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翌日、龍麻は朝から不機嫌だった。
級友たちは話しかけるどころか、放出されている、殺気にも似た彼の不機嫌さに怯えて近づきもしない。
教師ですら話しかけるのをためらっていた龍麻の、今日初めての話し相手となったのは、
木刀を肌身離さず携えている、真神學園での彼の第一の友人を自ら任じる蓬莱寺京一だった。
彼が龍麻に話しかけたのは昼休みになってからで、
学校生活も半分を過ぎてからの接触となったのは、京一が学校に来たのが四時限目の前であり、
さらに、教室に入ってきたのは四時限目の終了後だからである。
購買に寄ってさっさと昼飯を確保してきた京一は、教室に入って女生徒に愛想よく挨拶した後、
不機嫌の塊となっている龍麻に気づくと、彼の机にパンを放り、
自分は前の席に座って龍麻の方を向いた。
「おう、どうした、財布でも落としたか? それとも、犬神に説教でもされたか?」
気安く話しかけてくる京一に、龍麻は薄く開いた目から、
およそ好意的とは言えない視線を投げつけた。
街でこんな視線を受けたら、問答無用で喧嘩を仕掛けるところだが、
京一は意に介さず、ことさら音を立ててパンの袋を開けた。
「ま、言いたくねェなら無理にとは言わねえがよ」
パンの半分ほども一口で噛り、さらに牛乳も飲むと、ようやく龍麻が口を開いた。
「昨日、女と会った」
今度は京一がしかめ面をする番だった。
牛乳パックからストローを抜き取り、咥えたまま楊枝よろしく上下させる。
「それで機嫌が悪くなるって、お前ホモか?」
「全然、俺の本意じゃないんだ」
「はあ? 何言ってやがるお前」
いよいよ解らなくなった京一は、お手上げとばかりに残ったパンの半分を口に押しこんだ。
口を忙しく動かしながらも、目はしっかり説明を求める彼に、龍麻は仕方なく説明した。
「つまり、一度会っただけの子がお前を探して真神に来て、
お前はそのままデートしたが、実は全然楽しくなかったってコトか?」
「楽しくなかったんじゃなくて、そのつもりが全然なかったんだよ。
なのに一緒に居て、帰ってきてから我に返った」
龍麻の訂正を聞いても、京一は理解に苦しむといった態度を崩さなかった。
「そりゃお前、よっぽどその子と遊ぶのが楽しかったんだろうよ。
クソッ、ナンパにもつきあわねえでちゃっかり確保、
しかも向こうから来るとはどういう運を持ってやがる」
「だから違うって言ってるだろ」
真意が全く伝わらない龍麻が声を荒げると、京一も声を大きくして言い返した。
「んじゃ何だってんだッ」
京一の手の中で牛乳パックが潰れる。
中身が入っていなかったのが幸いで、力いっぱい握りつぶされたパックは
百年も年を取ったようにくしゃくしゃになった。
「俺は全然興味無いんだぞ!? なのにまた会う約束までしてるんだ、
これが普通じゃなくて何だってんだ」
「そのつもりがねェなら会って断ればいいだけの話じゃねェのか」
「それは……そうだけど」
珍しく龍麻は視線を伏せ、弱気なことを言った。
「それなら、断る時に一緒に居てくれないか?」
「アホかお前は。なんでそんな気の毒な場面に俺が立ち会わないとならねェんだ」
懇願を一蹴した京一は、つきあってられないとばかりに立ちあがり、教室を出ていってしまった。
京一が見えなくなっても、恨めしげに教室の出入り口を見つめていた龍麻は、
大きくため息をつくと、再び目を閉じ、不機嫌そうに腕を組むのだった。
京一は結局、午後になっても教室に戻ってこなかった。
機嫌が悪いままなのか、天気が良いからひなたぼっこしているのかは不明としても、
本気で京一に付き添ってほしかった龍麻は、一人で約束を断りに行く羽目になって、
憂鬱な気分で待ち合わせ場所である校門へと向かった。
全く好意を持っていないのに、数時間もほぼ初対面の少女と遊んでしまったという恐怖が、
なぜ京一には解らないのか。
催眠術でもかけられたかもしれず、もしそうなら、他者がいれば防げるのだろうが、
女にはめっぽう甘い京一は、女が男に害をなすという可能性をまるで地動説のように信じない。
まして虫も殺せないような少女が、何らかの方法で龍麻を罠にかけたと訴えたところで、
昼間のような反応は、むしろ上品だったとさえ言えるだろう。
葵を無理やり同行させればよかった、とも考えた龍麻だったが、
葵は六時限目の授業が終わるとすぐにどこかに行ってしまった。
職員室の件で避けられているとまでは気づかない龍麻は、憂鬱な気分で校門へと向かったのだった。
約束の時間と場所に、紗夜はいなかった。
全くらしからぬことに、龍麻は安堵していた。
問題が先送りになっただけだと解っていても、やはり彼女と二人で会うのは、できれば避けたかったのだ。
肩から荷が降りた気分になり、何か食べにでも行こうかと浮かれかけたところに、
見覚えのない子供が近づいてきた。
「ねぇ、にいちゃん緋勇龍麻?」
「そうだけど」
この時龍麻は、見覚えのない子供がなぜ自分の名前を呼んだのか、気づくべきだった。
龍麻には子供の知り合いも、子供がいそうな知りあいもおらず、
彼の名前を知っているというだけで不審に思うべきだったのだ。
しかし、少女と会わなくて良くなったという事実に、注意力が散漫になっていたため、
子供の要求に何の疑問も抱かなかった。
子供は龍麻が本人であると確認するなり、ただぶっきらぼうに腕を突き出した。
「はいこれ。渡したよ」
「……?」
手紙を押しつけてさっさと走っていってしまった子供を、龍麻はぼんやりと見送った。
やがて我に返ると、手紙を眺めてみた。
丁寧に施された封が、何故か気味の悪さを感じずにはいられない手紙で、
その印象は文面を見ても全く変わらないばかりか、更に増す。
一読しただけで不快感を抱かずにはいられない、瘴気に満ちた手紙だった。
言葉のほとんどが新聞や雑誌などの切り抜きで構成され、
時に反転され、時に読めないほど小さな文字がいくつも並べられた文章は、
どれほどの悪意が込められているのか見当もつかない。
更にその内容までもが、ガラスを釘で引っ掻いたような不快感をそそるものだった。
「親愛なる緋勇龍麻君へ──
君が転校してきてからの噂、聞いています。渋谷の街の鴉、高い鉄骨の上での闘いは、
さぞかし大変だったことと思います。
そして桜ヶ丘病院に、君の同級生の女の子が入院した時には、僕も心が痛みました。
非力な人の力では、どうする事の出来ない事件でも、君は立ち向かっていきましたね。
僕は、君の『力』を羨ましく思います。是非、一度直接会って話をしたいです。
でも多分、君は僕の申し出を断るでしょう。だから、ある人にも協力してもらいました。
その人は、君も良く知っている人です。彼女は今、僕の手の中にあります。
君は、その人の為に僕と会わなければなりません。
その人を護る為に。場所は別紙の地図を見てください。
今は使われていない古い建物です。
必ず一人で来てください。誰かに話しても駄目です。
君には選択の余地はありません。
では、一刻も早く会える事を祈って──
君の友、Dr.ファウストより」
吐き気に耐えながら手紙を読み終えた龍麻は、まず大きく深呼吸をしなければならなかった。
新鮮な空気の助けを借りて心をなんとか落ちつけた所で、文面の意味を考える。
無視する訳にはいかなかった。
相手は敵――でなくても、極めて不愉快な存在だ。
『力』のことを知っており、ずっと観察していたことを嫌味ったらしく仄めかしている。
さらに人質を取って、返してほしければ来いといっている。
あらゆる要素が龍麻の志向と合わず、手紙の主を叩きのめす必要がありそうだった。
不愉快な予定が一転、憂さを晴らせそうな事態になって、
手紙を握りしめた龍麻は、指定された場所に向かって歩きだす。
その顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
昨日と同じ品川駅で降りる。
しかし龍麻の内心に渦巻くものは昨日とは全く異なっていた。
強い怒りと不敵な自信。
師から幾度もたしなめられ、抑えるように言われていた陰の感情に、龍麻は身を委ねていた。
彼女が何者なのかはまだ解らない。
だが、己の意に沿わぬことをさせられた怒りは、どこかで解き放たなければならない。
そのための格好の標的が、向こうから現れたのだ。
これを利用しない手はなかった。
通行人が次々と避けるのにも気づかず、龍麻は地図に記されている廃屋へと向かう。
三十分近く歩いて辿り着いた建物の前には、さきほどと同じ手紙が用意されていた。
「親愛なる緋勇龍麻君へ──
この建物の右に五メートル歩いた所に、錆びた鉄のドアがあります。
そのドアを開け、そこから入ってください。
中に入ったら、中から鍵を掛けてください。
では、一刻も早く会える事を祈って──
君の友、Dr.ファウストより」
中から鍵を掛けろ──これほど人を馬鹿にした罠の存在もそうはなかったが、龍麻は指示に従った。
この相手が誰で、どんな罠が用意されていたとしても、必ず報いをくれてやると決めていたからだ。
鍵を掛けた龍麻は、ノブの横に新たな手紙が貼られているのに気づいた。
その中身は相変わらず新聞や雑誌から文字を切り貼りしたもので、不快感を炙りたてるものだった。
しかも、内容はさらに悪意に満ちていて、龍麻の呼吸は知らず荒くなる。
「親愛なる緋勇龍麻君へ──
ここまで来た、君の正義感、勇気に僕は敬意を表します。素晴らしいです。
君は、そうやって、今まで君の友達と一緒に困難を克服し、切り抜けてきましたよね。
しかし、それは、あくまで人の助けを借りて馴れ合いの中で過ごしてきたにすぎません。
人は、常に孤独です。そして、人は、常にひとりでは、無力な存在なのです。
君が、果たして、君個人という存在のみでその存在理由を証明できうるのか。
僕は、それを見てみたいのです。
君の『力』を、僕に見せてください。
君のその見せ掛けの勇気を見せてください。
では、健闘を祈っています──
君の友、Dr.ファウストより」
もう文章をまともに読もうともせず、一通り目を走らせただけで龍麻は手紙を破り捨てた。
身体を駆け巡る氣は既に迸るほどで、放たれるのを待つばかりになっていた。
その氣に呼応するように、奥の扉が開く。
苛立つほどゆっくりと軋んだ扉の向こうから現れた物を見た龍麻は、怒気を一瞬忘れてしまっていた。
それほどに異形の物だった。
土気色の肌に、くぼんだ瞳。鼻の肉はこそげ落ち、
頬の肉もところどころ骨まで剥き出しになるほど失われていた。
人ではあるが、明らかに生者ではないそれは、よろよろと龍麻に近づいてくる。
生きている死者──そう呼ぶしかない、想像を絶する化物だった。
緩慢な動作で掴みかかってきた化物に向かって、龍麻は氣の塊を放つ。
よけようともせずにまともに氣を受けた化物は、小気味の良い位派手に吹っ飛んでいった。
壁に激突し、なおこちらに向かおうとしているが、激突したショックで腕がもげたらしく、
バランスを欠いて立ちあがれない。
化物は見た目のグロテスクさ程には強くはないようだったが、それを補うように二体目の化物が現れた。
いくら弱いと言っても、腐臭漂う皮膚に直接触れるのは絶対に避けたいところであったから、
少し離れた所から氣を撃ち込む。
直接体内に浸透させるのに較べて、威力は格段に落ちてしまうが、
それでもさほど苦労せずに倒せた。
今度は頭が取れてしまった化物は、自分の脳が無くなってしまったことも知らず、
駄々をこねるように手足を動かしている。
その時既に、龍麻は現れた三体目の化物と対峙していた。
敵の数が多く、一人で戦わなければならなかった龍麻は、気づく余裕がなかった。
倒した二体の生ける死体から、腐臭とは別のかすかな異臭が漂い始めている。
氣を練るために大きく呼吸をしなければならない龍麻は、
気がつかないうちにそれを吸っていた。
死蝋によって仕掛けられたそのガスは、呼吸器系に影響を与え、
龍麻の爆発的な戦闘力を徐々に奪っていく。
直接攻撃していれば、能力の低下にもう少し早く気づけたかもしれないが、
直接触る気のおきない死体を用い、ガスの臭いを腐臭で隠すという
死蝋の狡猾な罠に、龍麻はまんまとかかってしまった。
全部で五体現れた生ける死体も、今は全て本当の死体に戻っている。
龍麻も息一つ切らさず、と言うわけにはいかない。
直接怪物に触れないよう、距離をおいて威力が低下した氣を打ち込み続けたため、
消耗の度合いが激しく、しばらく壁にもたれて体力の回復を待たねばならなかった。
なるべく化物の方は見ないようにして心肺機能を全開にしていると、白々しい拍手の音が響いた。
「お見事──」
新たな敵の登場に、龍麻は身を起こす。
消耗はしていても、弱みを見せるのは得策ではなかった。
「やァ、はじめまして。僕の手紙を読んでくれてありがとう。お気に召してくれたかい」
現れたのは、白衣を着た男だった。
歳は自分よりも上であることは間違いないというだけで、今一つ判然としない。
顔立ちも整ってはいるが、どうもそれだけでない印象を与えるのは、
色褪せた唇のせいか、それとも輝きに乏しい瞳のせいだろうか。
どうにも陰気な印象しか受け取る事のできない目の前の男を、
どうしても好きになれそうにはなかった。
もちろんそれ以前に、今の化物と同じ扉から出てきたこの男が味方であるはずがなく、
あんな手紙を気に入ったかなどと聞かれて一層腹を立てた龍麻は、
睨みつけるだけで返事すらしなかった。
「ククク……失礼したね、緋勇龍麻君」
歯の奥を擦り合わせるような発音は、聞くだけで不快感をそそられるもので、
相当の努力を払って辛抱しなければならなかった。
それでもフルネームで呼ばれると自分の名を穢されたような気がして、
それだけでも止めさせようかと口を開きかける。
すると男はそれを制するように両手を上げ、話し始めた。
「いや失敬、手荒な真似をして悪かった。
でもどうしても君の『力』を、この目で見てみたくてね。
さっき君が闘った生物も、僕の研究の一環でね。
病院から手に入れた死体にちょっと手を加えたものなんだ。
僕は死人と呼んでいるがね、 遺伝子工学と西インドに伝わる秘法の賜さ。
……君は、ブゥードゥーという言葉を知っているかい?」
無言を保つ龍麻に、男は講義口調を作って説明を始める。
別にそんな言葉など知りたくもなかったが、氣を練りあげるには今しばらくの時間が必要だった。
「ブゥードゥーと言うのはね、西インド諸島のハイチ島の黒人達に信仰されている宗教の名でね。
ロアと呼ばれる精霊を信仰し、
オウンガンと呼ばれる祭司やノボと呼ばれる魔術師達は様々な魔術を使うと言われている。
霊を呼び出す、空を飛びまわる、そして──死者を甦らせる。
ゾンビっていうのは元々ブゥードゥーの魔術によって死者の国から呼び戻された者の事さ」
滔々と話し続けた男は、うんざりした表情をしている龍麻に気づくと、
大げさに手を打ち鳴らした。
「ああそういえば、挨拶がまだだったね。僕の名は死蝋 影司。
品川にある高校の教師をしている。君の活躍を知り、そして君の助けを──
君の『力』を必要としている者さ。よろしく」
よろしく、などと言われて頷ける訳もない。
例え目の前に金塊を積まれたとしても、金輪際関わりたくない人間というのはいるもので、
目の前の死蝋と名乗る男はまさしくその類だった。
「そんな顔をするなよ。僕と君は仲間なんだからさ」
龍麻は静かに息を吐いたが、もちろんこれは同意したのではない。
「僕はね、君に協力したいと思っているんだよ。君の持つ超人的な『力』を、
もっと有効かつ合理的に使っていく方法を考えてあげようと思っているんだ。
ほら、君はまだ高校生だろ? 受験や将来の事が忙しくて、そんな事考えてる暇も無いだろう?
だから、僕の頭脳と人脈を活用して、君の未来の手助けをしてあげようと思っているのさ。
どうだい、いい話だろう?」
もはや龍麻の関心は、いつこの男の話を遮るか、という事にしかなかった。
呼吸は回復しておらず、氣も練れていないが、この男程度なら氣などなくても倒せる。
だが女の無事を確かめるまでは、うかつに動けなかった。
それにしても、こちらの態度を全く意に介さず、
しかも押しつけがましい話を続けられ、そろそろ忍耐も限界に近づいていた。
「人は何処から来て何処へ行くのか、君は考えた事があるかい?
もしかしたら僕達は、もっと別の進化の道を歩む事が出来たんじゃないか、そう考えた事はないかい?」
君が協力してくれれば、僕はその謎を解き明かすことが出来る。
君のその──強靭な肉体と揺るぎ無い精神力、そして超人的な『力』があれば、
そうすれば、人は、超人──いや、魔人とも言うべき存在に進化出来るのさ。
解るかい? 緋勇龍麻君。その力があれば、犯罪や戦争をなくす事が出来る。
君達が苦労して護っているこの東京も、もうこれ以上、君達が傷つく事もなくなる。
どうだい? 僕と手を組まないか? そして人類の新たな未来を築こうじゃないか」
狂信の度合いを増した男に、これまでだと感じた龍麻は閉じていた口を開いた。
「お前に協力する気なんてないし、人類の進化なんてもんにも興味がない。
それよりさっさと女を解放しろ。そうしないと、お前から未来を奪ってやるぞ」
低く、鋭い声で言った龍麻に、死蝋は初めて失望したような表情をした。
本気で自分が自発的に協力すると思っていたようで、龍麻は呆れざるをえない。
「無理するなよ。君達だけでこの東京が護れるとでも思っているのかい?
自分の力だけで他の人間まで護れると思っているのは君の自己満足だよ。
その君の自己満足の為に、君の仲間が命を落とす事だってありうる。
そうなったとして、君はその罪を購う事ができるのかい?」
「うるせえよ、いいからさらった女のところへ連れて行け。
別にこっちはお前をぶん殴ってから自分で探したっていいんだぜ」
死蝋の忠告は、龍麻も考えていることだった。
そしてそれだけに、龍麻の怒りは頂点に達しつつあった。
これ以上、踏んづけてしまったガムのようにまとわりつく死蝋の話し方につき合っていては、
歩く事さえままならなくなるし、何よりへばりついたガムは気持ち悪くてたまらない。
強い口調で言った龍麻は、それがただの恫喝ではないと示す為に、拳を力強く握り締めた。
その態度に死蝋は更に失望を強めたようだったが、知ったことではなかった。
「いいだろう……地下に僕の研究室があって、彼女はそこにいる。
ついでだから、僕の研究を見ていくといい。
そうすれば、そんな甘い事は言っていられなくなる」
ようやく説得を諦めたのか、死蝋は前に立って歩き始めた。
わずかでもおかしな素振りを見せたらすぐに氣を乗せた拳を叩きこんでやるつもりだったが、
死蝋は大人しく研究室とやらへ案内した。
もちろん龍麻には研究室などどうでも良く、そこにいるはずの少女の無事こそが重要なのだ。
『力』に無関係な人間は、可能な限り巻きこみたくはなかった。
「さあ、着いた。ここが僕の城さ。見たまえ」
部屋は、薄赤い照明だけしか灯りが無く、何があるのかすぐには判らなかった。
目を凝らした龍麻は、すぐに見なければ良かったと後悔した。
部屋の壁を埋め尽くす、幾つもの大小の試験管に入れられた物は、
先ほどの化物にも劣らない異形の物達だったのだ。
怒りや勇気などとは別次元のおぞましさが背筋を冷たい手で愛撫する。
「どうだい、素晴らしいだろ? この鼠は、水の中でもう五日も生き続けている。
こっちの二つ首がある犬は、別の犬の首を移植したんだ。
それぞれの脳が感覚を別に持っていながら、分泌器官や内臓を共有している。
ほら、こっちも見てごらんよ。この猿は一度死んでいるんだ。
それを、僕がある細胞を移植して生きかえらせた。何だと思う?
ククク……人の癌細胞さ」
悦に入った顔で語る死蝋の話も、龍麻は聞いていなかった。
こみ上げる嘔吐感を堪えるので必死だったのだ。
こんな奴に弱みを見せたくないという一念だけで耐え続けていたが、
死蝋の声はその努力を無に帰そうと鼓膜をなぶる。
「こいつらは現存するどの進化形態にも当てはまらない。
どの科学の力も為し得なかった領域に僕は入りこんでいるのさ。
ねぇ緋勇龍麻君。 この技術を人間に応用したらどうなると思う?
想像してごらん。水の中でも呼吸が出来る人間。二つの脳を持つ人間。
死は、もう恐れるに足りない。新たなる進化の可能性を人間は知る事になる。
素晴らしいと思わないかい?」
悔しいが返事をする余裕はなかった。
本心を言えば、一秒でも早くこの冒涜の窮みの部屋から逃げ出したかった。
こんな呼吸がまともにできないような場所では、体力の回復もおぼつかない。
「いずれ君にも理解してもらえるさ。君自身の身をもってね」
すっかり気勢を削がれた龍麻と対照的に、
死蝋は自らの城と呼ぶこのいかがわしい空間から活力を得ているかのようだった。
瞳の狂った輝きは増し、口から泡を飛ばさんばかりに口舌を奮う。
「そう、君のおかげでようやく僕の研究も完成する。感謝してるよ……紗夜」
龍麻の前に、一人の少女が現れた。
その少女を見た時、龍麻の心を占めたのは、驚きではなく納得だった。
「なるほどね」
つまりは彼女もこの不愉快な男の共犯者だったというわけだ。
それなら、昨日のデートも得心がいく。
「『力』を使って無理やり俺を誘いだしたってわけか。回りくどいことしやがって」
虫も殺せなさそうな外見の少女だが、中身はそうでもなかったということだ。
嫌悪を露わにする龍麻に、申し訳なさそうな顔をしていた少女が、顔を上げる。
「何のことですか……? わたしは、兄さんに頼まれて」
「くくくッ、その通りさ。紗夜は『力』なんて持っていない。
僕たちはまっとうな人間だからね、君のような化物と一緒にされたら困るんだよ。なあ、紗夜」
紗夜が兄と呼んだ死蝋は、彼女を抱き寄せた。
嫌がるそぶりは見せたものの、兄の腕から紗夜は逃れようとしない。
それは死蝋の手が明らかに兄妹を超えた動きで彼女の身体をまさぐりはじめても変わらなかった。
愛しむというよりは欲望を満たすためだけに見える手の動きから、龍麻は目が離せない。
他人の情事などに興味はなく、そもそもそんな状況ではないはずなのに。
やがて龍麻は、視線が下がっていることに気づいた。
立っていることさえ辛くなり、片膝をついている。
ここに至ってようやく、龍麻は目が離せないのではなく、
眼球すら動かす力を失っているのだと悟った。
遂に床に倒れた龍麻に、死蝋の勝ち誇った笑い声が刺さる。
「ククク、ようやく効いてきたようだね。効かないんじゃないかと心配したが、
どうやら化物でもちゃんと薬は効くらしい。ゆっくり眠りたまえ……」
不愉快なことを言う死蝋の口を殴りつけてやろうと龍麻は拳を固めようとしたが、
もはや指にさえ力は入らず、意識は深い闇に呑まれていった。
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