥深くに、何か瞬くものがある。
意識下に引き上げようとしても捕まえられないほど短く、弱いささくれのような何か。
手がかりさえ得られないその何かは葵に、自分自身の心であっても思い通りにならない
部分があると知らしめた。
それはできれば、向きあいたくない部分だ。
そのためには、あと一年を切った大学受験に向けて、勉強に励むほかない。
葵はペンを握り直し、教科書に視線を落とした。
終業のチャイムが鳴った三年C組の教室で真っ先に響いたのは、隣のクラスからの使者の声だった。
「ちょっとちょっとッ! 緋勇君いるッ!!」
前方の扉から教室を出ていく教師と入れ替わるようなタイミングで、
後方の扉から突入してきたのは、真神學園内で知らぬ人とてない有名人である、遠野杏子だ。
有名人、というのはこの場合人気者とは必ずしも一致せず、
声の大きさに振り向いた大半の生徒は、爛々と輝く眼鏡を見てああまたかと元の方に向き直る。
名指しで呼ばれた龍麻も例外でなく、居ないふりをしてやり過ごそうとしたが、
眼鏡はかけていても彼女の興味の対象である限り見逃すことは決してない眼球に、
たちどころにロックオンされてしまった。
「あ、いたわね。良かった、帰っちゃってたらどうしようかと思ったわ」
一直線にやってくるアン子に、龍麻は小さく嘆息する。
アン子が龍麻の前に立つとほぼ同時に、騒ぎを聞きつけた小蒔も来ていた。
「もう、うるさいなぁ。入ってくるなりどうしたのさ、アン子」
「大事件なのよ、これが騒がずにいられるかってのよッ」
迷惑そうにしている龍麻など歯牙にもかけず、アン子は自分の欲望のままに教室を見渡した。
「京一は?」
「あそこ」
小蒔が指さした先には、机に突っ伏して寝ている京一の姿があった。
世間との関わりすべてを断った僧のように、深く腕の中に頭をうずめている京一に、
アン子は溜息をつくような無駄なことはしなかった。
大股で京一に近づくと、春風にそよいでいる彼の頭髪を有無を言わさず掴み、持ち上げたのだ。
完全なチンピラの振る舞いだが、見ている人間で息を呑んだ者は一人もいなかった。
唯一龍麻の隣の席から見ていた葵が、眉をひそめたくらいだ。
「ん……?」
呆れたことに京一は、目を覚ましはしてもまだ寝ぼけているらしく、
からくり人形のように首を振り、明らかに焦点の定まっていない目でのん気に龍麻を見たものだった。
「緋勇じゃねェか。なんでお前が俺んちにいるんだよ」
「完全に寝ぼけてるね」
お菓子を取り出して食べる小蒔の口調は完全に他人事だ。
不本意にも茶番劇を演じさせられて業を煮やしたアン子は、さらなる実力行使に及んだ。
京一の頭をパイナップルのように掴んだまま、彼の頬を強かに張り飛ばしたのだ。
「一人でいい旅夢気分してんじゃないわよッ!!」
勢い余って後ろの机に突っ伏す京一に、アン子が鼻息も荒く怒声を浴びせる。
酷い仕打ちは龍麻ですら同情を禁じえないほどだったが、
アン子は時間を浪費させた男に、腰に手を当てて詰め寄った。
「ほら、さっさと昨日何を見たか話を聞かせなさいよ」
「いてててて……あれ、なんでアン子がC組にいんだよ。昼休みか?」
頬を張られた程度では、京一の目は覚めないらしい。
その事実を誰よりも早く悟ったアン子は、今度は両手を伸ばし、
グレープフルーツを絞るように京一の首を絞めあげた。
「何ならこのまま永眠させてあげてもいいのよ。どう? 一回やってみる?」
「わ、わがった、わがったから首……離せ……」
「判ればいいのよ。さ、それじゃあんたが昨日見た事を洗いざらい自白ってもらいましょうか」
アン子の言葉遣いはあまりに品がない、と聞いている誰もが思ったが、誰も口にはしない。
悪徳刑事のように追いつめるアン子に、関わりたくなかったのだ。
「昨日……? あぁ、あれか」
「そう、それよ」
「あれは凄かったよな、緋勇。何せ風で全部スカートがめくれあが……」
京一が言い終える前に再びアン子の手が一閃し、
京一は格闘技の試合でしか見られないようなもんどりうちかたで倒れる。
試合ならここでダウンを取るところだが、ルール無用のアン子は休む間も与えず京一を引きずり起こした。
「いい? 起こすのも手間なんですからねッ。今度とぼけたら承知しないわよッ」
不良の佐久間相手に一歩も退くところのなかった京一が、
今やアン子に胸倉を揺すられてガクガクと頭を振るばかりだ。
もはや暴君と化したアン子の前に京一の命は風前の灯火だったが、
実に良いタイミングで救世主が現れた。
「どうしたんだ遠野、そんなに興奮して」
「あ、醍醐クン。どこ行ってたの?」
「ちょっと……な」
露骨に言葉を濁す醍醐に、アン子はこちらの方が与しやすしと踏んだのか、襟を離した。
宙に浮き上がっていた京一の身体が、すとんと落ちる。
その表情からしてどうも尻をしたたかに打ちつけたらしかったが、
もはやアン子は役に立たない情報提供者になど見向きもしていなかった。
「もしかして、空手部かしら?」
「空手部? 醍醐クンはレスリング部でしょ? なんで空手部に用が……」
口を挟んだ小蒔にも、アン子は顔を向けようとはしない。
彼女の興味は、大柄な男子生徒の態度にのみ注がれていた。
「黙ってるところを見ると図星のようね」
「……」
「嘘がつけないってのは、こっちからすればありがたいんだけどね」
むしろ同情するようなアン子の口調に、醍醐はなんとも言えない、困った顔をする。
もはやこれまでだと諦めた京一が、自分の努力を無にした男に、
せめて一言でも言ってやらねばと身体を起こした。
「いてててて……このバカ醍醐、せっかく俺が身体を張ってごまかしてやってたのに」
「すまん」
「まぁ、アン子相手に白が切りとおせるとは思っちゃいなかったけどよ」
身体のあちこちを擦りながら、京一がぼやく。
「それにしても、昨日の今日だぞ。遠野はどこから嗅ぎつけたんだ?」
龍麻は決して褒めたわけではなかったが、アン子は得意げに胸を反らした。
「へへへッ、情報源の秘匿は取材の原則よ。でも少しは見直した?」
答える代わりに龍麻は肩をすくめた。
好意的ではないその仕種にも、アン子は気を良くしたらしく、自慢げに手を腰に当てている。
「やむを得んな。──美里に桜井。お前達も話を聞いてくれないか」
「なッ、なに!? ボク達も関係あるの?」
驚きを声に出したのは小蒔だが、さりげなく帰ろうとしていた葵も、
突然名前を呼ばれて思わず反応してしまった。
あと数分早く動いていれば巻きこまれずに済んだのにと悔やんでも仕方がなく、話を聞くことにした。
「ああ、おそらくな。その前に遠野、お前はどこまで話を知っている?」
「あたしが知ってるのは、真神の空手部員が、昨日だけで四人も襲われたってことよ。
空手部は近々大会を控えてたんだけど、今回の事件で出場は危ぶまれているわ」
アン子の話がどう自分達に繋がるか、小蒔には見当もつかなかったようだ。
まばたきを何度もして、事態の把握に努めようとしている。
「襲われたって、だって空手部なんでしょ?」
「そう。相手がよほど大勢なら話は別だけど、それなら誰にやられたのかすぐに判る。
ウチの空手部は日本一を狙えるレベルとまではいかないけれど、
都大会なら充分に上位を狙える強さを持ってる。なのに、四人もやられた」
「うん、それで?」
「空手部員が襲われたのはいずれも昨日の夜。
西新宿四丁目の路地で二人、花園神社と中央公園で一人ずつ。
現場には激しく争った痕跡はなく、
通行人や付近の住人から警察への犯人の目撃情報は出ていないそうよ。
それから負傷した三人は巡回中の警察官によってすぐに病院に収容。現在は重傷で面会謝絶」
「面会謝絶?」
事態の深刻さに小蒔は気づいたようだ。
「ええ。それで、三人は病院に担ぎこまれたんだけど、桜井ちゃん、どこだと思う?」
「えッ!? どこって、そりゃ外科とかじゃないの?」
「それがね、桜ヶ丘中央病院なのよ」
健康な高校生である小蒔は、自分の住んでいる新宿区であっても病院の名前などほとんど知らない。
そのほとんど、の数少ない例外のひとつが、桜ヶ丘中央病院だった。
「桜ヶ丘!?」
その病院を知っているのは、小蒔だけではない。
つい先日、龍麻に京一、醍醐も含めた五人――葵は、患者として――で病院に行っているのだ。
それは、夢の中という精神世界から葵が襲われた時。
昏睡する葵を救うため、裏密ミサから紹介されて桜ヶ丘中央病院に行った五人は、
産婦人科でありながら、日本における霊的治療の第一人者である院長の岩山たか子に
葵を救われ、彼女の協力によって葵を拐かそうとした嵯峨野麗司を発見し、倒すことができた。
たか子がいなければ葵は永遠に目覚めなかったかもしれず、忘れることのできない病院だった。
驚きが収まった小蒔が、ふと気づいたように指折り数える。
「あれ? 襲われたのは四人なんだよね。でも収容されたのは三人なの?」
「さっすが桜井ちゃん。アホの京一と違ってあたしの話をちゃんと聞いてたわね。
そう、病院にはちゃんと四人とも収容されているわ。でも警察に助けられたのは三人。残る一人は」
そこで小蒔は何かに気づいたらしく、男達の方を見た。
「警察じゃない誰かが助けたってこと? ──まさか」
「さぁ? それは緋勇君達に聞いた方がいいんじゃないかしら。ね」
「……驚いたな。そこまで知っているとは」
アン子はウインクをしてみせたが、男達の中に相好を崩した者はおらず、
醍醐などはどんな女性でも愛想を尽かしてしまいそうなくらいに低く唸ったものだった。
「全くだ。こいつがブン屋じゃなくて探偵にでもなった日にゃあ、
男はいちいち浮気も出来ねぇぜ、な、緋勇」
陽気に言ってのける京一に返ってきたのは、本気の渋面だった。
本気か冗談か判別がつかず、京一は肩をすくめるしかない。
「なんだよ、反応の悪い奴だな。お前はもっと男の浪漫ってもんを」
「浮気のどこが男の浪漫なのよ……」
「そうだそうだッ、そんなの男の都合のいい言い訳じゃないか」
アン子と小蒔の反撃に京一は押し黙る。
このままではいつまでも話が進まないと思ったのか、醍醐が説明を始めた。
「そこまで知っているんだったら、隠しても意味がないだろう。
確かに、四人目──中央公園の空手部員を桜ヶ丘に運んだのは俺達だ」
醍醐の告白にも、杏子は簡単に頷いただけだった。
彼女の知りたいのは、その先なのだ。
「ま、そうでしょうね。でもあたしの聞きたいのはそこじゃなくて
──なんで桜ヶ丘に運んだかよ。あそこが産婦人科だってのは、三人共知ってるはず。
なのにあそこに運んだ。あたしの考えはひとつ。その空手部員の怪我が、普通じゃないとき」
反応をみるというには強すぎる眼光を湛えて、アン子は三人を順に見た。
三人の中では最も寡黙な醍醐ではあるが、今回の件では彼が最も深く関わっている。
必然的に事情を説明することになり、腕を組んだ醍醐は、
頭の中で少し整理してから昨日の出来事を話し始めた。
龍麻達三人は、日もすっかり暮れた中央公園の中を歩いていた。
昼と夜とで表情を一変させる公園は、その狭間の時間で人も少なく、
一日の活動を終えようとする鳥の鳴き声ばかりが響き渡っている。
横並びで歩く三人のうち、木刀を担いだ京一が、いかにも残念そうに言った。
「ッたくよ、醍醐がいなけりゃナンパに繰りだせたってのによ」
「緋勇を巻きこむなと言っているだろう」
「るッせーな、こいつだって着いてくるんだからまんざらでもねェんだよ、なァ、緋勇」
龍麻を挟んで左と右でやり合う二人に、龍麻は控えめに笑っただけでどちらにも与さなかった。
「けッ、こんな野郎放っておいてさっさとラーメン食いに行こうぜ」
「そうはいかんぞ、京一。大体お前、ここのところラーメン代は緋勇がずっと払っているそうじゃないか」
「ぐッ……じゃあお前は自腹で食うってんだな?」
「む……」
「別にいいだろ。ラーメン代くらい幾らでも出すさ」
明らかに不毛な舌戦を龍麻は中断させた。
気前の良いスポンサーに京一は指を鳴らし、醍醐も顔を綻ばせたものの、一転して龍麻を諭す。
「正直、ありがたいが……いいのか、緋勇? お前もアルバイトの類はしていないようだが」
「ああ、大丈夫だ。趣味があるわけじゃないからな、あんまり金の使いみちもないのさ」
「ふむ……」
なお釈然としない様子で醍醐は腕を組んだ。
スポンサーの機嫌を損ねて資金提供が途絶えてはたまらないと思った京一が、声を張り上げる。
「まあいいじゃねェか。奢ってくれるってんだ、ここはきっちり奢ってもらって
友情を深めるのがスジってモンだろ」
説教めいたことを言ったところで、タダ飯がありがたいのは間違いない。
それ以上の追及を止めた醍醐は話題を変えた。
「そういえば、もうすぐ真神の空手部が全国大会出場を賭けた地区大会のようだな」
「それで気色悪い叫び声が響いてたのかよ」
京一にかかれば気合の入った掛け声もかたなしで、醍醐は苦笑いを浮かべた。
「鎧扇寺学園には負けられんだろうからな。気合も入るだろうさ」
「強いのかよ、そのがいなんとかってとこは」
「あぁ、この二年、真神學園と優勝争いをしている高校だ。
一昨年は真神、去年は鎧扇寺が優勝している。
空手部の部長も、今年は相当気合が入っているだろう」
「なるほどねぇ。ま、俺に言わせりゃお前らみんな、不毛な高校生活を送ってるんだけどな。
何が悲しくて汗臭い男どもに囲まれた青春を送んなきゃなんねェんだよ」
心の底から嫌そうに言った京一の、語尾に重なるように悲鳴が聞こえた。
「むッ……何事だ!?」
腕組みを解いた醍醐が緊張気味に辺りを見渡す。
対象的に、京一は気のない欠伸をした。
「ほっとけよ、今のはどう聞いたって男の悲鳴だろ。
何があったか知らねェが、喧嘩でもなさそうだ、行くだけ損だぜ」
悲鳴は一度きりしか聞こえず、京一の言うことにも一理ある。
探しに行こうとした醍醐はやや不満げながらも警戒を解いた。
ところが、事態は向こうから龍麻達に近づいてきた。
三人が公園の出口に近づいたとき、歩道の中央に大きな塊が見えた。
最初、それが人には見えなかったのは、彼も学生服を着ていて夜に紛れていたことと、
もう一つ、一見して人とは思えなかったくらい、人影は奇妙に身体をねじって倒れていたからだ。
「おい、あれはまさか、さっきの悲鳴の主か!?」
「おいおい、マジかよ」
行く手を阻むように横たわっている黒い影が人間であると気づき、三人は駆け寄った。
「しっかりしろッ、大丈夫かッ!」
醍醐の呼びかけに学生は反応したものの、苦しげに呻いている。
彼の持ちものらしい袋に印刷された校章を見た京一が、驚きの声を上げた。
「おいッ、こいつ真神の生徒じゃねェかッ」
「空手部……のようだな。おい、何があったッ!」
「う……うで……腕が……」
自分の右腕を必死に押さえる学生に、三人の視線が集中する。
やがてお互いの顔へと転じた視線には、共通して困惑が浮かんでいた。
「なんだ、これは……!?」
「石……みたいだな」
「石って緋勇お前、人間の腕が石になる訳ねェだろ」
京一の言うことはもっともだった。
しかし、龍麻の目の前にある現実もまた確かなもので、自分と同じ制服を着た生徒の右腕は、
石としか形容できないものに成り果てていた。
指の先から肘の上あたりまでが、灰色一色に染まっている。
手の形も制服のしわも生々しいまでの質感を有しており、
よほど技巧に優れた彫刻家でも、ここまでのものを作り上げるのは難しいと思われた。
触れてみると、硬い感触が指を弾く。
おまけに、かなり強く掴んでみても生徒は反応を示さず、
どうやら痛覚が麻痺してしまっているようだった。
ただしそれは灰色の部分の話で、生身の身体との境目の部分には相当の痛みがあるらしく、
生徒は右腕を切り離そうとするかのような動きをしていた。
「待ってろ」
龍麻は学生の腕に手を添え、意識を集中する。
程なく身体が淡く光りはじめ、彼の友人達は龍麻が氣を用いて治療しようとしているのだと知った。
深く息を吸い、止め、もう一度深く吸う。
そこから薄く、浅く息を吐き、再び深く吸った。
こうして体内に空気を蓄えていき、人間の裡に在るチャクラと呼ばれる氣の集積所を徹す。
七箇所あるチャクラを通過させることで、龍麻は人知の及びもつかない異能の力を
操ることができるのだった。
生成した氣を、掌を通じて学生の腕に注ぐ。
出血程度なら簡単に治してしまう龍麻の氣は、しかし石と化した右腕に何の変化ももたらさなかった。
額に汗をにじませながら、もう一度試してみるが、結果は同じだった。
「駄目だ、俺の力じゃ治せない」
「う……うぅ……がい……せ……んじ……」
龍麻の声が学生に聞こえたわけではないだろうが、学生はがくりと頭を垂れて気絶してしまった。
生徒が途切れ途切れに口ずさんだ言葉を頭の中で一つに繋げた醍醐は、
それが意味のある言葉だと気づいて顔をしかめた。
「鎧扇寺、だと……?」
「そんな事より、こいつを病院に連れて行く方が先だろう」
「そうだな、しかしこんな症状を診て貰える病院となると……」
龍麻と醍醐は同時に一つの答えに辿りついた。
どう見ても普通ではない症状の彼を診てくれそうな病院が、一軒だけあった。
そこは京一が東京、いや、世界中で最も苦手な場所だった。
「げッ、まさか……」
「桜ヶ丘しかないだろう」
「う……仕方ねぇな」
ラーメンが食べられなくなった、とはさすがに言わず、京一は目的地を変更することに同意した。
気絶した学生を桜ヶ丘中央病院に運んだ三人は、そこで院長のたか子から、
他にも同じような症状の患者が今日、それも立て続けに運ばれてきたと聞かされたのだった。
話し終えた醍醐は、声もない小蒔と葵に向かって、もう一度事件の最も重要な部分を告げた。
「辺りに犯人らしき姿は無かった。その部員に特に外傷は無かったんだが、
ただ……そいつの右腕が、石になっていた」
「石……? どういうこと?」
「そのままさ。そいつの腕は石……硬い、灰色の塊に変わっていた」
それでも小蒔は狐につままれているようだった。
小蒔でなくともこれが普通の反応というもので、
こんな事は自分で体験しなければ到底信じることなどできないだろう。
しかし、ある程度自分で情報を集めていたらしいアン子は、
この異常な結論にもさしたる驚きは見せなかった。
「なるほど……ね。院長先生はなんて?」
「原子や細胞の組替えがどうとか言ってたぜ。
詳しいことはサッパリ解らねぇけどよ、徐々に石化が進行していくらしい」
京一のさりげない口調は、それがあまりにさりげなかった為に、かえって小蒔の不審を誘った。
「徐々に進行……って、まさか」
「あぁ……心臓まで石になっちまった時、そいつの命は終わる」
昨日既にその話を聞いていた醍醐と龍麻以外は、皆一斉に息を呑んだ。
あまり事件に関わりたくないと思っていた葵でさえ、衝撃を受けずにはいられなかった。
この東京の街で、人が石になって、あまつさえ死ぬなどと、あまりに非現実的だった。
「今は点滴と抗生物質、それに岩山先生の『力』で何とか石化の進行を遅らせてくれてはいるが、
完全に止めることは出来ないらしい」
たか子の持つ霊的治療の『力』は、龍麻を遥かに上回るものだったが、
それでも治癒は不可能で、しかも四人同時に診なければならないので、
症状の進行を減じるのが精一杯という話だった。
小蒔がひび割れた声で龍麻に訊ねる。
「助ける方法は──ないの?」
「ある。美里の時と同じ……原因を突き止めて、止めさせればいい」
「原因に、心当たりはあるの?」
さらなる小蒔の問いに答えたのは杏子だった。
「大会を控えた有力選手ばかりが狙われたってことは、やっぱりそれに関係ある……
ウチの空手部を潰したい奴らの仕業かしらね」
「そんなッ……そんな勝ち方して嬉しいの? そんなやり方、許せない」
顔を赤くして激昂する小蒔に、全員がそれぞれの表情でうなずく。
どのような理由があるにせよ、闇討ちなどという行為にはひとかけらとて同意はできなかった。
「いずれにせよ、彼らを助けたければ犯人を捜すしかない。
そして、人間を石にするような能力を持った者が相手では、俺達が行くしかないだろう」
「まッ、そういうこった」
醍醐と京一は言い、龍麻も頷いた。
すると、手帳に何事か書きこんでいたアン子がページをめくって言った。
「そう……じゃ、イイ事教えてあげるから、アンタ達が犯人見つけたら呼んでよね」
「わかったわかった。で、なんだよイイ事って」
「なんか適当ね……ま、いいわ。これよ」
アン子が差し出したのは、一枚の写真だった。
五人は一斉に視線を注ぐ。
そこに写っていたのは、ほとんど一面真っ暗なものでしかなかった。
「なんだこりゃ?」
「昨日の夜に撮った犯行現場の写真なんだけど、ここ見て。何か写ってるでしょ」
「おい緋勇、見えるか?」
龍麻は目を凝らしてみたが、夜間の撮影であるために画像は粗く、
そして写っているらしきものは小さい。
それが何であるかは、とても判らなかった。
「いや……ちょっと小さすぎるな」
「じゃ、これはどう?」
その反応を予想していたのか、アン子はもう一枚写真を突き出す。
そちらには、彼女が写っていると言ったものの正体がはっきりと写っていた。
「これは……ッ」
「電脳研究会に持っていって画像処理してもらったの」
龍麻は初めて聞く部活だったが、その名に小蒔が驚いた顔をした。
「よく電研が協力してくれたね。あそこ、すっごく閉鎖的な部だよね」
「まぁね、あそこの部長の秘密の写真持ってるから。あたしの頼みなら二つ返事よ」
自慢気に言う杏子に、京一が声を潜める。
(お前も気をつけろよ、緋勇)
「なんか言った?」
「い、言ってませんですッ」
直立不動で京一が答える。
龍麻がアン子を見ると、目が合った彼女は邪悪としか言いようのない笑みを浮かべた。
まるで緊張感のない二人をよそに、じっと写真を見ていた小蒔が考えを口にする。
「なにかのボタンだよね、これ。金色の……そうだ、これって学生服のボタンだよね。
て事は、どこの学校かわからないかな。えっと、よろい、おうぎ……」
目を細めたり、眉間に皺を寄せたりして一文字ずつ読む小蒔に、
既に分析を終えていたのだろう、アン子が正しい読み方を教えた。
「鎧扇寺」
その名前に劇的な反応を示したのは、小蒔ではなく醍醐だった。
「鎧扇寺だと!?」
「調べたところ、都内でその名前のつく高校はひとつしかないわ」
「目黒区……鎧扇寺学園」
「ええ」
「しかし……鎧扇寺が」
醍醐はそう呟いたきり黙りこくってしまう。
同じ武の道を歩む者として、鎧扇寺学園がこのような卑劣な手段に出たと考えたくないのだ。
「まぁ、手がかりは今の所これしかねぇんだ、調べてみる必要はあんだろ。どうする? 早速行くか?」
京一は彼らしく、悩むより動くことを提案する。
考え込むように顎に手を当てた醍醐だったが、長い時間のことではなかった。
「あぁ、一刻も早い方がいいだろう。お前達も来てくれるか」
「当たり前だろうが。今更何言ってやがる」
「そのつもりだ」
龍麻の返答は短く、揺るぎなかった。
だが、その自信を葵は危惧する。
「ボクも行くよッ」
案の定、小蒔も同行を申し出てしまった。
これで葵も決断を迫られることになる。
断るのなら今しかない。
葵は意を決して、彼らの会話に割り込もうとした。
ここで葵にとって予想外の展開が起こった。
「あたしもこうしちゃいられないわッ。桜ヶ丘に行って症状をこの目で見なくちゃ。
鎧扇寺から戻ったら情報よろしくね、緋勇君」
アン子も鎧扇寺学園に同行すると思ったのに、別行動を取ると言い出したのだ。
これで龍麻に同行する女性は小蒔一人になってしまう。
京一と醍醐がいるのだから無茶はできないだろうと思いつつも、
龍麻がその気になれば、口実を設けて小蒔を連れ出すことなど容易だろう。
親友である小蒔を龍麻の毒牙にかけさせるなど、絶対にさせてはならなかった。
「私も行くわ」
結局葵はそう言うしかなかった。
「頼んだわよ、皆。それじゃ行ってくるわ、じゃーね」
居ても立ってもいられないとばかりにアン子は駆け出す。
その足が、扉の前で急停止した。
何事かと驚く龍麻達の前で、時間をかけて振り向いた彼女は、ためらいがちに告げた。
「あ、そうだ、この事件の事で頭が一杯で忘れてたけど、醍醐君」
「なんだ」
「──佐久間が、退院したそうよ」
「……そうか」
「知らなかったの?」
「あぁ。入院してからは会っていないからな……そうか、退院したか」
醍醐は消極的ながらも同じ部員の回復を祝うような素振りだったが、
祝われた方は喜びなどしないだろうとアン子が吐き捨てるように言った。
「気をつけてね。どうやら佐久間、醍醐君のこと恨んでいるらしいの」
「……」
醍醐の顔が苦渋に歪む。
その隣で京一がやはり、後ろ姿だけを見て美女だと思ったら女装した男だったというような顔をしていた。
「ッたく、どうしようもない野郎だな。ま、また来ても返り討ちにしてやるだけだし、
あいつなら醍醐ひとりでも大丈夫だろ」
「とりあえず伝えたから。それじゃね」
「あぁ、ありがとう遠野」
アン子は今度こそ駆けだしていった。
急速に小さくなっていく足音が完全に聞こえなくなるまで、龍麻達は何も言わなかった。
ややあって、醍醐が頭を振って言った。
「よし、俺達も行くとしよう」
醍醐の口調には有無を言わせぬものがあり、龍麻達は黙って立ちあがった。
だがこの時、少しでいいから龍麻達と話をしておくべきだった、と後日、
醍醐は断腸の思いで振り返らされることとなるのだった。
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