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龍麻が職員室を出る、およそ三分ほど前。
生徒会室を回って書類を取ってきた葵は、職員室についた。
葵が職員室に入ったとき、龍麻がマリアと話していた。
二人が何を話しているのか気になりはしても、
彼らのところに行って会話に割りこむつもりまではないので、
書類を机の上に置いて早々に立ち去ろうとしたところ、
美貌の女教師はいきなり立ちあがったかと思うと、龍麻に身体を寄せたのだ。
常識的な、逆に言えば想像力にはやや欠けるところがある葵は、
女が男に抱きつこうとしている衝撃的な光景を目の当たりにして、
ここが職員室であることや、龍麻が迷惑そうに棒立ちしているといった
細かな点など目に入らず、ほとんどひとつの答えしか導きだせなかった。
一体龍麻は、何を考えているのか――呆然とする葵の呪縛が解けたのは、
いつの間にか職員室内にいた犬神が龍麻とマリアのところに来てからだ。
彼が白々しいくらいの親しさでマリアに話しかけると、
マリアと龍麻の間に立ちこめていた何がしかの熱が霧消し、
マリアは演技が下手な俳優達のせいで役に入りこめずに腹を立てた主演女優のように、
素に戻っていた。
見てはいけないものを見てしまった気がした葵は、頭を下げると逃げるように職員室を出た。
動揺したまま教室に戻って、同級生と鉢合わせするのは良くないと考え、
図書室にでも行こうかと考えていると、職員室から当事者の一人が出てきた。
龍麻がいかにも不機嫌そうな顔をしているのは意外だったが、
葵に気づいた龍麻は彼の方から声をかけてきた。
「教室へ戻るのか?」
「は、はい」
「それなら一緒に戻ろう。忘れ物をしちまった」
動悸が治まらないまま、葵は龍麻と同行することになってしまった。
それは同行などと大げさなものでなく、ただ教室までの数百メートルを歩くだけだ。
どんな深刻な問題も語り合うには短すぎて、構える必要などなにもないはずだった。
だが、龍麻は黙したままで、そのくせ葵と並んで歩き、
本来彼と話したくないはずの葵は、極度の緊張を強いられる。
運の悪いことに廊下には誰もおらず、沈黙に耐えかねた葵は、
彼女らしくもなく話しかけてしまった。
「あ、あの……マリア先生、どんな用事だったの?」
それは不必要なだけでなく、害悪ですらある質問だった。
口にした直後に葵は何もかも捨てて逃げだしたくなったが、
龍麻は、むしろ冷静さを取り戻したようで、口の端を軽く釣りあげた。
「気になるのか?」
「そ、そういうわけじゃ」
何に対してか判らぬまま赤面する葵の聴覚に、龍麻は驚くべき語句を注ぎこんだ。
「『力』のことを訊かれたよ」
「え?」
「花見の時の話を耳にしたとかで。どうも花見客の中に真神の生徒が居たみたいで、
京一と醍醐が目立つだろ? 居たことはごまかせそうになかったから、
男三人だけ居たことにして、『力』の方はもちろん無しで」
とっさの機転でかばってくれたのだろうか?
礼を言うべきか葵は迷ったが、龍麻は別に恩を着せるつもりはなさそうだった。
「その流れで怪我の話になって、傷跡を確かめさせてほしいってよ。
見たところで意味なんてないだろうに、少し変わってんなあの先生」
マリアに対する悪口とまではいかなくても、褒めていないのは確かで、
マリアを敬愛する葵としては面白くない。
とはいえ、擁護しづらいこともあり、葵は沈黙を保った。
それにしても、今の言い方といい、職員室での態度といい、
龍麻はどうもマリアに迷惑な印象を持っているようだ。
女好き……というか、女とあれば見境なしというわけではないのだろうか?
葵は他人の趣味嗜好に口をだすような趣味はないが、龍麻に関しては大いに関係が、
それも悪い方向にあるので、どうしても気になってしまうのだ。
「心配してくださったのじゃないかしら」
「……」
龍麻は黙ったままで、マリアを庇ったことで機嫌を損ねたのではないかと葵は思ったが、
そうではなかった。
急に立ち止まったかと思うと、窓の方に鋭い視線を向ける。
一瞬ためらった後、彼が見ているものを見やると、旧校舎が見える窓の外に、一人の学生が立っていた。
距離はやや離れているが、憤怒の表情が見て取れる。
あまりに悪意のある視線に、葵は思わず身震いした。
「佐久間……君……」
二人を睨みつけているのは、二人にとって同級生にあたる、佐久間猪三だった。
同じクラスであるのに敵意に満ちているのは、龍麻が転校した初日に佐久間は因縁をつけ、
撃退されたからだ。
その後、佐久間は他校の生徒と喧嘩をして大怪我をし、入院していたが、先日退院したらしい。
らしいというのは佐久間を学校で見かけることがなかったからで、
彼にもあまり関わりたくない葵はほっとしていたのが、どうやら今日は学校に来ているようだった。
「一度喧嘩したくらいで、あんなに恨まれるものか?」
壁を隔てているとはいえ、龍麻はのんびりしている。
葵は、やはり壁を隔てているとはいえ、声を潜めて言った。
「……私が男子生徒と二人で歩いていると、佐久間君はその人に言いがかりをつけるの」
「なるほどな」
龍麻も狙われるという忠告をしたつもりだったが、彼の反応は葵の予想を遥かに超えていた。
龍麻が手首を掴む。
何が起こったかわからぬまま、葵は抱き寄せられた。
あまりのことに抵抗することも忘れ、彼の腕の中に収まってしまう。
それほど強い力でもないのに、龍麻の身体は磁石のように離れなかった。
「あっ、あの……!」
固い胸板を感じる。
それは筋肉や緊張によるものではなく、龍麻そのものの内在する力のようだった。
手首を掴まれ、腰に腕を回され、職員室前の廊下にあるまじき、
芝居のような抱擁をさせられている。
にもかかわらず、葵は手首と腰に嵌められた、黒い二つの鎖から逃げだすことも忘れ、
自ら虜囚たるに甘んじていた。
身体が熱い――いや、それとも、熱いのは心か。
突如として噴きあげた炎に灼かれる葵は、身体の輪郭さえ喪ったかのような感覚に囚われていた。
「おうおう、怒ってるな」
だが、頭上からの品のない言葉に、葵は我に返る。
顔を上げたすぐ先に、不敵に笑う龍麻を認めると、掴まれていない方の手で彼を押しのけた。
自失していたのは、おそらく三秒にも満たないだろう。
なのに、心臓と彼に掴まれた右の手首は、千メートルを全力疾走したほどに鳴っていた。
龍麻に見えないように右の手首を左手で握った葵は、
窓の外を見て薄笑いを浮かべている龍麻から、逃れるように歩きだした。
身体の内側から、何かがこみあげてくる。
心臓と手首がひとつ脈動するごとに、膨れあがってくる。
まるで制御の効かない、自分の裡から飛びだそうとする、自分でない何か。
佐久間の目の前で抱き寄せられたことも、それが学校の廊下であったことも、葵の頭にはない。
あるのは、掴まれた手首と胸に押し当てられた頬に残る、龍麻の感触だけだった。
立ち止まるとそれが噴きだしてしまう気がして、
生徒会長という生徒の模範となるべき立場も忘れて小走りで教室に戻る。
葵は完全に集中力を失っていたので、階段のある廊下の端まで来た時、
階段を駆け下りてくる足音に全く気づかなかった。
「きゃッ……!」
かろうじて衝突は避けた葵が悲鳴をあげる。
「危ないわね、もうッ、前見て歩きなさいよねッ……って、美里ちゃんじゃない」
「アン子ちゃん……」
葵とぶつかりそうになったのは、遠野杏子だった。
状況的にはお互いさま、といったところを、勢いで葵の劣勢に持っていっている。
追いついた龍麻が非難がましい視線を向けても、謝るつもりなど毛頭なさそうだった。
「どうしたのよ、美里ちゃんがぶつかりそうになるくらい慌てるなんて、緋勇君何かしたの?」
なんでもゴシップに――実は、そう的外れでもなかった――持っていこうとするアン子に、
龍麻はうんざりするように首を振った。
「階段を一段飛びで下りてきたのかよ。足踏み外したら危ねえだろ」
「起きなかった未来の話なんてしても仕方ないわ、大切なのは現在と、記事に値する過去だけよ。
で、何、美里ちゃんと仲良く歩いて、まさか逢い引き?」
「学校の廊下でそんなわけないだろうが。職員室から戻るところだ」
あくまでも二人の関係を追及するアン子に、龍麻はあからさまに舌打ちしてみせたが、
アン子には毛筋ほども効果を与えなかった。
「何、呼びだし? 緋勇君も結構ワルなのねぇ。で、誰に呼ばれたの?」
「マリア先生だよ」
それどころか、いつのまにかアン子のペースに巻きこまれている。
「ふーん。じゃ、なんだかんだ言って嬉しいんじゃないの。年上の美女に呼ばれるなんて」
「阿呆か」
直前に年上の美女に迫られ、かつ同級生の美少女に手を出したことなどおくびにも出さず、
龍麻は鉈のような鋭さでアン子の妄想を切り捨てた。
もっとも、図々しさは記者の資質とでもいうように、全く効いてはいない。
「ま、いいわ。緋勇君は新聞部のいいネタ──じゃない、お客だから、
期待を裏切らないでよね。それじゃ」
言いたい放題言って、アン子は龍麻たちが歩いてきた方へ向かって歩きだす。
その足が空中で止まり、上半身だけが回転した。
「──ッと、忘れる所だったわ。緋勇君、校門で女の子が待ってたわよ」
「女の子?」
「ええ、真神の制服じゃなかったわ。全く、隅に置けないわね、えっち」
「……」
なにか言い返してやろうと考えているうちに、アン子は行ってしまった。
頭を掻いた龍麻が向き直ると、機に乗じたのか、葵も姿を消していた。
さまざまな事象をひとつのため息に集約して吐いた龍麻は、鞄を取りに教室へと戻っていった。
一方、龍麻の魔手から逃れた葵は、教室には戻らなかった。
龍麻と顔を合わせると気まずいという理由の他、実際に心臓が激しく鳴っていて、
少し休まなければ家にも帰れないほどだったのだ。
保健室の教諭に三十分ほど休ませてほしいと告げた葵は、ベッドに潜りこむ。
身体を横向きにして、右の手首をそっと押さえた。
痛みはない――だが、皮膚を押しあげると錯覚するくらい脈拍は激しく、そして、
龍麻の手形が描けるほど、彼に握られた部分が熱かった。
自分の身体に起こっている、異常ともいえる変化に、葵は強く目を閉じる。
すると、手首だけでなく、龍麻に触れた上半身までが熱くなって、ますます困惑した。
龍麻が氣と呼ばれる不思議な『力』を使ったのなら、納得できる。
しかし、自身も『力』を使える葵は、そのような『力』を使われてはいないと、
残念ながら認めざるをえない。
奇妙な火照りは一緒だけれども、『力』はもっと注ぎこまれるような感覚がある。
対して今は、単に火照っているだけ――
そう考えて葵は愕然とした。
春先から、龍麻に触られて身体に熱を感じることは何度もあった。
それらは全て、龍麻がよからぬことをしたからなのだと信じこんでいたのだが、
必ずしもそうではなかったのかもしれないのだ。
龍麻が邪な欲望を抱いていることには違いないとしても、
それに反応してしまう自分の身体はなんなのか。
少女には耐えがたい想像を打ち払うかのように、葵は固く目を閉じて身体を丸めた。
けれども、身体を縮めたことで熱は逃げ場を失い、火照りは無視できない強さになっていく。
薄く開いた唇から吐いた呼気が唇を炙り、まだ鼓動が収まらない心臓が、
焚きつけるように身体の内側で鳴り響き、葵は祈るように膝を擦りあわせた。
足の間が、疼く。
皮肉にも、気をそらそうと擦りあわせた膝が、最も強い変化を起こしている部分を葵に教えた。
疼く、という言葉を使ったことさえなかった葵は、その意味を、その状態を、はっきりと認識していた。
苦しく、そして求めている。
突如として湧き起こったその、感情かどうかもわからない思考に、流されるまま右手が蠢いた。
ひとりでに動こうとしている右手を、葵は慌ててもう一度押さえつける。
その瞬間から、葵の裡に激しい二つの対立が湧きおこった。
触りたい。
触ってはいけない。
シンプルな二者択一は、葵にかつてないほどの混乱をもたらした。
触らないほうが正しいに決まっている。
理性はそう告げ、葵を司るものもそれを支持している。
なのに、葵を象るものが、触れと強く命じるのだ。
またの名を欲望というそれは、振り払おうとする葵の肌の内側にへばりついて、
拒否する葵が悪であるかのように責めたて、促した。
どうなっているか、確かめるだけだから。
少し触ればきっと、気が済むから。
このまま疼きを放っておくほうがよくない。
ほんの少し。ほんのちょっと。
ひとつ誘惑を退けても、すぐに新たな誘惑が囁きかける。
それらすべてを退けるには、葵は清純すぎた。
それが時には女を堕落させる禁断の果実であることを知らないまま、誘惑に屈してしまったのだ。
右手をスカートの中に滑らせる。
足を心持ちずらし、パンティストッキングの中心をなぞるようにして、疼きの中心を探り当てた。
「……っ!」
中指の腹が触れた瞬間、甘い痺れが葵を襲った。
ほんの少し触っただけなのに、全身を走った痺れを、信じられずにもう一度試す。
答えは同じで、ベッドの中で葵は身をすくめた。
気持ちいい。
先ほどからの動悸が、頭の中で膨張する。
考えのすべてがその音に圧されて、もっとこの気持ちよさを味わいたいという欲望に支配された葵は、
疼きの中心に添えたままの指を数度往復させた。
「ん……っ……」
頭の中で血流が脈打っているというのに、心が安らぐような奇妙な快感が身体を満たす。
触れている場所がクリトリスという名前であることも、
今している行為が自慰と呼ばれるものであることも知らなかったが、
そこに触れると悦ぶということはすぐに憶えた。
腹の部分がより多く触れるように指を曲げ、より気持ちよくなる場所を擦って探す。
場所を見つけると擦る強さに強弱をつけ、あらゆる方法で快感を探求した。
満ちていく――注入されたのではなく、湧きおこる快感が、葵を満たしていく。
それが転校初日に襲いかかってきた男によってもたらされたものと同種であることに、葵は気づいた。
怪我の治療と称して肌を触られたこと。
電車の中で痴漢されたこと。
夢の中で唇を奪われたこと。
記憶の底に封じ込めたはずのそれら忌まわしい出来事が、閃光のように脳裏に瞬く。
するとどうしたわけか、快感が増幅されてしまうのだ。
強い重力場のような彼の瞳を思い出す時、快感は一層強くなる。
膝頭が顔につくくらい身体を丸め、手首を足で挟んで固定して、
葵は生まれて初めてとなる自慰に没頭した。
至福のときが破られたのは、葵自身の手によってだった。
「……っ、ふ……!」
はっきりと音をもった自分の声で、葵は我に返った。
それは呼気というにはあまりに艶めかしく、くるまったシーツ全体が濡れるような吐息だった。
ここがどこで、何をしているのか思いだし、落下するエレベーターのように、一気に心が冷える。
動悸は未だ完全には治まっていなかったが、身体を跳ね起こした葵は、
逃げるように保健室を出て、家への道をひた走った。
葵に逃げられた龍麻は、彼を待つ少女のところへ急いで向かったりはしなかった。
会いに来る他校生の少女とやらに心当たりは全くなく、興味も湧かない。
ゆっくり行く間に愛想を尽かして帰ってしまえばそれでも構わないと考えたのだが、
少女は龍麻を待っていた。
紫色の上着と、赤いチェックのスカートの制服を着た少女が誰なのか判ったとき、
龍麻は柄にもなく引き返したいと思った。
「あ……」
龍麻に気づいた少女が、駆け寄ってくる。
「お前は……」
「わたしのこと、覚えていますか」
「……ああ」
知らない、と言ってしまいたかった。
だが、心を総動員しても、彼女に対しては嘘がつけなかった。
名前は知らない。
渋谷の交差点で彼女とぶつかったことを、今日の出来事のように思いだせるだけだ。
「嬉しいです……! あの、わたし、一度会っただけなんですけど、
どうしてもあなたのことが忘れられなくて、どこの高校か調べて、思いきって来ちゃいました。
あ、わたし、比良坂紗夜っていいます」
アン子に対してはできた迷惑顔ができない。
それを龍麻は不思議に思わなかった。
一度、それも雑踏の中で少しぶつかっただけの少女が、
手がかりもないまま自分を探しあてたことに、感動さえしていた。
「実は……今日はお願いがあるんです」
「お願い?」
「はい。……あの、……あの、わたしとデートしてくれませんか?」
「デー……ト?」
それが意味することなら、龍麻はしたことがある。
自分から誘ったことも、女性から誘われたことも。
しかしデート、とはっきり言葉にして言われたのは初めてで、新鮮な感銘が胸に弾けた。
龍麻は軽くうなずき、即答した。
「ああ、俺で良ければ喜んで」
「嬉しい……夢みたいです」
紗夜は両手で口許を押さえ、喜びと照れとを同時に表した。
小さな白い指と、それが覆う唇に、龍麻は心奪われる。
そこから発せられる、淡い紫の花のような音色をもっと聞きたいと思った。
「それじゃ、あの、わたし、行きたい所があるんです」
紗夜は手を握り、引っ張るように歩き出す。
握ってきた手の柔らかさに、龍麻は思わず叫んでしまうところだった。
「どうしたんですか?」
「な、なんでもない。行こう」
外れてしまわないように、繋いだ手をしっかりと握り締める。
紗夜はわずかに目を見開いただけで、負けないくらい強く握り返してきた。
言葉よりも意思を伝える方法があることに気づいた龍麻は、
無言のまま、二人だけの路を歩きだした。
紗夜が龍麻を連れていったのは、しながわ水族館だった。
平日の四時過ぎとあって、訪れている客も少なく、
ほとんど貸し切りのような状態の館内を、二人は肩を寄せ合って歩く。
館内の冷たい空気を言い訳にして身体を密着させ、暗い照明を理由にして手を離さなかった。
紗夜は何度か来たことがあるのか、水槽の前でひとつひとつ立ち止まり、龍麻に解説する。
解説といっても、好き、嫌いのレベルだったが、デートなのだから、もちろんそれで充分だった。
「わぁ、可愛い。おいで、こっちにおいで」
水槽に顔を近づけ、寄ってくる魚を手招きする紗夜を見ていると、
魚など食べる以外に興味がない龍麻も、その間抜けな面が何やら可愛く見えてしまう。
しかし高校生の男子としては、魚相手に愛想のある表情など出きるはずもなく、
しかつめらしい顔をするしかない。
ガラスに映ったそんな龍麻の顔を見て、紗夜が驚いたように振り向いた。
「あの……ごめんなさい、ひとりではしゃいじゃって」
「え? ああ、違う、これは別につまらないからじゃない」
慌てた龍麻は笑顔を作る。
そして、それだけでは説得力に欠けると感じ、握った手に力を込めた。
「あ……」
伝わる体温の熱さに、紗夜は俯き、固まってしまう。
龍麻も動く訳にいかず、二人は水槽の前で不器用に立ち尽くす。
ガラスの向こうでは、紗夜の頭ほどもある巨大な魚がやる気のない神父の趣でぷかぷかと泳いでいた。
二人は、時の番人に十回ほども砂時計をひっくり返させるほどの間、この上なく幸福な時間を過ごした。
魚でさえも既に愛想を尽かし、水槽のこちら側にも向こう側にも龍麻と紗夜を邪魔するものはいない。
特に言葉を交わしたり、見つめあったりした訳ではなかったが、
時折握りなおす手がお互いの気持ちを何よりも伝えていた。
それでも三十分ほども同じ場所にいるとさすがに足も疲れ、
ほぼ同じくして顔を見合わせた二人は、小さく笑う。
お互いに譲り合った後、口を開いたのは紗夜の方だった。
「あの……そろそろ出ましょうか」
自分の言いたい事を言ってくれた紗夜に龍麻は黙って頷き、デートの舞台を隣の公園へと移した。
空は薄いオレンジに変わりかけているものの、まだ日没までに時間は大分あった。
紗夜はその大人しい外見からは想像もつかないほどはしゃいでいて、
子供のようにあちらこちらへと龍麻を振りまわす。
「緋勇さん、見てッ。魚が。……あ、でも、魚なら水族館で見ましたよね、えへへ」
笑う紗夜を見ていると、自然に龍麻の顔にも笑みが浮かぶ。
やはり暗い所で見るより、明るい所で見る方が彼女は断然可愛い。
しかし、手を繋ぎ、身体を寄せ合うのは水族館の中でこそ出来たことで、どちらも選びがたいものだった。
どちらが良かったかを考えている龍麻の前で、紗夜の髪が踊る。
夕陽を浴びて黄金色に輝く髪を見て、やはり外の方が良い、
としょうもない疑問に答えを出した龍麻だった。
「気持ちいい……」
そよ風に髪を撫でさせて、紗夜が呟く。
その姿が、何故か風にかき消されてしまったような気がして、
龍麻は思わず彼女に詰め寄っていた。
「どうしたんですか?」
「あ、いや……なんでもない」
己の錯覚に罵声を浴びせつつ、龍麻は紗夜と肩を並べた。
ちらりと横顔を盗み見ると、紗夜の視線は遥か遠くに据えられていた。
物憂げに細められた目は、一体何を見ているのだろうか。
同じ物を見ようとしても、龍麻の瞳が捉えたのはビルばかりだった。
彼女と想いを共有する事を諦めた龍麻は、
透き通るような瞳を凝視することでせめてもの代わりにしようとした。
紗夜は龍麻がじっと見ている事に気づいていないか、あるいは気づいていないふりをしていたが、
やがて、半ば独り言のような静かな声で龍麻に訊ねた。
「緋勇さん、ひとつ聞いていいですか。緋勇さんは、奇跡……って、信じますか?」
幸いなことに、これまでの人生でそんなことを考える必要のなかった龍麻は、
とっさに返事ができなかった。
声を詰まらせる龍麻に、紗夜は寂しく笑う。
それは本当の哀しみを知る者だけが為し得る笑みで、圧倒された龍麻は立ちすくむのが精一杯だった。
「わたしは、奇跡なんて……無いと、思います。
だって奇跡があるなら、大切な人を失うことなんてないじゃないですか」
突き放した断定に、やはり龍麻は答えられない。
彼女の過去に何か関係があるのは明らかであり、まだそこまで踏み込んで聞くのはためらわれた。
気の利いた台詞のひとつも思い浮かべられない自分の不甲斐なさを嘆く龍麻を慰めるように、
紗夜は話題を変える。
「緋勇さん、わたしね、夢があるんです」
「夢……? どんな?」
「わたしの夢は……笑わないでくださいね、看護婦さんになることなんです。……おかしいですか?」
「そんなことはないさ。比良坂なら立派な看護婦になれると思う」
まだ将来のことなどろくに考えた事もない龍麻は、素直に感動していた。
それに、居るだけで心が温かくなる彼女なら、きっと患者の治りも早くなるに違いない。
一緒の時を過ごして数時間ほどしか経っていないのに、半ば本気で龍麻はそう思っていた。
「緋勇さん……ありがとう」
頬をほんの少しだけ赤らめて、紗夜はまっすぐ龍麻を見つめる。
拭いえない愁いを帯びた表情は、たまらなく愛おしいものだった。
紗夜の瞳もそれを望んでいるように見え、
龍麻は緊張で凝り固まってしまっている腕をぎこちなく伸ばした。
束の間、受け入れる表情を浮かべた紗夜は、しかし、何故か龍麻から身を離した。
落胆する龍麻に、紗夜の心を痛みが走る。
しかし、彼の身体の温かさを知ってしまったら、
より大きな痛みに苛まれると解っていたから、
辛くとも心の温かさだけで満足しなければならないのだ。
拒絶されたと思ったのだろう、所在無げに引っ込もうとする龍麻の手を握る。
そこまでが、罪深き自分に許されたことだった。
「わたし、小さい頃に飛行機事故で両親を亡くしてるんです」
何故急にこんな話をする気になったのか、自分でも解らない。
彼の同情を惹こうとしているだけなのかも知れない。
それだけでも自分は赦されない、と紗夜は思ったが、
真剣な眼差しで耳を傾けてくれる龍麻を見ると、話を止めることはできなかった。
「たくさんの人がその事故で死にました。
わたしは……父と母に護られて、ほとんど怪我もなかったそうです。
でも、父と母は──だからかも知れません。看護婦さんに憧れるのは。
看護婦さんになって苦しんでいる人を助けたり、誰かの命を救ってあげたい。
──ごめんなさい、こんな話して。でも、緋勇さんには聞いて欲しかったんです。
だって……だって、わたし……いえ、なんでも……ないです」
この時、何故龍麻は拒まれても無理やりに彼女を抱きしめてやらなかったのか、
後日悔やみきれない悔恨に身を切り裂くことになる。
しかしこの時は、繊細な結晶で出来たような紗夜の身体に触れるのは、
とてつもない禁忌なのではないか、という念に囚われ、指一つ動かすことができなかったのだ。
それでも、紗夜が小さく微笑んだ時は、今からでもそうすべきではないのか、との思いがよぎる。
けれど、時間を支配する神は残酷にもその機会を与えてくれなかった。
「今日はつき合ってくれてありがとうございました。もう……帰ります」
手を離した紗夜は、小鳥のように身を翻して龍麻から離れた。
急に変わった紗夜の態度に龍麻はさよならを言うことさえできず、
あっけにとられたまま彼女を見送った。
しばらく立ち尽くしていた龍麻は、夜を告げる風に急き立てられて、駅に向かって歩きだす。
ポケットに手を入れようとして、ふと、彼女と繋がった右手を眺めた。
掌は、もう冷たかった。
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