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教室を出た龍麻達は、揃って下駄箱へと向かう。
その途中で、小蒔が前方を歩く生徒に気づいた。
「あっ……ミサちゃんだ。おーい、ミサちゃーん!」
「馬鹿、なに呼んでんだよ、小蒔ッ」
「もう、京一もいいかげんに慣れなよ。ミサちゃんはこういう不思議な話には詳しいんだからさ」
「そ、そりゃそうだけどよ」
招きに応じてやって来たミサは、両腕に人形を抱えていた。
別段変哲のない人形に見えるが、いかにも大事そうに抱えていて、何かの謂れを感じさせる。
だからといって訊ねる勇気を持つ者はおらず、どうやって歩いているのか不思議な、
全く眼が見えない眼鏡と相まって、彼女の不気味な印象を増幅させるのだった。
「うふふふふ〜。何かよう〜?
我が傍らに在りし知恵の支配者が、汝のあらゆる求めに応じよう〜」
あまり事件を広めてしまうのも良くないだろうが、
ミサの能力は葵が嵯峨野麗司という少年の『力』によって夢に囚われた事件の時に証明されている。
今回の事件でも、訊ねてみて損はないだろう。
「裏密。人を石に変えるって、出来ると思うか?」
荒唐無稽な話を、龍麻はあえて単刀直入に切りこんだ。
「い〜し〜? 例えば、ギリシャ神話のメデューサみたいに〜?」
「メデューサって、頭が蛇のか? それなら、そんな感じだと思う」
龍麻はそれほど昔話や神話に詳しい訳ではないが、メデューサくらいは知っている。
醜く、蛇の髪を持ち、見た者を石に変える力を持つ魔物。
しかし、鏡のように磨かれた盾を持つ勇者ペルセウスに退治され、
その頭はアテナの盾に着けられた……。
メデューサと今回の事件との類似点に龍麻が頷くと、ミサは彼女の持っている知識を披露し始めた。
「う〜ん……恐らくは〜、邪眼の一種だと思うけど〜」
「イビル……アイ?」
「そ〜。邪眼っていうのは〜、妖術、魔術の類の実施にあたって基礎となる重要な概念であって〜、
邪悪なる法を施行する力や〜、視線によって他者に邪悪な力を投射することのできる力を持つ〜、
ということを表すオカルト用語なの〜」
押し黙る龍麻達と対照的に、ミサは水を得た魚のように喋る。
独特なテンポを持つミサの喋り方とあいまって、一同は半ば催眠をかけられているような気持ちになった。
「うふふふ〜、まず、F・T・エルワージーはその著書の中で、
邪眼とは魔術の基盤であり起源であると記しているし〜、
R・C・マクラガンは邪眼とは強欲と妬みを持った目であり〜、
強欲な視線は、巨岩をも二つに割る、と記しているの〜。
つまり、相手を石にすることももちろん出来るけど〜、
それだけじゃなくて、睨むだけで呪いをかけたり〜、
触っただけで相手を病気にも出来るの〜。うふふふ〜、便利だと思わない〜?
緋勇く〜んは、どう〜? 欲しくない〜?」
「いや、俺は別に要らない」
そっけなく龍麻は答えたが、ミサは気にした風もなかった。
「うふふ〜、欲しいな〜、邪眼〜」
「しッ、心配するな、裏密。お前はもう持ってるからよ」
はなはだ失礼な京一の言にも、ミサは堪えた様子もなく邪眼についての解説を続けた。
「うふふふ〜、邪眼を持つ代表的な存在は、さっき言ったメデューサね〜。
邪眼とは、もともと強い羨望や妬みが基礎になってるの〜。
メデューサはもともと、とても美しい地方神だったんだけど〜、
その美しさに嫉妬した中央の女神アテナによって、醜い魔物に変えられたの〜。
そしてそのことによって、メデューサは邪眼を手に入れたの〜。
美しい娘や女神達への、羨望、妬み、恨み……
それら全てを、無機質な石へと変える能力を手に入れたの〜。
全ては、邪眼の持ち主の意思次第ってことね〜」
「なるほど……ってコトは、この事件の犯人も、
何かを羨んだり、妬んだりしてるってコトなのかな」
「多分ね〜」
小蒔の洞察に頷いたミサは、京一などから見たら邪悪、としか形容出来ない笑みを浮かべた。
「緋勇く〜ん達といると、本当にオカルティックなことばかり起こるわ〜。
これからは、わたしも緋勇くん達についていこうかな〜」
止めておけ、と京一がしきりに眼で訴える。
彼に構わず、龍麻は思うところを伝えた。
「裏密の知識は貴重かもしれない。だけど、俺達についてくるのは危険だ」
「うふふふふ〜、恐れを知らず虚無を超えて往く者のみが〜、真なる叡智に到達できるの〜」
「まッ、待て緋勇ッ、裏密なんかと一緒に行動したら、遭わなくてもいい事故に遭うぞ」
不穏な成り行きを止めようと京一は試みたが、龍麻はすでに決めてしまっていた。
「それなら、これからは何かあったら力を貸してもらう。本当にいいんだな?」
「よ〜ろ〜し〜く〜ね〜」
本当に危険を覚悟したのかどうか、さっぱり判別できないまま、
とにかくミサは龍麻達に力を貸すことを了承した。
「おい緋勇、本気かよ」
今日のところはミサと別れて歩き出した途端、京一が龍麻に囁く。
「裏密のことか? 忠告はしたし、危ないかどうかは自分で判断できるだろ」
「そうじゃなくてよ、お前、遭わなくてもいい事故に遭うかもしれねェぞ」
京一の言い分は、ある意味でミサの力を認めているということになる。
それは京一だけでなく醍醐も同様らしく、京一の後ろでさかんに頷いていた。
「もうッ、大の男が何こそこそ話してるのさ。もしかしてミサちゃんが怖いの?」
「ば、馬鹿野郎ッ、ンなことあるかッ、なあ醍醐」
「う、うむ、そうだな、そんなことはないぞ、桜井」
「ならいいじゃない。ね、緋勇クン」
「ああ」
龍麻が頷くと、小蒔は陽気な妖精のような足取りで先へ進む。
その後ろを、恨めしげな顔つきで京一と醍醐がついていくのだった。
鎧扇寺学園の入り口は、高校とは思えない古式な門で固められていた。
来る途中醍醐に聞いた話では、東京の高校の中でも特にスポーツに力を入れている所で、
特に空手部や柔道部などは全国大会に出ることも多いほどの強さを誇っているという。
与えられた情報を以って眺めれば、いかにも相応しく思える門構えだった。
「ここが鎧扇寺学園か。とりあえず、そこらへんの奴掴まえて話でも聞いてみるか」
いくら立派なものであっても無機物に畏れ入ったりなどはしない京一は、
早くも門から出てくる生徒に目星をつけている。
「京一。まだここの生徒が犯人だと決まった訳じゃないんだぞ」
「わかってるって。穏便に……だろ? で、どうする?」
「そうだな、とりあえず空手部にでも行ってみるか。何か情報が掴めるかもしれん」
今回の事件に鎧扇寺学園が関係しているのなら、当然空手部が疑わしい。
つまり直接敵地に乗りこもうというわけで、龍麻達は自ずと気を引き締めた。
「よっしゃッ。で、空手部はどこにあるんだ」
「うむ、それは……」
醍醐も鎧扇寺に来るのは初めてで、部室、あるいは道場がどこにあるのかなど知りはしない。
すると、小蒔が足取りも軽く校門に近づいていった。
「ちょっと聞いてくるから待ってて。行こ、葵」
「おい、桜井」
醍醐の制止を聞き流して二人は中に入ってしまう。
「ま、大丈夫だろ。女相手にいきなり襲ってくるとも思えねェし、
小蒔はアレで人懐っこいからな、空手部の場所くらいすぐに聞き出してくるだろうよ」
彼女が去っていった方を心配げに見る醍醐に、薄い笑みを浮かべながら京一が言った。
京一の言う通り、二人は五分もしないで戻ってきた。
「空手部は体育館裏の道場にあるんだって」
「な?」
「何が『な?』なの?」
「いや、さすがに鎧扇寺の連中も同性のお前にゃ何もしねェだろって話よ」
「同性って……あッ!」
意味に気づいた小蒔は間髪入れずに京一の腹にパンチをお見舞いした。
「ぐわッ! くそッ、この暴力野郎め……」
「失礼なコト言うからだよ。ね、葵」
「え、ええ、そうね」
まるで緊張感のない二人に、葵はあいまいに頷く。
そんな彼女に小首をかしげた小蒔は、気を取り直して言った。
「あ、でも、ボク達が真神から来たって知ったら、凄く機嫌悪くなったよ」
「ふむ……よく無事で戻ってきたな、桜井」
「やだな、そんな大げさなモンじゃないってば」
醍醐に手を振った小蒔は、身を翻して先頭に立った。
「さっそく行ってみようよ、そのために来たんだし」
敷地を横断し、体育館の裏側を龍麻達は目指す。
その道すがら、龍麻は彼の抱いた疑問を口にした。
「変だな」
「何がだよ、緋勇」
訊ねた京一だけでなく、全員に語りかけるように説明する。
「アン子の情報では、襲われたのは真神の生徒だけだ」
「うん、そう言ってたね」
「それならどうして鎧扇寺が機嫌を悪くする?
奇襲に成功したんだから、喜ぶか警戒するか、どっちかだろう」
「そういえば、そうだね」
応じた小蒔は、龍麻に倣って眉間に皺を寄せた。
「ボクね、ここの人達はやってないような気がするんだ。
どうしてって訊かれても答えられないけど」
おそらく彼女は、学校の雰囲気をなんとなく察知したのだろう。
鎧扇寺は男子校であるから、真神とは雰囲気が異なるが、悪辣な空気は感じない。
現に龍麻達はここまで、制止や妨害を一切受けていないのだ。
その辺りは同感なのか、あくびをしながら京一が応じた。
「まあ、もう来ちまったんだ。直接聞いた方が早えだろ」
頷いた龍麻達は、校舎を曲がって体育館裏へと向かった。
裏手、と言うからにはあまり大きな建物ではないと想像していた龍麻達を、
鎧扇寺学園の道場は鼻で笑い飛ばした。
空手部の看板のみが掲げられた道場は、古めかしさこそ隠せないものの、
体育館の半分ほどの大きさもある、立派な造りをしていたのだ。
普通の部室に無理やりリングを設置している醍醐などは、感嘆まじりの感想を漏らした。
「流石に全国で優勝する高校ともなると、設備が違うな」
「空手部だけでこの道場かよ……真神なんか、剣道空手柔道で汚ぇ道場を共同で使ってんだぜ。
……なんか、ムカついてきたぜ」
ろくに部活に出ないくせに、こういう時だけ愛部精神を発揮して京一が憤る。
既に激発しそうな京一に危険を感じた醍醐は、
道場に向かって木刀を突きつける阿呆を押し退けて扉の前に立った。
「誰かいるか? 話を聞きたいんだが」
返事は無かった。
更にもう一度声をかけ、同時に気配を探る。
そこには微かだが、確かに人の気配があった。
「誰かいないのか? いないのなら勝手に入らせてもらうぞ」
殊更大声を張り上げた醍醐は、龍麻と京一に目配せする。
ここから先は、油断は禁物だった。
醍醐があえて音高く扉を開ける。
勢い良く開かれた扉は抗議の声を音高く道場内に響かせたが、誰も慰めようとはしなかった。
入り口に誰もいないことを確かめた醍醐は、一気に道場内に入る。
武を修める神聖な空間に土足で踏み込むのは気が引けたが、そうも言っていられなかった。
醍醐に続いて龍麻、京一の順で入り、散開して壁を背に素早く立ち、
一呼吸を数える間に道場を素早く見渡す。
誰かが襲ってくる気配は──否、人影自体がなかった。
ただ一人を除いては。
「あそこに誰かいるぞ」
龍麻が指差した先に、男が座っていた。
背筋を伸ばし、正しく座っている男は、龍麻達の声にも反応しない。
眠っているのかと思われたが、どうやら目は閉じているだけで、瞑想をしているらしかった。
年季の入った空手着が、その下の肉体に押し上げられ悲鳴を上げている。
堂々たる体躯は醍醐と較べても劣る物ではなく、短く刈り揃えられた頭髪、
頬に走る大きな傷は、いかにも格闘家といった趣だった。
男は龍麻達が近づいても微動だにしない。
心、水面の如し──そう形容するに相応しい落ち着きぶりだった。
それでも拳が届く距離に醍醐が立つと、薄く目を開けて無礼な侵入者を見やる。
瞬間にも満たない間、烈しい視線を交わした醍醐は、重々しい口調で訊ねた。
「──空手部の人間だな」
「そろそろ来る頃だと思っていた。真神學園の者だな?」
男の一声は、その野太い声質に似合わない、静かなものだった。
「そうだ。三年の醍醐雄矢だ」
「ほう、お前が醍醐か。一度会ってみたいと思っていたよ」
「光栄だな。いきなりだが、二、三聞きたい事がある。話してもらえるな」
醍醐の厳しい声にも動じた様子ではなかったが、男は立ちあがった。
「俺に選択権はあるのか? 力ずくでも聞こうって顔だが」
男が立ちあがると、たちまち巨大な壁となり、道場が狭くなったような錯覚さえするほどだった。
醍醐と並んで立たれると、射していた夕陽が遮られ、龍麻の頬を影が覆う。
軽く目を細めた龍麻だったが、男は醍醐以外眼中にないようだった。
「俺の名は紫暮兵庫。鎧扇寺学園の三年で、空手部主将だ」
そう名乗った男に、簡単に頷いた醍醐はいきなり核心から入った。
社交辞令など得意とするところではなかったし、友好的な関係を育む必要もなかったからだ。
「昨日、真神の空手部員が襲われた。全員重傷で、現在入院中だ」
「……」
「犯人の心当たりはないが、現場には鎧扇寺の学ランのボタンが残されていた。
そして、襲われた部員も鎧扇寺の名を口にしている。
あんたの高校を疑いたくはないが、そうも言ってられん」
「なるほどな。それでわざわざうちの高校に来て空手部に顔を出した、と言う訳か」
これだけの説明であっさりと頷いたところを見ると、
どうやら紫暮も昨夜起こった事件についてある程度は知っているようだった。
醍醐を真っ向から睨みつけて話を聞いていた紫暮は、
醍醐が話終えると一度目を閉じ、一息に言い放った。
「迷惑な話だ」
「ンだと手前ェッ! こうしてる今でも襲われた奴らは苦しんでんだぞッ! それを迷惑たぁ──」
「あんたのところの生徒がどうなろうと、うちには関係無い話だ」
「……紫暮。単刀直入に聞きたいんだが、今の話に心当たりは無いのか?」
逸る京一にも紫暮は落ち着き払っていた。
しかし、今にも殴りかかりそうな京一を片手で制して醍醐が訊ねると、眼光が険しくなる。
「俺が否定して、それでお前達は納得出来るのか? これだけの人数でここまで来たということは、
闘う覚悟もある──ということじゃないのか?
残念だが、俺にはその覚悟を打ち消すだけの無実の証明が無い」
「つまり、やっちゃいねぇ──が、証拠もねぇってことか」
紫暮は頷かず、京一に答えた。
「……俺も武道家の端くれだ。この拳を以って無実を証明することなら出来る」
「まさか、てめェ一人で俺達全員を相手にするってのか?」
「無論。一人ずつでも、全員同時でも」
「いい度胸じゃねぇか」
まんざら嘲った様子でもなく京一が呟く。
しかし、上等とばかりに早くもボタンに手をかけ、
喧嘩の準備を始めようとする京一を、突如後ろから現れた野太い声が止めた。
何事かと振り返る京一の目に、白い道着を着た男が数人映る。
「主将、俺達にも加勢させてください!」
「お前達、今日はもう帰宅しろと言ったはずだ」
「しかし主将! いくら無実を証明するためとは言え、主将は最後の大会を控えた身」
「あらぬ疑いをかけられた上に、こんな私闘に付き合うなんて人が好すぎます!」
口々に詰め寄る部員達に、紫暮は初めて困ったような顔をしていた。
それを見た醍醐は、ある確信を胸に抱いたが、もはや引き返すことは出来なかった。
「──解った。お前の覚悟は確かに受けた。が、俺達は何も喧嘩をしに来た訳じゃない。
一対一で闘れば充分だろう」
「俺は別に構わんが」
龍麻は当然話を切り出し、また唯一顔を知られている醍醐が相手をするものだと思っていたのだが、
そうではなかった。
「このあいだ真神では番長の交代があってな。今はこいつが総番だ」
「お、おい」
不意に背中を力強く押された龍麻はよろめいてしまう。
醍醐以外は気にも留めていなかった紫暮は、いかにも頼りなさそうに出てきた男に、
初めて視線を向けた。
「ふむ、お前より強そうにも見えんが……いいのか?」
紫暮が聞いているのは、龍麻が負ければ単に龍麻一人が負けたというだけでない、
真神の番長として名が通っている醍醐も負けたことになるのだ、と言うことだった。
どれほどこの場にいる全員が口を閉ざしても、この手の事実は必ずどこかから漏れる。
そしてこの手の事実は、どれほど事実から遠いものとなっても、
人が信じたいものへと変わっていってしまうものなのだ。
「ああ、いいさ。元々そんなものに興味は無い。それより、こいつ──名は緋勇と言うんだが、
こいつは強いぞ。それは俺が太鼓判を押す」
自信たっぷりに言う醍醐に、紫暮は改めて龍麻を見た。
身体付きはまずまずだが、空手や柔道をしているにしては筋肉が薄い。
拳にも胼胝は無く、どうにも不可解な人選だと思われた。
しかし真神にその人ありと言われた醍醐が、冗談にせよ総番と言うだけの人物であり、
何気ない立居振舞いにも確かに隙はない。
龍麻の強さを認めたかのように、紫暮は帯を締め直した。
「確かに、中々良い目をしているな、武道を極めんとする……何をやっているんだ?」
「名も無い古武術の一流派だ」
「手の内は見せたくない、というわけか。いいだろう、緋勇とやら、俺の拳、受けてもらおうか」
龍麻は事実を告げただけだったが、紫暮には深読みされてしまったようだ。
軽く肩をすくめた龍麻は、一瞬だけ恨みがましい視線を醍醐に向け、制服を脱ぎ始めた。
龍麻を残して、京一達は床に引かれている線から外に出た。
異種とは言えこれは試合であり、その形式を守ったのだ。
鎧扇寺の空手部員達も龍麻と紫暮を囲むように座る。
鋭い眼光が何本も刺してきたが、これには龍麻は動じなかった。
ただし紫暮のものだけは別格で、一段高い位置から射込まれる視線は並々ならぬ威力を持っている。
ミサの言う邪眼ほどではないにせよ、充分に人に影響を与えることの出来る眼だった。
「行くぞッ!!」
雄叫びを上げた紫暮が、鋭い踏み込みと共に拳を繰り出す。
基本の構えから放たれた正拳突きは、その堂々たる体躯からは想像も出来ないほど疾かった。
充分に予想していたはずの龍麻も、よけることは出来ず、受けるのが精一杯だ。
それも、受けた手を危うく弾き飛ばされそうになりながらだ。
一瞬、瞳に驚きの色を浮かべた紫暮は、しかしすぐに次の攻撃をしかけた。
今度は腹を狙った、全身の体重を乗せた蹴り。
やや体勢を崩している龍麻は防御しようとしているが、それでは間に合わない。
紫暮は己の蹴りが入ったのを確信した。
足の甲が身体を捉えた瞬間、更に力を乗せて一気に振りぬく。
確かな手応えと共に、男の身体が吹っ飛ぶのを紫暮はしっかりと見届けた。
「緋勇クンッ!!」
小蒔が立ち上がり、駆け寄ろうとする。
その腕を掴んだのは、醍醐だった。
「落ち着け、桜井。緋勇なら大丈夫だ」
「だって、あんなに吹っ飛ばされて……」
衝動の矛先を醍醐に向ける小蒔の、視界の端で龍麻が立ちあがる。
それを見た小蒔は、やり場のない不満をぶつけるように勢い良く座り、
龍麻を応援するべく拳を握り締めた。
一メートルほども吹き飛ばされた龍麻がよろめきつつも立ちあがると、部員達の歓声が止んだ。
自分達の主将の蹴りがあれだけ見事に入って立った人間など、初めて見たのだ。
そして彼らの主将にも、はっきりとした驚愕の表情が広がっている。
今の手応えは間違いなくあった。
手加減などしていない、渾身の一撃だ。
これほど綺麗に決まることは滅多になく、まれに未熟な部員に入ってしまうと、
胃液を吐いて悶絶させてしまうほどの威力がある、基本にして必殺の蹴りだった。
「ふう……」
それを目の前の、体格だけは良いが、厳しい修行など何も積んでいなさそうな男は、
軽く呻いただけで済ませてしまったのだ。
部員達の驚きが、衝撃波となって道場を揺らしていた。
その衝撃に呑みこまれかけた紫暮は、気合を入れなおすべく声を上げる。
試合の最中に油断するなど、未熟の証だった。
一度で倒れなければ、何度でも倒せばいい。
まだ完全には構えを取っていない龍麻に向かって、紫暮は突進した。
この時紫暮の胸中に、かけられている疑いを晴らすことはない。
ただ一人の武道家として、目の前の敵を倒すことに全神経を集中させていた。
立ちあがった龍麻の瞳に、紫暮が映る。
まだ未熟な自分の防御が腹立たしかったが、
あの一撃に、とっさに氣による防御が間に合っただけでも良しとすべきなのだろう。
半瞬で呼吸が乱れていないことを確かめ、次の半瞬で紫暮の次の攻撃を読む。
もちろん続けて攻撃を受けるつもりなどない龍麻は、今度は自分から仕掛けた。
自ら踏み込み、もう一度蹴りを放とうとする紫暮の懐に潜り込む。
無論紫暮は蹴りを放ちつつも防御を怠ってはいなかったが、
龍麻の手はそれを潜り抜けて身体に到達した。
体内の氣の集積所であるチャクラを開き、そこから更に身体を循環させて氣を練り上げる。
この「開く」ことこそが龍麻の行わされた修行なのだが、
一生を費やしても完全に開ききることなど人の身では不可能と言われるこれを、
半年足らずの修行しか行っていない龍麻が開けることが出来るのは、ごくわずかな量だった。
それでも素質があるらしい──これは彼が師から思わせぶりに聞かされたことだ──
龍麻は、瞬く間に同じ修行を積んだ兄弟子達を上回る氣を操れるようになっていた。
そして今、掌に集めた──正確には、そうイメージした──氣を一気に解き放つ。
一瞬、全身を猛り狂うエネルギーが走り抜け、肌に灼熱を感じる。
その熱が最も高まっている掌から、紫暮の空手着、更には背中へと、一直線に氣を徹した。
独特の呼吸によって体内で生成された氣は、直接触れることで、
いささかもその威力を減じることなく紫暮を撃った。
塊として放出すれば肉体で防ぐことも出来る氣だが、
対象に密着して放てば同じ氣による防御でなければ防ぐことは出来ない。
鍛えぬかれた筋肉も、その内側から徹されてしまってはどうしようもない、と言う訳だった。
「ぐ……おッ」
再び部員達が声を上げる。
しかし今度は、敬愛する彼らの部長が片膝を木張りの床についたからだった。
そのまま倒れてしまうのではないかと動揺する部員を静めるように、紫暮が吼える。
「まだまだッ!」
立ちあがった紫暮は、少なくともダメージを残しているようには見えない。
そして一度見せた手の内を、もう一度させてもらえるとも思えなかった。
何より今の防御と攻撃で氣をほとんど放出してしまい、
再び練りあがるまでに幾ばくかの時間を必要とするのだ。
その時間を稼ぐよりは、肉体のみで決着をつける。
その道を採った龍麻は、紫暮を打ち倒すべく挑みかかった。
鋭い踏み込みで、床を捉える。
蹴るのではなく、根付かせるのだ。
大地、ひいては地球そのものと一体になるという思想が根底に流れる龍麻の古武術は、
特にその足さばきに特徴があった。
踏みしめた地面から地球の力を受け取り、その力を転じて攻撃と為す。
氣は無くとも必殺の威力を持つ武術ではあるが、その反面防御が手薄になってしまう弱点も持つ。
ましてやまだまだ未熟な龍麻と、幼い頃から空手一筋の紫暮とでは、
紫暮が氣によるダメージを残してなんとか五分といったところだった。
息詰まる拳の撃ち合いが始まった。
龍麻の掌底が紫暮の頬を叩き、紫暮の正拳が龍麻の胸を撃つ。
お互いに接近戦を好む二人は、ほとんど密着した間合いで拳を奮っていた。
突きが当たる度、身体が軋む。
反射的に返しの一打を放ちながら、独特の高揚に蝕まれた龍麻は、笑みさえ浮かべつつあった。
紫暮の拳は、潔いほど駆け引きのない、真っ直ぐなものだった。
それを龍麻が感じ取れたのは、皮肉にも彼の学んでいる武術が古の流れを汲む、
勝つ為には手段をあまり問わない型の武術であり、積んできた練習は、
ありとあらゆる攻撃を──飛び道具でさえその中には含まれる──想定して行われたものだからだった。
だから龍麻は、その気になればもっと簡単に勝利を得ることが出来たかもしれない。
空手では反則である攻めを、いくらでもしかける隙はあったからだ。
しかし、それでは意味がない。
一人で自分達全員を相手にすると言い、身の潔白を証明しようとする紫暮の誇りを踏みにじることになる。
単純に技同士のぶつかり合いでは紫暮の方に分があったが、
それでも龍麻はその類の攻めを一切行わなかった。
ただ己の、肉体と精神のみを使って紫暮と拳を交わす。
二人がかき鳴らす鈍い音の多重奏を、部員達も、京一達もいつしか黙って聞き入っていた。
数十秒足らずの、しかし密度の濃さでは比類のない、
既に風景の一部となりつつあった闘いの末は、再び龍麻が吹き飛ぶことでついた。
「緋勇クンッ!」
再び小蒔が立ちあがる。
それでも、場内に足を踏み入れようとしなかったのは、
二人が真剣勝負をしているところに踏み入ることはできないと、
種目は違っても武道を修めているが故だった。
心配する小蒔達の前で、龍麻はどうにか起きあがったが、
片膝をついたところから立ち上がれない。
一方の紫暮も、鏡に写したかのように片膝をついたままで、
居合わせる部員達は瞠目したまま彼らの主将を見守っていた。
「主将ッ!! しっかりしてくださいッ!!」
だが、彼らの声援に呼応したのは、皮肉にも主将の敵手の方が先だった。
錆びついた動輪のようなぎこちなさではあったが、紫暮に先んじて完全に立ちあがった龍麻は、
部員達が慨歎する中、彼のもとに歩み寄ると、手を差し伸べた。
「やれやれ……俺もまだまだ修行が足らんな」
破顔した紫暮は龍麻の手を掴み、立ちあがる。
途端に龍麻に受けた打撃の痛みが全身を貫いたが、部員達の手前、
わずかに顔をしかめただけで耐えた。
「緋勇と言ったな。本当に強いな、お前は。総番が交代したというだけのことはあった」
「実は、立っているだけで精一杯なんだ」
小声で龍麻が言うと、紫暮は今度は豪快に笑った。
「そうか……いい勝負だったな」
頃合いと見たのか、部員達が恐る恐る声をかけてきた。
「主将、医務室へ行かれた方が」
「フン、これくらいの傷、三日もすれば痕も残らんわ。
それよりお前らこそもう本当に帰れ。俺はまだこいつらと話がある」
「しかし」
「大丈夫だ。もう闘りあうことはない」
「押忍ッ! それでは失礼しますッ!」
一斉に頭を下げた紫暮の後輩達は、駆け足で出口へ行き、
そこで主将に向かって一礼をして去っていく。
規律のとれた彼らの振舞いは、悪い印象を抱きようもないものだった。
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