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 日付があと一時間で変わろうかという頃。
三十分ほど前から布団に入った葵は、何度めかの寝返りを打った。
 葵は寝つきが悪い方ではない。
先日、夢に関連した奇怪な事件に巻きこまれた時は別として、
心配や不安で眠れないという経験はほとんどなかったし、
そもそもそういう状況に陥ることがなかったのが、美里葵という少女の十八年だった。
 では、今葵の安眠を妨げようとしているのは何か。
それは数ヶ月前に同じクラスに転校してきた、一人の少年だった。
名を緋勇龍麻という彼の存在が、布団に入り、明かりを消して眠りに落ちるまでの、
短い時間に浮かびあがってくるのが、最近の葵の習慣となりつつあった。
 といっても、年頃の娘のように、彼に想い焦がれてというわけではない。
葵にとって龍麻は、数少ない関わりたくない男性の一人であって、
身体を触られ、得体の知れない力を注ぎこまれ、夢の中とはいえ唇まで奪われている。
本来なら彼の顔さえ思い浮かべたくないくらいなのだ。
蛇蝎のごとく嫌う、と言っても良いくらいの彼を、
無意識へと陥る間際に考えるようになったのは、先日の事件の後からだった。
 人間が石に変えられるという、にわかには信じられない事件に、
葵の親友である桜井小蒔が巻きこまれ、石にされてしまった。
彼女を救うために龍麻は、身を挺して戦い、傷つきながらも敵を倒し、小蒔を救った。
その献身に葵が感動したのは事実だった。
 相手の意志などお構いなしに女を襲い、欲望を満たそうとする卑劣な男としての龍麻。
 我が身も顧みず危地に身を晒し、他人のために戦う勇敢な男としての龍麻。
緋勇龍麻という人間の性格を司る善悪の天秤があるとしたら、どちらにより多く傾くのか。
これほど極端な二面を持つ人間にこれまで接したことがない葵には、
彼が善人なのか、それとも悪人なのか、判別できないでいる。
 そしてもう一つ、葵が彼に対する評価を定めかねる要素に、彼の眼があった。
これは善悪とは関係ないのだが、彼の黒い、重力場のような瞳は、葵を常に落ちつかなくさせる。
彼が持つ異能の力同様に、何か人知を超えた力を有しているのではと疑ってもみたが、
小蒔や他の女性には何も影響がないようで、であれば葵の思い過ごしである可能性が高いのだった。
「……」
 葵は再び身体の向きを変える。
 なぜ彼の瞳は、これほどまでに心を騒がせるのか。
闇に響く心音が、自分の心を本人の思いと違う所に導くような気がして、
音を消すために、続けざまに寝返りを打った。
 ベッドの中で何度かのたうっているうちに、やがて葵は眠りに落ちる。
せめて夢の中では、彼のことを思い浮かべないようにと願いながら。

「せんせー、さよなら」
「さようなら。気をつけて帰るんですよ」
 生徒達が行儀良く挨拶している。
真神の教師の中でも最も人気のあるマリア・アルカードを担任に持った三年C組の生徒達は、
女子生徒だけではない、男子生徒も軽く手を挙げて挨拶し、
他のクラスの生徒達より彼女と多く話せるという特権を満喫して帰るのだった。
わずかに順番待ちさえできている教え子達と、
マリアは穏やかな笑みを湛えてひとりひとり言葉を交わす。
それは、あるいは単に彼女が愛想が良いだけなのかも知れなかったが、例えそうだとしても、
彼女の受け持っているクラスは宿題を忘れてくる生徒が少なく、
そしてテストの平均点が高いのは事実で、生徒はおろか、
真神の全関係者の誰一人として彼女に不満を抱く者など居はしないのだった。
 クラスの半分ほどの生徒と挨拶を交わし、その波が一段落すると、
マリアは教壇から離れ、一人の生徒の所に向かう。
教科書を鞄に詰めていたその生徒は、マリアが近づいても動作を止めなかったが、
彼女が机の前に立つと、さすがに顔を上げた。
 蒼と黒の瞳が交錯する。
見た目からは想像もできないほどの人生経験を重ねているマリアでも、
彼の瞳に見られると、どこか落ち着かない気分を覚えた。
それはおそらく、彼の眼が、いささかも揺るがないからではないかと彼女は推察する。
あらゆる感情を内包しつつ、容易にはそれを見せない眼は、
ある種の匂いのように、不快でありながら見る者を惹きつけずにおかない。
自己を確立していない、彼と同年代の少女では、
抗することができずに取りこまれてしまうのも止むなしかもしれなかった。
 鉄球のような眼からさりげなく視線を外したマリアは、
今年の春にこのクラスに転校してきた、緋勇龍麻という名の教え子に用件を告げた。
「緋勇クン、後で職員室へ来てくれないかしら。話があるの」
「ええ……いいですけど」
 龍麻の返答は慎重だった。
自分が呼びだしを受けるような何かをしたのか、自問しているのだろう。
 ここで済ませるわけにいかないのか、と言外に問う龍麻を無視して、
マリアは彼を安心させる微笑みを浮かべた。
「大した用事ではないわ。時間はとらせないから」
 声にごく微量、教師という立場以上の圧が篭る。
それを敏感に察知したのか、龍麻の視線が挑戦に応じる騎士のように険しくなった。
 蒼と黒の光球が、激しくせめぎ合う。
短時間ながらその激しさは、間に立ち入るものを許さないほど苛烈だったが、
決着がつくことはなかった。
自分から威嚇にも取れるほどの眼差しを向けておきながら、
マリアは瞬時にそれを彼女の名である聖母のような慈愛に満ちたものに変えてのけたのだ。
 肩透かしというレベルではない、剣で斬りかかったら抱きとめられたというほどの齟齬に、
龍麻は呆然と担任の教師を見た。
「それじゃ、後で」
 勝負はついたとばかりにマリアは颯爽と身を翻し、そのまま、
モデルもかくやというような美しい姿勢で教室から出ていった。
「よお、緋勇」
 まだマリアにやりこめられた衝撃から立ち直っていない龍麻のところに、蓬莱寺京一が来る。
入れ替わるように彼女のいた場所に立った京一は、彼女の後姿が見えなくなるまで見送り、
好色そうな目つきを隠そうともせず龍麻に話しかけた。
「ん……? なんだ、呼び出しか? 羨ましいねェ」
「そうか?」
 疑問を多く含んだ龍麻の返事に、京一は自信たっぷりに答えた。
「そうさ。例えこっぴどく怒られるとしても、
あんな美人に呼び出されるってのは、男としてイイ気分だよなァ。
俺も手取り足取り腰取り教えて貰いてぇもんだ」
 京一の手が空中でカーブを描いているのは、マリアの身体のラインをなぞっているのだろう。
答える気にもなれない龍麻が忘れ物がないか、机の中を覗きこんで時間を稼いでいると、
心底呆れたような声が元気良く鼓膜を震わせた。
「京一の場合、教えてもらいたい意味が違うだろッ」
「小蒔かよ。人の話を立ち聞きするなんて趣味が悪いな」
「べー。でかい声でそんな話する方が悪いもんね。ね、葵」
 そう言う小蒔の声も、京一と同じくらいには大きい。
 舌を出す小蒔に触発されたのか、京一は言い返した。
ただし直接小蒔にではなく、彼女の親友である美里葵にだ。
「あのな、美里。お前もこんな男女の言うこと真に受けるなよ」
「なんだとォ」
「こいつはナンだ、ほら、見てわかるだろ? 女の服なんて着てるけどよ、きっと男だぜ。
その証拠に、何しろ胸が無い」
「……」
「……」
 小蒔の短い髪が左右に揺れる。
「ボクは、ちょっと誤解してたよ。キミのこと、アホだアホだって思ってたけど、間違ってた」
「そうだな。過ちは誰にでもあるもんだ。問題はそれに気づくかどうかだからな。
俺のように完璧な人間はなかなかいるモンじゃねぇしな。な、緋勇」
 三人が一斉に京一を見る。
その視線の意味は、三者三様ではあったが、好意的なものはひとつとしてなかった。
なのに京一は全く気づかず、勘違いしたまま自慢気に胸を反らせる。
「だろ? やっぱりお前は解るヤツだと思ってたぜ。それに引き換え」
「なんだよ」
「ま、男は背のデカさだけじゃないからな。気を落とさず生きていくこった。な、桜井くん」
「えへへッ」
「へへへッ」
 気色悪い笑みを交わす二人だったが、突然、小蒔の腕が稲妻のように伸びた。
正確に顎を狙った拳を、京一はすんでのところで仰け反って躱す。
あらかじめ胸を反らせていなかったら一発で昏倒しかねなかった、いいパンチだった。
「京一……死んでくれ。キミみたいな男は全人類の女の敵だ」
「ま、待て小蒔。いくら俺の方が背もナニもデカいからっていきなり殺すこたァ」
 なお挑発する京一に、小蒔は本気を出して襲いかかった。
繰り出される拳を躱していた京一も、次第にその速さについていけなくなり、
徐々にバランスが崩れ出す。
そこに机に足を引っ掛けてしまい、大きく体勢が崩れた。
「ひっさつ!」
 目を不敵に輝かせた小蒔は、固く拳を握り締め、渾身の力を身体の一点に撓めた。
強い陽射しに遮られ、はっきりとは見えないが、何やら陽炎のようなものが立ち上っている。
それは、紛れもなく氣だった。
 身の危険を感じた京一は、とっさに小蒔の背後に向かって指を突きつける。
「お、おい、醍醐がナンパしてるぞッ!」
「え? ──あッ!!」
 そのタイミングといい内容といい、全く天才的なものだった。
京一のどんな戯言にも耳を貸すつもりなどなかった小蒔も、
これには意表を突かれ、思わず振り向いてしまう。
騙されたと気づき、再び前を向いた時には、もう京一の姿はなかった。
「じゃあな、また明日遊んでやるよ」
「待てーッ!!」
 鞄を引っ掴んで教室の出口まで走った京一は、小馬鹿にしたように手を振ってみせる。
たちまち怒気を沸騰させた小蒔も、それを追いかけて行ってしまった。
 取り残された龍麻と葵は、自然と顔を見合わせる。
彼と目を合わせてから葵はしまったと思ったが、龍麻の瞳にあの漆黒はなく、
龍麻は苦笑いすると鞄を掴んで立ちあがった。
「あいつらはいつも元気だな。……それじゃな、俺も職員室に寄って帰る」
「さようなら」
 挨拶を返さないのはあまりに大人げないように思われたので、葵が応じると、
龍麻は片手を上げて去っていった。
 平和に終わった一日を歓迎しつつ、ごく微量拍子抜けした感も拭えない葵が、
生徒会の用事で職員室に行かねばならないことを思い出したのは、
龍麻が去ってからちょうど一分後のことだ。
 葵は軽いため息をつきつつ、生徒会室に書類を取りに行くために立ちあがった。

 職員室に入った龍麻は、思わず固まってしまった。
もちろん自分達の教室なみとは言わないが、いつもそれなりの喧騒には包まれている職員室には、
ただ一人を除いて誰もいなかったのだ。
そのただ一人、マリアは、無彩色の職員室内にあって、鮮やかな金髪でその存在を主張している。
 思わず引き返そうかと思った龍麻だったが、マリアに気づかれてしまい、
仕方なく龍麻は用事を済ませるために彼女に近づいた。
「フフッ、待ってたわよ。そこに座って」
「……他の先生は」
「会議中なのよ」
 不機嫌すれすれの低空飛行で応じる龍麻に、つまらない事を聞く、
といわんばかりの態度を取ったマリアは、見せつけるように長い足を組んだ。
無理な格好を強いられた膝丈のスカートの形が崩れ、腿の半分くらいまでを露出させる。
日本人には──いや、白人でもこれほどの白い肌はそうはいないだろうマリアの身体は、
高校生には毒でしかない。
しかも組んだ膝の上に肘を乗せ、掌に顎を置いたマリアは身体を心持ち前に傾けているので、
C組の男子生徒の間で賭けさえ行われたことのある、
豊かな胸がその形をくっきりと浮かび上がらせていた。
薄紫色のブラウスは半袖のように見えて、
肩口のところからは凝った刺繍が施されており、素肌よりも見る者を魅きつける。
マリアが見せつけようとしているはずもないが、彼女の意図が読めず、龍麻は表情を消した。
 そんな龍麻の視界を全て埋め尽くそうとするかのように、マリアは身を乗り出す。
鼻腔にまとわりつく女性の──大人の香りに、龍麻は軽く眉をしかめた。
だが、マリアの用件というのは、軽くどころではなく龍麻の眉をしかめさせるものだった。
 マリアは一通の新聞記事を指し示す。
そこには、春に新宿中央公園であった出来事が記されていた。
 盗まれた妖刀──村正の狂気に取り憑かれた男が女性を襲い、
その場に居合わせた龍麻達は、子供を助ける為に『力』を使った。
面倒を避けるため、すぐにその場を逃げ、事は済んだと思っていたのだ。
 実際、記事には『高校生が男に飛びかかったという証言もあり』とはあるが、
龍麻の周りで取材を受けたという話もない。
「この高校生というのがアナタ達じゃないかという噂を、
真神の生徒ウチのコ達がしているのを聞いたのよ」
 マリアは新宿という地名から単に関心を持っただけか、と思った龍麻の見通しは甘かった。
「刀を持った男に飛びかかったのは、木刀を持った高校生と大柄な高校生。
緋勇クンは蓬莱寺クンと醍醐クンと仲がよいわよね?」
「ええ、まあ」
 慎重に答えながら、龍麻は内心で途方に暮れていた。
これでは言い逃れも何もあったものではない。
こうなったら罪は認めて罰をなるべく軽くするしかない。
はじめから負け戦というのは、得意でもないし面白くもなかった。
「それに、現場にもうひとりいた男子高校生は、身体から不思議な光を発したとも」
 ところが事態は龍麻の思わぬ方向へと向かっていた。
「不思議な光……ですか?」
「ええ。刀を持った男の懐に潜りこんで殴りつける瞬間、手が光ったと」
「子供が斬られそうだったんで、とっさに飛びだしたのは認めます。
でも、手が光ったなんていうのは錯覚です」
「武術の達人は、『氣』というものを使いこなせるというのを聞いたことはあるかしら?」
『氣』を操る時、彼らは身体から光を放つという」
 蒼氷色のマリアの瞳が真摯な深みを宿す。
生徒を案じる熱心な教師のものであるはずだが、龍麻はなぜかそれ以上のものを感じた。
この話題を続けるのは危険だと信号が脳裏に点滅する。
「それはただの伝説じゃないんですか? 強さに尾ひれがついたような」
 龍麻は強く否定した。
マリアの思惑を未だ測りかねていたし、どのような思惑があったとしても、
『氣』について無関係な他者に話して良い結果が得られるとは思えなかったからだ。
そもそも、常識と良識を生徒に教える立場であるはずの教師が、
怪力乱神を語るというのはいかがなものか。
 そう思いはしても、まさに怪力乱神の体現者である龍麻は、うかつなことを言えなかった。
 マリアの瞳が輝きを増す。
彼女の優しい、生徒思いという評判とは対極に位置する、冬の氷嵐を龍麻は感じた。
充分な覚悟をして嘘をついていなければ、衣を剥ぎ取られて凍死したかもしれない。
龍麻は微妙に視線を合わせずに、氷嵐が過ぎるのを待った。
「……そう……そうよね。アナタの正義感は素晴らしいと思うけれど、
刀を持った人に素手で立ち向かうなんて無謀すぎるわ」
「すみません」
 ひたすら頭を下げる龍麻の視界で、白い足が組み変わる。
もう少しで説教も終わりそうだ、と考える龍麻に、白い足が近づいてきた。
「緋勇クン、アナタ……斬られたんじゃないの?」
 急に変わった風向きに、危うく龍麻はよろけるところだった。
困惑を隠せず妙に近いマリアから離れようとすると、膝を押さえられる。
「いえ、そんな……斬られてなんていません」
「本当かしら? 現場には血が残っていたというけれど。それも大量に」
「それは……」
 不都合な真実を指摘されたため、龍麻は余裕を失っていた。
 対照的にマリアは教師と生徒、成人と未成年という以上の余裕を見せつけるかのように、
無防備ともいえるくらい龍麻に詰め寄ってきた。
「違うというのならば、証拠を見せて欲しいのだけれど」
「証拠……ですか?」
「ええ。ここで服を脱いで」
 教師が生徒に職員室で服を脱げと迫るなど、常識では考えられない。
だが、そもそも話は日本刀で背中を斬られたという非常識から始まっている。
優れた判断力で仲間を率いる龍麻だが、この時はとっさに拒絶するという決断ができなかった。
それどころか、にじり寄ってくるマリアから離れようという考えすら起こらないまま、
彼女が立ちあがるのを許してしまう。
 マリアの手が制服の内側に滑りこむ。
ボタンを外さず、シャツの上から、竦んでしまった獲物にことさら大きく口を開けてみせる
蛇のように、肌触りを――女の肌触りを浸透させていく。
手はゆるやかな螺旋を描き、背中へと這っていく。
必然、マリアの身体は触れんばかりに近づいていた。
隠しても隠しきれない、豊かすぎるバストもまた、龍麻をむしろ誘うように紙一重の位置でとどまっている。
深い呼吸をするだけでさえ命取りとなることを、龍麻は悟った。
美貌の女教師に、教師と生徒という関係ではありえないほど近づいているにもかかわらず、
喜びなどない。
あるのはその正反対の感情で、背中に冷たいものを感じた。
 龍麻が抱いた恐怖は悲鳴をあげる間もなく、マリアの指先に掬い取られる。
龍麻の体液を捉えたマリアは、深紅に彩られた唇で、微笑を形作った。
「フフ……そんなに硬くならないでいいのよ」
 マリアの囁きが、痛いほどに鳴っている血流のリズムに乗って思考に流れこんでくる。
囁きは抗おうとする思考を組み伏せ、龍麻は指一本すら動かせなくなった。
「──ッ!」
 いよいよ、という時になって、急速に気配が遠ざかる。
何事かと目を開けた龍麻の瞳が捉えたのは、
とてもこれからキスをするようには見えない、唇を硬く引き結んだマリアの顔だった。
既に彼女は自分を見ておらず、その向こうにあるものを見据えている。
 大きな瞳に憎悪が宿っていた。
なまじ美しい蒼氷は、そこに憎しみが宿った時、
うかつに覗いた者を灼きつくすかのような苛烈な宝石へと変ずる。
自身が招いた怒りではないとはいえ、蒼い瞳に紅い憎悪が宿る瞬間を
至近距離で見てしまった龍麻は、よろけるように半歩後退した。
 その背中に向かって、持ち主に相応しくない、やや軽い調子の声がかけられる。
「よォ、緋勇じゃないか。何か悪さでもしたのか?」
「犬神……先生」
 呼ばれた龍麻に代わって同僚の名を告げるマリアの声もまた、彼女らしくないひびわれたものだった。
至近距離で見つめる龍麻のことを忘れたかのように、険しい表情は崩さない。
それでもマリアは美しかった──むしろ、感情を露にした今の方が輝きを増しているとさえいえた──
 だが犬神は、少なくとも表面的には、マリアの態度にひとかけらの関心も示さなかった。
「どうしましたマリア先生、そんな怖い顔して」
「い……いえ。どうして……先生がここに?」
「ははは、どうしてって、ここは職員室ですよ。そりゃ僕は物臭さであまりここには来ませんけどね」
 犬神の返事に疲れたように頷いたマリアは、それまでの態度が嘘のような投げやりな口調で告げた。
「緋勇クン……ありがとう、もう帰っていいわ」
 既にこの場では邪魔者でしかない龍麻は、身のほどをわきまえ、そそくさと立ちあがる。
マリアと自分との間に立った龍麻を見る、眼鏡の奥の大神の瞳は、
龍麻が気配を感じるほど鋭いものだった。
しかし、龍麻が振りかえった時にはもうその気配は消えている。
「僕の事なら気にせずに続けてください」
「いえ……大体は終わりましたから。緋勇クン、また今度……ね」
 今度、とやらがなるべく来ないように祈りつつ、龍麻は二人の前から立ち去る。
あと一歩で希望の出口へと辿り着くというところで、再び犬神から声をかけられた。
「そうだ緋勇、お前……旧校舎には入ってないだろうな」
 もう職員室から逃げることしか考えていなかった龍麻は、急に旧校舎の名を出され、硬直してしまう。
マリアといい犬神といい、学業と関係ない所で生徒を困らせる術に長けているようだった。
もっともこちらの件に関しては、あの日以来、
龍麻達はあそこに近づいたことはなかったから、正直に答えることができた。
「は、はい」
「ならいい。──いいか、くどいようだが、旧校舎には近づくなよ。あそこは……良くない」
 いくつもの意味を込めた、複雑な音で警告を発する犬神に、龍麻は頷くしかできなかった。
 振り返らずに職員室を後にした龍麻は、完全に廊下に身を置いてから振り向き、扉を閉める。
何か封印を施したような気分になったが、中で起こった濃密な出来事を考えればそれも当然といえた。
 頭を左右に傾げ、音を鳴らした龍麻は、ひとつ伸びをしてから廊下を歩き始めた。



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